スポーツ科学で得た知見は、競技者のパフォーマンス向上に資するだけでなく、趣味でスポーツする人、屋外で労働する人など人びとの生活に役立つ。運動生理学、特に温熱生理学を追究し、暑さ対策に取り組む長谷川博さんに、水や氷を用いた冷却がもたらす身体機能の整え方を聞いた。
インタビュー
広島大学大学院人間社会科学研究科教授
長谷川 博(はせがわ ひろし)さん
1971年東京都生まれ。横浜国立大学大学院教育学研究科修了(体育学修士)。東京都立大学大学院理学研究科修了(理学博士)。運動生理学を専門とし、運動及び環境ストレス時における生体反応や身体の適応反応について生理学的手法を用いて分析。研究のキーワードは、熱中症予防、暑さ対策、身体冷却、体温調節、スポーツパフォーマンス。日本スポーツ協会「スポーツ医科学専門委員会スポーツ活動中の熱中症事故予防に関する研究プロジェクト」班員、国立スポーツ科学センター「東京オリンピック特別プロジェクト」研究員などを務める。
1993年(平成5)秋、日本中が涙したFIFAワールドカップTMアメリカ大会のアジア地区最終予選。日本はあと数分守りきって勝てば出場権を獲得できた状況だったが、土壇場で点を取られた。「ドーハの悲劇」として語り継がれる伝説の試合だ。
その試合を見て悔しさを噛みしめている一人の青年がいた。そして「なぜ最後にバテてしまったんだろう」と考えていた。その青年が広島大学大学院人間社会科学研究科で教授を務める長谷川博さんだ。
小学生のころからサッカーボールを追いつづけ、横浜国立大学の研究室では運動生理学、特に体温調節や暑さ対策に興味を抱く。
「このとき日本代表の選手たちがウインドブレーカーを着て練習していたんです。ドーハの気温は40℃近く、湿度も80%あったにもかかわらずです。遠征なので『まず汗をかこう』とあえて厚着して練習していたのではないかと思いました」と長谷川さんは振り返る。
そのころ、暑さに対する研究はまだ盛んではなかった。ところが「ドーハの悲劇」の翌年、財団法人(当時)日本サッカー協会(以下、サッカー協会)が「暑さ対策プロジェクト」を立ち上げる。長谷川さんは大学院の先輩とともにサッカー協会へ全国調査を申し入れ、受理される。小学校、中学校、高校の全国大会を巡り、暑さ指数(注1)(図1)と選手たちの生体負担度を調べた。すると、とんでもない暑さのなかで大会が行なわれていること、ほとんどの指導者が水分摂取させていないこと、試合中に選手たちが水をとりに行けないことなどが浮き彫りになった。
これを機に、長谷川さんは暑さ対策の研究に没頭していく。
「サッカー協会が優れているのは、研究や実態調査を深刻に受け止めるところです。1997年に『飲水タイム』が導入されました。その流れはFIFA(国際サッカー連盟)が『クーリングブレイク』として試合中に水を飲む時間を3分設けるなど世界中に広がっていきました」
(注1)暑さ指数
WBGT(湿球黒球温度)。人間の熱バランスに影響の大きい気温、湿度、輻射熱の3つを取り入れた温度の指標。暑さ指数が28℃(厳重警戒)を超えると熱中症患者が著しく増加する。
気候変動が激しさを増すなか、スポーツ競技もその影響は免れない。とりわけテクノロジーが発達したことでプロアスリートに掛かる負荷は以前よりも大きい。
「例えばプロサッカーでは選手一人ひとりの背中にGPSが装着され、走行距離やスプリント回数などがすべて記録されます。競技レベルが上がって見る側としてはよいですが、選手の負担は増しています」
興行面から過密日程を強いられることも多く、体をどう回復させるかというリカバリーと同時に、暑さ対策も欠かせない。
「体温にはいい状態とよくない状態があります。私たちはちょうどいい体温を『至適(してき)温度』と呼び、それをどう保つかを重視しています」(図2)
運動すると安静時に比べて代謝レベルが10倍から20倍に高まるが、そのうち80%は熱エネルギーに変わってしまう。運動すればするほど熱が生まれるので、暑いときに体温が過度に上昇すると、運動効率は悪くなる。
適度な体温を保つために有効なのは、「汗をかいて蒸発させること」。ただし、汗をかけばかくほど脱水レベルは上がる。パフォーマンスを高めたいなら水分摂取や身体冷却など対策が必須だ。
「今、世界各国で暑さ対策が注目されていますが、日本はその最先端にいると思います」
スポーツの現場で行なわれる暑さ対策は、「水分摂取」「暑熱順化(しょねつじゅんか)トレーニング」「身体冷却」「ウエア」「コンディショニング」の5つが挙げられる。(図3)
「暑熱順化は、実験室など設備のあるところで汗をかきながら運動します。もう一つは自然に身を任せること。初夏から体を暑さに少しずつ慣らしていくのです。皆さんも真夏よりも晩夏の方がうまく汗をかけた経験があると思います。それは体が暑い環境に適応するからです」
身体冷却には体の外部からと内部から冷却する方法があり、並行することが多い。国立スポーツ科学センターの特別研究員でもある長谷川さんは、2017年(平成29)に新潟で行なわれた国際サッカーユース大会でU−17日本代表チームの身体冷却などを担当した。
「選手たちのパフォーマンスを落とさないようにサポートしました。長丁場の大会だと疲労が蓄積してコンディションを落としがちです。体重を量るだけでも選手の体調はわかるので、脱水レベルを把握しつつ水分補給を促しました」
その後もテニスやセーリングの日本代表チーム、サッカーのU−23日本代表のタイで開催されたアジア選手権に同行し、選手たちをサポートした。
身体冷却はどのような効果をもたらすのか。長谷川さんはサッカーを例にこう説明する。(図4)
「ウォーミングアップで体温が少し上がるので試合前にプレクーリングを行ないます。すると試合前の体温が少し下がって体の『熱貯蔵』に余裕が生まれる。ハーフタイムにまた冷やすと後半、延長戦でも運動時の体温の限界レベルは超えない。深部体温の変化を見れば冷却の効果がよくわかると思います」
身体の外から冷やす方法として「手掌・前腕冷却」がある。これは15℃程度の冷水を満たしたバケツに手と前腕を浸すものだ。(図5)
「手のひらには、毛細血管とは別に動脈と静脈が合わさる動静脈吻合(どうじょうみゃくふんごう)(注2)という特殊な血管があります。普段は血管が閉じていますが、いったん血管が拡張すると多量の血液が循環します。ここで手のひらを冷却することで冷やされた血液が静脈を介して全身に冷却効果をもたらします」
静脈を巡って心臓に戻った血液は、今度は心臓から動脈を通って全身に送り込まれる。だから動静脈吻合を冷やすと大きな冷却効果が得られる。「首筋を冷やせ」とはよく言われることだが、首筋にあるのは深部にある動脈なので実は冷やしにくいそうだ。
(注2)動静脈吻合
動脈と静脈を結ぶバイパスのような血管。掌や頬、足の裏、耳たぶなどの無毛部(むもうぶ)にある。
一方、体の内側から冷やす方法として長谷川さんが推奨するのが「アイススラリー」を飲むこと。アイススラリーは液体に微細な氷の粒が混ざった流動性のある飲みもので、2010年ごろから海外のスポーツ現場で注目されはじめ、長谷川さんもその2年後から研究を始めた。しかし、水を凍らせた氷でつくっても味がないのでなかなか飲むことができない。ヒントとなったのは夏の甲子園名物「かちわり氷」だった。
「テレビニュースを見ていたら、かちわり氷にスポーツ飲料を混ぜて飲んでいる人がいたんです。『それだ!』と思いました」
試行錯誤の末に長谷川さんが考案したアイススラリーは、スポーツ飲料のように糖質や電解質が氷に含まれており少しドロリとしている。水分、糖質、電解質が補給できるうえ、冷水(4℃)との比較実験でも、より効果的に体を冷やせることがわかっている。(図6)
「運動後にアイススラリーとスポーツ飲料を飲んでもらって5分後に撮ったサーモグラフィ画像を見ると、体温が大きく違うのがわかります」(図7)
アイススラリーを手でもみながら飲むことで、前述の動静脈吻合を冷やすという副次的効果もある。
うれしいことに、自宅にミキサーがあればアイススラリーに近いものをつくることができる。製氷容器にスポーツ飲料を注ぎ冷凍庫で凍らせた氷と、スポーツ飲料を3対1の割合でミキサーにかけるのだ。(図8)
「氷だけだとシャリシャリ感が強すぎるのでスポーツ飲料を混ぜるとよいです。最近の保冷ボトルは高性能なので、朝詰めて持って行っても夕方までもちますよ(注3)」
(注3)保冷ボトル
金属製の場合、塩分を含むスポーツドリンクを入れるとサビの原因になる恐れもある。
研究室に伺った日、長谷川さんはデータ測定を行なっていた。研究室で得た知見を現場で実践することを日々繰り返している。
「スポーツ科学の分野は研究室だけでは完結しません。ヒントは常に現場にある。だから足を運んで、監督やコーチ、選手の方々に話を聞くことを大切にしています」
そうして「現場でできるやり方」を模索する長谷川さんは、研究室と現場の往復で得た研究成果を広めたいと考えている。都心部のヒートアイランド現象が深刻化し、熱中症による犠牲者の約8割が高齢者であることにも心を痛める。
「単に熱中症を予防するなら冷房の効いた部屋のなかでじっとしていればよいのですが、その代わりに体は衰え、健康ではなくなってしまいます。スポーツは競技者だけのものではありません。みんなが熱中症を防ぎながらスポーツを楽しみ健康を維持してほしい。そのための知識や方法を編み出し、伝えていくのがスポーツ科学に携わる者の使命だと思っています」
体育会トライアスロン部の選手の暑熱環境下における持久的運動能力および体温・心循環系応答の測定
吉村 峻(よしむら しゅん)さん 4年生
神下大樹(このした ひろき)さん 修士1年(院)
長谷川博さん
室温32℃、湿度50%
上腕、胸部、大腿部、下腿部の4カ所に皮膚温測定装置を装着。直腸温(深部温)、前額部深部温(脳温の指標)も測定。心臓の拍出量「心拍出量(しんはくしゅつりょう)」を測ると心臓から出ていく血液量がわかる。測定した数値はすべてパソコンに入力
(2023年4月18日取材)