日本古来の柴を使った柴井堰はこの「川原園井堰」しか残っていない。毎年3月に築き、稲刈りが終わる9月に半分だけ撤去して、翌年は新たに柴架けをする
鹿児島県大隅半島の鹿屋(かのや)市には、農業用水をとるために山野に生えている雑木を用いた「柴井堰(しばいぜき)」が残る。その土地で入手できる草木を使った堰は各地にあったが、今はここが日本唯一といわれている。しかし、このまま続けるには課題が多く、柴井堰として残すのか、それとも近代的な堰につくり替えるのかという選択を迫られている。
大隅半島を流れる一級河川・肝属川(きもつきがわ)水系(注1)串良川(くしらがわ)下流域にある川原園井堰(かわはらぞのいぜき)は少し変わった堰だ。下中橋の下流に位置するが、橋の上から見てもどこに堰があるのかわからないほど景観に溶け込んでいる。それは山から伐り出した柴(燃料やたい肥に使う草木)を束ねてせき止めるという昔ながらの方法を用いた、小さくて素朴な「柴井堰」だからだ。
柴井堰で串良川の水位を高め、そのすぐ上流の右岸から取り入れられた水は、有里(ありさと)用水路(延長9.2km)を通り、細山田、有里、岡崎、下小原(しもこばる)の四つの地区を経て、約300haの農地を潤す。900もの農家が柴井堰からの水を受けて今も米をつくっている。
ここに堰がつくられたのは江戸時代初期。380年ほど前に始まった薩摩藩による新田開発に端を発する。当初は石堰だったとも、木杭の基礎に草木を編み込んだものだったとも伝わる。1902年(明治35)に基礎は石となったが台風でしばしば流されたため、1950年(昭和25)にコンクリート製の基礎がつくられた。それを補修しながら今も使いつづけている。
(注1)肝属川水系
流域全体については『水の文化』59号の連載「Go! Go! 109水系」を参照のこと。
柴井堰が注目されるのは、日本古来の柴を使った堰が、もうここにしか残っていないからだ。
毎年3月になると、農家の人々が近隣の山に分け入り、「マテバシイ」というブナ科の常緑樹を伐って山から下ろし、幹と枝葉に切り分ける。そして芯となる幹を真ん中に3~4本入れ、その周囲を葉付きの枝10本ほどで包んで竹で縛り上げて束にする。長さが150~170cm、胴回りが約50cm。川幅43mをせき止めるために、150束ほどこしらえる。その束を川のなかに運び込み、コンクリート製の基礎に這わせた横木に葉が多い方を下にして立てかける。仕上げは筵(むしろ)を上流側に敷き詰める。
この一連の作業「柴架け」を指揮しているのが、串良町土地改良区の理事長を務める出水園(いずみぞの)利明さん。岡崎地区で5~6haの水田をもつ農家だ。
「3月25~26日には田植えが始まりますから、3月20日までに柴を架けないとダメです。育苗もしているので3月は大忙しです」
出水園さんによると、もっとも難しいのは柴を束ねる作業。
「ただ長さをそろえるだけでは不十分です。水を漏らさず、水流にも耐えられる強度をもたせるには、束ねた枝葉に隙間をつくらないようにし、束を丸く、太さも均一にすることも必要です。枝葉の反り具合を見て『こっちに曲がるはずだからこう束ねよう』と考えながら束ねています」
自生するマテバシイの、太さも曲がりも異なる幹や枝葉を瞬時に見極めて束ねるのは、長年の経験と勘があってこそ。伐り出す作業はほかの人でもできるが、束ねられるのは出水園さん一人。
「先輩がどんどんいなくなったから、私がやるしかなかった」と言う出水園さん。30代で先輩から引き継ぎ、今80歳。40年以上も柴架けの棟梁でありつづけている。
出水園さんと同じ岡崎地区の農家、末吉芳美さんはこう証言する。
「以前、私も束ね方を教わったのですが、定型がないのでうまくできませんでした。川のなかに柴を据える作業も難しい。川底には凹凸があるため、柴の高さを水平に揃えるには微妙な調整が必要です。それも出水園さんが指示します」
伐り出しは5名、柴架けの日には14~15名が加勢するが、その中心にはいつも出水園さんがいる。
「川原園井堰の柴かけ」として鹿屋市(かのやし)の無形民俗文化財にもなっている柴井堰。材料となるマテバシイは再生可能であり、電力を使わないので農家の受益者負担金は低く抑えられるうえ、日本唯一の堰である。その価値は計り知れないほどですね、と切り出すと、出水園さんは笑いながら言った。
「文化的価値?そんなものはありませんよ。木を切ってきて束ねて川のなかに据えるなんて、原始時代の人がやることです。私は一刻も早くコンクリート製の固定堰(注2)につくり替えてほしいです」
意外な答えに戸惑うが、そう言わざるを得ない厳しい現実がある。
問題点は三つ。マテバシイが年々入手しにくくなっていること、築70年近く経過した基礎が著しく老朽化していること、そして出水園さんの後継者がいないことだ。
九州や沖縄などの山野に自生するマテバシイはしなやかで強いうえに葉が落ちにくい。根さえ残しておけば20年ほどでまた使える大きさに生長するので、ある程度まとまって生えている場所を探しては順繰りに切っていた。しかし林地開発や砂防関係施設の建設などで生育できる土地が減っている。
末吉さんは「このあたりは薪風呂だったので、マテバシイはいい燃料でした。戦後は杉が植えられ、薪もガスに置き換わった。そういう時代の流れもあります」と話す。
出水園さんは「毎年100本くらい切らないと足りない。しかも若木がいい」と言う。農作業の合間を縫って準備するので、マテバシイはできれば自宅のそばで入手したい。出水園さんは暇を見つけては山に入っているが、来年一年分のストックしかないそうだ。
後継者問題も深刻だ。束ねる作業には2名弟子入りしたものの、指揮をとる人はいない。
「マテバシイがなくなるのが先か、私が作業できなくなるのが先か。いずれにせよ手を打たなければ」と出水園さんは語る。
(注2)固定堰
堰とは河川の流水を制御するために河川を横断して設けられるダム以外の施設のこと。ゲートによって水位が調節できるものは可動堰、水位が調節できないものは固定堰と呼ぶ。
こうした事態に対して、地域の人たちがただ手をこまぬいていたわけではない。2017年8月、「川原園井堰を考える会」(以下、考える会)が発足した。これは串良町文化協会、各地区の代表者、串良町土地改良区、地元町内会、農業用水受益者それぞれの代表者12名で構成され、事務局は鹿屋市串良総合支所産業建設課が務める。
産業建設課の課長である大村勝美さんは「柴井堰をどうすればよいのか、第三の道はないのかを検討するために、さまざまな立場の方々に集まっていただきました」と語る。出水園さんと末吉さんもメンバーになっている。
考える会の会長、泊 義秋さんは、自身が経営する会社で串良川の河川管理に関する事業を国土交通省から受託、12年間ずっと串良川を見て回っている人物だ。
「端的に言えば柴井堰は時代にはそぐわないものです。しかし撤去するのは簡単ですが、一度失えば元に戻せない。『日本唯一の柴架けの堰』を守るか、それとも近代化するのか。考えどころでしょう」
最終的には串良町土地改良区の判断となるが、意見を出し合って、よりよい方向性を模索する場が考える会だ。マテバシイを鹿屋市域の外で探す、市有林や休耕地に植林して15~20年ごとに伐り出すといったアイディアが浮かんでいる。
「柴井堰を半分、もしくは3分の1残してはどうかという案も出ています」と大村さんは言う。
泊さんは「個人的な意見ですが」と前置きしてこう語った。
「後継者問題は事業承継と似ていますね。思いきって若手に任せると、出水園さんの跡を継ぐ人が現れるかもしれません」
いずれにせよ、もっとも大事なのは今後の方針だ。仮に固定堰に切り替えるとしても、事業計画を固めて鹿屋市が県、国へ申請して予算が確定してから測量を始めて……と考えると、最低でもあと4~5年は柴井堰でやるしかない。
取材後、マテバシイを伐り出した現場を出水園さんに案内していただいた。何カ所も回るなか、出水園さんは伐採したときの苦労話をにこやかに語る。先ほどの「もう柴井堰はやめたい。コンクリ堰にしてくれ」という言葉とは裏腹に、その横顔からは柴井堰を守りつづけてきた誇りと柴架けへの愛着を感じた。
難しい選択を迫られる柴井堰。近ごろはその水を利用している農家でさえ、柴井堰の存在を知らない人が増えていると聞く。今はただ、地域の人たちが納得するような判断を待ちたい。
(2018年8月20~21日取材)