機関誌『水の文化』66号
地域で受け継ぐ水遺産

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技術

農業土木技術者「黒鍬」とは何者か?

「黒鍬(くろくわ)」という言葉を聞いたことがあるだろうか。大型の建設機械がない時代、どうやってつくったのかと首をかしげるような水路やトンネル、堰などが各地に存在するが、それらを手がけたのが黒鍬だったらしい……。2019年(令和元)に『黒鍬さんがゆく──生成の技術論』を上梓した水土文化(注1)の研究者である広瀬伸さんに、謎の多い黒鍬という存在、そしてこれからの農業土木に必要なことをお聞きした。

(注1)水土文化
公益社団法人 農業農村工学会では、従来の「農業土木」の概念を拡張して「水土」=「水と土と人の複合系」としている。人が水と土に働きかけて行なう農業生産に伴い形成される環境であり、それにまつわるモノやコトを「水土文化」という。

広瀬 伸

インタビュー
水土文化研究家
広瀬 伸(ひろせ しん)さん

1955年大阪市生まれ。京都大学で農業工学と人文地理学を学んだあと、1979年に農林水産省に入省。東京都内および関東地方の本省や関係機関のほか、福岡県筑後地方、岡山県笠岡市、青森県、鹿児島県徳之島などで農業土木事業に携わり、2015年に退官。著書に『水虎様への旅』『黒鍬さんがゆく』などがある。

実体がつかめない近世の土木技術者たち

──「黒鍬」に着目した理由を教えてください。

農林水産省の職員でしたので、異動と転勤は常です。とすれば、赴任先の特性、地域らしさになじまなければもったいないと思っていました。1996年(平成8)から3年ほど青森県庁に在籍したとき、河童やメドツと呼ばれる水辺の妖怪が水虎様(すいこさま)として祀られる民間信仰に出合い、本にまとめました。

黒鍬という言葉に集中的に出合ったのは名古屋に赴任した2003年(平成15)です。この年、なぜか黒鍬という語に各地で遭遇しますが、黒鍬が表すものがそれぞれ異なるので違和感を覚えました。例えば、三重県熊野市の丸山千枚田や岐阜県恵那市の坂折棚田では石積み工を指していましたし、愛知県の知多半島では、故郷を離れて稼ぎに出る者が通った大野街道を「黒鍬街道」とも呼びます。

河童探究の一環で浅草を散策したときは、河童寺=曹源寺前の町名案内板に「黒鍬組屋敷」がありました。帰省した大阪では、狭山池博物館で「尾張者」と呼ばれた黒鍬が池を修築したとの展示も見つけました。インターネット検索では時代劇漫画『子連れ狼』による幕府の暗殺集団が出てきます。「黒鍬ってなんだろう?」と不思議に思い調べはじめたのです。

「渡り歩く農業土木技術者の原像の探求となるのではないか」と考えたこと、そして従来の農業土木史が高僧や大名などビッグネームの羅列になりがちなので「歴史の陰に埋もれた無名者たちを発掘したい」との思いもありました。

起点となったのは鍬を持って働くこと

──黒鍬とはどのような人たちだったのでしょうか?

黒鍬をひと言で表すならば「普請(土木)に携わる者」です。土を掘ることから始まる土木は、資材を用いて構築する作事(建築)よりも、土を耕す農家の生業により近いものです。土を見極め、巧みに扱うことは農家の本分ですし、普請の基礎です。黒鍬のおおもとは、鍬を持って働く「百姓(注2)」、つまり百の能力をもつ者で、そこから派生して、さまざまな場面に応じて異なる名をもつ者になっていったと考えられます。(図表1)

ある時代に、例えば美濃国恵那では棚田に石を積む者、尾張国から河内の溜池の修築に出向く者、下総国印旛沼を江戸湾に向けて掘り進める工事に雇われる者、江戸城で出入りする者の監視や文箱運びをしている者がいる一方で、尾張国大野では鍛冶に打たれた農具もある。それらが同じ時期に並存しているという状態が、黒鍬と呼ばれた者・モノの全貌です。

特に知多半島の黒鍬は、「鋼入れ」と「まちなおし」、溜池の土を締め固めて水を通しにくくする技術と、狭い田んぼを広げる、今でいう圃場(ほじょう)整備に秀でていたといわれています。

──著書のなかで、黒鍬の系統を4つに整理されていますね。

近世における黒鍬の系統を私なりに分析して提示したものです。①「モノ」としての黒鍬、②「お役目」としての黒鍬、③〈石の達人〉としての黒鍬、④「タビ(農間余業(のうかんよぎょう))(注3)」としての黒鍬の「四筋の血統」にまとめました。(図表2)

──②お役目とは役人のこと?

戦国の世では、いわゆる工兵隊でした。戦国大名、そして幕府や諸藩も、農家出身ながら技をもった者たちを手元に置いておくとメリットが多い。戦のときはもちろん、平和なときには城の普請や川除け(治水工事)、水路を掘ることなどに使えますからね。戦国時代が終わり、平時になって幕府や諸藩の職制に組み入れられ、最下層の雑用をこなす役人になりました。

民間登用の例としては、徳川吉宗が紀州から地元の庄屋クラスの人材を連れてきたのが有名です。紀州で水路工事をしていた人たちを江戸でも重用したのです。享保の改革で新田開発をするときは、地元の名主(みょうしゅ)を地方巧者(じかたこうしゃ)として取り立てています。

地元のことをよく知っている人たちに地元のことをさせる。これは支配の方法でもありますが、開発した新田には年貢を数年間免除するなど優遇措置がある。お互いに利のあるやり方です。現代の契約に基づく雇用とはちょっと違います。

──④「タビ」とは季節労働者だったのでしょうか?

そうともいえますが、なかには家に帰らない、あるいは得た賃金を持ち帰るときだけ戻る人もいたはずです。杜氏(とうじ)などと違って、土木工事は通年できますからね。

本来、農家は土地から離れられないものですが、例えば次男や三男なら出ていきやすいですし、さまざまだったと思います。驚いたのは、知多半島は各集落から数十人単位、半島全体で約1300人も外に出ていっています。舟運など働き口もあって、出ていくのは当然のことなので、その選択肢の一つに土木工事があったのです。

──黒鍬は固定化した集団で動いていたのでしょうか。

そうではないと思います。私たちはつい会社のような組織体を考えてしまいますが、経験を積んで人脈もこしらえた年寄りが親方となって若い衆を連れていく。若い衆は見様見真似で作業して経験を積み、やがて自立していく。黒鍬の親方は、職人並みの腕をもつコーディネーターのような存在だったと思います。ただし、専業化しきらない形も多数ありました。

このほか、血統がわからない「普請に携わる者」が各地に存在しました。雇用という形が広まってから、幕府や藩、豪商、豪農などの有力者に雇われて、比較的大きな工事に従事した記録があります。

──仮に大きな災害が起きた場合、黒鍬は地元でどんな働きを?

災害から復興する場合は、村の人たち総出で取り組みます。狭山池へ行けば「尾張者」と呼ばれる高度な技術をもっているけれど、地元にいればたんなる農家のおじさんだったと思います。

農家は水田耕作だけでなく、いろいろなものを取り入れて生きてきました。その一つの収入源が土木技術だったとすれば、災害復旧でも「こうしたら今度は崩れないよ」とちょっと気を利かせて指図している。そんな姿が黒鍬の実態に近いのではないでしょうか。

(注2)百姓
多彩な技を持ち何者にでもなれた農家のマルチタレント性により、多くの職=姓(かばね)を兼ね備えるというもともとの語義を尊重し、あえて当時の用語を使用している。

(注3)農間余業
近世の農民が耕作の合間に行なった賃稼ぎの労働や商売のこと。なかには農業が従で余業の方が主となる者もいた。

  • 図表1:広瀬さんが考える「黒鍬」の成り立ち

    図表1:広瀬さんが考える「黒鍬」の成り立ち
    広瀬 伸さん提供資料をもとに編集部作成

  • 図表2:近世における「黒鍬」の系統(四筋の血統)

    図表2:近世における「黒鍬」の系統(四筋の血統)
    広瀬 伸さん提供資料をもとに編集部作成

  • 『東京市史稿. 市街篇附圖第一』(東京市 編)所収「享保年中江戸絵図」に「黒鍬頭」であった牛久保権右衛門の名が記載されている

    『東京市史稿. 市街篇附圖第一』(東京市 編)所収「享保年中江戸絵図」に「黒鍬頭」であった牛久保権右衛門の名が記載されている
    (国立国会図書館蔵)

  • 『農具便利論(ノウグ ベンリロン)』(大蔵永常著、横川陶山画、文政5年[1822])より「大黒鍬」(上)と「小黒鍬」(右下)

    『農具便利論(ノウグ ベンリロン)』(大蔵永常著、横川陶山画、文政5年[1822])より「大黒鍬」(上)と「小黒鍬」(右下)。いずれもほかの鍬に比べてかなりいい値が付いていた
    (国立国会図書館蔵)

  • 『続保定記』(上)謄写本(東京大学史料編纂所蔵)より印旛沼開削工事に従事する黒鍬。他の労働者と比べても格段の働きぶりだったという

    『続保定記』(上)謄写本(東京大学史料編纂所蔵)より印旛沼開削工事に従事する黒鍬。他の労働者と比べても格段の働きぶりだったという。原題は『下総国印旛沼古堀筋(横戸村地内より北栢井地内迄)堀割御普請仕様帳』(天保14年[1843]9月)

土を握って判断する現場にある暗黙知

──黒鍬以前と黒鍬以降で、農業土木技術に違いはありますか?

まず黒鍬以前と以降で切り分けるのではなく、近代以前と近代以降で考えた方がよいでしょう。愛知県半田市の記録映像でおじいさんが「若いころ、岐阜の山奥へ働きに行った」と昭和50年代に話しています。ということは戦後の高度経済成長期までは黒鍬、あるいは黒鍬という名称が残っていたのです。

技術を近代以前と近代以降で考えると、近代以前は万人が使えるノウハウとして体系化されたハンドブックや設計基準はありません。道具も原初的な段階で、基本的には体に埋め込まれた技あるいは腕として存在していました。ですから、素人が「案内者(あないしゃ)」、つまりスキルアップした巧者や組織者としての親方になれるし、逆にたんなる手先として働くこともありました。

とはいえ、技術には共通する部分もあります。私はダムの現場が多かったのですが、現地で手を動かすことに勝るものはありません。その土が今日の工程で使えるかどうかを、手で土をきゅっと握ってその塊や硬さなどで判断できるようになって、ようやくダム技術者として一人前だといわれます。本やマニュアル、映像で勉強しても、わからないことばかりなのです。

また、岩盤に穴を掘る前には土質や強度を判断するボーリング調査を行ないますが、サンプル(コア)採取は掘る人の腕にかかっています。粘土が混じっていたり、断層があるところでは、掘削のスピードを緩めたり、水の送り込みを変えなくてはいけない。機械任せではできません。完成したものは大規模で立派に見えますが、実はそうした細かい技術と見る目が必要で、大学で勉強した土質力学や岩盤力学では太刀打ちできず、現場で学び直した感じです。

つまり、現代の「○○工法」といった確立されたものであっても、その傍らには「臨機応変」や「熟練の技」や「勘」といった暗黙知が存在しているのです。

  • 房総丘陵の小櫃川(おびつがわ)周辺に残るトンネル状の用水路「二五穴(にごあな)」

    房総丘陵の小櫃川(おびつがわ)周辺に残るトンネル状の用水路「二五穴(にごあな)」。江戸後期から明治初期にかけてつくられた。穴を掘ったのは工事を請け負った小苗村(現:大多喜町小苗)の職人たち。彼らはこの周辺で隧道をいくつも手がけていたが、どういう人たちかはよくわかっていない

  • 徳島県吉野川市美郷(みさと)大神にある高開(たかがい)集落の「高開の石積み」。石積みでつくられた段畑を見て回れるようルートが整備されている。石積みに長けた地元の人が指導役となり、技の継承を図っている

    徳島県吉野川市美郷(みさと)大神にある高開(たかがい)集落の「高開の石積み」。石積みでつくられた段畑を見て回れるようルートが整備されている。石積みに長けた地元の人が指導役となり、技の継承を図っている

未来に向かう農業土木の眼差し

──これからの地域の農業土木に必要なことを、黒鍬も踏まえて教えてください。

「私は黒鍬だ」と名乗る、あるいは署名した人はほとんどいません。ひょっとすると胸を張るような肩書きではなかったのかもしれない。しかし、恵那市の棚田で石を積んだ人は今も「黒鍬さん」と呼ばれています。立派な石積みを残して去っていく黒鍬に、尊敬の念を抱いているのですね。

全国に数多(あまた)ある農業土木施設の一つひとつには、それを築いた多くの人たち、黒鍬をはじめとする名もなき人たちがいたことも忘れてはならないと思います。

私は国家公務員でしたのでその立場からの意見になりますが、これからの地域を考える場合に必要なのは、公共事業を行なう者が「地域の人たちの思いに共感すること」だと思います。特に農地や水路などの農業土木施設は、農家の方々がさまざまな思いを込めて長い間使っているものです。とても小さな水路でも「これは飢饉にならないように、死ぬような思いで先祖がつくったんだ」と地元のお年寄りは話します。

そうした声に耳を傾け、思いを汲んで、代わりに整備する。工事が終われば「管理してくださいね」と地域にお戻しする。農業土木施設を整備する者たちとは、そういう存在であるべきでしょう。

  • 上江用水路の取材で訪ねた「川上繰穴隧道」。その説明板に「黒鍬」の文字が記載されていた

    上江用水路の取材で訪ねた「川上繰穴隧道」。その説明板に「黒鍬」の文字が記載されていた

(2020年9月10日取材)

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