機関誌『水の文化』77号
みんな、泳いでる?

みんな、泳いでる?
【生活文化・観光研究】

泳ぐだけじゃない?! 海水浴の価値
――「海離れ」の今こそ海辺を考える

夏の季語にもなっている「海水浴」。家族や気の置けない友だちなどと、太陽に照らされたまぶしい海で泳いだ──そんな経験がある方も多いのではないでしょうか。潮湯治から始まったとされる海水浴の歴史と未来について、海洋建築がご専門の畔柳(くろやなぎ)昭雄さんにお聞きしました。

泳ぐだけじゃない?! 海水浴の価値
畔柳 昭雄さん

インタビュー
日本大学名誉教授  香川大学客員教授
畔柳 昭雄(くろやなぎ あきお)さん

1952年三重県生まれ。日本大学理工学部建築学科卒業、同大学院理工学研究科建築学専攻博士課程修了。工学博士。アルミニウムで設計・施工した「アルミ海の家1・2・3」が2006年イタリア・アルミ構造物国際賞を受賞。著書に『海の建築 なぜつくる? どうつくられてきたか』『海の家スタディーズ』『海水浴と日本人』などがある。

海水浴の原点は禊からの潮湯治

現在の海水浴客数は年間600万人ほどですが、ピーク時の1985年(昭和60)は約3800万人でした。その当時、高度経済成長を遂げた日本では、1960年代後半から大衆乗用車が登場し、道路網も整備されて「家族4人で海水浴」が流行しました。

海水浴の歴史を紐解くと、その源は潮湯治(しおとうじ)とされますが、実は禊(みそぎ)にまで遡ります。伊弉諾尊(いざなぎのみこと)が黄泉(よみ)の国から帰って身を清めるために禊を行なったと伝わる宮崎県の御(みそぎ)池は、位置的にはかつて海だった可能性が高い。つまり伊弉諾尊は海水を浴びた、海に身を浸したとも考えられるんですね。

禊はのちに簡略化されて手水(ちょうず)となり、水を浴びる行為も心身を浄化するという本来の意味から、体を洗い清める澡浴(そうよく)へと変わっていきます。そしてこの「浴(あ)み」が潮湯治へとつながるのです。

潮湯治には大きく2つの流れがありました。1つは海の水を汲んできて沸かして浴びるもの。平安時代の貴族はしばしば暴漢に襲われたので外出できず、屋敷や離宮に海水を運んで沸かして浸かっていました。のちに温泉地で逗留して湯に浸かる「湯治」に変わりますが、それになぞらえて海水に浸かることを潮湯治と呼んだのです。

もう1つは、地域の習わしとして生まれた民間療法としての潮湯治です。愛知県常滑市の大野浦では平安時代から海に浸かって波を浴び、浜辺で甲羅干しをすることを日に何度も繰り返しました。江戸幕府二代将軍の徳川秀忠も腫れ物の治療で大野浦を訪れ、潮湯治を行なったと伝わっています。

海水浴とプールの利用客数の推移

提供:畔柳昭雄さん

語源は泳ぐではなく「海の水を浴びる」

海水浴という言葉が登場するのは江戸後期でした。この頃には病(やまい)の人だけでなく、健康な人たちも海に入って波と戯れるようになります。つまり潮湯治という言葉では説明がつかなくなり、海で水浴び=海水浴と呼ぶようになったのです。ただし、読みが「かいすいよく」なのか「うみみずあみ」なのかは判然としません。

幕末の医官、林洞海(どうかい)がオランダ語を翻訳するなかで海水浴も日本語にしたのですが、まさに直訳で海水浴。英語では「sea bathing」です。日本人は「sea swimmingじゃないの?」と思いますが、ドイツ語もフランス語も「泳ぐ」ではなく「浴びる」。たしかにヨーロッパの人たちは海辺で泳ぐよりも日光浴をするイメージが強いですね。1874年(明治7)にある新聞が「かいすいよく」とルビを振っていますが、しばらくは「うみみずあみ」と使い分けていたのでしょう。

明治時代になると、治療法としての海水浴に関心が高まります。例えば後藤新平は『尾張名所図会』に描かれていた潮湯治・海水浴の人びとの姿に興味を募らせ、1879年(明治12)に愛知県の佐久島へ、翌々年には大野浦へ出向いています。科学的知見に基づく潮湯治・海水浴の近代化が必要だと考えた後藤は啓蒙書として『海水功用論 附海濱療法』を1882年(明治15)に出版します。明治政府も衛生政策普及の一環として海水浴の普及に努めます。ところが、「泳ぐ」という行為に関しては1888年(明治21)頃まで触れられていません。

江戸時代後期に描かれた『尾張名所図会 尾張大野潮湯治の図』

江戸時代後期に描かれた『尾張名所図会 尾張大野潮湯治の図』。海に入っている人びとは腰まで浸かっているだけで何もしていないように見える。この頃は海に入ること自体が珍しい行為だったのだろう。浜辺では甲羅干しする人びとの姿もある 提供:愛知県図書館

武術の一つとなった海や川で泳ぐこと

泳ぐに目を向けて時代を遡ると、弥生時代から海部(あまべ)(または海人部)と呼ばれる集団がいて、海に潜って水産物を採取し、大和朝廷にも献上していたそうです。これはまさに生きるための技で、口伝や経験則で継承されたのでしょう。

鎌倉時代になると、海や川で泳ぐことを意味する「水練」や「水術」という言葉が用いられます。武術として技の研鑽と体系化が図られていくわけです。泳ぎに長(た)けていたとされる織田信長や徳川家康が家来たちに水練、水術を奨励したことは想像に難くありません。「武芸十八般(ぶげいじゅうはっぱん)(注1)にも水術は含まれています。

ペリー来航などに刺激された幕府が1856年(安政3)に江戸の築地に設けた武術調練機関「講武所(こうぶしょ)」では、剣術や砲術に加えて水術も演習科目でした。同時に各藩が藩校や私塾を開く際に水練所を併設する動きも盛んになります。

明治時代に講武所や各藩の水練場は廃止されますが、古式泳法、今は日本泳法と呼ばれる古来の水術が有志によって水練所や稽古場が復活します。また、現在の学習院大学、東京大学、日本体育大学が相次いで水練所を開設。その多くが隅田川河畔や浜町河岸(東京都中央区人形町)に集中しますが、隅田川の水質の悪化や大型貨物船の運航開始などから1917年(大正6)に警視庁が隅田川の水泳禁止を発令。水練場は上流部の荒川、海に近い河口部、海に面した大森や羽田へと分散していったのです。

(注1)武芸十八般
武芸十八番ともいわれた。柔術、剣術、居合術、水術などが含まれるが、18種の呼称や種目などには諸説ある。

自然と親しむ場として海と海辺に注目を

翻って現代に目を転じると、「海離れ」「海水浴離れ」と言われて久しいです。海で泳ぐと体がベタベタする、砂がつく、道路が混むなどの理由で海水浴が避けられる傾向にあります。

しかし、「泳ぐ」行為だけで考えれば決して激減しているわけではありません。ナイトプールや有料のウォーターパークもある今、海水浴客数とプール人口を合算すればまだ2000万人近い人びとが泳ぎを楽しんでいるのです。

むしろ監視員や費用が工面できず開設を見送る海水浴場が増えていることが気がかりです。仮想的市場評価法(注2)を用いて海水浴場の使用料を調べたところ、「一日500円なら払う」という結果が出ました。ならばそれを海岸整備やごみ処理にあてればよいのです。地元の人なら行かない危険な場所で泳いで事故に遭うことが増えているのは、海辺が遠い存在になってしまっているからです。

薬に頼らず健康になるために海水浴を奨励した後藤新平をはじめとする明治期の人たちは、海水の科学的成分や物理的効能以外にも海砂浴(かいさよく)や海気浴(かいきよく)を勧めていました。そこに立ち返ってはどうでしょう。春は潮干狩りを、夏は泳いで日光浴を、秋は波打ち際を散策して疲れたらコーヒーを飲みつつ海を眺める──海水浴だけではない、自然と親しむ場として海と海辺に目を向けてほしいですね。

(注2)仮想的市場評価法
アンケート調査を用いて人びとに支払意思額などを尋ねることで、市場で取り引きされていない財(効果)の価値を計測する手法。

(2024年4月26日取材)

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