機関誌『水の文化』62号
再考 防災文化

ひとしずく
ひとしずく(巻頭エッセイ)

都市と水流と人の暮らし

東京・高田馬場付近を流れる神田川。コンクリートで川を切り離すことによって、都市生活者はある一定の安全を得たが、同時に失ったものもある 撮影:小林紀晴

東京・高田馬場付近を流れる神田川。コンクリートで川を切り離すことによって、
都市生活者はある一定の安全を得たが、同時に失ったものもある 撮影:小林紀晴

ひとしずく

写真家 作家
小林 紀晴(こばやし きせい)

1968年長野県生まれ。東京工芸大学芸術学部写真学科教授。東京工芸大学短期大学部写真科卒業。新聞社カメラマンを経て、1991年よりフリーランスフォトグラファーとして独立。1995年に『ASIAN JAPANESE』でデビュー。1997年『DAYS ASIA』で日本写真協会新人賞受賞。2013年 写真展『遠くから来た舟』で第22回林忠彦賞受賞。写真集に『homeland』『days new york』など、著書に『ASIA ROAD』『写真学生』『ニッポンの奇祭』『写真で愉しむ 東京「水流」地形散歩』などがある。

東京に暮らしてすでに30年以上経つが、漠然と東京は平らな場所だと思い込んでいた。もちろん意外と坂が多いことには気がついていたのだが、深く考えたことはなかった。6年ほど前に坂の多くが水流、つまりは河川によって気の遠くなるような長い時間をかけて土砂が削られた痕であることを知り、急に街が違って見え始めた。

それから東京の街を取り憑かれたように大型カメラにモノクロームのフィルムを詰めて、太古からのかすかな吐息を確かめるような気持ちで撮影するようになった。同時に東京の地形、地理などに関するさまざまな資料も読むようになった。

その過程で約2万年前の氷河期に世界的な海面低下が起こったことを知った。一説には100メートルから140メートルも海面が低かったともいわれている。現在の東京湾も地表で、古東京川という河川が流れていたようだ。その痕が現在も残っているらしい。海面が低かったということは台地との標高差がいまよりあったことになる。つまり水の流れが速かったことを意味し、地表は大きく削られたはずだ。そんなことを考え出すと、慣れ親しんだ街が遠い過去の続きとしてある実感を得た。

私は撮影の際、自分に一つの想像を課した。「もしも縄文人が現代の東京に立ったなら、風景はどんなふうに映るのか?同じ場所だと認識できるのか?」というものだ。

縄文時代から東京の河川の位置は大きく変わっておらず、例えば下高井戸塚山遺跡の脇を神田川はずっと流れ続けている。ほかの河川でも同じことがいえるし、やはり水辺に存在する遺跡が幾つも確認できる。

かつて人々が水や食料を求めて水辺に住んだ。河川がコンクリートなどに三方を囲まれているはずもない。ただ原則は変わらない。水は高い方から低い方へ流れるという一点において。

本来、河川と人の生活は切り離すことができない。それが現在の東京では完全に切り離されている。接点すらない。そのことを縄文人はどんなふうに思うだろうか。考えてもわかるはずない。それでも私は思いを馳せずにはいられない。都市が持っている哀しみの一つがあらわになっていると強く感じるからだ。

もちろん得られたものもある。水害を防ぐことが最大だろう。その恩恵は計り知れない。それでもやはり寂しさを覚えるのは確かだ。せめて、武蔵野を流れる野川のように河岸まで降りることができたなら。都心ではやはり難しいのだろうか。

先日、韓国のソウルを訪れた際、街の中心を流れる川がやはり三方をコンクリートで囲まれていたのだが、階段で川岸まで降りることができた。遊歩道があり、人々が散策していた。飛び石伝いに対岸に渡ることもできた。ふと学ぶべきものがあるような気がした。


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