[湖歴]
国内最大の湖、琵琶湖。日本人なら知らない人はいないと思うが、その成り立ちや歴史については意外と知らないことが多いかもしれない。琵琶湖の漁撈(ぎょろう)と魚介類の消費を中心に自然と人間との関係史を研究している滋賀県立琵琶湖博物館の橋本道範さんに、琵琶湖と人びとの歴史的なかかわりについて聞いた。
インタビュー
滋賀県立琵琶湖博物館 専門学芸員
橋本 道範(はしもと みちのり)さん
1965年岡山県生まれ。1993年京都大学大学院文学研究科博士後期課程国史学専攻中退。博士(文学)。1993年10月から滋賀県教育委員会事務局(仮称)琵琶湖博物館開設準備室勤務、1996年4月から滋賀県立琵琶湖博物館勤務。専門は歴史学(日本中世史専攻)。著書に『日本中世の環境と村落』、編著に『自然・生業・自然観―琵琶湖の地域環境史―』『再考ふなずしの歴史』などがある。
現在の滋賀県のあたりは、古くは「近江(おうみ)」といわれていました。しかし私は「琵琶湖地域」と呼んでいます。なぜなら、「近江」というのは人がつくった地域の名称で、そう呼んでしまうと、それと同等に考える必要があり、自然がつくった地域のことが見えにくくなってしまうからです。なので、「近江」の代わりに「琵琶湖地域」という呼称を使っています。
琵琶湖地域の最大の特色は、いうまでもなく琵琶湖があること。
琵琶湖は、日本人なら誰でも知っている日本一大きな湖です。大きいがゆえに多様な環境をもっています。沖合い、深底部、岩礁帯。それぞれ異なるこの三つの環境に適応した生態系があります。
もう一つの顕著な特徴は「古い」こと。約400万年の歴史をもちます。今の三重県の伊賀盆地あたりに小さな湖ができたのが、もともとの発端です。それが地殻変動によって移動しながら約43万年前に現在の形に落ち着きました。
その400万年の歴史のなかで進化した種、もしくは琵琶湖にだけ生き残った「固有種」が存在しています。現在確認されているのは貝類、魚類その他の66種です。
沖合い、深底部、岩礁帯が形成する環境に多くの固有種が生息していることが、琵琶湖の価値を考えるうえで重要だと思います。
大きくて古く、固有の生態系をもつ。これだけでも際立った特徴ですが、さらに見逃してはいけない特筆すべき点があります。
それは、2万年以上にわたって人間がかかわっていること。縄文時代から集落が営まれ、水辺や森を利用し、木をくり抜いた丸木舟で漁を始め、やがて舟運に丸子船を使う。今も約140万人(滋賀県の人口)が琵琶湖周辺に暮らしています。大きくて古いだけなら、ロシア南東部のバイカル湖など、世界でも琵琶湖を上回る湖はあります。しかし、10万年以上の歴史をもつ「古代湖」のなかでも、これだけ人間のかかわりが深い湖は世界でも稀なのです。
人間が自然に対して行なう価値づけは、時代や立場が変わると、その時々で自分たちの都合のいいように流動します。琵琶湖でもそうでした。
一例を挙げれば、沿岸帯で経済的価値の高い抽水(ちゅうすい)植物のヨシ。古来、屋根葺きの材料や垣根などの建築資材に重用されてきました。同時に、魚類の産卵・生育場としての価値も中世から認識されており、ヨシ地は税の対象ともなっていました。ところが領主のヨシ地に対するこうした認識は18世紀になると転換し、資源としての価値を認めず、新田開発の対象地として認識されるようになります。
琵琶湖に対しての最大の価値づけは治水・利水です。琵琶湖からの唯一の流出河川は瀬田川。水位上昇を防ぐため浚渫(しゅんせつ)して琵琶湖からの流出量が増えると、下流で氾濫が起きることから、上流(琵琶湖)側と下流(京都)側の対立が古くから続きました。瀬田川は軍事的な要衝で、西方からの攻めを防ぐため通りやすくしたくない思惑も働き、江戸幕府は川浚(ざら)え工事に介入せず、被害を受ける村落が費用を負担する自普請(じぶしん)で川浚えをしたのです。明治政府が南郷洗堰(なんごうあらいぜき)(旧・瀬田川洗堰)を建設してからも、上流と下流の水位をめぐる利害調整はなかなかつきませんでした。
現代においては1972年(昭和47)から「琵琶湖総合開発事業」が25年の歳月をかけて実施されました。ただしその過程で、例えば湖岸を堤防化することによって陸域と水域が分断されて魚が産卵のために遡上できなくなるなど、治水・利水による豊かさの追求が生態系や水産資源の豊かさを毀損(きそん)する、といった価値づけの逆転も起きているのです。
近世までは、舟運による物流の動脈としての価値を高める試みとして琵琶湖運河の計画がありました。日本海側へと運河を通せば物資を陸揚げせずに京都・大坂へ直接運べます。この計画は何度も立ち消えになり、最後の加賀藩の計画は実現寸前でしたが明治維新により完全に立ち消えになりました。これは輸送の主役が舟運から鉄道に移ることによる価値づけの転換でもありました。
人間がかかわりつづけてきた琵琶湖の歴史でもう一点忘れてはならないのは、794年(延暦13)から1869年(明治2)まで日本の首都であった京都がすぐそばにあること。古くからの名産品であるふなずしであれ何であれ、この大市場で売買するために生業(なりわい)が行なわれ、漁撈も続いてきました。
水資源としての価値。交通の要衝としての価値。大市場である京都が近いことの価値。これらが、人間と琵琶湖の深いかかわりをもたらした要素だと考えられます。
今後もっとも重要なのは、とにかく人間がかかわりつづけていくことです。琵琶湖に対する価値づけを、これまでのようにその時々で転換しながらも、限られた自然資源をいかに上手に工夫して使っていくか、それに尽きるのではないでしょうか。新しい価値づけのもとに新しい消費が生まれ、新しい生業へとシフトしていく。こうしたダイナミズムを取り戻すことが重要だと思います。
多くの魅力がある琵琶湖でもっとも好きなのは湖魚料理です。例えばビワマスの刺し身。沖合いを遊泳しているので身がしまっています。「おいしい固有種」。これが私にとって琵琶湖最大の魅力かもしれません。
(2023年9月1日取材)