「泳ぐ」を考える場合、「水」の物性や抵抗を外すことはできません。水中で身体が浮くしくみや、泳ぐのに適した水温と体温の関係など、意外と知らないさまざまなことを「水泳・水中運動」に関する力学がご専門の高木英樹さんに解説していただきました。
実験用の回流水槽で泳者に作用する抵抗力を測定している 提供:高木英樹さん
インタビュー
筑波大学 体育系 教授
高木 英樹(たかぎ ひでき)さん
1962年岐阜県生まれ。筑波大学体育専門学群卒業、同大学院体育研究科修士課程修了。博士(工学)。三重大学教育学部講師、筑波大学体育科学系講師などを経て2011年より現職。共通教育の水泳実技を担当し、水泳の楽しさを伝えるために学生とともに泳ぐ。2010~2011年は水球男子日本代表チーム監督を務めた。著書に『人はどこまで速く泳げるのか』などがある。
泳ぐヒトと水との関係を知るには、まず水の物性を理解する必要があります。それには空気と比較すればわかりやすいでしょう。
空気には熱を伝えにくい性質があります。例えば寒冷地で窓を二重構造(ダブルサッシ)にする家が多いのは、空気の層を保ち冷たい外気をできるだけ遮断するためです。一方、水は熱を伝えやすいので、水温が体温より低いと身体から熱が奪われます。公共のプールでは水温を28℃〜30℃に設定していますが、競泳の国際大会などでは26℃前後に設定します。なぜなら激しい運動をすればするほど大量の熱が体内で生産され、水温が体温より低くないと十分に熱が放散されず、動きにくくなるからです。
また、水も空気も流体ですが、水は空気よりも800~900倍ほど密度が高いので、水中では動きにくく、速く泳ぐことは体力的にも技術的にも難しいのです。
水の密度の高さは抵抗だけではなく、浮力も発生させます。水に入ると身体が水を押しのけますが、水面に近い(浅い)部分は水圧が低く、水面から遠い(深い)部分は水圧が高い。その水圧の差で身体に浮力が発生するのです。実は空気中でも、身体は空気を押し退けているので浮力が働いているのですが、空気の密度は微々たるものなので感じません。ちなみに海のほうが浮きやすいのは、溶けている塩分によって密度が高いからです。
水の物性の特徴を泳ぐことに関連してまとめると、熱電率が高いので水泳に適した水温があり、密度が高いので抵抗は大きいものの浮力も生むということです。
水中で起こる身体の変化としては、まず体温より低い温度の水に浸かると熱を奪われないように血管が収縮しますが、すぐに代謝を上げて熱の生産性を促進する生理的反応が起こります。冷たい水に入ると身体がブルブル震えるのは、筋肉を収縮させて熱を発生させている証拠です。そして、34℃~35℃の水温だと温かくも冷たくも感じなくなります。これを「不感温度」といい、熱い風呂に浸かる習慣のない欧米人は33℃~34℃と日本人よりも若干低めです。35℃~36.5℃になると自律神経系のなかの副交感神経の活動が優位になり、リラクゼーション効果が高まります。
水圧も人体に影響を与えます。水圧で表面血管が圧縮されると、下半身から心臓へと戻る静脈血の循環量が増え、心拍数が減るのです。イルカやアザラシではもっと顕著で、潜行時の心拍数は安静時より50%減少するといわれています。これは脳の血流を確保する「潜水反射」という生理的機構ですが、陸での生活に適応したはずのヒトも実は潜水反射をもっていることはとても興味深いです。
また、水中では浮力が働くため体重を支える力は少なくてすみます。筋力が衰えた高齢者でも膝や腰への負担が軽くなり、泳いだり歩いたりできるのです。しかも、水中では抵抗も大きいので、体重の負荷が少ないうえ、ゆっくり泳いでもある程度の運動量を稼げるメリットがあります。陸上では転倒が怖くて介助が必要な高齢者でも、水中なら不安定ではありますが浮力と抵抗があるのでバタンと倒れることがなく、安全にリハビリができるのです。
最初のアテネオリンピックで行なわれた競泳は、今でいうところの自由形でしたが、ほぼ全員が平泳ぎでした。イギリスの最古の水泳教本でも平泳ぎを教えています。
平泳ぎがなぜヒトに向いているかというと、顔を前へ上げて手足をかくと気道が開くので呼吸がしやすいからです。かいた手を水の上に出すと、水のなかに浸かっている体積が少なくなるので、浮力が小さくなって沈んでしまいますから、よほど上手に水をとらえていないと顔を上げっぱなしにはできません。しかし平泳ぎは、かいた腕も足もそのまま戻します。浮力の変動が少なく息もしやすいので最初に発達したのが平泳ぎなのです。
平泳ぎでかいた手を水中で戻すと浮力の変動は少ないですが、戻すときに抵抗が生まれるので、速く泳ぐのには向いていません。そこでもっと速く泳ぐために生まれたのが、手を抵抗の少ない空気中に出す背泳ぎ、クロール、バタフライです。これらは平泳ぎとは逆で、足よりも手の推進力のほうが大きいことを利用して速く泳ぐ方法です。日本には横泳ぎの古式(日本)泳法がありましたが、これもかいた手を水中に戻すので速く泳ぐには不利です。
近代四泳法は、平泳ぎ→背泳ぎ→クロール→バタフライの順に生まれました。ドルフィンキックと呼ばれる両足を揃えて上下に動かす現在のバタフライの泳法を考案したのは1954年(昭和29)、日本の長沢二郎選手です。膝を痛めて平泳ぎの「カエル足」ができなくなったことから仕方なく開発した、いうなれば〈怪我の功名〉でした。
しかしながら、もともとずんぐりむっくりの日本人の体型は、手足が長くスラリとした欧米人に比べて競泳には向いていません。水の圧力抵抗は流線型に近い細長い体型のほうが少なくてすむからです。「フジヤマのトビウオ」と言われた古橋廣之進選手が戦後まもなく新記録を樹立し、一時期、日本人が世界の競泳を牽引しました。古橋選手は、できるだけ長く水をかくために、まっすぐではなくジグザクに手を動かすといった独自の泳法技術の工夫によって日本人の不利な体形のハンデを乗り越えたのです。
四方を海に囲まれ河川・湖沼の多い日本ほど水に恵まれた国はありません。日本人は水に入ることにさほど抵抗がないですし、古式泳法も各地で発達しました。そうした素地があったからこそ、古橋選手を筆頭に近代泳法のキャッチアップが早かったのでしょう。日本で水泳の文化が発展してきたのは必然性があったのだと思います。この運動文化を今後も継承したいものです。
昨今、水難事故が頻発しています。もちろん、レジャーとしての水泳、先に述べたような高齢者にもふさわしい運動習慣としての水泳という効用も大切です。しかし、もう一度、基本に戻って、水難事故から自分の身を守る術としての水泳という側面を強調すべきではないでしょうか。
水泳は他人から教わったり、他人の泳ぎをじっくり見覚えて真似しないとなかなか身につかないので、文化として継承していかなければなりません。
私たちは大学で教員志望の学生に次のような教え方を講義しています。水中でパニックにならないためにはどうすればよいか、どうやって助けを待つか、着衣のままどうすれば泳げるか――まずそれらを習得してから、泳法や速い泳ぎ方などについて学ぶのです。
今こそ原点に立ち返り「自己保全能力としての水泳」の運動文化を継承していくべきだと思います。
(2024年4月11日取材)