隅田川右岸から上流の両国橋を望む。北斎は生涯のほとんどを左岸の墨田区内で過ごした
「明暦の大火」(1657年[明暦3])をきっかけに、隅田川左岸の湿地帯を開拓するためにつくられた掘割の一つに本所割下水(ほんじょわりげすい)がある。これは、建築資材を舟で運び込む「運搬路」でもあった。このそばで生まれたのが浮世絵師の葛飾北斎だ。北斎が生涯離れなかった本所界隈は、士農工商の身分を超えた文化の発信地だった。すみだ北斎美術館 学芸員の五味和之さんに、本所割下水と北斎についてお聞きした。
インタビュー
すみだ北斎美術館 学芸員(教育普及担当)
五味和之(ごみ かずゆき)さん
1958年生まれ。大正大学文学部卒業、同大学院文学研究科修士課程修了。墨田区文化財保護指導員や文化センター講師を経て2009年から現職(墨田区文化振興財団職員)。2016年、美術館開館と同時に教育・普及を担当。
北十間(きたじゅっけん)川をはさみ北部の向島区と南部の本所区が1947年(昭和22)に統合して誕生したのが墨田区です。江戸時代初期まで、南側はわずかな干潟に人家が点在する荒れた湿地帯でした。
本所地域が開発されたのは明暦の大火以降。焼け出された人々の移転先として、10万人余りの遺骨を葬る場所として、さらには防災都市計画として、幕府は本所地域を開拓整備し、新たなまちなみを形成しました。それまでの江戸市中は江戸城を中心に旗本屋敷を「の」の字に配置する軍事要塞的なまちづくりでしたが、明暦のころともなれば幕政は安定し外敵の脅威も薄れていたので、防災上の観点からもっとも機能的な碁盤目状に区画整理したのです。
両国橋を架け、市中に防火堤や火除け地を設け、竪(たて)川、大横川、北十間川、横十間川などを縦横に開削しました。これらの運河は今も残りますが、暗渠(あんきょ)となった用水路に「割下水」と呼ばれたものがあります。道路を割って掘削し、建築資材を運ぶ舟が通ったり、排水路として使われていました。割下水は2本あって、現在の北斎通りが「南割下水」、春日通りが「北割下水」で、東西に貫通していたのです。たんに「割下水」というと南割下水近辺を指し、北斎通りの名は浮世絵師・葛飾北斎の生地(せいち)だったことによります。
隅田川を両国橋で渡った割下水周辺の本所地域こそ、後の文化文政期(1804〜1830)を最盛期とする江戸町人文化「化政文化」(注1)のダイナミズムを生む淵源(えんげん)となりました。そのきっかけは、五代将軍綱吉(1646〜1709)の時代に実施されたまちなみの再整備です。
(注1)化政文化
文化・文政(ぶんかぶんせい)(1804〜1830)ころの江戸中心の町人文化。人情本や俳諧、川柳などが流行し、浄瑠璃や歌舞伎、浮世絵も盛んだった。
本所の再整備は、原因は津波など諸説ありますが、地上90cmに達する大水が出たためです。幕府は本所の土地をいったん公収し、武士は元の屋敷に戻らせ、町人にも補償金を出して西側に移転させました。この都市計画の練り直しの時期に代替わりした将軍が綱吉です。初の徳川直系ではない政権なので力ずくで抑えようとする軍事的な色彩が強く、武士のためのまちづくりへと仕切り直します。碁盤目状のまちなみは残したのですが、より細かく区割りし、道も狭くして、旗本・御家人地を多く設け、与力・同心の組屋敷や、雑兵・足軽の官舎も置きました。ゆったりした防災都市から、武士の比率が高い軍事都市へと若干の修正が図られたわけです。この町割は現在も変わりません。
こうしたまちづくりは武士と町人の交流をもたらし、新たな文化を生みました。旗本・御家人などの下級武士は3日に1回くらいしか仕事がなく、下手をすると裃(かみしも)を質に入れるほど生活に困窮しています。一方で町人は、そこそこカネはあるものの暇つぶしの娯楽に飢えている。カネのない暇人とカネのある暇人が隣り同士になることもありました。すると「お武家さん、あんた読み書きできて漢籍も古典も知ってるなら、おもしろい話を書いてくれないか、カネは出すから」という話になるわけです。
武士にすれば、例えば高屋彦四郎の本名ではまずいから柳亭種彦(りゅうていたねひこ)というペンネームで作品を出す。それが当たって、次から次へと作品を書き、どんどん芝居小屋にかかる。しまいには作家をとるか武士をとるか幕府に迫られ筆を折った山東京伝(さんとうきょうでん)のような人気戯作者も出るわけです。
そうした素養ある下級武士が多く住んでいたのが本所地域でした。町人も商人も武士も農民も渾然一体となっていた本所のような地域は江戸じゅう探してもそうそうなかったでしょう。文化は混沌のなかから生まれます。戯作や浮世絵など江戸文化が爆発する導火線にいつ火が着いてもおかしくない場所だったのです。
そんな江戸文化を代表する浮世絵師の一人が葛飾北斎(注2)です。本所割下水で生まれた北斎の父親は川村氏としかわからず、武士か町人かはっきりしません。母方の先祖は赤穂浪士に討ち取られた吉良上野介の家臣、小林平八郎とされています。
幕府の御用鏡師である中島伊勢の養子になり、6歳から絵を描くことが好きで、19歳で版木彫りの仕事を辞め、浮世絵師の勝川春章に弟子入りしました。
当時としては異例の90歳という長寿を全うした北斎は、最晩年に至るまで旺盛な創作活動を続け、多種多彩な画業を残しましたが、実に生涯93回にわたる「引っ越し魔」だったことでも知られています。敷金・礼金もなければ鍋釜さえ損料屋(今のレンタル店)から借りられた時代なので、気軽に身一つでたびたび引っ越すことも可能でした。
なぜ北斎はそんなに住まいを変えたのでしょうか。カネ遣いの荒い孫から逃げていた、掃除嫌いで家が汚れるたびに取り替えた、先輩の仏教学者が願掛けで百度転居したのに倣った……など諸説ありますが、いずれもあまりよい話ではないので、墨田区としては「創作のインスピレーションを得るため頻繁に環境を変えた」と説明するようにしています。
浮世絵は薄利多売ですから版元は儲かりますが絵師は潤いません。殿様や豪商の仲間内で配る会員限定の豪華絢爛で高価な摺絵や枕絵(春画)で絵師は生計を立てていました。
北斎も例外ではありません。実は1999年(平成11)にアメリカの『ライフ』誌が「この千年に偉大な業績を残した百人」として北斎を讃えるまで、日本では「技巧を凝らした枕絵師」との偏見的なイメージが根強く、嫌う人も多かったのです。
(注2)葛飾北斎
江戸後期の浮世絵師(1760〜1849)。江戸本所割下水の川村家に生まれる。春朗・宗理・画狂人などたびたび号を変えた。勝川春章の門で浮世絵を、また狩野派・土佐派・西洋画などからも画技を学ぶ。マネ、モネらフランス印象派の画家に大きな影響を与えた。代表作に『冨嶽三十六景』『北斎漫画』など。
独自の遠近法や想像力を駆使した鳥瞰図など技巧に優れていたのみならず、北斎は多方面に才能を発揮しました。
風景はもちろん人物も得意で読本の挿絵も描き、煙管や櫛のデザインもすれば、絵画の技法を手ほどきする教育者でもあり、巨大な箒に墨汁を付けて達磨を描いたかと思えば米粒に雀を描くなど、時にはパフォーマーでもあったのです。これほど幅広く活躍した浮世絵師はほかにいません。一つ所に留まらず好奇心の赴くまま挑戦を続け、90歳で世を去る直前まで絵筆を離さず「あと5年、天が命を与えてくれればほんとうの絵師になれるのに」と語ったと伝えられています。そうであれば「インスピレーションを得るために引っ越しを繰り返した」という墨田区の「公式見解」も、あながち的外れではないでしょう。
そんな北斎が、これだけは一貫して追究した画題、それが「水」にほかなりません。形のない水をどう捉え、海、波、川、滝をいかに描くか。40代半ばで描いた『賀奈川沖本杢乃図』と70代で描いた『冨嶽三十六景 神奈川沖浪裏』を比べると、波の表現の巧拙は一目瞭然。今にも水しぶきがかかるような後者の迫力は、まるで3D映像のようです。
93回の引っ越しでは小石川や浅草にも行きましたが、すぐに隅田川沿岸に戻っています。隅田川もよく描きました。富士山を望む悠揚たる川の流れと、その周辺に生きる人々の活気。それこそ北斎が生涯変わらず魅了されたものだったのでしょう。
(2017年8月1日取材)