国営木曽三川公園 138タワーパークの展望階(地上100m)から木曽川流域を望む。
手前に見える橋を渡って坂本さんは通勤していた
河川を軸に市民団体やまちづくりの調査研究を行なう坂本貴啓さんが全国の一級河川「109水系」を巡り、それぞれの川が流域の人びとと地域社会に及ぼす影響を探ります。今回は坂本さんが社会人として3年半過ごした「木曽川」を巡りました。
金沢大学
人間社会研究域地域創造学系 講師
坂本 貴啓 (さかもと たかあき)
1987年福岡県生まれの川系男子。北九州で育ち、高校生になってから下校途中の遠賀川へ寄り道をするようになり、川に興味をもちはじめ、川に青春を捧げる。全国の河川市民団体に関する研究や川を活かしたまちづくりの調査研究活動を行なっている。筑波大学大学院システム情報工学研究科修了。白川直樹研究室「川と人」ゼミ出身。博士(工学)。国立研究開発法人土木研究所自然共生研究センター専門研究員、東京大学地域未来社会連携研究機構北陸サテライト特任助教を経て2023年10月より現職。
109水系
1964年(昭和39)に制定された新河川法では、分水界や大河川の本流と支流で行政管轄を分けるのではなく、中小河川までまとめて治水と利水を統合した水系として一貫管理する方針が打ち出された。その内、「国土保全上又は国民経済上特に重要な水系で政令で指定したもの」(河川法第4条第1項)を一級水系と定め、全国で109の水系が指定されている。
長野県木曽郡木祖村、鳥居峠南斜面付近に発し、木曽十一宿と並行して流れて伊勢湾に入る。キソは吉蘇とも書かれ、クマソに対する豪族がいた国とする人もいる。
水系番号 | 54 | |
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都道府県 | 長野県、岐阜県、愛知県、三重県、滋賀県 | |
源流 | 鉢盛山(2446m) | |
河口 | 伊勢湾 | |
本川流路延長 | 229 km | 8位/109 |
支川数 | 391河川 | 8位/109 |
流域面積 | 9100 km2 | 5位/109 |
流域耕地面積率 | 6.2 % | 78位/109 |
流域年平均降水量 | 2302.6 mm | 29位/109 |
基本高水流量 | 1万6000 m3/ s | 10位/109 |
河口換算の基本高水流量※ | 3万1085 m3/ s | 3位/109 |
流域内人口 | 193万6593人 | 10位/109 |
流域人口密度 | 213 人/ km2 | 41位/109 |
「先生、前回の手取川編読みましたよ。手取川の方に山を越えて来る前、先生は木曽川のあたりにいたんですよね。どんなところだったんですか?」と学生に聞かれた。
金沢大学に着任してから半年が経ち、いよいよ新設研究室に学生が配属されてきた。年の差がちょうど私と師匠(筑波大学の白川直樹准教授)と同じで、私もそんな年齢になったことを実感する。
北陸育ちの彼はまだ日本海側の川しか知らない。日本海側と太平洋側の川の違い、川の勾配の違い、河川スケールの違いなど、さまざまある。大河川の木曽川をぜひ彼に伝えたいが、何が一番驚きの対象だろうか。そんな期待感ももちながら、木曽川から中央分水嶺を越えて手取川にやってきた私は、再び分水嶺と記憶を遡り、教え子を連れて木曽川を巡ることにした。新社会人の頃に見聞きした素晴らしき木曽川を紹介したい。
木曽川は長良川(ながらがわ)、揖斐川(いびがわ)とともに「木曽三川」と呼ばれ、それぞれ川が長い。この一つだけでも大流域に相当する。そんな木曽川の特徴を聞かれたら、私は「堤(つつみ)」なしには語れないと思う。木曽川水系には幾多の種類の堤防とそのゆかりがある。暮らしの成り立ちともかかわり深い。御囲堤(おかこいづつみ)、輪中堤(わじゅうてい)、背割堤(せわりてい)、畳堤(たたみてい)など堤防だけでもさまざまな伝統がある。
今回どこが木曽川水系の特徴の一端として紹介しやすいか考えた際に、堤が多く分布する木曽川中流域に着目することにした。
博士課程を修了し、自然共生研究センター(以下、共生センター)で研究員として働きはじめたのは2017年(平成29)4月。私は川の名前がついた木曽川駅の付近から自転車で出勤していた。家の前の暗渠の用水路を遡り、木曽川の堤防に出てからは気持ちよく自転車を漕いだ。
川を渡り、再び堤防沿いを漕いでいくと、職場のある河川環境楽園に到着する。「職場は?」と聞かれたら「楽園です!と答えるんだよ」と先輩研究員に最初に教わったものだ。ここは日本で唯一の国の河川環境の研究所で、木曽川に置かれている。人工的に800mの3本の川をつくり、川ごとに対照実験(流量を変える、水温を変える、蛇行の有無など)を行ない自然状態に近い形で、さまざまな実験ができる世界最大級の施設だ。ここでの基礎研究の成果は全国各地の川づくりの現場で活かされる。今から25年前、当時私は小学校4年生、教え子はまだ生まれてもいない。この時に共生センターはできた。
ここで仕事ができたことは研究者としてのキャリアの幅を広げてくれた。先輩の調査を手伝うなかで、さまざまな河川環境研究のアプローチを知ることができたこと、全国各地から河川行政の人たちが相談に訪れ、課題を俯瞰的に把握できたことなど、今の私のような大学の一人研究室主宰の立場では知り得なかったことばかりだ。
また、共生センターは木曽川という地域に根ざした研究所という面ももっている。25年間、全国から4万人以上の人が来ているが、周辺の中高生、行政関係者、地域住民もよく見学に訪れている。ある日、地域住民が共生センターを訪れ、周辺地域で川を活かしたまちづくりを行ないたいがどうしたらいいかわからないと相談があった。
そこで共生センターもサポートし、住民主体の「各務原(かがみはら)木曽川かわまちづくり会」が発足した。複数回にわたるワークショップを行ない、夢提案を絵にまとめ、国交省の木曽川上流河川事務所長、各務原市長に披露した。これをきっかけに、絵に描いた内容を実現するための社会実験が今も行なわれている。共生センター在籍時に、研究のアウトリーチとして、地元のために還元できたことの一つかもしれない。
木曽川ではとにかく堤防沿いを走った。車でも自転車でもランニングでも川に沿って通勤し、出かけて、散歩した。何気なく走っていた堤防それぞれに名前と役割がある。堤防の成り立ちに歴史あり。
まずは「御囲堤」を紹介したい。御囲堤は木曽川左岸側、尾張藩(愛知県)側に発達した堤防で、1609年(慶長14)に徳川家康が尾張藩に命じて犬山~弥富の48kmの堤防を築いた。私はこの現役の土木遺産の上を通勤していたことになる。尾張御囲堤に対し、対岸の美濃藩側は親藩の尾張藩側よりも若干低く堤防を設けることが取り決められていたため、部分的に水防を行なうしかできなかった。
そこで編み出されたのが「輪中堤」である。集落ごとに堤防で囲い、水害から土地を守る築堤が行なわれた。木曽三川には輪中集落があちこちにつくられた。学生は「川でもないところに堤防があるってなんか変な感じがします……」と周囲に続く堤防を見渡していた。
輪中堤は集落の生命線ともいえる。立派な堤防で囲われているが、それが万一破られた時のことも想定し、家屋を高くする「ごんぼ積み」「水屋(みずや)」「助命壇(じょめいだん)」「上げ舟」など、二重三重の備えも行なった。
土地のさまざまなところに水防の術を見ることができるのは木曽川特有の景観ともいえる。
木曽川の支流、長良川の岐阜市付近には、昭和初期にできた日本初の「畳堤」が存在する。スリットに畳をはめ込めるようになっており、水位上昇が収まらない時、畳をはめ込んで少しでもあふれないようにする構造。畳堤は、長良川、揖保川、五ヶ瀬川の3河川にしかない。
時は進み、1753年(宝暦3)、美濃側の水害解消のため堤防を本格的に築堤することとなる。ここでつくられた大規模堤防が「背割堤」。薩摩藩の手伝い普請により木曽川、長良川、揖斐川の流路を分離させる大工事(宝暦治水)が行なわれ、川の流れを安定させ、近代治水の骨格ができあがった。
この薩摩藩の大偉業ともいえる工事の裏にあった多くの犠牲を忘れることはできない。背割堤築堤工事は難航し、多くの薩摩藩士が命を落としながらも続けられ完成した。当時の住民たちからすると自分たちのために遠く離れたよその国の人らが犠牲になったことはいたたまれなかったであろう。
薩摩藩士の追悼と偉業を称えつくられた神社が背割堤上にある「治水神社」である。この神社は全国から河川の工事関係者が訪れる。
背割堤には木曽川時代の思い出が詰まっている。2021年(令和3)9月、背割堤をいい川・いい川づくりワークショップのオンライン配信企画として、「自転車水リレー」を行なった。私はこの企画の責任者であった。コロナ対策と併用しながら全国大会を誘致する難しい判断がなされていた頃、会場に来られない人のために、ときどき野外から中継を入れて川の臨場感を届ける企画をしたらどうかと考えた。
中流の長良川国際会議場から河口の七里の渡しまでの区間を往復し、上流の水と川の幸を海に届け、海の幸を持ち帰るもので、自転車で走者役を担った大学生たちが夕日の宝暦治水の賜物、背割堤の様子を実況し、治水神社を参る姿は感動でもあった。私はこの水リレーの翌日に白山・手取川へ旅立ったので、この水リレーこそが木曽川最後の大仕事でもあった。
堤防は、川側のことを堤防の外、堤外地(ていがいち)と呼び、家や畑などのある堤防で守るべき側を堤内地(ていないち)と呼ぶ。堤防は洪水防御の手段であると同時に、さまざまな境界にもなり得る存在だ。水害は解消され暮らしは安全になったが、氾濫したところにできた湿地は水はけのよい土地となり、そこに生息していた生きものたちは行き場をなくした。行きついたのが河道内氾濫原(かどうないはんらんげん)だった。生きものたちは木曽川の広大な河川空間のなかにある、本川とつながる流れの緩い「ワンド」やときどき水に浸かる「たまり」などを代替地として生息している。
治水神社のほか、木曽川にはもう一つ川の神社がある。私の住まいからほど近い「堤治神社(つつみはり(ていじ)じんじゃ)」だ。木曽川中流域にある土の神様(埴安姫神)を祀った神社である。
週末に散歩している時に偶然見つけた。名前を見て川を感じずにはいられなかった。「堤を治める」なんて直球な名前の神社を聞いたことがない。治水と密接なかかわりがありそうだと思い、参拝したのがきっかけだった。実際、延喜式にも、「古来木曽川の氾濫は常に住民を脅かしたる事は史書に依りても明白なり。景雲以来、その災害の数を挙げても数え難し、故をもってその堤防の中心の地に、木曽川全堤防の鎮守として土の神・埴安姫神を奉斎し、堤治神社と称え奉るなり」と登場するという。
古く(706年)から、この場所に鎮座することを考えると、おそらく破堤リスクの高い場所を治める必要があり、そこに神様を祀ることで日常的に気象・水文観測などを行ない、現代の河川事務所的な役割を果たしていたのだろう。
堤治神社で宮司さんに「大亀伝説」という伝説を聞いた。昔、大洪水になった際に神の使いである大きな亀が現れて堤防の決壊を防いで住民や田畑を守ったという伝説だ。この話からはここは堤防が切れやすく、住民の関心事の高かった場所であったことが窺い知れる。この大亀は治水技術の一つで、大岩を置いて堤防に水が直接当たらないようにする「水制工」だったのではないかとも思う。
この神社には地元の工事関係者や造園業者、消防団員などが安全・安心を願って参拝に訪れる。私たちも宮司さんに祝詞(のりと)をあげていただき木曽川の治水の安寧を願った。
安寧を祈った過去の話を思い出す。九州の川で氾濫が起きた時、友人の河川管理者に差し入れ物資とともに、ゲン担ぎで堤治神社と治水神社の御朱印を一緒に送った。当時、水害対応に最前線で当たっていた友人は、「木曽川の由緒正しい治水の神社の御朱印と思うとさらに気合いが入るよ!」と水害対応への意欲を新たにしていた。
堤防の発達とともに、暮らしの安心が増したのはいうまでもないが、絶対はない。各地で破堤が起こっていることもそれを物語っており、木曽川も同様である。
学生に「木曽川の堤防沿いにちょこちょこある、この小屋なにかわかる?」と質問したら「前、別の川で見た水防倉庫ですかね? 木曽川沿いにはたくさんありますね」と回答した。
木曽川では治水だけなく、自分たちの命は自分たちで守る水防が発達した。その一つが「水防団」。木曽川の水防団が全国に多くある水防団と異なるのは「専任水防団」をもっていることである。通常は消防団が水防団を兼務するところが多く、消防団員が消防訓練と併せてときどき水防訓練も行なうのだが、木曽川・長良川周辺の岐阜の市町村は消防団と水防団を分けている。
専任水防団の一つが、笠松町、岐南町、岐阜市、各務原市で構成し、団を設ける「木曽川右岸地帯水防事務組合」。岐阜市5団、笠松町6団、各務原市3団、岐南町2団の計16団448名(2024年4月8日当時)の団員で構成され規模も大きい。専任なので水防団行事も他に比べて多い。大雨の降る出水期に備えて年5回程度水防訓練が行なわれ、団員が水防技術を高め合っている。
何よりも驚いたのが、近年は団員の高齢化や継続団員の減少により水防技術の継承が課題となっているなか、木曽川では新しく水防団が増えた(長森南)。水害の増加で水防工法への需要は高まっている。水防工法を懸命に磨く風景も木曽川ならではの風景といえよう。
木曽川すべてを回るにはとても時間がかかるので「堤」を視点に見てきた。学生に何が印象に残ったか聞いてみた。一つは「川が南に向かって流れるのが変な感じがする」。これは日本海側出身者らしい感覚だろう。もう一つは「堤防の成り立ちが複雑で奥深い」。堤防は時代とともに発達し、暮らしも変化してきた。堤防の上に立ち、堤防の内外の風景を眺めることは社会と自然の関係性をひも解く重要な視点場である。
新社会人だった自身が学んだ木曽川の複雑さ、おもしろさを学生にどこまで伝えられただろうか。
金沢に帰る車中、学生がぼそりと言った。「先生、まだなんとなくですが、僕、堤防をテーマにした研究やってみたいです」。堤防からどんな社会と川の関係を見て行こうか、これからの研究構想に胸を膨らませながら家路についた。
(2024年4月4~6日取材)