1993年(平成5)、白神山地とともに日本で初めて「世界自然遺産」に登録された屋久島。樹齢2000年とも7200年ともされる大木「縄文杉」で知られる。屋久島は「ひと月に35日雨が降る」といわれるほど雨が多く、しかも土壌がやせているため、この島の杉はゆっくり成長する。また、その豊富な水を活かして60年以上前から発送電分離を行ない、ほぼ自然エネルギーだけで電力を賄ってきた。水に恵まれた島の「自然と人の共生」を探る。
縄文杉へ向かう途中、小雨が降る森のなかで空を見上げると、霧がかかった幻想的な光景だった
羽田から鹿児島まで飛行機で約2時間。そこからプロペラ機に乗り換え、約40分で屋久島空港に到着する。空から見る屋久島は、山が海岸線に迫っていた。
タラップを降りて空港の建物に向かう。到着口を出ると、トレッキングウエアに身を固めた女性グループや家族連れ、ビジネスマンなどの姿が見られ、小さな空港のロビーが活気づいている。
空港の外には、ついさっきまで上空から見ていた山がそびえ立っていた。なんだか背筋の伸びる思いと同時に、「屋久島に降り立った」という期待がさらに膨らんだ。これから、どんな5日間になるのだろう──。
周囲約130km、面積約500km2の屋久島には、九州一高い宮之浦(みやのうら)岳をはじめとする1800m以上の山々が連なる。地形的な特徴と黒潮の影響で、雨もとても多い。
「屋久杉自然館」に向かうと、松本薫館長がにこやかに迎えてくれた。
屋久島の森には、屋久杉(注1)の利用を目的とした紆余曲折の歴史がある。屋久島の人々は、本来神聖な屋久杉を伐採することはなかったが、江戸時代、薩摩藩が屋久杉を年貢に指定した。伐り出した屋久杉は、主に関西の寺社仏閣などの屋根材に使われた。
「このとき屋久杉の5~7割が伐採されたそうです。杉は日本固有の木で1種のみですが、雨の多い屋久島の杉は樹脂分が多く、腐りにくいのです」と松本さんは言う。
明治時代になると、今度は屋久島の森が国有化され、1920年(大正9)に正式に国有林になった。主要な川沿いに木材搬出のための森林軌道が敷かれ、特に高度経済成長期には大量伐採が進んだ。
世界自然遺産に指定され、手つかずの原生林が広がるイメージも強い屋久島だが、江戸時代からこんなにも人の手が入っていたことに驚くかもしれない。時代時代で人びとの葛藤もあっただろうと、話に耳を傾けながら思いが巡る。
一方、昭和40年代には輸入材が増え、国有林事業は縮小。同時に、屋久島の森を再生し、守ろうとする動きが広がる。そのとき、国を動かす勢いで保護運動の中心に立ったのは、都会に出て生活していた屋久島出身者たちだった。島の住民は、身近にある自然の価値にまだ気づいていなかった。
1993年(平成5)、屋久島は日本で最初のユネスコ世界自然遺産に登録された。きっかけになったのは保護運動、そして鹿児島県がその前年に打ち出した「屋久島環境文化村構想」も大きい。これは、自然と人が共生する屋久島独自の地域づくりの施策で、その一つに島を3区分し、「保護」や「活用」などのエリアに区分けするゾーニング(注2)がある。
「伐採された歴史がありながら世界自然遺産になった例は珍しい。古くから人びとの営みとともにあった点で、屋久島は文化遺産にも近いと感じます」と松本さん。
屋久島が世界自然遺産に登録された年、「屋久島憲章」が制定された。条文1には、「水」に関すること(注3)が書かれている。松本さんに、その理由を尋ねた。
「これほど水が豊かな島はほかにありません。木、苔、川、焼酎まですべてのベースは水。花崗岩の肥沃ではない土地に屋久杉のような巨木があるのも、水(雨)のおかげです。ここに住むわれわれ自身も水への感謝を忘れないという意思表明の意味でも、条文の最初に掲げたのでしょう」
(注1)屋久杉
屋久島では樹齢1000年以上のものを屋久杉と呼び、それ以下のものは小杉(こすぎ)と呼ぶ。縄文杉は現在確認されている最大の屋久杉で、島のシンボル的存在。
(注2)ゾーニング
自然環境を保護しながら、人と自然が共生する屋久島らしい自然空間の秩序をつくるために設けた枠組み。なお、環境省、鹿児島県、屋久島町などの自然環境行政では現在「屋久島・口永良部島ユネスコエコパーク」のゾーニングをもとに進められている。
https://yakushima-kuchinoerabu-br.com/overview/
(注3)水に関すること
「屋久島憲章」の条文1には次のように書かれている。「わたくしたちは、島づくりの指標として、いつでもどこでもおいしい水が飲め、人々が感動を得られるような、水環境の保全と創造につとめ、そのことによって屋久島の価値を問いつづけます。」。
縄文杉に至るトロッコ軌道を40分ほど歩くと、小・中学校の校庭が残る集落跡に着く。この一帯が小杉谷(こすぎだに)。1923年(大正12)にふもとの安房からトロッコ軌道が敷かれ、屋久杉搬出のための事業所、さらにそれに携わる人々と家族が暮らす集落として栄えた。ピーク時には約540人が暮らしたが、国有林事業の縮小とともに1970年(昭和45)に事業所が閉鎖。集落としての役目も終えた。
少し上に登ると、炭焼き窯の跡、瓦や瓶、食器の残骸などが見られ、かつてはここが生活の場だったことがリアルに感じられる。
この豊富な水の恩恵を受けているのは、自然だけではない。屋久島では、60年以上前から島内の電気の99%を水力発電で賄っている。電力を供給するのは、日本で唯一の炭化ケイ素(注4)の製造メーカーである屋久島電工株式会社(以下、屋久島電工)だ。本業がありながら電力会社並みの熱意で島民の暮らしを支えている。島を4地域に分け、地元の協同組合などが屋久島電工から電気を購入し、各地域に配電を行なっている。
屋久島の豊富な水資源に着目し、当初は製造のために水力発電所をつくった。しかし、「今は住民の生活が最優先です」と話すのは、同社の発電事業部 事業部長の長野政章さんだ。「工場のラインは、島に供給する電力を確保したうえで動かしています。雨の少ない時期は工場の運転を控えます」
取材に伺った日は朝から土砂降りで移動も億劫なほどだった。しかし、「今日の雨はいい雨」と長野さん。ダムに溜まるような風向きの雨がしばらく降っていないため、この雨に期待しているという。私たちには憂鬱でも、屋久島の人びとには「いい雨」。自然との向き合い方にハッとさせられた。
同社は現在、安房川(あんぼうがわ)水系にある3つの発電所から5万8500kWの電力を供給するほか、森林軌道の補修や整備なども行なう。雷が激しいときは深夜でも発電所に泊まり込み、停電に備える。
今でこそ自然エネルギーが注目されているが、屋久島の取り組みは早い。「実はあまり知られていなくて、驚かれることが多いのです。島の生活を支えたい思いは強いのですが、アピール下手ですね」と、長野さんは謙虚に笑った。
(注4)炭化ケイ素
天然にはほとんど存在しない化合物。硬く耐熱性や耐久性に優れるため、耐火剤や研磨剤として利用されてきた。近年半導体の材料として注目される。
取材の2日目に、縄文杉まで往復約22kmを歩いた。約10時間かかるが、500mlの水筒を1つ持参すれば事足りる。それは途中に山水が湧き出るポイントが何カ所もあり、喉を潤してくれるからだ。改めて水の豊かさを実感した。
世界自然遺産に登録されてから多くの登山客が訪れる屋久島だが、環境への課題もある。なかでも深刻なのがトイレだ。縄文杉までのルートにいくつかトイレを設置しているものの、維持管理や汲み取りの問題があり、数も十分ではない。以前は、汲み取りが容易ではない山頂付近の山小屋では、近くに穴を掘って屎尿(しにょう)を埋める「現地埋設処理」をとっていたが、環境への負荷が大きく廃止した。
「雨が降ると地中に流れ出して、悪臭や土壌汚染が深刻になりました。屋久島の大事な水源を自分たちの手で汚しているようなものだと、15年ほど前から20Lのポリタンクに移し替え、人力でふもとまで担ぎ出す方法に変えました」と、屋久島町 観光まちづくり課係長の岩川健さんは話す。
2005年(平成17)には、縄文杉へのルート沿いに2基のバイオトイレが設置された。便器内に投入したおがくずをスクリューで撹拌させ、微生物が屎尿を分解するというもので、臭いもほとんどない。電力を供給するのは屋久島電工。ただし、年に数回はおがくずを交換し、トロッコで運び出す必要がある。用を足した後は登山客自身で持ち帰る携帯トイレの利用も呼びかけているが、定着は難しい。
「日本人は清潔なトイレを好むので、ためらうのでしょう。登山客が減ると観光にも影響するので、行政がきちんと整備すべきとの意見もあります。何が一番いい方法か、模索しているところです」
縄文杉までの登山道では、苔が絨毯のように足元に広がる神秘的な光景に出合える。土埋木(切り株)の表面もびっしりと苔に覆われている。苔の多くは密生してフサフサと見えるが、じっくり観察してみると種類もさまざまなことに気づく。その数は屋久島の森だけで600種とも700種とも。私たちが歩いた日は雨天だったが、水分をたっぷり含んだ苔に水滴が滴る様子もまた趣深かった。
縄文杉への行き帰り、登山客を案内するガイドたちを多く目にした。その大半は、県外からのIターン者だ。町が力を入れることの一つに移住者の定住促進があり、移住者の割合は年々増えている(2020年度は236人)。岩川さんは、Iターン者は新たな風を入れてくれる存在だと言う。
「Iターンの方々は、集落の集まりなどにも積極的に参加してくれます。もっと彼ら彼女らの視点を取り入れてまちづくりに活かせれば、屋久島はよりよくなっていくはず。私たちも柔軟に対応していかなければいけません」
町では、島暮らしを試せる「暮らし体験住宅」を設けるほか、2021年からは空き家バンク制度も開始。仕事はツアーガイドをはじめとする観光業や飲食店の経営など、三次産業に携わる移住者が多い。
屋久島公認ガイド(注5)を務める飛髙章仁(ひたか あきひと)さんは、17年前に大分県から移住してきた。
「ガイドを始めて17年経ちますが、屋久島でガイドを務める以上雨は避けて通れません。場合によってはお客様の命にもかかわるので、天候を見ながらの判断には毎回いちばん気を遣います。でも、参加者と感動を共有できる瞬間はうれしいですね」と飛髙さんは言う。
15年前に神奈川県から移住してきたのは、安房で漁師をしながらダイニングバー「NINA(にーな)」を経営する八峠(やとうげ)信幸さんだ。「以前からマグロ漁船への憧れがあった」と話す。
「漁は自分には縁のない世界だと思っていたのですが、屋久島には一次産業が身近にありますし、船酔いにも強いので漁師をやってみようと思ったのです。親方について仕事を覚えてからは、朝海に出て、帰ってきて魚をさばいて、夜に店で出す生活でした。夏は潜って夜光貝などを獲ることもあります」
また、八峠さんはこうも話す。
「屋久島は自然豊かな観光地ですが、海岸に行くとゴミもたくさん落ちていて、これがリアルな部分でもあると住んでみて感じます。都会にいたときは道端にゴミが落ちていても拾わなかったのに、今は自然に拾える。ビーチクリーンもしています。日々、島に生かされていると感じるので、汚れているのは嫌なんだなと思います」
(注5)屋久島公認ガイド
ガイド業は特に人気があり、より質の高いガイドを養成するため、町が認定する「公認ガイド」の制度がある。一定条件を満たす必要があり、現在75名が認定されている。
屋久島には、500年以上前から「岳(たけ)参り」という山岳信仰の行事がある。屋久島の人びとは自分の集落に近い手前の山を「前岳(まえだけ)」、奥の高い山々を「奥岳(おくだけ)」と呼び、神山としてきた。岳参りは集落ごとに行なわれ、各集落の代表者が年2回、神山の山頂の祠に参拝する。そもそも屋久島は川を境に集落が分かれており、集落ごとに多様な文化が生まれてきた。
岳参りでは、海や里の恵みである海砂、米、塩、焼酎などを山の神へ届けて集落の繁栄を願い、山からは「神の花」とされるシャクナゲを持ち帰り、山の恵みに感謝する。
屋久島環境文化財団 事務局長の髙良(こうら)尚男さんは、「岳参りこそが屋久島の文化の中心」と話す。
「岳参りの風習から、屋久島の人は海と山と深くつながって暮らしてきたことがわかります。私は2年前にこちらへ赴任しましたが、『岳参りの追体験が屋久島を知ることだ』と思い、島内の祠をすべてお参りしました」と髙良さん。
ところが、岳参りは戦後を境にいったん途絶えている。険しい山を登って下りられる若者が島を出ることが増えたためだ。
2005年(平成17)、島最大の集落である宮之浦で岳参りを復活させたのが、スポーツ用品店「ナカガワスポーツ」の代表である中川正二郎さんだ。中川さんは岳参り復活の経緯を振り返る。
「世界遺産になってから山の荒廃や軽装の登山者の遭難事故が目立つようになりました。屋久島の森は想像以上に深く、奥岳で迷ったらまず出てこられません。そんな状況を見て『今の屋久島に足りないものは岳参りだ』と感じたのです。屋久島の人は昔から山に畏敬の念を抱いてきました。屋久島の登山道は本来、岳参りのために通された道です。登山者はそこを使わせてもらっているのに、山への感謝の気持ちを忘れています。〈山をナメとる!〉と思いました」
そこから中川さんは、集落内外の経験者に話を聞き、有志とともに復活に取り組んだ。実はほかにも細々と岳参りを復活させていた集落があったことも知る。みんな気持ちは同じだったのだ。
宮之浦ではかつてのやり方をほぼ再現し、5月と10月に日帰りで宮之浦岳に登る。町が広報するため、島の文化を理解したいと、Iターン者も多く参加する。
シャクナゲの持ち帰りが林野庁に規制されたこともあったが、「島の文化であり、必要以上はいただかない」という中川さんたちの働きかけで、特別に許可が下りた。中川さんは言う。
「岳参りは屋久島の精神性の根幹です。再び廃れることがあっても、つなぐ努力は必要だと思っています。時代に合わせて方法は変わっても、根底にあるものが変わらなければ大丈夫。屋久島の人はいつの時代も山に生かされてきました。山への感謝と謙虚な姿勢をわれわれが忘れない限りは、屋久島の森は守られていくでしょう」
中川さんの話を聞きながら、今の私たちが学ぶべきことが多くあると感じた。屋久島に行こうと考えている人たちは、縄文杉だけではない、自然とともに育まれてきた屋久島の生活や文化にも、ぜひ目を向けてみてほしい。
印象的だったのは、取材先で、あるいは飲食店で、出会う人が口々に「屋久島は水の島です」と誇りをもって口にしていたことだ。森が抱える課題は、島外から訪れる私たちと無関係ではない。一人ひとりの意識が、屋久島の豊かな水を守りつづけることにつながる。
島の北西に位置する永田集落には、今も住宅地を水路が走り、水がとうとうと流れる。「生活に密着した水路で、昭和30年代前半まで使っていました。野菜などは早朝、洗濯は朝9時以降、おむつは下流でと決まっていたんです。うちは豆腐屋なので早朝から天秤棒を担いで何往復もしました」と住民の方。また、永田集落は九州で2番目に高い永田岳を奥岳としており、岳参りの経験もあるそうだ。「兄と2人、おにぎりと毛布を持って1泊2日で登っていましたよ」と懐かしそうに振り返ってくれた。
(2022年4月18~22日取材)