628年(推古天皇36)に創建された都内最古の寺院「浅草寺」。今の本堂は1958年(昭和33)に建立されたもの
1911年(明治44)の浅草寺仲見世の賑わい(『東京風景』より)(国立国会図書館蔵)
今回歩いた主なポイント。赤色部分は本文に関連するかつての町名や街区(台東区発行『重ね地図で江戸を訪ねる 上野・浅草・隅田川 歴史散歩』などを参考に編集部作成)
金龍山浅草寺を中心とする浅草周辺は、かつて江戸随一の賑わいを見せる遊興地だった。実は、浅草寺と隅田川は縁が深い。漁師の兄弟が隅田川からすくった菩薩像が浅草寺のご本尊なのだ。東京都江戸東京博物館学芸員の沓沢博行さんに、浅草周辺の移り変わりを紐解いていただいた。
浅草案内人
沓沢博行(くつさわ ひろゆき)さん
東京都江戸東京博物館 都市歴史研究室 学芸員。2008年(平成20)に企画展『浅草今昔展』を担当。江戸から明治・大正期にかけての浅草の歴史と文化を研究。
今も昔も大勢の人で賑わう「浅草」。特に東京へ来た外国人観光客は必ずといっていいほど訪れる人気スポットだ。しかし、せっかく浅草に来ても、雷門や仲見世だけをピンポイントで見て終わりという人も多い。
歴史を遡れば、より広範な浅草というエリア一帯が、聖と俗とがひしめき合う巨大なワンダーランドだった。老若男女を魅了した「浅草」の魅力とは何だったのか。浅草の歴史に詳しい沓沢博行さんと浅草を歩いてみた。
浅草駅から沓沢さんが最初に向かったのは、隅田川沿いを少し下ったところにある「駒形堂」。浅草寺発祥の霊地に建つお堂だ。
「浅草寺と隅田川には深いつながりがあるのです」と沓沢さん。628年(推古天皇36)、隅田川で漁をしていた檜前浜成(ひのくまのはまなり)、竹成(たけなり)という兄弟が、網にかかった一体の仏像を今の駒形堂のある場所で引き上げ、草ぶきのお堂に祀(まつ)った。それが浅草寺のご本尊、聖観世音菩薩像の由緒とされる。その後、地元の名士、土師中知(はじのなかとも)が私宅を寺に改め、観音像を大切に祀ったことで、浅草寺の歴史が始まった。ちなみに浅草神社の三社様とは、檜前兄弟と土師中知の3人を神として祀ったものだ。
観音様が示現(じげん)した隅田川は神聖なものとされ、1692年(元禄5)には、このあたりの川で殺生を禁止するお触れが出されている。
駒形堂から踵を返し、隅田公園をしばらく歩くと、左手に浅草寺の子院「本龍院・待乳山聖天(まつちやましょうでん)」がある。浅草寺から離れているためか、広い境内には人もまばらで、落ち着いた空間だ。ここの聖天様には大根をお供えする習わしがあり、社務所の前に生の大根が大量に並べられている。
待乳山という名の通り、小高い丘に建つ本院は、江戸時代には向島の桜や富士山などが見渡せる下町随一の絶景スポットだった。すぐ下には山谷堀(さんやぼり)が通っており、今戸橋があり、その脇には料亭も立ち並んでいたという。
山谷堀は人工の水路で、隅田川から幕府公認の遊郭、新吉原あたりまでを結ぶ重要な交通ルートだった。当時は、猪牙船(ちょきぶね)と呼ばれる小舟に乗って山谷堀を上り、吉原に遊びに行くのが「粋(いき)」とされていたのである。堀は戦後埋め立てられ、現在は山谷堀公園としてその名を留めている。
その山谷堀公園から浅草寺へ向かう途中、旧浅草猿若町(さるわかちょう)を通った。古い建物もないごく普通の道なので、知らなければ素通りしてしまうだろう。猿若町は天保の改革(1841〜43年)により、中村座、市村座、森田座の歌舞伎三座が集められ、江戸後期は芝居のまちとして栄えた。沓沢さんは「歌舞伎は庶民にとって一番の娯楽で、歌舞伎役者は現代のアイドルやファッションリーダーのような存在でした。男性は吉原へ、女性は猿若町の歌舞伎見物へ、というのが浅草の楽しみ方の一つのパターンだったのです」と語った。
馬道通りから二天門をくぐり、浅草寺境内へ入る。本堂の東側に建つこの二天門は、江戸時代初期に建てられたもので、国の重要文化財に指定されている。ただし、建立当時の名称は「随身門」。門の左右に祀られていたのは、豊岩間戸命(とよいわまどのみこと)、櫛岩間戸命(くしいわまどのみこと)という神道の神様だった。それが明治に入り、神仏分離の命によって2体の像はすぐ隣の浅草神社に移され、代わりに鶴岡八幡宮から来た持国天(じこくてん)と増長天(ぞうちょうてん)という仏教の四天王2体が左右に据えられて、名前も二天門に改められた。門が同じまま神仏が入れ替わるというのは不思議な感じだが、そうした大らかな多様性も浅草寺の魅力だと沓沢さんは言う。
「浅草寺は研究者の間で『神仏のデパート』とも称されるように、子院が多く、境内にもたくさんのお社(やしろ)があって、多彩な神様、仏様が祀られています。人それぞれ願い事が違っても、とにかく浅草寺に来れば誰もが自分にぴったりの神仏を拝めるわけです。たくさんの人が参拝に来る理由もわかる気がします」
浅草寺本堂は、第二次世界大戦で焼失したが、人々の心のよりどころとなるよう、すぐに仮本堂がつくられ、なんと終戦の3カ月後には参詣できるようになっていたという。
その浅草寺本堂の裏手に回ると、広い駐車場になっている。実はこのあたりが「浅草奥山(おくやま)」と呼ばれる江戸の盛り場の中心部。当時は数々の見世物小屋が所狭しと軒を連ね、相当な賑わいだったらしい。
「見世物小屋というと怪しげなイメージですが、実際は手の込んだ工芸品や巨大なからくり人形が展示されていたり、独楽回しや綱渡りといった曲芸、手品などを披露したりと、大人も子どもも楽しめる多種多様な興行が行なわれていました」(沓沢さん)
両国では、「大イタチ」をうたって、小屋に入ると大きな板(イタ)に血(チ)がついているだけだった、なんていう見世物もあったそうだが、江戸の人はそれも洒落として楽しんだのだろう。人々が喜ぶ新しいもの、おもしろいものが集まる娯楽の殿堂が奥山だったのだ。
奥山とされるエリアは広く、日本最古の遊園地として今も営業する「浅草花やしき」もその一画にある。花やしきができたのは、なんと1853年(嘉永6)。開園した当初は植物園だった。
明治時代になると、浅草寺の寺領は東京府に公収され、公園地として整備されていく。1883年(明治16)には浅草寺の西側に大池が造成され、掘り出した土で田んぼが埋め立てられて、そこに奥山地区の見世物小屋がごっそり移転された。これが浅草公園六区(浅草六区)の始まりである。
「奥山を移転した背景の一つには、火事が起きやすい見世物小屋を浅草寺から離したいという思惑がありました。六区と浅草寺の間には大池があるので、火事が起きても延焼を防げるのです」
興行街として人工的に誕生した浅草六区は、当然のように文化の発信地になっていく。その先頭を切ったのが、1887年(明治20)に開場した「常盤座(トキワ座)」だ。ここでは歌舞伎や新派劇の興行、そして映画の上映などがいち早く行なわれ、さらに大正期には浅草オペラを初めて上演し、大ブームの火付け役となった。当時、浅草オペラに傾倒した人は「ペラごろ」(注)と呼ばれ、なかには宮沢賢治もいたという。そのほか、系列劇場との三館共通チケットの導入や日本初のストリップショー公演など、トキワ座が始めた新しい取り組みは多い。
少し離れた浅草四区には、1899年(明治32)に「浅草公園水族館」という日本初の私設水族館が開業した。ここは水族館でありながら、昭和になると2階が演芸場になり、喜劇スターとなる榎本健一が劇団「カジノ・フォーリー」を旗揚げしたことで知られている。浅草公園水族館はもうないが、隣接する「木馬館」は今も演芸場として営業を続けている。
昭和初期以降、浅草六区には映画館や劇場が林立し、健全なエンターテインメントから猥雑なものまで何でもありの一大歓楽街として隆盛を誇った。しかし1960年代にテレビが登場し、娯楽が多様化して映画人気が下火になると、浅草六区も往年の勢いを失っていく。1991年(平成3)にトキワ座が閉鎖され、浅草六区の一つの歴史が幕を下ろした。
浅草六区を後にして浅草寺境内へ戻る。仲見世に出ると、平日にもかかわらず人でごった返している。その喧騒に、ふと江戸の景色が重なって見えた気がした。
「浅草のまちなみはかなり変貌しているので、知識がないと昔を偲ぶことは難しいかもしれません。でも、少し歴史を知るだけで、浅草というまちの魅力がぐっと身近になるのではないでしょうか」と沓沢さん。
漁師の兄弟が隅田川ですくった仏像を祀る浅草寺を中心に、さまざまな娯楽が密集し、人を飽きさせることがないまち、浅草。何でもありの雑多でエネルギッシュな包容力が、万人を惹きつけるのだと感じた。
(注)ペラごろ
大正末期、オペラに熱中して女優を追い回したり劇場に出入りしたりした青年。「オペラごろつき」あるいは「オペラジゴロ」の略といわれる。
(2017年8月18日取材)