五感を刺激し、幸福感をもたらす「果実」。果実は水分を多く含み、生長するにも水とは切っても切れない関係にあるが、その歴史や文化的な変遷はどうなっているのか。2008年(平成20)に果実文化や歴史を含めて幅広く網羅する書『日本果物史年表』を上梓した梶浦一郎さんに、日本の果実に関する歴史についてお聞きした。
インタビュー
一般社団法人園芸学会 元会長
梶浦 一郎(かじうら いちろう)さん
1944年静岡県生まれ。東京大学農学部、同大学院農学研究科博士課程卒業。農学博士。農林水産省(独立行政法人農研機構)で研究管理官、果樹研究所長、NTCI(JICA関連会社)顧問などを務める。国際園芸学会評議員も歴任。著書に『日本果物史年表』(養賢堂)などがある。
大学院では果物の品種保存(遺伝資源学)と栄養学を中心に研究していました。その後は生物研(注1)に所属し、アジアやヨーロッパの各地を回りながら、果物の遺伝資源の開発や保存についての研究と調査を行なってきました。
縄文時代からあるものは、主にクリやクルミ、ドングリなどのナッツ類とナシです。稲作以前の主食といえば、東日本ではクリやトチ、西日本ではドングリでした。デンプンや炭水化物などのカロリー源はナッツで補い、水分はナシから摂っていました。クルミなどは水にさらし、きちんとアク抜きしてから食べていたようです。
もともと自生していたクリの木を切らずに栗林として残す、「原始的果樹栽培」も成立したと思われます。興味深いのが、自生していた果物がどのように各地へ運ばれ、広がったかということです。
一つは鳥類やサルが食べて、移動しながら種を糞として落としたことが考えられます。もう一つは、台風や大雨で川に落ちた実が下流へ運ばれ、広域に広がった。最後は海に出るので、周辺の島にもたどり着いたかもしれません。
柑橘類です。特に7世紀から9世紀にかけては、20回以上遣隋使や遣唐使が派遣されています。その際に多くの柑橘を土産として持ち帰ったと考えられます。ただし、温州ミカンについては別で、天台宗の僧侶が、現在の鹿児島県出水郡長島町に中国から持ち込んだのが起源とされています。
奈良時代は「都」という果物消費地ができたことで、果物を売る市が自然発生的に生まれました。荘園ではクリなどが販売のために植えられ、「初期的果樹園」も始まったといえます。
(注1)生物研
かつて茨城県つくば市に存在した国立研究開発法人農業生物資源研究所。2016年に国立研究開発法人農業・食品産業技術総合研究機構(農研機構)に統合された。
都が平安京に移り、奈良時代よりも大きな果物消費地が形成されたのが平安時代です。しかしその後の戦乱の時代に入ると、人々は果物を楽しむどころではなかったと思います。
一方で、各地を転戦するなかでおいしい果物を見つけては持ち帰り、故郷の自宅の庭に種をまいて広めたのが農民兵士(注2)でした。また、戦(いくさ)における実働部隊の最後尾には、死人の鎧や兜をはぎとっては売りさばく商人がついていました。行った先々でおいしいものを見つけてきて商売するのも彼らの仕事ですから、そうした行ないも優良品種の果物が各地に拡大するきっかけになったようです。
安土桃山時代になると楽市楽座で城下町ができ、各地に果物消費地が形成されます。城下町の周辺農村には、いわゆる果物産地もできはじめました。
北前船による日本海海運が開かれたことで、果物の流通もダイナミックになりました。江戸でミカンが高値で売れることに目をつけた紀伊国屋文左衛門が、紀州の有田から江戸まで船でミカンを運んで大儲けした話は有名です。
現在の千葉県松戸市や市川市、神奈川県の川崎市などがナシの産地で、川崎はモモも有名でした。一大消費地の江戸に、馬車か荷車で運べる距離に産地ができたのです。船だと時間がかかって、果物が傷む可能性もありますからね。
「長十郎」という有名なナシがありますが、これは川崎市に住んでいた当麻辰次郎さんという人の自宅のナシ園にあったもので、屋号からこの名前がつきました。
それから東京都目黒区にある「柿の木坂」という地名は、近くにカキの産地があったことに由来します。傾斜地なので、馬車からコロコロと落ちるカキを子どもたちが拾っていたそうです。
日本では、古くから神社仏閣へのお供えものとして果物が用いられ、それが今でも残るお盆や年末の贈り物文化に発展しました。韓国などは、昔からナシやモモを供えものとしてピラミッドのように積み上げる風習がありますが、初めはそうした文化が海を越えて伝わってきたのでしょう。
また、東北あたりの農村では、米が不作の場合の救荒作物として、昔からモモ、ナシ、カキ、クリなどの木を庭に植えていました。今もこれらの巨木が残っています。
(注2)農民兵士
武装した地侍や農民などを指す。安土桃山時代に兵農分離が行なわれるまで、中世は武士と農民の身分があいまいだった。
はい。リンゴや西洋ナシ、ブドウ、オレンジほか、西洋やアメリカ大陸原産の果物を政府が正式に導入しました。鉄道も開通したことで、それまで輸送に便利な大都市近郊にあった果物産地が、青森や長野、鳥取など、やや離れた地域にも形成されるようになりました。
ただし、これだけいろいろな果物とその利用法が入ってきたにもかかわらず、ジュースやワインは文化としてなかなか定着しませんでした。というのは、飲用水に恵まれていた日本では、腐敗しやすいジュースよりも生果で水分を摂る方が安全だからです。私たちもアジアの各地に調査に入ると生水が飲めないので、食中毒を起こさない「安全な水」として果物を食べて水分を補給していました。
しかも、日本の米を中心とした食生活には昔からお茶や日本酒がありましたので、ジュースやワインは一部の富裕層にしかなじまなかったのです。今でこそジュースやワインも文化といえるほど根づきましたが、当初はそうでもなかった。ただし、個々の果物がここまで普及したのは、やはりおいしさでしょうね。
そうです。例えば「二十世紀」というナシは、1888年(明治21)に現在の千葉県松戸市で発見されたものですが、少年がゴミ溜めに生えていたナシの幼木を偶然見つけて、自宅に持ち帰って大切に育てたことが始まりです。甘くてみずみずしい、従来のナシとはまったく異なる実がなったそうです。残念ながら原木は爆撃の影響で枯れてしまいましたが、記念碑が今も残っています。
減反政策などの影響もあり、戦後にミカンをつくりすぎてバランスが崩れたのです。ミカンは日本人にとって大変身近な果物でもありました。江戸時代にポルトガル人が来日した際には、「子どもがミカンでキャッチボールをして遊んでいる」と書き残したほどです。
ちなみに戦時中は貨物列車で兵隊を運んでいましたが、「兵隊よりもミカンを運んだ方が国民のためになる」と当時の東大教授が軍部に言い放った事件がありました。それほどミカンをはじめとする果物の栄養価は高く、人の健康に大切なものだったんですね。
果樹を見かけないのは、お住まいの地域によるのではないでしょうか。たしかに一日当たりの果物消費量は減りましたが、郊外に行けば今もいろいろな果樹が庭先に植えられています。
私がつくば市の生物研で働いていたとき、海外からの来客を成田空港まで送迎していたのですが、空港周辺は農村地帯が広がっていて、沿道からたくさんのカキの木が見えます。海外の方はその光景を見て、「日本人はこんなに果物を食べるのか!」と驚き、感心していました。今も「ある程度広い庭があれば果樹を植えたい」と思う人は案外多いのではないでしょうか。
果物は、文化として十分に定着しました。日本の人口が減少して高齢者の割合が増加しているので、果物の消費量も減ると予想されますが、その分さらに味に磨きをかけ、おいしい品種が今後たくさん出てくるかもしれません。
日本のつくる果物は品質がよくおいしいので、諸外国が技術や苗を狙っています。近年は特に若者のフルーツ離れが進んでいるそうですが、日本が誇る果物にもっと目を向けてみてください。
(2021年4月26日取材)