機関誌『水の文化』71号
南西諸島 水紀行

ひとしずく
ひとしずく(巻頭エッセイ)

「とーとぅがなし」の心を忘れずに

神奈川県から与論島を訪れた若いご夫婦。今回が2回目の来訪。1回目は台風に遭遇したため再訪したそうだ。与論島にはそういう引力がある

神奈川県から与論島を訪れた若いご夫婦。今回が2回目の来訪。
1回目は台風に遭遇したため再訪したそうだ。与論島にはそういう引力がある

ひとしずく

フリーアナウンサー
町 亞聖(まち あせい)

小学生のころからアナウンサーに憧れ1995年に日本テレビにアナウンサーとして入社。その後、活躍の場を報道局に移し、報道キャスター、厚生労働省担当記者としてがん医療、医療事故、難病などの医療問題や介護問題などを取材。 〈生涯現役アナウンサー〉でいるため2011年フリーに転身。脳障害のため車椅子生活を送っていた母と過ごした10年の日々、そして母と父をがんで亡くした経験をまとめた『十年介護』(小学館 2013)を上梓。医療と介護をテーマに取材、啓発活動を続ける。
公式ブログ http://ameblo.jp/machi-asei/

 

「町家(まちけ)のルーツは与論島なの?」晩酌をしている父に尋ねると「そうだ」という答えが返ってきて驚きました。父方の故郷は福岡だと思っていましたがまさか“与論島(よろんじま)”とは。夏休みに沖縄に行こうと見ていたガイドブックに「与論ネーム(シマナー)」という小さなコラムがありました。これは祖先の名前を後世に伝えるために戸籍上の名前とは別に祖父や祖母のシマナーを子どもに付ける風習だそうです。その一つに〈マチ〉という呼び方が。ただこの呼び名と苗字の「町」の起源は別だったのですが、思いがけずわが家のルーツを知ることができました。

少しだけ父の思い出話を。福岡県大牟田市の三池炭鉱の町で育った父は高校卒業後に上京したものの経済的に苦しく進学はかなわず……。若くして母と結婚し3人の子どもを養うために必死に働いていましたが、暮らしは楽ではなくどんなにがんばってもうまくいかない人生があるということを父の背中が教えてくれました。典型的な九州男児で機嫌が悪いときにお酒を飲むと卓袱台(ちゃぶだい)をひっくり返すことも。母が病で倒れて車椅子生活になっても相変わらずでした。そんな父親でしたので親戚づきあいも苦手で、与論島の話は聞いたこともありませんでした。

そして叔祖父の案内により妹と一緒に与論島へ。空港に迎えに来たホテルのバスの運転手さんの名前がいきなり「町さん」で、ああ与論がルーツなんだと実感しました。幻の島と言われる百合ヶ浜(ゆりがはま)や大きな双子の珊瑚など透明度抜群のコバルトブルーの与論の海は今も忘れられません。30代で亡くなった祖父は長男で、父も長男、そして私が長女ということで何十年ぶりに〈総領〉が島に戻ってきたと町長さんはじめたくさんの人が歓迎してくれました。会う人会う人全員が親戚だと言っていましたがどこまで本当かは確かめようもなく……。当時、民放のアナウンサーだったこともありテレビ観ているよと皆さん声をかけてくれました。母を亡くした直後で大きな喪失感を抱えていた私たち姉妹の心を緩やかに流れる島時間が癒してくれました。

今年は沖縄の本土復帰50年の節目に当たりますが、沖縄とともにアメリカの統治下に置かれていた奄美群島。さらに遡ると奄美は琉球王国や薩摩藩に支配されるという歴史が。一文字の苗字が与論含めた奄美に多いのは島出身であることがわかるようにするためという意味合いがあったようです。島の歴史はあまり語られていませんが、過酷な時代を生き抜いた祖先が居てくれたからこそこの世に生まれてこられたと思うと本当に感謝です。

感謝と言えば与論には〈ありがとう〉という意味で使われている「とーとぅがなし(尊加那志)」という言葉があり、尊加那志で始まり尊加那志で終わると言われるほど大切にされています。「とーとぅ」は尊い、「かなし」は神に対する尊称でそのまま訳すと「尊い存在」ですが、生きとし生けるものすべてを尊ぶ謙虚な心を表しています。与論の古い呼び名は「ユンヌ」。権力による抑圧や差別に翻弄されてきた哀しい過去を変えることはできませんが、だからこそ違いを認め受け入れる多様性を「ユンヌンチュ(与論の人)」の一人としてもっていたいと思います。

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