地域が抱える水とコミュニティにかかわる課題を、若者たちがワークショップやフィールドワークを通じて議論し、その解決策を提案する研究活動「みず・ひと・まちの未来モデル」。2年目となる2022年度は、数多ある候補地のなかから神奈川県の「真鶴町(まなづるまち)」を研究対象地域に選びました。
この研究活動のかじ取り役は、法政大学現代福祉学部准教授の野田岳仁さん。初年度とは異なるメンバー(野田さんの指導を受けるゼミ生[新3年生]12名、ミツカンの若手社員3名)で研究活動に取り組みます。
真鶴町の面積は7.05km2。神奈川県内で2番目に小さいけれど、海に面した風光明媚なまちです。まちづくりに携わる人びとの間で、真鶴町は「美の条例」で広く知られています。
今号は真鶴町の概要と歴史的なバックボーン、研究の方向性などについて、野田さんに記していただきます。
法政大学 現代福祉学部 准教授
野田 岳仁(のだ たけひと)
1981年岐阜県関市生まれ。2015年3月早稲田大学大学院人間科学研究科博士課程修了。博士(人間科学)。2019年4月より現職。専門は社会学(環境社会学・地域社会学・観光社会学)。
「みず・ひと・まちの未来モデル」2年目の研究対象地域となる神奈川県の真鶴町。高台から真鶴港を望む
神奈川県足柄下郡真鶴町(まなづるまち)。相模湾に突きでた半島にある小さなみなとまちである。
真鶴町は、北に小田原市、西に湯河原町に面し、周囲には箱根や熱海といったメジャーな観光地にも囲まれている。それらに比べると素朴で生活感のある海辺の景観に驚かれるかもしれない。
けれども、私たちが注目したいのは、素朴でありながらも美しさを感じられる生活景観に若者たちが惹かれて移り住むようになっていることである。真鶴町の人口は6940人(2022年5月1日時点)だが、2019年度(令和元)には転入・転出による人口の社会増減がはじめて増加に転じた。
真鶴町は神奈川県で最も高齢化率が高く、県下で唯一の過疎法(注1)に基づく「過疎地域」とされる。
にもかかわらず、なぜ若い移住者が急増しているのだろう。移住者には既存のコミュニティに溶け込む努力がみられ、まち全体が活気を帯びているようだ。私が真鶴を訪れたのは6年ほど前であるが、そのときとは見違えるような印象を持つ。
「みず・ひと・まちの未来モデル」の2年目はこの小さなみなとまちが舞台となる。今回は、なぜ真鶴町をフィールドにするのか、その理由とともに、そこで考えられるテーマについて述べていきたい。
(注1)過疎法
過疎地域自立促進特別措置法の略。人口減少率、高齢者や若年者の比率などの要件を満たした市町村に対して特別措置を講じ、福祉の向上や雇用拡大などを目指す法律。
「真鶴」という町の名は、まちづくりに関心のある方ならば、一度は聞いたことがあるかもしれない。リゾート開発に列島が揺れたバブル時代に逆らって「美の条例」(1993年)という先進的なまちづくり条例を制定したことでよく知られた自治体だからである。
開発圧力が強かった時代になぜそれに抗うような決断が下せたのだろうか。あまり知られていないことだが、その出発点は真鶴町が抱える水の問題にあった。
真鶴町には安定した水源がない。唯一の河川とされる岩沢川も「水無川」と呼ばれるほど水量に乏しい。1975年(昭和50)の神奈川県温泉研究所の地下水調査によれば、真鶴半島には水道水源として利用できる地下水は存在しないと報告されている(注2)。すなわち、真鶴町には全町民の暮らしをまかなえるだけの自主水源をもっていないのだ。
それだけに水の確保には苦労し続けてきた。1928年(昭和3)に町の水道事業が開始された当初は多量の地下水が湧出していた海岸沿いの磯崎水源を利用していたが、地下水の塩水化が懸念される。実際に当時の水源から供給される水道水は塩(しょ)っぱいもので、飲めたものではなかったそうだが、ご飯を炊くと塩気があってちょうどよかったそうである。
そこで、1960年(昭和35)に小田原市との境(小田原市江之浦地区)に水源を設けた。しかし、翌年に建設中の新幹線六郷山トンネル工事で落盤事故が発生し、水が枯れてしまった。落盤事故の現場では大量の湧水が流れだしており、それを新たな水源としたものの、全町民分をまかなえるものではなかった。
自主水源は2000トンに過ぎず、湯河原町から3000トン、小田原市内の水源から3000トンを調達した。1日最大8000トンを確保できたのは1980年代に入ってからである(注3)(その結果、町の水道料金は県内でも最高額であり、湯河原町の2〜3倍近い水準にある)。当時の人口は約9500人。町の試算によれば、最大1万1000人がまかなえる計算であった。
当時は真鶴町も例外ではなく強力な開発圧力がかかっていた。1988年(昭和63)に真鶴町ではじめて7階建ての大型マンションが建設されると、即日完売で翌日には1000万円のプレミアムがついたという。それ以降、役場には次々と開発計画が押し寄せる異常事態となった。
当時、開発に対する許認可権を握っていたのは神奈川県などの特定行政庁であり、住民と議会が開発に反対しても町にできることは限られていた(注4)。1990年(平成2)5月に町の開発規制権限に限界を感じた助役、町長が相次いで辞任。7月には開発の是非をめぐって激しい町長選となり、開発抑制派の三木邦之氏が当選する。
三木町長は選挙公約に掲げた「水の条例」の制定に乗りだし、9月には「真鶴町上水道事業給水規制条例」と「地下水採取の規制に関する条例」が議会の全会一致で制定された。
(注2)
小鷹滋郎・平野富雄(1976)「真鶴町における地下水調査孔の掘さく」『神奈川県温泉研究所報告』7(3)
(注3)
五十嵐敬喜・野口和雄・池上修一(1996)『美の条例―いきづく町をつくる』学芸出版社
(注4)
桜井良治(1996)「真鶴町のリゾート開発規制条例と自治体の都市計画権限」『静岡大学経済研究』1(1)
「真鶴町上水道事業給水規制条例」は、20区画以上の宅地開発や20戸以上の共同住宅、収容能力が100人以上の宿泊施設などについて新たに給水しないことを定めたシンプルなものだ。
町から給水を得られない事業者は当然井戸から水を汲み上げようとした。そこで、「地下水採取の規制に関する条例」で動力を用いた地下水の採取する施設の設置を町長の許可制とした。水の条例は2つセットで効力を発揮した。
1988年以降、町に開発申請された47案件は共同住宅が20件1033戸、宅地分譲13件181戸、ホテル保養所9件535室などで、これらを認めれば町には新たに4000人の住民が増えることが想定された(注5)。ともすれば、先の町営水道の最大供給量8000トン/日を優に超えてしまう。平常時には余裕があるとされた供給量も1987年(昭和62)の異常渇水時には14時間の断水が発生していた。これではとても町民の暮らしが成り立たない。町は町民の生活保全のために、なんとしても開発をコントロールする必要があったのである。
ところが、この水の条例は危うい条例でもあった。類似の手法をとっていた武蔵野市では水を止められた事業者から訴えられ、水を止めるのは水道法上の「正当の理由」に当たらないとして自治体側の完敗となっていたからである。当時は訴えられれば負ける可能性がないわけではなかった(その後1999年の福岡県志免町給水拒否事件最高裁判例では新たな見解がみられる)(注6)。
水の条例はたしかに開発を一時的に沈静化させることにはなったが、開発圧力に向き合いながら、どのようなまちをつくるべきか、そのための体系的なまちづくりのルールをどう定めるのかに向き合う必要があり、「美の条例」と呼ばれる「真鶴町まちづくり条例」の制定に至る。
「真鶴町まちづくり条例」は次の点で画期的な条例である。いわゆる土地利用規制基準といった定量的基準だけでなく、定性的基準となる「美の基準」を具現化するための8の「美の原則」と69の「キーワード」で景観形成のルールを定めていることだ。加えて、開発行為の手続きの規定を明確化し、住民参加の手続きを設けている。
「美の条例」は、定性的基準であるがゆえに抽象的で行政対応には馴染みにくいものである。指導や対応における公平性の確保や恣意性の排除といった行政的な作法と抽象的なルールをどのように折り合いをつけるのか、職員には難しい問いが突きつけられた。
「美の条例」の運用の最前線で丁寧に事業者と向き合いながら、最適解をみつけだす「対話型協議」という独自の手法を確立したのは、町役場の政策推進課の卜部(うらべ)直也さんである(注7)。
大阪出身の卜部さんは都心の大学に通う学生時代に「美の条例」に出会い、画期的な条例によるまちづくりに惹かれて町役場に奉職された。自身も移住者であり、地元住民と移住者をつなげる試みを公私にわたって展開されている。
(注5)
五十嵐敬喜・野口和雄・池上修一(1996)『美の条例―いきづく町をつくる』学芸出版社
(注6)
宮崎淳(1999)「給水契約の締結拒否についての正当性」『創価法学』29(1/2)
(注7)
卜部直也(2008)「『美の基準』が生み出すもの」『季刊まちづくり』18
今回初めて真鶴を歩いた学生たちが感動したのは、その景観だけでなく、人びとのつながりの強さや豊かさにある。
思い切ったいい方をすれば、基本的に開発行為はそこにある物理的な空間(景観)の破壊だけでなく、そこで機能していた社会関係を分断させる行為といえる。人びとが集う小さな商店がチェーン店に塗り替えられていく様は近代化の名のもとに各地でみられた光景である。結果的にそれを「美の条例」で抑制しながら、さらに創発的に関係性を醸成させている部分もあろう。
海沿いや山間に大型のリゾート施設が乱立する熱海や箱根とは異なり、素朴でありながらも美しさを感じられる生活景観が人びとを惹きつけるのは、「美の条例」とそれを誇りに日々まちづくりに取り組んできた行政職員や地元住民のみなさんの日常の暮らしの積み重ねによるものである。
このような取り組みの成果として、ここ数年で周囲のメジャーな観光地も顔負けするほどの注目を集めるようになっているのだ。この30年で世の中の価値観も変わり、さらにコロナ禍がそれを加速させているかのようだ。
観光の現場でも、3密の典型である大衆的な観光地ではなく、地域の豊かな自然や生活文化に焦点をあてる「暮らし観光(注8)」に注目が集まるなど価値転換が起きつつある。
それらの流れの重なりあいのなかで、真鶴町に移住者を呼び込むことにつながっているのである。
(注8)暮らし観光
「内発的な観光」のいち形態。これまでも暮らしに焦点をあてた観光は各地でみられるが、近年では写真家のMOTOKOさんの呼びかけで若い世代の取り組みが広がりつつある。
真鶴という名は、半島の形が羽根を広げた鶴に似ていることに由来します。その半島の山側や海岸から切り出された石材「小松石」は鎌倉時代から広く使われ、江戸城の石垣にも用いられました。真鶴は湊を備えた採石場というよそにはない利点があり、船を使って搬出できたそうです。
ふらりと入った地魚の鮨店「葵すし」で真鶴の石材業と漁業の関係について興味深い話を聞きました。真鶴ではよそから来た人同士が結婚して住み着くケースが多かったそうです。石材業に携わるのは東北の次男、三男が多い一方、真鶴は漁業も盛んなため紀州から海女さんが来るし、干物加工の仕事を求めてくる女性も多かった。そして小さなまちですから移住者同士が知り合って結ばれるというわけです。
「ここで結婚する人が多くて。だから出身地はかなりバラバラなんですよ」
そう教えてくれたのは、「葵すし」のおかみ、高橋昭子さん。今、真鶴町に若い人たちが移り住んでいるのは、ひょっとしたら「よそ者を拒まない」真鶴の風土が心地よいのかもしれません。
ちなみに夫の衛(まもる)さんは真鶴町の出身ですが、昭子さんは1956年(昭和31)に真鶴町と合併した岩村の出身。「真鶴と岩では気質がちょっと違うのよ」と二人は笑っていました。(編集部)
その移住者の入口となっているのは、「泊まれる出版社」として知られる真鶴出版である。
川口瞬さんと來住友美さん夫妻により、出版事業とゲストハウス運営が行われている。興味深いのは運営をはじめた当初は外国人旅行者が多かったというが、次第に移住希望者が宿泊するようになったことだ。
川口さん來住(きし)さん夫妻も移住者であり、町がはじめた移住施策「お試し暮らし」企画の移住者第一号でもある。
いまでは真鶴出版を通じて、なんと26組もの若い世代が移住しはじめている。真鶴出版では宿泊客に対して、まち歩きを行っていることも注目される。
そのまち歩きで必ず連れて行かれるのは、「観光案内所」ならぬ「関係案内所(注9)」として知られる草柳商店である。店主の「しげさん」こと草柳重成さんとしげさんの母親である「あーちゃん」こと草柳文江(ふみえ)さんがなんともチャーミングで訪れる人を惹きつける。私が真鶴に通いはじめた理由のひとつもあーちゃんやしげさんをはじめとした真鶴の人に会いたくなるからだ。観光名所でなく、人に会いに行く観光は「暮らし観光」の肝とされる。
草柳商店では店内で買ったお酒をそこで飲む「角打ち」ができ、地元の漁師や住民のたまり場である。そこに、移住者や観光客がやってきて、他愛のない話をしながらお互いを知り合っていく。
あーちゃんはいまでは若い移住者の「社会的なオヤ(注10)」のような役割を担っているようにもみえる。
來住さんからは「『美の条例』は人にも適用されていると思う」という言葉もあった。そうなのである。
移住政策というと、いかに移住者に選ばれる地域を目指すかという発想になりがちである。それに対して真鶴町では、その逆で結果的に地域が移住者を選ぶような仕組みになっているような気がするのである。
真鶴町には濃密な人付き合いにかかわる地域の作法や「美の条例」で謳われるような暮らしぶりの根底にフィルターのようなものが存在しているように感じられる。それがある種の移住者選別機能を果たしているのかもしれないのだ。
地域にとって移住者というのは、地域の担い手として期待された存在である。けれども、ともすれば、地域の秩序を乱す撹乱要因でもあるとされる。どのように地域に馴染んでもらい、コミュニティの成員として人間関係をつくってもらえるかが過疎地域の政策的な課題となっているのだが、真鶴町では地域にうまく溶け込ませるような社会的な仕掛けが意図的にもそうでなくとも豊富にちりばめられているように感じられる。
その社会的な仕掛けを明らかにできれば、政策的な応用も可能かもしれない。これらのことも私たちのテーマとなりうるだろう。
(注9)関係案内所
人と人の関係を案内したり、生み出す空間や場所を指す。『ソトコト』編集長の指出一正さんが提唱している。
(注10)社会的なオヤ
生みのオヤとは別に地域のルールや暮らしの作法を教えるなど地域で面倒をみてくれる存在のこと。じっさいにあーちゃんはある移住者を息子のように思ってかわいがっている。
ここまでみてきたように、真鶴町における「美の条例」制定に至る過程からわかるのは、水不足から町民の生活を守る手段として、「美の条例」をつくったということである。
これは地域経営やまちづくりの視点からも示唆的であろう。当たり前のようだが、地域の水の供給量によって、まちのあり方が規定されることを改めて気づかせてくれる。真鶴町の持続可能な未来モデルの根底にあるのは、「水」なのである。
その結果、大衆的な観光地にはない美しい生活景観が残った。「美の条例」とは、水不足という町の弱点を強みに転換させる方法なのであった。
制定から30年を経て、美しい生活景観や人に会いに行く「暮らし観光」が注目され、若い世代の移住にも結びつくようになっている。
なぜこのような好循環がめぐっているのだろうか。今回のプロジェクトは、この問いになんらかのかたちで応答するものになるだろう。
真鶴は都心から100kmの距離にある。コロナ禍であっても学生たちと何度でも通うことができる。それゆえ、現段階での早急なテーマの絞り込みをあえて避けている。
私たちは現場と大学の往復を繰り返しながら真鶴の地で深みのある研究を目指していくことになろう。
事前に資料を読み、仮説もある程度立てて初めて真鶴を訪ねたゼミ生たち。午前中は観光協会の案内でまちを歩き、午後は3つのグループに分かれ、気になる場所を巡ったり地元住民に話を聞くなど、各々が自由に動きました。
そして夕方近くに再集合、真鶴で心に残った人や風景、今後取り組みたい課題などをみんなで振り返りました。
もともと住んでいた旧住民と最近移り住んできた新住民の間で、なんらかの軋轢や問題があるのではないかと考えていたゼミ生たちの仮説は崩れたようです。あーちゃん、しげさんの人柄に惹かれつつも、研究活動の視点をどこに定めたらよいのか若干戸惑っている様子がうかがえました。
ゴールデンウイーク中、自主的に2回目の真鶴訪問を行なったゼミ生たちもいたそうです。彼ら彼女らがどんな視点で研究していくのか、これから目が離せません。(編集部)
(2022年4月9日取材)