今ではあまり使われなくなったが、桶と樽はかつて人の暮らしや産業と密接な関係があった。特に江戸時代から昭和初期までは日本を支える存在だった。その桶と樽を、民具という観点ではなく、社会経済史から読み解こうと、1988年2月から有志による「桶樽研究会」を主宰し、2000年に『桶と樽—脇役の日本史』を上梓した生活史研究家の小泉和子さんに、桶と樽についてお聞きした。
インタビュー
家具道具室内史学会 会長 生活史研究家
昭和のくらし博物館 館長
重要文化財 熊谷家住宅館長
小泉和子(こいずみ かずこ)さん
1933年東京生まれ。女子美大で洋画を学び、卒業後は家具製作会社に入社。1970年に東京大学工学部建築学科の研究生となり、日本家具・室内意匠史を研究。工学博士。1971年生活史研究所を設立。1999年より東京都大田区の生家を「昭和のくらし博物館」として公開。『桶と樽——脇役の日本史』『船箪笥の研究』『昭和なくらし方』『和家具』『道具が語る生活史』など著書多数。
いま一般的に桶、樽と呼んでいるものは、正式には結桶(ゆいおけ)、結樽(ゆいたる)です。木工技術から見ると結物(ゆいもの)ですね。桶は、杉や檜(ひのき)などの板を縦に並べて底をつけ、たがでしめた円筒形の容器。樽は、同じくたがで締めた円筒状の桶の形をしていますが、固定した蓋(ふた)があってお酒やしょうゆなどの液体を持ち運ぶ容器です。
しかし、桶と樽はもともと別のものでした。
まず桶ですが、その語源は「おのけ」。苧(を)(麻)から糸をつくるには、麻をしごいて出てくるふわふわした細い繊維を器に入れて、そこから繊維を拾い上げながら撚って糸にしていきます。器は笥(け)ですので「苧(を)を入れる笥(け)」、つまり「をのけ」=「おけ」です。ただし、その頃は杉などの薄い板を円形・楕円形に曲げて、桜や樺などの皮でとじ合わせて底を取りつけた「曲げ物」を用いていました。曲げ物は弥生時代からあるので、「おけ」という言葉だけが後世に受け継がれたのです。
桶というと、天の岩戸の前で天鈿女命(あまのうずめのみこと)が上に乗って踏みとどろかした話があって、これが桶だとされていますが、当時の「をけ」は曲げ物ですから乗ったらつぶれてしまいます。これは「うげ」といって刳りもの、それも大きなものだったからです。『日本書紀』には「覆槽置(うげふ)せ」、『延喜式』には「宇気槽(うけふね)」とあります。これなら上に乗って踏みとどろかせれば反響して大きな音が出ます。
一方の樽は「ものが垂れる」=「垂(た)り」からきています。「注器(ちゅうき)」が語源です。注器には木製、土製、金属製があります。そして樽という字は木偏(きへん)に尊(たっと)いの組み合わせです。「神に捧げる尊い酒壺」という意味で、樽は「神に捧げる入れもの」だったわけです。
短冊状の板を結ってつくる桶や樽が出現したのはいつでしょうか。
まず導入期となる1期は、11世紀後半から13世紀。今の福岡県の博多や箱崎、太宰府などの北部九州から小さな結桶や結樽が発掘されています。中国人が当時たくさん住んでいた地域から発見されているので、日宋貿易との関連から大陸でつくられたものが輸入されたと考えられます。
そして普及期となる2期は14世紀。北部九州から佐賀や瀬戸内海方面に広まります。小型の容器のほか、井戸側(いどがわ)が発見されています。井戸側は結わえるものではないものの、短冊状の板を並べるので構造的に似ています。
そして確立期の3期が15世紀から16世紀。関東や甲信越にも普及します。容器や井戸側に加えて、早桶(注)や便槽などにも用いられるようになります。
さらに全国的に展開する4期が17世紀から20世紀前半です。それまでは円筒形が中心でしたが、非円形など異なる形の桶も出てきます。醸造用の100石ほどの大きな桶なども出現します。生活用だけでなく農業や漁業、鉱工業などにも広く使われます。特に江戸時代は桶と樽で世の中が動いていたと言っても過言ではありません。
その桶と樽が衰退する終末期が5期です。戦後、20世紀後半からは瓶をはじめとする工業製品に置き換わりました。
(注)早桶
粗末な棺桶のこと。死者が出たとき、間に合わせにつくることからそう呼ぶ。
こうして桶と樽の普及を時代ごとに見ていくとおかしなことに気づきませんか?曲げ物から結桶に代わる時期は15世紀以降です。しかし、すでに11世紀後半に日本人は結桶を目にしているので、全国に普及するまで数百年かかっています。なぜでしょうか。
当時は洗濯したりものを入れたりする器はだいたい曲げ物を、液体には甕(かめ)を用いていました。備前などでは大きな甕をつくり、酒造も貯蔵もそれを使っていたから窯業が発達したのです。曲げ物では大量にものを入れることはできません。液体は甕ですが、甕は重いし割れます。それでも結桶に代わらなかった理由は、技術的な問題と社会経済的な問題の二つがあったのです。
ものが発展していく過程には、必ずと言ってよいほど技術的な問題が隠されています。しかし、木工技術としては曲げ物も結物も基本的には同じです。木材を縦に切って板材をつくる場合、木口に鉈(なた)で衝撃を与えて木の導管に沿って割り裂いていく「打割(うちわり)法」が用いられます。細かな点では多少異なるものの、技術としてはほぼ共通ですから、結桶が広まらなかったのは技術的な問題ではありません。
15世紀以降に普及するのは、流通が盛んになるという社会経済的な変化でした。室町時代終わりから戦国期、江戸時代にかけて全国的に商品流通が盛んになります。戦国大名は自身の領地を守るため、その土地を経済的に発展させて武器を用意するため、木工品や織物など名産品の開発や製造を推奨します。塩漬けの魚など筵(むしろ)で包めばよいというわけにはいかないものも増えます。そこで、それらを大量に納めることができる結桶が必要になったのです。
そしてもう一つのカギが酒造業の発展です。江戸という一大消費都市が出現して、先進地の関西地方から多様な物資が膨大な量、海上輸送で江戸に運ばれるようになりました。最大は酒です。酒の輸送にも甕が用いられていましたが、甕では対応できなくなって樽に代わったのです。桶の蓋が固定されているのが樽です。今でもこもかぶりと呼ばれる酒樽が残っていますが、樽をこもで巻けば転がせますし、パッキングにもなります。
そのうえ、酒を関西から江戸まで運ぶ間に杉材の香りが酒に移る木香(きが)によって味がまろやかになると好まれました。こうした商品流通の発達が結桶と結樽の発展を促したのです。
ちなみに、結桶と結樽の普及によって16世紀後半から17世紀にかけて大甕は衰退しますが、一部の窯業産地は茶陶(ちゃとう)へと狙いを変えます。また曲げ物は弁当箱などの実用的な方向に進み、用途の範囲はグッと狭まりました。
いったん広まると、桶と樽は暮らしのなかはもちろんのこと、醸造業、農業、漁業、鉱工業などあらゆる産業で使われました。早桶といって棺も桶でした。
このため、円筒形だけでなくさまざまな形が現れます。例えば、佐賀平野にはクリークと呼ばれる水路の底に溜まった泥土を田んぼに引き上げて肥料に用いる「ごみくい」という伝統農法がありますが、そのために歪んだ桶「ごみくいおけ」がつくられました。
また、鉱山でも水を汲みだすために桶は必須の道具でした。特に佐渡金銀山では地下水を汲み上げるために、桶の技術を応用した水上輪(すいじょうりん)が用いられました。これはのちに川の水を水田に上げるためにも使われています。(機関誌『水の文化』61号 水が語る佐渡 『「排水」と「水利」から見る佐渡金銀山』参照)
また、桶と樽の優れた点は、それ自体が一つの大きな産業だったことです。材料となる杉を山から出すときは「樽丸(たるまる)」といってある程度の長さで伐り出せたので運びやすかった。それに桶と樽は修理ができますから、どこの村にも桶職人が何人もいました。農家や漁家は桶をたくさん使いますのでいくつも壊れますが、桶職人が傷んだところを直してくれるので長く使えます。また、桶にも樽にも漆を塗った上等なものがありましたから、桶職人のなかでも役割分担があったようです。
樽の場合は空き樽を専門に扱う「空き樽問屋」もありました。空き樽問屋は大規模なもので、江戸時代には使わなくなった樽を拾っては問屋に持ち込む「樽拾い」という商売があったくらいです。酒の樽がしょうゆの樽として再利用されるなど、無駄のない循環システムがありました。
そして日本ほど桶と樽が発達した国はほかにありません。ヨーロッパはウイスキーをオーク樽でつくっていましたが、木の産地は主にアルプスの北方で、日本ほどには恵まれていませんでした。日本は雨が多いし気候も温暖なので、特に杉や檜といった桶に適した木がよく育つ。そういう自然条件に加えて、ある一つのものに対して改良を重ねていく日本人独特のものづくりの気質が、桶と樽に適していたのだと思います。
ところが明治時代にガラス瓶などが入ってくると、桶と樽は徐々に置き換わっていきます。かつてのように、近所に味噌屋やしょうゆ屋があって、みんながそこに買いに行った時代なら桶や樽でよかったのですが、日本が工場制機械工業にシフトし、酒やしょうゆが瓶詰めで出荷されるようになると、桶や樽は衰退します。
また、家庭に目を転じると、金属製の洗い桶「金盥(かなだらい)」が出てきます。桶に比べると丈夫だしぬるぬるもしない。ブリキのバケツもそうです。こうした金属の方が軽いし扱いが便利なのでどんどん切り替わっていきます。
それでも昭和30年代までは桶も残っていましたが、プラスチックをはじめとする合成樹脂が登場すると完全に切り替わりました。プラスチックはいくつかの問題はありますが、使う側からいえば軽いし、金属ほどではないけれど丈夫なうえ比較的安価ですからね。
そして今、液体を入れる容器としてはなんといってもペットボトルでしょう。軽いうえに持って歩く際にも危なくないですから。
こうした新しい素材の工業製品が生まれて、桶と樽の時代は終焉を迎えます。しかし、もし桶と樽を今も使いつづけていたら、地球温暖化など気にしないで済んだかもしれません。日本でよく育つ杉や檜など針葉樹だからこそ原始的な方法で割ることができた。しかもリサイクル可能で、当時は需要もエンドレスでしたから仕事が途切れることもありませんでした。私が桶と樽を調べはじめたころ、佐渡に行くと生活のほぼすべてが桶でした。今もたらい舟が残っていますが、あれも桶の応用ですね。
とはいえ、今から桶と樽に戻るわけにはいかないでしょう。その時代の必要性およびその時代にある技術が新しいものを生み出すのです。合成樹脂は原料が石油という点は気がかりですが、人間が発明した大変賢い技術です。
しかし今、あえて望むならば、かつて集落単位で桶職人が活躍していたように、今後は地域に根づいて、小さな規模でもできる手仕事が残るようにしておくべきではないかということです。
ニートや中高年の引きこもりが問題になっていますが、彼ら彼女らは会社などの組織に入りその一員として振る舞うことが苦手なタイプなのではないでしょうか。実はそういう人は昔からいたけれど、手に職をつけて独立したり、小さな店を出したりしてどうにか生きてきた。それが今は全員が一つの方向にとらわれているから生きづらくなっているのかもしれません。桶と樽の歴史と現在の社会情勢をすり合わせると、そんなことも考えてしまいます。
(2019年9月11日取材)