石徹白のシンボル的な存在となっている「上掛け水車」(最大出力2.2kW)。この設置によって隣にある食品加工施設が稼働した
岐阜県郡上市白鳥町(しろとりちょう)の石徹白(いとしろ)集落は、全国的に脚光を浴びている地域だ。それは集落のすべての世帯が参加した小規模な水力発電の取り組みによる。このエネルギーの地産地消の試みによって、年間の発電量は64万kWhに上る。これは一般家庭約140世帯分の年間使用電力量に相当する。九頭竜川水系・石徹白川の支流・朝日添川(わさびそがわ)の水を用いた小水力発電は、どのようにして生まれ、活かされているのか。
空が広い―。それが石徹白(いとしろ)に到着したときの印象だった。岐阜県郡上市の中心部からは50km弱。もっとも近い集落からでも14km離れていると聞き、人里離れた山深い秘境を想像していたが、実際の石徹白集落は谷あいの南北方向の傾斜地に伸びやかに広がっている。集落を縁どる石徹白川には澄みきった水が流れ、取り囲む山々も急峻ではない。豪雪地帯だけに冬は違った表情を見せるのだろうが、夏の石徹白はゆったりとした時間の流れる穏やかで明るい里だった。
集落の北端にある白山中居(はくさんちゅうきょ)神社を訪ね、禰宜(ねぎ)の石徹白隼人さんから集落の歴史を伺った。石徹白さんは神職を務める一方で、集落自治の中心的な役割を担う一人でもある。
「自動車時代の今、石徹白は道の終点の集落のように見えます。でも、ここには縄文時代から人が住み、白山信仰(注1)が盛んになった平安時代以降は登拝道の起点の集落として栄えていたんです」
石徹白には全国を歩いて白山信仰を広めた御師(おし)と呼ばれる一族も多くいたことなどから、神に仕える人々が暮らすどこの藩にも属さない特別な集落として認められていたのだという。住民の身分は高く、苗字帯刀を許されてもいたそうだ。
かつて1000人ほどが暮らしていた石徹白には、白山に登る参拝者が1000人、白山から下りてきた参拝者が1000人、泊まっている参拝者も1000人と、住民以外に3000人もの人々が滞在することもあったという。さぞ賑やかだったことだろう。
「白山の登拝道は加賀や奥州と京の都をつなぐ裏街道としても利用されていました。時代ごとの有力者からの寄進があったことも神社の資料に残っているんですよ」
多くの人が行き来し多彩な交流があった石徹白は、それによってもたらされた富や知恵を用いて栄えてきた。閉鎖的な秘境とは正反対の土地なのだった。
(注1)白山信仰
岐阜、石川、福井にわたりそびえる白山(御前峰/2702m、剣ヶ峰/2677m、大汝峰/2684mの三峰とその周辺域を含む総称)を神体とする信仰。白山は東西南北の河川に水を供給し田畑を潤していたことから遥拝され、開山後は修験道として成立することとなった。
そんな歴史をもつ石徹白が近年注目を集めている。集落が自力で小水力発電(注2)の開発に取り組み、実用化にこぎつけたからだ。
事の始まりは、人口減少が続く石徹白をなんとかしようという住民の動きだった。久保田政則さんは、それに賛同した住民の一人。石徹白を離れ大手自動車部品メーカーに勤務した経験があり、Uターンして石徹白に戻ってからは、電気関係の仕事をしていた。
「石徹白の人口は高度成長期のころから減りはじめ、かつての4分の1程度になってしまっています。それに手を打とうと、2003年(平成15)にNPO法人やすらぎの里いとしろができたのです」
設立当初はキャンプ場の運営や歴史勉強会などで地域おこしを図ろうとするも状況は好転しなかった。そんなとき、岐阜県の地域おこしを支援するNPO地域再生機構のメンバーより「農業用水を活用した小水力発電の提案」が届いた。
「水力発電はかつて石徹白にもありました。でも電圧が安定しにくい電気というイメージが強く印象はよくなかった。それでも起爆剤となるものが必要でしたから、『やってみよう』となったんです」
これを受け、電気や機械にくわしかった久保田さんが、やすらぎの里いとしろの理事長となった。
「故郷を離れていた時期が長かったのでね。何か貢献できれば、という気持ちが強かった。それで引き受けることにしたのです」
(注2)小水力発電
明確に統一されてはいないが、1000kW以下の発電を指すことが多い。一般河川や農業用水、砂防ダムなどを活用し、環境への影響を小さく抑えながら発電が可能という特徴がある。詳細は『水の文化』28号と39号を参照。
事業は2007年(平成19)にスタート。事業主体のNPO地域再生機構から、平野彰秀さんらが参加し、計画や広報、助成金の申請などを担当した。実は、平野さんは東京の外資系コンサルティング会社に勤務しながらも、故郷・岐阜の地域おこしに関心をもちUターンも考えていた。
一方、住民側はNPO法人やすらぎの里いとしろが中心となり、らせん型、縦軸型、ターゴ(落差利用)型という種類の違う水車の開発実務を担い、実験を繰り返した。
2009年(平成21)にはそれまで得たノウハウを活かし、「らせん型水車2号機」を製作。翌年には集落の中心部に「上掛け水車」を設置した。これは活動のシンボル的な存在になっていった。
同じころ、地域づくりで何を目指していくのかを住民間で共有するために「石徹白ビジョン」を策定。そこには、人口減から存続危機が訪れている石徹白小学校を「30年後も残そう」という言葉が盛り込まれ、住民間の共感を生んでいった。
ここまでの水車は実験的な設置で、生み出す電力も小さく事務所など限られた施設で使用するのみだったが、2014年(平成26)には、「集落内全戸の出資」で石徹白農業用水農業協同組合(以下、農協)を設立。これを主体とする、つまり住民主導の事業化を目指すこととなった。
翌年には電力会社に売電し事業化が視野に入る規模(最大63kW)の「石徹白清流発電所」が稼働。この事業主体は岐阜県だったが、2016年(平成28)には助成金1億8000万円と農協で借り入れた6000万円を用いて「石徹白番場清流発電所」を稼働させる。最大出力125kWに達するこれまでで最大規模の発電所では、年間2400万円の売電益が生み出された。維持管理費や減価償却費などを差し引いた数百万円が石徹白の地域おこしの費用として残すことができている。現在は公共施設や街灯の電気代、用水の維持管理費に用いており、さらに今後は耕作放棄地を復活させて新たな就農を促すなどへの利用も予定している。
石徹白の「全住民出資」の発電はイノベーティブな地域おこしの例としてメディアなどで紹介され、取材や視察が相次ぐようになった。石徹白へ関心をもつ人も少しずつ増え、子育て中の若い夫婦などが移住を果たす例も生まれている。協議会では空き家の情報を提供するといったサポートは行なうものの、仕事については移住者本人に任せるスタンスを守っているが、それでもこの10年間で15世帯36人がUIターンし、そこから9人の子どもが誕生し、合計45人が新たに住民となった。これは人口約250人の石徹白においては大きな数字だ。
「人を惹きつけているのはあくまで石徹白という土地のもつ力じゃないかと思います。水力発電は入口に過ぎないのかなと。住民が求めているのも集落自治を取り戻すことで、水力発電はその実現のための数ある選択肢の一つだったのだと思います」
そう話すのは、NPO地域再生機構の平野さんだ。当初は石徹白に通う形でサポートしてきたが、2011年(平成23)に移住し、住民としても地域おこしに参加する。平野さんは石徹白には他の地域とは異なる気概があると話す。
「石徹白は、昔からの暮らしを現在にふさわしい形によみがえらせて残していく取り組みにとても積極的なんです。例えば白山への登拝道を維持するために、集落の人々が自ら草を刈りに赴く『道刈り』という風習がありました。でも徐々に人が集まらなくなり、お金を払って仕事として誰かにやってもらう形に変わっていきました」
しかし、集落はそれをよしとしなかった。「誰かに任せては道を守っていこうという思いが薄れる」との声が挙がり、25年ほど前に石徹白白山道清掃登山ボランティアを組織。草刈りは外注するが、自分たちも山に入り清掃を行なう機会をつくり直したのだ。
「水力発電も大正時代に取り組んでいたものを復活させた。その意味ではこれらは似た取り組みです。人口減少が全国で起きているなか、地域おこしがなるかならないかは、『残すべきもの』があるか、それを残そうという『強い思い』があるかに懸かっていると思います」
石徹白にはその両方があったということなのかもしれない。白山中居神社の石徹白さんから聞いた「白山信仰とは水への信仰でもある」との言葉が頭をよぎった。白山を流れ下った水は九頭竜川、手取川、庄川、長良川といった河川を通じて大地を潤し、広大な穀倉地帯を生み出している。このことへの感謝が白山信仰の原点にあるのだという。
かつて水への信仰を守ることで栄え、今再び水の力をきっかけに未来を描こうとする石徹白。巡る水に導かれた自然の流れのように思えた。
(2018年7月11~12日取材)