機関誌『水の文化』67号
みずからつくるまち

水の文化書誌57
南北朝争乱期における筑後川の戦い

古賀 邦雄

古賀河川図書館長
水・河川・湖沼関係文献研究会
古賀 邦雄(こが くにお)

1967年西南学院大学卒業。水資源開発公団(現・独立行政法人水資源機構)に入社。30年間にわたり水・河川・湖沼関係文献を収集。2001年退職し現在、日本河川協会、ふくおかの川と水の会に所属。2008年5月に収集した書籍を所蔵する「古賀河川図書館」を開設。
平成26年公益社団法人日本河川協会の河川功労者表彰を受賞。

南北朝争乱

元弘3・正慶2年(1333)鎌倉幕府が滅亡する。後醍醐天皇は、武家政権が崩壊して天皇親政に取り掛かり、「建武の中興」を開始する。近藤靖文著『九州南北朝争乱―懐良親王と九州征西府』(自費出版・2015)によれば、建武の中興とは、お互いに相矛盾する復古(過去)と革新(未来)が奇妙に同居しながら、天皇が意思を示す文書・綸旨中心の天皇専制独裁という形の天皇親政が推進されたと論ずる。

建武2年(1335)鎌倉で北条時行らによる「中先代の乱」が勃発し、足利尊氏はこの乱を鎮圧し、後醍醐天皇への建武政府の反意を表明し、さらに建武3年(1336)、兵庫湊川で楠木正成・新田義貞を破る。京都を制圧した尊氏は光明天皇を擁立し、北朝方室町幕府を確立した。後醍醐天皇は吉野へ逃れ、南朝を開き、南北朝争乱の時代が始まる。元中9・明徳3年(1392)南北朝合一がなるまで、この間、全国で南朝方と北朝方の武将らは熾烈な戦いを続けた。

近藤靖文著『九州南北朝争乱―懐良親王と九州征西府』

近藤靖文著『九州南北朝争乱―懐良親王と九州征西府』

南北朝争乱の経緯

次のように南北朝時代の九州を中心とした関係年表を記してみる。

1338年
足利尊氏征夷大将軍に任命される。
南朝方懐良親王征西将軍に任命される。
1339年
後醍醐天皇が崩御。
1342年
懐良親王九州下向のため、忽那島から薩摩に到着、谷山城へ入る。
1350年
足利直冬大宰府に入る。高師直と足利直義の対立から幕府分裂し直義派挙兵(観応の擾乱)
1351年
足利直冬鎮西探題に任命される。懐良親王、菊池武光とともに筑後に進攻する。
1352年
足利直冬九州を去る。
1353年
懐良親王筑後高良山に移る。
1358年
足利尊氏亡くなる。
1359年
少弐頼尚、懐良親王らの大宰府進攻に備え、筑後川北岸鰺坂庄(小郡市大保原)に布陣する。
少弐軍と懐良親王・菊池武光軍と筑後川の戦いで死闘を繰り返す。親王派が辛くも勝利する。
1361年
懐良親王大宰府に入る(大宰府征西府成立)
1371年
今川了俊九州探題として豊前国門司に入る。
1372年
今川了俊の軍勢が大宰府を掌握。征西府は高良山に撤退する。
1373年
菊池武光亡くなる。
1374年
今川軍、高良山を攻略し、征西府は菊池へ撤退する。
このころ、懐良親王、征西将軍職を後征西将軍宮・良成親王に譲る。
1383年
懐良親王、八女市星野村で薨去(こうきょ)
1392年
南北朝合一がなる。
1395年ごろ
良成親王、八女市矢部村で薨去。

南北朝争乱の書

水野大樹著『南北朝動乱』(実業之日本社・2017)は、後醍醐天皇が京都より吉野へ入った1336年から、後亀山天皇が京都へ帰るまでの約60年間、二つの朝廷が並び立つ時代があったことを活写する。鎌倉幕府の弱体化から建武の新政、足利尊氏の反旗、そして京都、奈良、隠岐島、九州を舞台として、新田義貞、楠木正成ら、太平記の主役たちの動きを捉える。

室町幕府を二つに裂いた足利尊氏と直義兄弟の戦う亀田俊和著『観応の擾乱』(中央公論新社・2017)、石原比伊呂著『北朝の天皇』(中央公論新社・2020)は、室町幕府に翻弄された皇統の実像を追う。新井孝重著『悪党の世紀』(吉川弘文館・1997)の悪党の派手な鎧兜、光きらめく太刀、長刀のいでたちは反逆の象徴であった。ゲリラの楠木正成、バサラの佐々木道誉ら交えた内乱でうごめいた人間を追う。小川信監修『南北朝史100話』(立風書房・1991)は、南北朝動乱に生きた人々、護良親王、北畠顕家、吉田兼好、光厳天皇、今川了俊らの人間性を描き出す。荒木栄司著『九州太平記』(熊本出版文化会館・1991)は九州における南北朝の争いを描く。童門冬二の『南北朝の梟』(日本経済新聞社・1991)は、北畠親房の活躍を描いた小説である。

小川信監修『南北朝史100話』

小川信監修『南北朝史100話』

懐良親王の生涯

懐良親王の人生は、戦いの一生だといえる。坂井藤雄著『征西将軍 懐良親王の生涯』(葦書房・1981年)、天本孝志著『九州南北朝戦乱』(葦書房・1982)、福岡縣教育會編・発行『征西將軍宮と五條氏』(1936年)、佐々木四十臣校訂『懐良親王と三井郡』(大原合戦650周年実行委員会・2009年)、森茂暁著『懐良親王』(ミネルヴァ書房・2019)をひも解けば、北朝方との戦いの連続であった。

後醍醐天皇の皇子懐良親王は、九州平定の任を受けて、6歳にて征西将軍となって、五條頼元らと、延元3年(1338)8月伊勢の大湊を出航して瀬戸内海に入り、讃岐を経由して忽那島(松山市)に上陸。ここで九州への渡海の機を窺いながら滞在する。

興国3年(1342)6月谷山城(鹿児島市)に入った親王は、ここでも6カ年の滞在を余儀なくされる。目的地の菊池に到着したのは、吉野(奈良県)を出て10年目のことだった。この間親王は五條頼元らの指導を受け、文武両道を身に付け、たくましく成長。

九州平定を目指して戦いを繰り広げた親王は、正平14年(1359)筑後川の戦いで菊池武光らの奮戦もあって勝利するが、南朝方も多くの死傷者が出た。その2年後、ついに大宰府に征西府を設置し、以後12年間が九州南朝方の全盛期だった。

文中元年(1372)8月九州探題の今川了俊によって大宰府を追われた親王は高良山に御在所を構えるが、そこも追われ、矢部川水系星野川流域の天然の要害・八女市星野村へ退き、このころ征西将軍職を良成親王に譲られ、晩年の6年間は信仰の生活であった。北方謙三の小説『武王の門(上・下)』(新潮社・1989年)は、懐良親王の九州征討とその夢を追う。

  • 坂井藤雄著『征西将軍 懐良親王の生涯』

    坂井藤雄著『征西将軍 懐良親王の生涯』

  • 森茂暁著『懐良親王』

    森茂暁著『懐良親王』

筑後川の戦い

日本三大合戦は、関ケ原の戦い、川中島の戦い、そして筑後川の戦い(大保原合戦、大原合戦ともいう)である。南朝方の後醍醐天皇派・懐良親王・菊池武光らの征西府軍4万人と北朝方の足利尊氏派・少弐頼尚・大友氏時ら6万人が九州の覇権を巡って、筑後川中流域の右岸から福岡県小郡市大保原にかけて戦う。両軍の戦死者は5400余人、負傷者2万5000人と言われている。

山下宏明校注者『太平記・五』(新潮社・1988年)の第33に描かれている。小郡市中学家庭教育学級編『大原合戦』(小郡市教育委員会・1989年)には、菊池武光は大奮戦、懐良親王もまた自ら敵軍へ突入、親王の馬は射倒され、身に三カ所の深手を受け、生け捕りにしようとする少弐勢に、自分の体を盾にして鎧の袖を広げ、矢を防ぎ、まさに危機一髪。新田勢が駆けつけ、親王はかろうじて死地を脱し、福童原に退き、谷山城に逃れた。武光は、「もはや一兵たりとも生きて還るな、我とともに討死せよ」と怒号し、阿修羅の如く敵陣へ詰め寄ったとある。

この戦いで、南朝方は勝利したが、多くの死傷者を出した。菊池一族の書として、植田均著『純忠菊池史乗』(菊池史談會・1929年)、陸上自衛隊第八師団司令部編・発行『誠忠菊池累代史』(1969年)、荒木栄司著『菊池一族の興亡』(熊本出版文化会館・1989)、杉本尚雄著『菊池氏三代』(吉川弘文館・1966年)、森藤よしひろ・絵『まんが 風雲菊池一族』(菊池白龍会・2005)がある。

  • 小郡市中学家庭教育学級編『大原合戦』

    小郡市中学家庭教育学級編『大原合戦』

  • 荒木栄司著『菊池一族の興亡』

    荒木栄司著『菊池一族の興亡』

筑後川の戦いの遺跡

宮ノ陣郷土史研究会編『宮ノ陣郷土史読本』(宮ノ陣校区まちづくり振興会・2016年)には、筑後川流域沿いに、その戦いの遺跡が掲載されている。久留米市・宮ノ陣神社には、懐良親王がお手植えの「将軍梅」が紅梅の花を咲かせる。神社と隣接する法龍山遍萬寺の境内地に、「筑後川の合戦の碑」が建立されている。筑後川の戦いで倒れた兵士の冥福を祈り続けている寺でもある。この寺の近くに、両軍の遺骨を集めて供養した五万騎塚が建つ。

小郡市大保原近くに鎮座する大中臣神社には、戦いで深手を負った親王が傷の回復を祈願したところ、その加護で全快したことに感謝して、藤ノ木が植栽された。「将軍藤」と呼ばれている。小郡市役所に隣接する公園には大保原戦場跡の碑が建つ。

大刀洗町は菊池武光が血刀を川で洗ったという故事に由来する。公園には勇者姿の「菊池武光銅像」がそびえる。この大刀洗川上流筑前町には「菊池武光公大刀洗之碑」が建つ。

宮ノ陣郷土史研究会編『宮ノ陣郷土史読本』

宮ノ陣郷土史研究会編『宮ノ陣郷土史読本』

おわりに

太郎良盛幸・佐藤一則の小説『九州の南朝』(新泉社・2012)は、懐良親王が、矢部川支川星野川が流れる八女市星野村で亡くなるまで、また良成親王が矢部川の源流八女市矢部村で亡くなるまでを描いている。

特筆することは、五條家・堀川家臣団が、未来に向けて、一族の経済的な確立を図るために苦労しながらも、小河川、渓流水、湧水を利用して女鹿野・別当・竹原・牧曽根・鍋平地区などにおける棚田づくりを行なったことである。現在、山奥まで水田が拓かれている。牛島頼三郎著『奥八女 矢部峡谷の棚田考』(梓書院・2020)は、山間部の棚田を拓き、両親王の魂がたくましく生き続けていることを論ずる。

牛島頼三郎著『奥八女 矢部峡谷の棚田考』

牛島頼三郎著『奥八女 矢部峡谷の棚田考』

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