「m+(エムピウ)」の財布類。使い込んで革に艶が出たものも展示
左:「KONCENT(コンセント)」の生活用品。鮮やかで遊び心のあるものばかり
右:「カキモリ」のノート。部材はすべて蔵前周辺の職人の手によるもの
かつて隅田川に面して幕府の年貢米を納める「御米蔵(浅草御蔵)」が立ち並んでいた蔵前。御米蔵の裏手には、今は暗渠となった鳥越川が流れ込み、隅田川からの物資が舟で行き来していた。最近、この蔵前周辺が「わさわさ」している。若いクリエイターたちが店を開き、川沿いに飲食店やゲストハウスができて、人が集まっているという。蔵前で何が起きているのか。
「今でこそ週末は人が多いですけど、10年前は日曜日なのに誰も歩いてなくてね。コーヒーチェーン店すら日曜日には休むほどでしたから」
そう語るのは、台東区蔵前三丁目に財布やバッグなど皮革製品の工房とショールームを構える株式会社エムピウの村上雄一郎さん。2016年にサンフランシスコの有名店が海外初出店の地として蔵前を選び、話題になったのが嘘のようだ。
村上さんは2006年(平成18)、今の場所に腰を据えた。社名のエムピウとはイタリア語の「エンメピウ(m+)」に由来する。「m」は自身の頭文字、そして「+」は「ものづくりにかかわる人たち」の意味だ。
「職人さん、革屋さん、部品屋さん、そして使い込むお客さんがいて、僕の製品は成り立っています」
蔵前というエリアの特性は「+」の部分、つまりものづくりに必須な技術と素材・部品が「自転車で回れる距離にある」(村上さん)という点だ。それを紐解く前に、蔵前の歴史を少し遡ってみたい。
幕府の「御米蔵(おこめぐら)」は、蔵前一、二丁目から柳橋一丁目にかけて広がっていた。創設は1620年(元和6)。米は江戸時代の経済で重要な役割をはたしていたが、御米蔵の大部分は「切米(きりまい)」という知行地をもたない旗本や御家人に与えられるものだった。寛文年間(1661〜73)には、この近辺の町人たちが春、夏、冬に支給される切米を受け取って売却を代行する役目を担う。それが「札差(ふださし)」(注1)。蔵前という地名は、この札差が住む一帯を指した言葉だ。
御米蔵には船で天領の米が運び込まれた。当時の運送事情に鑑みると、各地の特産品も積んでいたと考えられる。その御米蔵の裏に流れ込んでいたのが鳥越川(とりごえがわ)で、遡れば秋田藩(久保田藩)佐竹家上屋敷に接する三味線堀(しゃみせんぼり)に至る。三味線堀には船着き場があり、下肥や木材、野菜、砂利などを運ぶ舟が行き来していた。また、鳥越川と合流する新堀川(しんぼりがわ)は、食器具や調理器具などの問屋街「合羽橋(かっぱばし)道具街」の真ん中を流れる江戸時代につくられた堀。大正時代、この両岸に古道具を商う商人たちが店を出し、道具街になったとされる。
蔵前を少し俯瞰すれば、隅田川沿いには日光道中・奥州街道があり、上野には歴代将軍が菩提寺(寛永寺)参拝に利用した下谷御成街道もあった。1657年の明暦の大火後に寺社や武家屋敷が移転してきたため、台東区内には今も300以上の寺社がひしめく。寺社の祭礼には蝋燭などさまざまなものが必要だから、職人が求められたことは想像に難くない。御徒町付近が「ジュエリーのまち」となったのも、仏具や銀器の飾り職人が集まったからだという。浅草寺に参拝する人たちの土産品の需要はあったはずだし、このあたりなら江戸最大の商都・日本橋からさほど遠くない。
隅田川、米蔵、掘割、街道、そして寺社などいくつもの条件が重なって職人が育ち、職人から仕入れたものを小売店に卸す問屋街が形づくられたと考えられるだろう。次に、今、蔵前周辺で活躍するキーパーソンの話を聞いてみよう。
(注1)札差
名の由来は、蔵米受取手形(札)を藁苞(わらづと)に差す人。代行手数料よりも旗本・御家人に対する高利貸しで巨利を得た。新吉原遊郭で豪遊するなど羽振りがよかった。
三味線堀は鳥越川を掘り広げてつくられた。そのときの土砂で沼地を埋めてできたといわれる小島町に、ファッションやデザイン関連のインキュベーション施設「台東デザイナーズビレッジ」(デザビレ)がある。自らを「村長」と名乗るインキュベーションマネージャーの鈴木淳さんは「自分で調べたり、人に聞いた話なので断言はできませんが」と前置きして、台東区の産業集積をこう説明した。
「上野駅から御徒町駅の東側には、機械工場や自転車屋がありました。行商の人たちが電車で来て、上野駅で自転車を借りたり買ったりして回ったからだという話です。バイク街も上野駅のそばでしたね。帽子は馬具職人たちが仕事を失い、代わりにつくりはじめたようです。靴やバッグなど皮革製品も多く、戦時中は金属以外の軍の普及品はすべてこのあたりでつくっていたと聞いています」
台東区の調査(注2)によると、製造業は2896事業所、卸売業は4715事業所でこの比率は23区内でも特に高い。興味深いのは、昔から有名ブランドの仕事を請け負っていたにもかかわらず、「どこから引き受けたか言ってはいけない」(鈴木さん)という不文律があったこと。しかし、生産・加工の拠点が海外に移るなか、その美徳は弱みに転じる。台東区の人口は激減し、廃業率も高まった。
危機感を抱いた台東区が2004年(平成16)、旧小島小学校に開いたのがデザビレだ。目的は、創業5年以内のデザイナーを「手づくり作家」から、工場や職人の手を借りてビジネスとして続けられる「経営者のヒナ」に3年間で育て、できれば台東区内で独立させること。そのために作り手の思いをうまく伝えるPRの指導から独立後の人脈につながる工場見学なども行なう。
一方、鈴木さんはこの一帯がこれほどの産業集積地にもかかわらず知名度が低いことをもったいないと思っていた。そこで「地元の人に自分たちの仕事場を見てもらおう」と近所の職人や企業に声をかけ、ワークショップやオープンファクトリーを楽しむまち歩きイベント「モノマチ」(注3)を2011年にスタート。初回の出展者は16組だったが今年は170組。これが人をつなぐ一つのハブとなっている。
(注2)台東区の調査
総務省「経済センサス」(平成26年)による。卸売業と小売業は分けて算出している。
(注3)モノマチ
「台東モノづくりのマチづくり協会」が仕掛けるイベント。第9回は2017年5月26〜28日、店舗、メーカー、問屋、職人工房など約170組が参加して開催された。
先に登場したエムピウの村上さんは、デザビレの第一期生。もともと建築設計事務所で働いていたが「経年変化するものを自分の手でつくりたくて」イタリアのフィレンツェで修業したあと、2001年に「m+」を立ち上げた。当初は埼玉県新座市に工房を構え、毎月一回この界隈まで買い出しに来ていた。
「一日歩いても『あっ、買い忘れた!』ということがしょっちゅうでした。逆になかなか来られないから『買っとこうかな』と必要ないものまで購入して後悔したり」と笑う。
そんな村上さんは2004年にデザビレに入居して、このエリアの利便性を再認識する。「必要なものはそろいますし、自転車で回れば用事が済む。便利だなーと」。蔵前でいい物件と出合い、卒業後に工房を開く。
自分一人で事業を始めるとなるとわからないことばかりだ。商標登録はどうやるのか、こんな金具をつくれる人はいないか……。そんなとき頼りになるのは人のネットワーク。同期生や鈴木村長はもちろん、モノマチの打ち合わせで顔を合わせた「ご近所さん」にも助けられた。
「モノマチは月イチで会議があり、終わると飲みに行くのですが、たまたま隣に座ったのが紙袋をつくっている職人さん。それまで既製品を使っていたので、『僕のもつくってください!』とお願いして、オリジナルの紙袋をつくってもらいました。そういう縁からいろいろな人とつながりましたね」
ものづくりの現場では、ロットが小さかったり、よく知らない相手だと取引しづらい傾向がある。でも台東区の事業である「デザビレ」の出身で、かつモノマチという同じ目的で集まる仲間ならばその壁は低くなる。
気さくな人柄の村上さんは、今ではすっかりこの近辺の兄貴分だ。「オッサンだからね」と謙遜するが、SNSのグループで相談を受けたり、逆に若手に教えてもらったり。隅田川を越えた墨田区のデザイナーたちともつながっていて、卓球大会を開くことも。都会とは思えない濃密な人間関係が蔵前にはある。
エムピウから歩いて数分。蔵前四丁目の築50年のビルに、オーダーメイドのノートや試し書きができる万年筆、オリジナル色のインクなどをそろえた文具店がある。2010年にオープンした「カキモリ」だ。株式会社ほたかの広瀬琢磨さんが立ち上げた。親会社は広瀬さんの祖父が文具店から興して今はオフィス家具まで総合的に扱うが、文房具は通販業者に押されて旗色が悪い。
広瀬さんは、文具店ならではの専門性がカギになると考えた。
「『書く』という行為は残るはずです。ならばペンや紙など、奥深い知識が必要な分野に特化すれば勝負できると思いました」
広瀬さんは、小売店を小資本で開くために家賃の安い東京の東エリアに狙いを定め、浅草や合羽橋を行き来していて蔵前を「発見」する。「人は歩いていないけど、目的買いのお客さまを想定していましたし、当時は空き家だらけで安かったから」と笑う広瀬さんは、蔵前を調べるうちに思いがけないことを知る。
「文房具に関する地場産業があったのです。かつて隅田川は紙を運ぶルートで、ここで加工したものを日本橋界隈に売っていた。だから加工所や印刷所、問屋があるようです」
カキモリの「たのしく、書く人。」というコンセプトを表すのがオーダーメイドのノートだ。実は、ノートの表紙や用紙、留め具、ゴム紐などの部材すべてを、歩ける距離にある職人や企業につくってもらっている。抜きや貼りが必要な封筒もだ。仕上がった部材は自分たちで引き取りに行く。小ロットで対応してくれる産業の集積があればこそである。ただし、職人は高齢化が進み、後継者問題もある。広瀬さんは「カキモリが繁盛すれば職人さんも潤うから」とすぐそばに今の3倍の面積の店舗を確保し、移転を計画中だ。
現在20社ほどに協力を仰いでいるが、当初はつてがない。突破口となったのは顔の広いエムピウの村上さん。職人を紹介してもらい、人づてに広がっていった。「モノマチ」に初回から参加したことも、地域につながる追い風となった。
「ここで驚くのは、人のつながりをとても大事にしていること。一度つながったらずっと面倒をみてくれます、職人さんも個々のお店もです。東京では失われたと思っていたものが、ここには残っているんです」
カキモリから南へ200mほど行くと、「蔵前二丁目」の交差点に出る。その向かい側に「KONCENT蔵前本店」がある。2002年に「デザインとものづくりを通して世の中を元気にすること」を目指して創業したアッシュコンセプトの直営店で、2012年4月にオープンした。
色鮮やかな生活用品が並ぶが、よく見ると一風変わった商品ばかり。代表作の一つが、お湯を注いだカップ麺のフタを一生懸命押さえる姿がユーモラスな「+dCup men(カップメン)」。時間が経つと色が変わる。そんな遊び心のあるデザイナーの製品を見出し生活者に届けている。
代表取締役の名児耶秀美(なごやひでよし)さんは、隅田川対岸の墨田区で生まれ、浅草寺の前の幼稚園に通っていた。駒形で創業して以来、ずっとこの近辺にいる。
「どうして蔵前かって?デザイン関係は山の手に拠点を置く人が多いけれど、私には人工的なまちという気がするんです。その点、ここは昔から人が住んでいて、蕎麦屋とか豆腐屋とか古くていいものがちゃんと残っている。私も未だに新しい発見をするんですよ」
KONCENTの店舗は玩具の卸企業が40年前に建てた倉庫だ。名児耶さんは「浅草橋までが浅草寺の参道のように描かれている昔の地図があります。だからここには玩具屋さんが多いんでしょうね」と言う。
直営店を出す気になったのは、エムピウの村上さんやカキモリの広瀬さんといった若い世代が「わさわさしはじめたと聞いた」(名児耶さん)から。「おもしろい!私もまちの活性化のためにショップを出そう」と物件を探した。鈴木村長、村上さん、広瀬さんなどみんなと仲がいい。理由を問うと「なんだろうね。都会なのに不思議とつながるんだよね」と考えたあと、こう言葉を継いだ。
「それぞれが力のある人たちで、頼り合っていないから、かな。志をもっているおもしろい人たちとは、つながりたいと思いますからね」
おもしろい人が集まるまち。その魅力をさらに高めるのは個性的な飲食スペースだ。蔵前の隅田川沿いにそうした店が2軒ある。2011年にオープンした「Cieloy Rio」(シエロ イ リオ)と、翌年にできたゲストハウス「Nui. HOSTEL&BAR LOUNGE」(Nui.)。いずれも倉庫を改修し、隅田川というロケーションを意識したつくりである。
シエロ イ リオの店長を務める吉田浩介さんによると、このビルはかつて楽器店の倉庫。「川側にはシャッターしかなかったので、窓をつけました。隅田川が見える窓際の席から予約が入っていきます」と話す。
Nui.をはじめ、ゲストハウスを4ヵ所で手がけるBackpackers’JapanのCFO、桐村琢也さんは、「天井の高さと開放感、そして川沿いが決め手でした」と振り返る。2階から上階が客室で、1階は誰でも利用できるカフェ&バーラウンジだ。
今回お話を聞いた鈴木村長、村上さん、広瀬さん、名児耶さんは、この2店をよく訪れる。村上さんが卓球大会を開いたのはシエロ イ リオの上階の卓球バー「リバヨン」だ。Nui.でモノマチの打ち上げがあるときは「大勢いらっしゃるので、失礼がないようにスタッフの陣容を厚くします」と桐村さんは笑う。
蔵前で起きていること。それは隅田川に端を発する分厚い歴史のうえに、今を生きる人たちがゆるやかにつながりつつ互いに触発し合ったことが花開いたのだと思う。なぜ人と人がつながるのか明快な答えはないが、一人では完結しない分業制のものづくりをしてきた旧住民の面倒見のよさ、よそ者を排除しない懐の深さが地域の土壌としてある。その恩を受けた人たちが、次の世代にも同じように接することで、蔵前の地域性は連綿と受け継がれていくのだろう。
(2017年8月3、4、12、16、17日取材)