人口減少期の地域政策を研究する中庭光彦さんが「地域の魅力」を支える資源やしくみを解き明かす連載です。
江戸時代前期開削の堀川運河(延長1450m)と明治36年竣工の堀川橋
多摩大学経営情報学部
事業構想学科教授
中庭 光彦(なかにわ みつひこ)
1962年東京都生まれ。中央大学大学院総合政策研究科博士課程退学。専門は地域政策・観光まちづくり。
郊外・地方の開発政策史研究を続ける一方、1998年からミツカン水の文化センターの活動に携わり、2014年からアドバイザー。『コミュニティ3.0─地域バージョンアップの論理』(水曜社 2017)など著書多数。
宮崎県日南市の飫肥(おび)は古い武家町の残る観光地として有名だが、今回は同じ日南市でも油津(あぶらつ)を中心に紹介したい。
油津と飫肥の間は7kmしか離れていない。にもかかわらず、互いに気風は正反対と思い込んでいるおもしろいエリアである。というのも、飫肥は飫肥杉の産地だし、油津は切り出された杉が酒谷川(さかたにがわ)・広渡川(ひろとがわ)を下り積み出され瀬戸内などにつながる港まち。山の都(政治の中心)と海の都(経済の中心)では気風が違うというわけだ。
『油津の町並みと堀川運河』というリーフレットには1919年(大正8)に書かれた「油津人。飫肥人。」という文章が掲載されている。「山幸は飫肥人の得意で、海幸は油津人の得意。…飫が自分に似せて穴を掘る蟹ならば、油は流れ次第に遊んでいる烏賊だらう。…彼は武士気質と杣気質のちゃんぽんで、是は商人風と漁夫風が五分五分である…」といった具合で、風土に基づく心根の対比を2008年(平成20)につくられた行政リーフレットに載せているところが興味深い。
水や土地の環境は、こうした「在地人」が守るため、地理的には近くても気風が変わるのはよくわかる。ただし全国を見るとインターネットや観光をてこに、移動者による異文化を在地文化に掛け合わせて、魅力をつくろうという風が吹いているのも事実。油津は異文化とどう対するのだろうか。
今回油津のまちなか、そして飫肥の山林をご案内いただいたのが日南市教育委員会の岡本武憲さんだ。日南の生き字引のような方で油津、飫肥杉の歴史をうかがうことができた。
油津には記憶に残る運河がある。堀川運河だ。1686年(貞享3)に飫肥藩(藩主は伊東氏)によりつくられた。酒谷川と広渡川の上流から筏流しで運ばれてきた飫肥杉や松、楠などの山林資源を、河口の岬を回り込み油津港に運び入れるのではなく、岬の手前の右岸から油津のまちなかを開削して、港に直結できるようにした運河だ。
そこまでして大事に運んだ飫肥杉は、藩の有力な輸出品だった。この地域は高温多湿のため杉の育ちが早く、油分も多く軟らかい。ぶつかっても割れないので船材に適し「日向弁甲(ひゅうがべんこう)」と呼ばれた。弁甲材とは寝かした丸太材の上下を削って横に積めるようにしたもので、これを瀬戸内の船大工向けに運んでいた。
堀川運河はこの飫肥杉を油津港に運ぶためにつくられたわけだが、運河周辺には藩の船庫が建ち、土場(どば)と呼ばれた貯木場が広がっていた。また、漁師にとっては堀川が避難港の役割を果たしていた。
このため、貯木場と廻船問屋などからなる活気ある港が広がっていたのだろう。油津繁栄の象徴が堀川運河と言って間違いない。
まちなかには今でも赤レンガ倉庫や杉村本店といった大正から昭和にかけての建物が保全され、往時の文化を読むことができる。
油津と飫肥。二つの気質の対比は、飫肥杉の保全・生産・取引という共通の文化プラットフォームの上に形成されたものだろう。
余談ながら、油津は昭和初期に海から思わぬボーナスを受け取る。1929年(昭和4)ごろから1941年(昭和16)の12年間にクロマグロの漁獲量が激増したのだ。このころの油津は「東洋一のマグロ漁港」と言われ、油津の価格が全国のマグロ相場を決めたという。
港まちとして歴史ある油津だが、現在はまちづくり関係者の間で有名だ。「外からやってきたプロデューサーが、猫も歩かないと言われた商店街を再生した」とインターネット上でも伝えられている。
現在は二期目の若い日南市長が当選したときに民間人を登用。現地居住の条件と20店舗誘致をミッションに福岡からテナントミックスサポートマネージャーを募集し任せた。それが成功し油津は賑わっている、という物語である。
ヨソ者がイノベーションを起こすという私も好きなストーリーだが、ほんとうだろうか?なぜなら日南市の人口は約5万1000人、そのうち油津地区、飫肥地区の人口はともに5000人強だ。5000人とは小型スーパーがやっていける程度の商圏人口であり、商店街がよみがえる規模ではない。
そこで、実際の推移を日南市産業経済部商工・マーケティング課の阪元稔史(としふみ)さんにうかがった。
油津商店街は1965年(昭和40)ごろには宮崎県南最大の商店街だったが、その後はシャッター街になった。そこでテナントミックスサポートマネージャーの下、コミュニティづくりを始め、1年目に株式会社油津応援団を設立した。そして地元の人々の記憶に残る喫茶店「麦藁帽子」の空き店舗を「ABURATSU COFFEE」にリノベーション。次に「二代目 湯浅豆腐店」がオープンする。3年目には空き店舗を減築してイベントスペース、会議室、飲食施設が複合した多世代交流モール「油津Yotten」がつくられた。ヨソ者、リノベーション、居場所づくりという元気づくりの三要素が踏襲されている。
注目すべきは、飫肥杉工芸品を世界に販売するためのクラウドファンディング活用や、潜在的労働力を掘り起こす20万円ワーカー育成プロジェクトなど、まちの課題解決に向けた取り組みを民間企業と協働して進めてきた点だ。「日本一組みやすい自治体」というマーケティングが、結果として空き店舗へのIT企業の誘致につながり、若者の雇用を生み出した。
これら企業が、地元というよりは地域の外、もっと言えば世界を相手にした企業なのは興味深い。
油津商店街の別の場所で豆腐販売店を営んでいたが、2014年の年末に移転し、リニューアルオープンした「二代目 湯浅豆腐店」は勇気があったと思う。移転後は豆腐の販売に加えて、豆腐プリン、麻婆豆腐丼などオリジナルメニューの食事も提供している。湯浅俊一さんにお話をうかがった。
おいしい水と国産大豆にこだわり、よい水が出る大堂津(おおどうつ)に工場を構えている湯浅さんは、商品開発に試行錯誤を重ねた。その過程で、最初は利益第一に考えていたが、お客さんが喜んでくれて初めて利益がついてくると気がついたという。その結果か、お客さんは地元よりもちょっと離れた都城市や宮崎市から来ると言う。この豆腐の商圏の広がりはブランド化されてきた証だろう。
IT企業の若い従業員も増えた現在、湯浅さんは若い人が気軽に集まる店にしたいと言う。
この30年、国の中心市街地活性化政策が進められ、商店街を守るために個店ががんばりましょうと言われてきたのだが、どんどん「商店街」はつぶれている。それは当然で、人々は車で広範囲に移動して購買する消費スタイルに変化してきたからだ。
湯浅さんが語る「自分で集客する強い意志をもたないとどこへ行ってもだめだと思います」という商品開発の試行錯誤は、個店の当たり前のあるべき姿を示している。さらに、湯浅さんがこの商店街を「自分ががんばる若者のための価値があるまち」と考えていること自体が、油津商店街の性格の変化を示している。
結局、日南市と油津商店街の試みは、来街者が増える昔の商店街復活ではなく、規模を小さくして機能も新たにした共同体をつくったことだと言える。地元の人から「公民館のようだ」と呼ばれるのは、商店街が違う形でよみがえったということだろう。
商店街を歩いていた3月26日。平日にもかかわらず、ちらほらと外国人観光客が目についた。その理由は港にあった。
この日、外国クルーズ船「アルバトロス号」が寄港していたのだ。この船は、台湾の基隆、那覇、上海、済州島、釜山、ウラジオストク、横浜、名古屋、大阪、油津、石垣、香港とクルーズする合計684人の船客が乗る中規模の豪華客船だ。
日南市・宮崎県ではこのようなクルーズ船寄港を目的に、積極的にシティセールスを行なってきた。 実際に油津港の先端の埠頭を目指すと、地元製紙企業のパルプチップの山が目に入り、その先に停泊するアルバトロス号が見えてくる。
いやぁ、大きい。
11時に入港した船客はすでにシャトルバスで油津、飫肥、鵜戸(うど)神宮などに出発した後だった。
クルーズ船寄港の経済効果は飲食消費中心で受け入れ都市ごとに異なるが、飫肥・油津という山と海の都市が訪問客に与える文化的効果は大きいものだろう。
水の文化に目を配ると在地の自然・文化遺産に目が留まる。多くは江戸時代以降の人口増加期に形成された地域プラットフォームで、油津・飫肥は、いわば「飫肥杉プラットフォーム」だ。運河、閘門、まちの背後を水害から守る石堰堤、豪商や病院といった往時の文化景観の保全は非常に重要だ。
とはいえ現在、まちとかかわる人々が変わりつつある。商店街を変えたのも国内外あるいは世代をまたいだ異文化人で、資金集めには世界をつなぐクラウドファンディングも一役買っている。クルーズ船もやってくる。油津商店街は地元と異文化人が助け合いつつ価値を生むプラットフォームをつくろうとしたと言えるし、行政もそれを狙ったように見える。
ならば、この異文化プラットフォームを在地の山文化の人々はどう受け止めるか?なにせ飫肥杉プラットフォームの人々は100年単位で山を守る思考法のもとに行動するうえ、現に今も丸太生産で宮崎県は日本一なのである。在地文化と異文化の間で文化的な摩擦が起きてもおかしくない。摩擦が革新を生むか、社会の分断を生むか、それとも両方か。
在地文化と異文化の歩み寄りは日南市のみならず、水文化、ひいては地球全体の課題だと私には思える。
文化のまなざしを導入すると新たな価値が生まれるが、伝統ある在地文化との折り合いのつけ方は場所により異なる。
(2019年3月25~27日取材)
参考文献
みなと油津賑わい創出協議会『油津の町並みと堀川運河』(2008)
NIC21編『油津』(1993)
塩谷勉、鷲尾良司『飫肥林業発達史』(1965)
日南市教育委員会『にちなんおもしろ学入門』(2017)
桝本卯平『自然の人小村寿太郎』(1914)