機関誌『水の文化』66号
地域で受け継ぐ水遺産

地域で受け継ぐ水遺産
小規模水路:山村

わが集落にも水田を
──先人の思いを受け継ぐ山腹水路

1998年(平成10)に長野で開かれた第18回オリンピック冬季競技大会(1998/長野)で、男子のスキー・ジャンプが金メダルを獲得した白馬ジャンプ競技場。そのほぼ向かい側の山の中腹に、古くから続く山村「青鬼(あおに)集落」がある。水を得にくい地形で稲作には厳しい土地柄だが、先人がつくった水路を修復しながら使いつづけ、棚田で米を育てている。地元の人たちは、この山腹水路「青鬼堰」を外部の力も借りながら受け継ごうとしている。

上空から見た青鬼集落と収穫を待つ棚田

上空から見た青鬼集落と収穫を待つ棚田

文化的価値を認められた景観

長野県北安曇郡白馬村にある青鬼集落は、同村に水源をもつ清流・姫川の右岸山腹にある。東西250m、南北100mほどの大きさで、なだらかに南に傾斜しており、日当たりはよい。

歴史は長い。集落にある青鬼神社の創建は806年(大同元)と伝えられ、奈良時代にはすでに人が住んでいたとされる。

現在は15軒の茅葺屋根(鉄板被覆)の家屋が南向きの二重の弧を描くようにして立っている。この農村風景が特徴的であることから、2000年(平成12)に文化庁より重要伝統的建造物群保存地区に選ばれ、今年で選定から20年を迎える。

集落東の傾斜地には約80枚の棚田が広がる。段をなして広がる棚田の向こうに北アルプスを眺める景観も絶景で、こちらも1999年(平成11)に農林水産省による「日本の棚田百選」に選定されている。「伝建」と「棚田百選」の両方に選出されている地域は全国でもこの青鬼集落だけだ。

そんな希少な景観をつくりだすうえで、鍵となっているのが、棚田に水を引くために江戸時代につくられた「青鬼堰」である。住民からは〈せぎ〉と呼ばれている。

  • 江戸末期に完成した山腹水路「青鬼堰」。大変な難工事だったといわれている

    江戸末期に完成した山腹水路「青鬼堰」。大変な難工事だったといわれている

  • 14戸の茅葺屋根(鉄板被覆)の家屋が並ぶ青鬼集落

    14戸の茅葺屋根(鉄板被覆)の家屋が並ぶ青鬼集落

  • 善鬼(ぜんき)大明神(御善鬼様)をご神体とする「青鬼神社」。創建は806年(大同元)と伝わる

    善鬼(ぜんき)大明神(御善鬼様)をご神体とする「青鬼神社」。創建は806年(大同元)と伝わる

猿も寄りつかない斜面に水路を築けるか

青鬼集落の南には青鬼沢と呼ばれる沢が流れているが、山腹にある集落(標高760m)より70~80mほど低い標高を流れるため、住民にとって利用しにくいものだった。集落内には湧水が多く、飲み水など生活用水には困ることはなかったものの、稲作を行なうとなると不十分だった。

そこで、江戸時代末期に青鬼沢の上流から取水し集落までつなぐ水路を開削し新田開発を行おうという構想が持ち上がった。中心となったのは松沢太兵衛と降籏宗右衛門という2人の住民だ。

「水路をつくるには許可や資金が必要。それで、集落の人間が松本に赴き藩主に陳情したんです」

話をしてくださったのは、青鬼集落保全会会長を務める降籏隆司(ふるはたたかじ)さん。宗右衛門の子孫でもある降籏さんは、集落に残された記録を読み解きながら、開削の様子について研究を続けてきた人物でもある。

「でも、陳情を受けた藩は、急峻で硬い岩も多い斜面に〈せぎ〉を引こうという計画を聞き、無理だと言った。『猿も寄りつかないくらいの急な場所じゃないか』と断られたそうですよ」

だが、集落の人々はあきらめなかった。藩に頼らず、自力で水路をつくることも視野に入れ、計画を続行した。

「小規模なものでもいいからと、幅は一尺(約30cm)、深さは八寸(約25cm)とした。特に費用がかかるのは職人を呼ばないといけない岩を削り水路をつくる工程だったので、それが必要な箇所がどれだけあるかを調べた。結果、167間(約300m)ということがわかった」

この作業に必要な費用は、52両1分5朱という返事が職人側から届く。これに対し、集落の全24戸のうち8戸がそれぞれ10両を出資する意思を示し、計80両の予算を確保する。用水路づくりに、実現の兆しが見えはじめた。

自力での実現に向けた動きを見せてきた青鬼側に対し、松本藩は態度を軟化させたという。

「出資する世帯としない世帯で軋轢(あつれき)が生じることを危惧したようです。それで『藩が80両出すからそれで〈せぎ〉をつくれ。そのかわり住民同士はいがみ合わないように』という通達があったのです」

藩の支援をとりつけた集落は、1860年(万延元)に青鬼堰を着工する。全長3kmの山腹水路が完成したのは、それから約3年後だった。明治時代の到来を目前に控えできあがったインフラにより青鬼の新田開発は進んだ。そして棚田の広がる現在のような景観が生み出されたのだ。

  • 松沢太兵衛と降籏宗右衛門の陳情から始まった青鬼堰の開削に関する史料『青鬼新書覚帳(あおにしんせぎしょことおぼえちょう)』(写し)

    松沢太兵衛と降籏宗右衛門の陳情から始まった青鬼堰の開削に関する史料『青鬼新書覚帳(あおにしんせぎしょことおぼえちょう)』(写し)

  • 青鬼集落Map 上堰のさらに奥にある短い水路は夏場の水不足を補うもので「奥せぎ」と呼ばれる

    青鬼集落Map
    上堰のさらに奥にある短い水路は夏場の水不足を補うもので「奥せぎ」と呼ばれる
    青鬼集落案内看板および国土地理院基盤地図情報「長野」をもとに編集部作図

  • 青鬼集落保全会会長を務める降籏隆司さん。古文書を読み解いて開削の経緯をつまびらかにした

    青鬼集落保全会会長を務める降籏隆司さん。古文書を読み解いて開削の経緯をつまびらかにした

工夫と注意が求められる伝統的な水路の運用

現在の青鬼堰をぜひ見たいと思い、区長の山本利光さんに同行いただき、見学させてもらった。集落の東に広がる農地の北東端から山林に入り、水路沿いの歩道を進む。青鬼堰には北を流れる上堰(上せぎ)と南を流れる下堰(下せぎ)があるが、今回歩いたのは江戸末期につくられた上堰である。

「今は途中で大きな崩れが発生し、〈せぎ〉が埋まってしまっているので、水は流れていません。でも、毎年の清掃管理は続けていて、修繕が完了したらまた水を流す予定です」

山本さんによれば、青鬼沢上流と集落を結ぶ舗装路がつくられたときにパイプが敷設され、逆サイフォンを使って水を汲み上げるしくみができているという。現在、青鬼堰に障害が出ていても農業用水を確保できているのは、このしくみがあるからだ。

水路と歩道は、等高線に沿うかたちで斜面を横切るようにつくられているが、歩くうちに斜面は角度を増していき、高度感を感じるようになる。歩道には斜面が崩れて溜まった土砂や枯れ枝や落ち葉が堆積しており、踏み込むと崩れ落ちそうで怖い。降籏さんの言っていた「猿も寄りつかない」の言葉を理解した。土砂は水路にも入っていて、場所によっては凹みが失われ斜面と一体化している部分もある。たゆまぬ維持管理の必要性がひと目で理解できた。

「水を吸いやすい土の水路なので、棚田までできるだけ多くの水を残すには、ほんとうは目一杯流したい。でも、そうすると土や枝などのゴミが溜まり浅くなっている箇所であふれやすくなる。水があふれると水路(の側壁や斜面)を傷め、修理に手間がかかってしまいます。そのあたりを考えた使い方と管理が必要なのが、この〈せぎ〉の難しいところです」と山本さんは話す。

さらに歩き、露出した岩肌を水が流れ落ちている場所に来ると、再び山本さんが口を開く。

「この流れ落ちている水、実は岩を削って水の向きを調整し、水路に落ちるようにしてあります。少しでも水を集めるための工夫なんでしょうね」

  • ほぼ垂直に近い崖を流れ落ちる水。この水が水路へ落ちるように岩肌を削ってあるという

    ほぼ垂直に近い崖を流れ落ちる水。この水が水路へ落ちるように岩肌を削ってあるという

  • 岩がせり出している箇所は無数にあるため、新潟にいる岩切(いわきり)職人を呼びよせて掘削した

    岩がせり出している箇所は無数にあるため、新潟にいる岩切(いわきり)職人を呼びよせて掘削した

  • 青鬼堰を案内してくれた区長の山本利光さん。子どもが水路の清掃や修繕を手伝うのはあたりまえだったと話す

    青鬼堰を案内してくれた区長の山本利光さん。子どもが水路の清掃や修繕を手伝うのはあたりまえだったと話す

後世に引き継ぐために必要となる次なる答え

引き返し歩道の入り口に戻ると、待っていた降籏さんが笑いながら言った。

「水路を通したのが、どんな急な場所かわかったでしょう。こういう水路に興味があるなら、工事(清掃)に来てみてはどうかな?」

青鬼堰の清掃は、毎年4月29日とそれに加え2日間の計3日間を割いている。集落総出で行なっており、事情により集落を離れている人々も、この日には帰郷し参加することになっているという。

祝日にあたる4月29日については「伝建」を管轄する白馬村教育委員会、「棚田百選」を管轄する同農政課などを通じて募った、村内外のボランティアが参加するのが通例だ。「伝建」と「棚田百選」に選ばれたことで、青鬼は景勝地として白馬のPRに一役買うことになったが、地域への貢献を果たす青鬼に対する自治体からの支援と考えることもできそうだ。

ただ、青鬼堰の規模や青鬼集落の高齢化の進行を考えれば、年に1日、実働は半日程度だというボランティアの参加だけでは、十分な維持管理が難しい面もあるのが実際のところのようだった。

「〈せぎ〉はね、全部頭に入っていますよ。何も見なくても、地図が描けるんだから」

降籏さんは誇らしげだった。その言葉はかつての維持管理の頻度、徹底が今とは比べものにならなかったことを意味するものでもあるだろう。急峻な地形に築かれた〈せぎ〉であるがゆえに難度が高まる維持管理を、どのようなしくみで行なっていけばよいのか。また、青鬼が人を惹きつける場所となったことは喜ばしくも、深夜や早朝に訪れる来訪者が集落の穏やかな暮らしに影響を与えている面もある。山本区長は「観光地ではないですからね」と言う。

青鬼の「水遺産」が後世に引き継がれるかは、これらの問いへの答えを用意できるかにかかっていそうだ。

青鬼堰の水を引いた棚田では今も稲作が続けられている

青鬼堰の水を引いた棚田では今も稲作が続けられている

(2020年9月11日取材)

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