機関誌『水の文化』57号
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変わることを恐れない浅草人のプライド
―― 隅田川 とうろう流し

隅田川の吾妻橋上流にある親水テラスから流されたとうろう。人々のさまざまな思いを載せて川面を下っていく

隅田川の吾妻橋上流にある親水テラスから流されたとうろう。人々のさまざまな思いを載せて川面を下っていく

水質浄化が進み、さらに人々の憩いの場となる親水テラスが整備された隅田川。その吾妻橋のたもとで毎年8月に行なわれるのが、12年前に復活した「隅田川 とうろう流し」だ。関東大震災や東京大空襲などで亡くなった方々の霊を悼むために戦後始まったこの催しは、約40年の休止期間を経て、今は老若男女、国籍を問わず多くの人が集うようになった。その裏には、「変わることを恐れない」浅草の人たちのプライドが隠されていた。

途絶えかけていたとうろう流しを復活

「僕が子どものころ、隅田川はとにかく臭かった。近づかなかったですよ」

そう話しはじめたのは、浅草観光連盟事務局で広報を担当する飯島邦夫さん。連盟といっても浅草を盛り上げようとする地元旦那衆を中心とした集まりで、堅苦しいものではない。飯島さんの実家も合羽橋で祝儀袋屋を営んでおり、自身も観光関連の企業を経営しているという。

観光連盟では、ほぼ毎月のペースでなんらかの行事を実施しており、隅田川のとうろう流しもその一つだ。終戦翌年の1946年(昭和21)に始まった歴史あるもので、戦火で焼かれた浅草の再興のために立ち上がった浅草復建自治会(観光連盟の前身)が、浅草寺などと協力して実施した「浅草復興祭」の一環として行なわれたのが最初であるという。その後、20年にわたり続けられたが、隅田川の護岸工事が実施され川辺に人が降りられなくなったことから1966年(昭和41)に一度中止された。それが、隅田川親水テラスの設置など川岸の再整備が進んだのを受け、飯島さんたちが2005年(平成17)に復活させ現在に至る。

復興から高度経済成長に向かっていった1950〜60年代には隅田川の水質悪化の問題が発生。とうろう流しのほかにも、名物だった寒中水泳(1953年[昭和28]に中止)、伝統あるボート競技大会である早慶レガッタ、花火大会のルーツでもある隅田川花火大会(ともに1961年[昭和36]に中止)と、多くの行事が開催不能に追い込まれた。

当時の観光連盟は事態を打開すべく隅田川浄化のための運動の先頭に立った。住民と力を合わせ台東区議会などに粘り強く働きかけた結果、沿岸から流れ込む工場排水の処理施設建設や川底の汚泥の浚渫、下水道の普及などが実現し、水質は徐々に改善する。早慶レガッタと花火大会は1978年(昭和53)に再開された。

飯島さんたちがとうろう流しを復活させたのも、途絶えかけた伝統行事を再興させてきた連盟の姿勢を踏襲したものなのだ。

  • 浅草観光連盟の広報担当、飯島邦夫さんと、飯島さんたちが設計した流灯台

  • 外国語で書かれたとうろう。近年は外国人観光客の参加も増えている

    外国語で書かれたとうろう。近年は外国人観光客の参加も増えている

  • ここ数年は、鎮魂よりも、自分や親しい人たちの幸せを願う内容が多いという

    ここ数年は、鎮魂よりも、自分や親しい人たちの幸せを願う内容が多いという

  • 外国語で書かれたとうろう。近年は外国人観光客の参加も増えている
  • ここ数年は、鎮魂よりも、自分や親しい人たちの幸せを願う内容が多いという

浅草の四季折々の催しを地道に続けていくこと

「復活当初は、かつてに倣い戦災者の慰霊を目的にしていました。参加していたのも浅草で暮らす方がほとんど。そんなときに東日本大震災が起きて雰囲気が変わった。復興や未来への願いを自由に託す、つまり七夕の短冊みたいなものになっていったのです。それが外国人観光客にも伝わって大きくなっていった。『参加できるアクティビティ』というところが受けているんでしょうね」

18時。とうろう流しが始まると、流灯台(りゅうとうだい/隅田川にとうろうを流し入れるための木製のスロープ)に参加者が長い列をなす。岸辺は幻想的な風景を見ようと集まった見物客で埋め尽くされた。ゆらゆらとろうそくの火が揺れる橙色のとうろうが水面を流れていく。その風景は日本の夏の風情そのものだ。

ただし、これはかつての鎮魂のためのとうろう流しが変わりゆく様でもある。浅草が「変わっていく」ことについてどう思うのか。

「浅草に来てくれる人が増えるのであれば、なんでもやるのが僕らですから」

そう言って飯島さんは笑う。観光客に喜んでもらうのが大事。続いてこその伝統ということか。だが、それでいて浅草の伝統に強い敬意と愛情を抱いている。そこに強さがある。

「浅草ってね、東京五輪の後にテレビが普及したことで活気を失ったことがあるんです。そのころ、僕らの先輩たちは地元をまた盛り上げるために、浅草の風情や伝統を徹底的に研究した。そして浅草で行なわれてきた四季折々の催しを地道に続けていけば、人は戻ってくると考えたんです」

その考えが正しかったことは、今の浅草の賑わいが証明している。先輩たちの意思を継ぐべく、飯島さんたちは「寺子屋」と称し、年長者から浅草の歴史を学ぶ機会を重ねている。いずれは伝える側の役を担うことになるからだ。

さまざまなものを受け入れる懐の深さ。伝統を守る意思。その両立に浅草で生きる者のプライドを見た。

(2017年8月12日取材)

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