機関誌『水の文化』66号
地域で受け継ぐ水遺産

地域で受け継ぐ水遺産
住民活動:城下町

住民たちがきれいにするまちなかの用水路

約400年前から武家屋敷地区、町家地区などを流れ、下流の水田を潤す「雄川堰」。ここから取り入れる水は、戦後に上水道が整備されるまで、とても重要な生活用水だった。高度経済成長期に生活排水で汚れてしまうものの、地域一体となった努力によって清流を取り戻し、2014年(平成26)には「世界かんがい施設遺産」にも登録されている。今も住民たちが当番制でごみを片づけているという城下町を訪ねた。

雄川堰を流れてきたごみを爪鍬(つめくわ)で引き上げる。住民が毎日この作業を行ない、清い流れを維持している

雄川堰を流れてきたごみを爪鍬(つめくわ)で引き上げる。住民が毎日この作業を行ない、清い流れを維持している

豊かな用水を礎に長期の藩政が続く

群馬県甘楽(かんら)郡甘楽町。利根川水系の鏑川(かぶらがわ)と、富岡市、高崎市に北端で接し、下仁田町(しもにたまち)の稲含山(いなふくみやま)を南端とする旧城下町である。

稲含山に源を発し鏑川に注ぐ雄川(おがわ)。そこから引き込んだ「雄川堰」は、いつ誰が開削した水路なのか、わかっていない。しかし、甘楽町産業課商工観光係主事の古舘智也さんは「藩政時代以前から生活用水や灌漑用水に利用されていたと考えられ、今なおその姿を留めています」と言う。貴重な歴史遺産だ。

この地域は古来、豪族の小幡氏が治めていたが、戦国時代から江戸時代初期にかけては25年間で5回、領主が入れ替わっている。

1615年(慶長20)、大坂夏の陣で豊臣氏を滅ぼし幕府権力の安定を確固とした徳川家康は、織田宗家を継いだ信長の次男、信雄に大和国(奈良県)宇陀郡三万石と上州小幡二万石を与えた。信雄は小幡の方を子の信良に分与したが、この時点で本拠地は福島にあった。

三代信昌の時代の1642年(寛永19)、手狭になった福島から小幡へ陣屋と藩邸を移転。その理由は、西側に雄川の断崖がそびえる要害の地であり、すでに存在していた雄川堰からの豊かな用水が確保できたからにほかならない。現在の甘楽町の市街地、小幡地区の町割は、このとき形づくられた。

その後8代、約150年にわたり織田氏の統治が続き、重臣の内紛に端を発し移封されて以降は、松平忠恒を初代とする松平家四代がおよそ100年、小幡藩主を務めた。

  • 雄川堰水路網図

    雄川堰パンフレットおよび国土地理院基盤地図情報「群馬」をもとに編集部作図

  • 小幡桜並木と雄川堰。桜の開花時期には大勢の人で賑わう

    小幡桜並木と雄川堰。桜の開花時期には大勢の人で賑わう(【1】)

江戸期と変わらぬ流路と形状

雄川堰は、雄川から引き込んだ用水の中軸となる「大堰(おおぜき)」と、この大堰から取水し、昔の陣屋内、今の住宅街に細かく張り巡らされた「小堰(こせき)」と呼ばれる細い水路から成っている。

甘楽町産業課商工観光係係長の山田宣義さんは、「織田氏の統治時代に大規模に改修し、庭園用水や生活用水を上級武士の屋敷から町民の家庭にまで供給する小堰を、毛細血管のように整備したといわれています」と語る。織田、松平両氏とも御用水奉行を置いて、雄川堰の管理を重視した。

大堰の雄川からの取水口は、小幡地区の中心地、大手門跡から約2.3km上流にある。街並みを取り囲むようにして流れる大堰は、下流で約100haの農地の灌漑用水にも使われている。大堰には上流から一番口、二番口、三番口と呼ばれる3カ所の取水口があり、ここから小堰へと分流される。

小堰の周辺では水の浸透を防ぐ粘土を混ぜた地盤改良が施されていたり、分水地点では逆勾配で水が流れる区間もあるなど、当時としては高度な技術が導入された。

江戸時代および明治初期の絵図と現在の流路を比較すると、あまり大きな変化はない。古くからの水路ネットワークが保存されている。

ところどころ道路をまたぎ、宅地にかかる小堰は暗渠(あんきょ)化しているが、それでも総延長約6kmの6割弱は開渠(かいきょ)のままだ。さらにそのうち4割の水路に、石だけで築いた昔ながらの「空石積(からいしづ)み」が残されている。この工法こそ、400年もの歳月を持ちこたえた先人の知恵にほかならない。

小堰の水路幅は30~50cmだが、建設時には幅2.5m、深さ1.5mにわたり掘削。粘土に石灰を混ぜた「かね」と呼ばれる土で堰の三面を約1m突き固め、そこに石積みを施し、漏水対策としている。

石積みの構造も強靭だ。土台の「根石」に2~3段の石が積まれ、その上を大きな「天端石(てんばいし)」で押さえている。積み石は、表に露出された面よりも奥の方を低くする「胴下げ」という方法で積み、胴下げされた石の奥に、さらに重しを乗せた。積み石の隙間には小石を挟み、さらに粘土を埋め込むという念の入れようだ。地震や大水に耐えたのもうなずける。

  • 雄川から引き込んだ用水の軸となる大堰(おおぜき)。このような親水広場や遊歩道がところどころ整備されている

    雄川から引き込んだ用水の軸となる大堰(おおぜき)。このような親水広場や遊歩道がところどころ整備されている(【2】)

  • 小堰(こせき)と呼ばれる幅30~50cmの用水路。今も住宅の間を縫うように流れている

    小堰(こせき)と呼ばれる幅30~50cmの用水路。今も住宅の間を縫うように流れている(【3】)

  • 小堰断面図

    小堰断面図
    出典:甘楽町役場の提供資料をもとに編集部作成

  • 小堰の石積み

    小堰の石積み
    出典:甘楽町役場の提供資料をもとに編集部作成

住民の「ごみ上げ」で守られる清流

戦後に上水道が整備されるまでは、家の前を流れる小堰で野菜や農機具などを洗い、風呂の水としても利用していた。洗濯の際は水を汲んで別の場所で洗い、排水を小堰に流さないよう気を遣った。そのため水はきれいで、天然のわさびやしじみが自生していたという。ところが高度経済成長期に入ると生活排水が流され、水質は悪化の一途をたどった。日本全国至るところで見られた景色だ。

そこで甘楽町役場は下水道の整備に取り組んだ。そして、大きなごみを留めるための「スクリーン」も要所に設置した。これは、櫛歯のような鉄柵を水路の各所に嵌(は)めるものだ。

一方の住民側も、1982年(昭和57)から当番制で「ごみ上げ」を始めた。甘楽町が設置したスクリーンに流れ溜まったごみを、近くの住民が爪鍬(つめくわ)で引き上げるのだ。

1985年(昭和60)に名水百選に指定されたほど水質が改善したのは、年々進んだ下水道の整備とごみを止めるスクリーンの設置が効いた。特に、スクリーンにおけるごみ上げという町民たちの尽力が大きかったようだ。

なにせ35年も前のことなので、当時のくわしい経緯は、役場の人たちも小幡地区の区長たちもよくわからないという。わずかに残る当時の写真には、ごみ上げをする男性たちや水路に鯉を放流する人たちの姿が写っている。自分たちがかかわったことで目の前の水路がだんだんきれいになる。それを見て、さらに熱心に取り組む。その繰り返しが住民運動を加速させたのだろう。それは、今も小幡地区が3町区ごとにごみ上げを続けていることにも表れている。

200世帯でごみ上げ場所が6か所ある小幡1区では、6地区に分かれており、1日ないし2~3日交代で行なう。ごみ上げ場所が2カ所の小幡2区では、同じく200世帯が2班に分かれて毎日行ない、それぞれ年に3~4回、当番が回ってくる(ごみ上げを終えたらノートに日付と名前を記入して次の番の家に回しているという)。大堰取水口の一番口と二番口周辺にあたる小幡3区では1カ所を近隣住民でごみ上げを実施している。

空き缶やビニール袋などの人為ごみがほぼないというから驚く。

「木の葉や枯れ枝、まれに雑草などですね。それ以外のごみが水路に捨てられていることは、ないわけではないですが、だいぶ少なくなりました。もう住人があまり多くないというのもありますし」と区長は控えめに言うが、きっとモラルが高いのだろう。

  • 1960年(昭和35)ごろ、雄川堰で洗い物をする女性

    1960年(昭和35)ごろ、雄川堰で洗い物をする女性
    提供:甘楽町役場

  • 1981年(昭和56)、きれいな川の実現を願い、地元住民の手で雄川堰に約150匹の鯉が放流された

    1981年(昭和56)、きれいな川の実現を願い、地元住民の手で雄川堰に約150匹の鯉が放流された
    提供:甘楽町役場

  • 1983年(昭和58)に雄川堰を清掃する地元住民

    1983年(昭和58)に雄川堰を清掃する地元住民
    提供:甘楽町役場

  •  ごみを引っかけて回収するためのスクリーン。小幡地区では今も住民が毎日当番でごみ上げをする

    ごみを引っかけて回収するためのスクリーン。小幡地区では今も住民が毎日当番でごみ上げをする(【7】)

あって当たり前の水路の当たり前ではない価値

雄川堰から上げられたごみは通常の家庭ごみとは別に業者が回収する。大堰脇の桜並木が満開となる春先には、ごみ上げ場所のそばにある廃棄箱を撤去し、観光客がごみを投げ入れないような配慮もしている。

「雄川堰はあって当たり前。子どものころは水浴びをして魚をとったりしていました」と区長が言うような光景が昔語りになった今、生活に根づいた水遺産への敬意をどう次世代へ受け渡すかが課題だ。

毎年3月下旬から4月上旬に、甘楽町では「城下町小幡さくら祭り 武者行列」が開かれる。これは、馬に乗った武将姿の大将役や隊士たちが練り歩く一大イベントで、花見も兼ねて近隣から多くの人が集まる。江戸時代の面影を残す武家屋敷とともに、雄川堰は「外の目」に触れる観光資源でもある。それは保全と継承を促すに違いない。

「石積みを補修・復旧する際は、さすがに昔の工法のままとはいきませんが、なるべく面影を残すようにします。例えばコンクリートで補強しても、粘土に見えるように色をつけたりするなど、元の景観を残しつつ強度を保つ工夫をしています」と甘楽町建設課建設係補佐兼係長の齋藤文康さんは言う。

大堰の一~三番口取水口の周辺は親水緑道になっている。民家のそばを縫い伝う小堰のせせらぎが耳にやさしい。こんな水景が身近にあるとは、なんて幸せだろう。大堰から小堰を巡り、1日かけてこのまちを歩いてみたいとよそ者にそう思わせる景色がある限り、雄川堰の清流は絶えない。

  • 甘楽町で区長を務める皆さん

    甘楽町で区長を務める皆さん

  • 甘楽町役場の皆さん。左から建設課の新井大希さん、産業課の古舘智也さん、建設課の齋藤文康さん、産業課の山田宣義さん、建設課の松野正志さん

    甘楽町役場の皆さん。左から建設課の新井大希さん、産業課の古舘智也さん、建設課の齋藤文康さん、産業課の山田宣義さん、建設課の松野正志さん

  • 雄川堰で遊ぶ子どもたち

    雄川堰で遊ぶ子どもたち(【10】)

(2020年9月18日取材)

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