(上)1990~1991年のミツカン本社ビル建設工事の際に出土した木製の上水道遺構(提供:招鶴亭文庫)
(下)セミナー会場に展示された江戸の水道管(左:東京都水道歴史館蔵)と半田の水道管(右:ミツカングループ蔵)
2022(令和4)年11月23日、セミナー「木で作られた水道管~江戸時代のインフラを支えた上水道のかたち~」を開催しました。講師は、東京都水道歴史館 企画調査責任者の金子智さんと、東京都埋蔵文化財センター 主任調査研究員の鈴木伸哉さんです。お二人には、2022年春にミツカングループが所蔵する愛知県半田市のミツカン本社敷地で出土した江戸時代の木樋(もくひ=木で作られた水道管)の調査・分析と当時の文献史料の解読をお願いしました。その結果も含めて、金子さんと鈴木さんの研究フィールドである近世都市・江戸の水道「江戸上水」と半田に敷設された水道「半田水道」を比較し、当時の木製水道管「木樋」についてお話しいただきました。会場では実際に出土・保管されている木樋も展示しました。
東京都水道歴史館 企画調査責任者
金子 智さん(かねこ・さとし)
1966年山口県生まれ。1990年~東京都文京区・港区・千代田区教育委員会等で遺跡調査に従事。1999年早稲田大学大学院文学研究科史学(考古学)専攻博士後期課程単位取得退学。2008年高浜市やきものの里かわら美術館教育研究課長。2017年より現職。学生時代から東京都心部で江戸遺跡の発掘調査に従事。大名屋敷、町家、寺院などの発掘を通して江戸上水の分析を行なう。
東京都埋蔵文化財センター 主任調査研究員
鈴木 伸哉さん(すずき・しんや)
1977年千葉県生まれ。2006年早稲田大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。日本学術振興会特別研究員PD等を経て、現在(公財)東京都スポーツ文化事業団 東京都埋蔵文化財センター 主任調査研究員を務める。遺跡から出土した木材に基づいた木材利用の歴史を研究。特に江戸時代の人々と森林とのかかわりについて関心をもつ。
江戸時代にも現代と同じように上水道は引かれていました。水源から水を引き、家庭や屋敷内に引き込むのですが、今のように全家庭に行きわたっていたわけではなく、井戸を掘って水が得られるような場所に上水道はなく、地下水が汚れていたり、海のそばで塩水が混じるような場所に上水道が引かれていたのです。
ポンプなどの動力はありませんので、水は高低差を生かした自然流下が基本です。また、水を配る管(水道管)も木や石など身近な材料を用いてつくられました。
江戸時代で最も規模の大きな上水道は「江戸」の上水です。主に玉川上水と神田上水、この2系統が今の東京都心部に飲み水を送っていました。
一方、江戸以外の都市にも上水道があったことが各地で確認されています。今回はミツカングループの本拠地、愛知県半田市に目を向けましたが、半田は酒や酢をつくる醸造家が多く、江戸後期にその方々によって水道が設置されました。いわば私設の水道で、これは国内を見ても民主導の珍しい事例です。
江戸時代の水道管は、木でつくられた樋「木樋(もくひ)」が一般的でした。今は「もくひ」と呼んでいますが、江戸後期の史料には「きどい」としたものが散見されます。「木戸樋」と書かれたものもあり、どうやら「きどい」と呼ぶことが多かったようです。
同様に石の水道管は「石樋(いしどい)」、竹のものは「竹樋(たけどい)」、川などを越える水管橋は「掛樋(懸樋・かけどい)」と読まれたものと考えられます。ただし「掛樋」を「かけひ」、「潜樋」を「くぐりひ」と読ませた史料もあり、地域や時代によって違っていた可能性はあります。
今日は学術用語として「もくひ」「せきひ」「ちくひ」に統一してお話しします。
江戸時代から「上水」と「水道」の表記はありました。いずれも同じ意味ですが、江戸では神田上水・玉川上水など「上水」が一般的です。半田では「引水」「ふせ越」「水道」の表記が見られるものの「上水」と呼んだ事例は確認できていないので、ここでは「江戸上水」「半田水道」と呼びわけます。
江戸上水と半田水道、いずれも中心的な水道管は木樋です。鹿児島では石をくり抜いた石管を、赤穂では備前焼の陶管を用いた例などもありますが、この時代は木樋が一般的でした。
ご存じのように江戸は1590年(天正18)に徳川家康が入府、1603年(慶長8)に幕府を開いてインフラを整えていきますが、上水もその一環で整備されました。特に江戸城の東側は低地が多く水を得るのに不便でしたので、比較的早い段階に上水が設置されました。 『東京市史稿』上水篇第一巻「正徳末頃ノ上水圖」(東京都公文書館蔵 ※天地反転)を見ると、西(左)から東(右)へ向かう青で描かれている流れが玉川上水で、中心部から東(右)へ向かう赤い流れが神田上水。これが江戸の二大上水で、江戸市中の飲み水として利用されていました。
郊外から水路で導かれた水は、市街手前に水門を設け、暗渠(地下)化して配水しました。水量が多いところでは石樋が、水量が少なくなると木樋や竹樋などが水道管となります。また管路の要所に方向転換およびメンテナンスのための桝(ます)が設置されました。水は、最終的には「上水井戸」と呼ばれる井戸に導かれ、人びとは釣瓶(つるべ)などで汲んで使います。上水井戸は、江戸では桶を逆さにしたものが多く使われていました。
ちなみに、神田上水と玉川上水は、1901年(明治34)に廃止されるまで利用されたので、実は明治時代にも木樋を用いた水道は使われていたことになるのです。
ミツカングループの本社がある愛知県半田市は知多半島に位置しており、古くから醸造業が盛んでした。醸造業には水が大量に必要ですが、知多半島は細長い地形で河川も少ないため、水を得るには苦労した土地です。
醸造用の水は、当初はあちこちの井戸から汲み、それを運んで使っていたようです。醸造家による共同井戸もあり、1804年(文化元)には7名の酒造家による共同井戸の修理が行なわれた記録が残っています。しかし、醸造業が発展するとさらに大量の水が必要となり、「半田水道」が計画されました。
まず1819年(文政2)、山のふもとに共同井戸を掘り、木樋で水を引く計画がつくられます。ミツカンの創業者である中野又左衛門家によって敷設され、1821年(文政4)3月に完成しました。総延長は250間(450m)とそれほど規模は大きくありません。絵図が残っていて、これを見ると左上が水源で、実際に使うのは右下。井戸から水を引いているのがわかります。
次に大規模な水道がつくられたのは1850年(嘉永3)。三代目中野又左衛門が会下山(えげさん)下から引いています。こちらも絵図が残っていて、川底を水道が通るという変わったつくりをしています。総延長は660間(1200m)にもおよびます。
江戸上水は川から水を引いていますが、半田水道は井戸を掘って、そこから湧き出た水を木樋で引いていますから水質はかなりよかったはずです。江戸上水は幕府がつくり、半田水道は私設ですが、構造自体はよく似ています。ただし、半田水道の木樋の太さはほぼ一定であること、方形の桝はあまり使われていないことが江戸上水との違いです。
また、引いた水は主に醸造用として使われたと思いますが、一部は生活用水にも用いられたようです。
江戸上水や半田水道に使用された木の水道管「木樋」について、これまで発掘された実物や史料から読み解いていきましょう。
まず半田水道ですが、1990年(平成2)から1991年(平成3)にかけて行なわれたミツカン本社ビル建設工事の際に出土したものを分析しました。木材は高級な「ヒノキ」が多く使われています。同じ時期の江戸上水は「マツ」が多いのと対照的です。
出土した木樋を見ると内部が相当摩耗したものもあり、かなり長い時間使われたことがわかります。木樋は11~12.5cm角が主で、江戸上水と比べると細いですが、太さはだいたい揃っています。また、特殊な加工が施されているものもあります。先端に穴が開いていて、栓もされている。これは井戸に刺さっている部分で、水を上向きに噴出させるための加工です。江戸上水ではあまり見ないタイプです。
木樋の構造は、角材の中心に溝を掘り、上から蓋を釘止めしている「彫樋(ほりどい)」と呼ばれるもの。これは江戸上水と同じです。ただし、半田水道は蓋が異材のものが目立ちます。木目が揃っていないのでよくわかります。上水井戸も江戸上水とほぼ同じで、側板(がわいた)や底板が出土しています。
興味深いのは、『中埜家文書』にさまざまな記録が残っていることです。嘉永年間の木樋については「四寸角で一丈五尺の長さ」とされており、その納品方法については異なる3種類の絵が残されています。また、樋はヒノキ、木樋と木樋をつなぐ継手材・小間頭(駒之頭)はマツ、上水井戸の側板はネズコなど材料まで指定しています。
半田水道の木樋はきれいな方形断面で、表面も平滑になるよう調整されていて、とても丁寧につくられている印象を受けました。
一方の江戸上水ですが、幕末になると木樋の表面調整が雑なものが多いです。材は大きくても水が通る穴は小さく、中には材の中心から穴がずれているものも見られます。また、江戸上水では末端の水道管に竹を用いる場合がありますが、半田水道は基本的に木です。
用語にも若干の違いがありました。例えば、木樋と木樋をつなぐ継手材は、江戸では「駒之頭」と書きますが、半田水道の史料では「小間頭」と記されている。読みは同じなので、語源は一緒でしょう。また、半田では井戸の側板を「井戸こい」と表記していますが、江戸の史料には見られません。
以上、江戸上水と半田水道の木樋について駆け足でご説明しました。次に江戸や半田の木樋にはどんな材を用いているのか、それにはどのような意味があるのかなどについて、鈴木伸哉さんに話していただきます。
東京都内の遺跡を発掘調査する仕事をしていますが、同時に遺跡から出土する木でできた道具「木製品」も研究しています。出土した木製品に使われた木の種類や樹齢から、過去の人々が森林とどのようにかかわっていたのかを調べています。
2022年(令和4)の春、金子さんと一緒にミツカングループが所蔵する、愛知県半田市の醸造家で使われていた江戸時代の木樋を調査する機会をいただきました。今日はその結果と、同じ時代の江戸、今の東京から出土した木樋を比較して、当時の水利用の場における木材の使い方について説明します。
木樋には「どんな木」が使われていたのか、樹種だけでなく、どこに生育していたのか、あるいは樹齢やその木は何年前に生育し、伐採されたのかといったことを調べますと、最終的には、なぜその木を使ったのかが明らかになります。
未知の植物、あるいはその一部が何の植物なのかを調べることを「同定」といいます。すでに知られている植物と比較することで、その植物の所属すべき分類群(科や属、種など)を決定します。
木になる植物には、大きく分けて次の3種類があります。
(1)裸子植物の針葉樹=スギやヒノキ、マツなどのグループ
(2)被子植物の広葉樹(双子葉類)=サクラやカエデ、ケヤキなどのグループ
(3)広い意味での木(単子葉類)=竹やヤシ、シュロなど
このうち木樋に使われるのは大半が針葉樹で、マツ科とヒノキ科という2つのグループが多くを占めます。
マツ科にはアカマツの他に多くの種があります。
ヒノキ科は、主に5つの属からなります。ヒノキ属のヒノキ、サワラと、そしてクロベ属にはクロベ(ネズコ)、アスナロ属にはアスナロとその変種のヒノキアスナロ(ヒバ)があります。以前はスギ科に属するとされていたスギも、近年の分類ではヒノキ科に含まれます。これらはいずれも木材として優れていて、ヒノキ、サワラ、ネズコ、アスナロに、コウヤマキ科のコウヤマキは、木曽地方では「木曽五木」と称されています。
マツ科もヒノキ科も、いずれもまっすぐな幹をもち、木材になると見分けるのが難しくなります。正確にこれらの樹種を調べるには、木材の組織を顕微鏡で観察する方法があります。例えばアカマツにはマツヤニが通る樹脂道があるけれど、ヒノキにはない。こういった点をもとに識別します。
樹種を同定するもっとも簡単な方法は、木材の組織をおよそ1細胞くらいの厚さに、切片を薄く削り取ってプレパラートにし、顕微鏡で観察すること。機械ではなく、髭剃り用のカミソリを使って切片を取る「徒手切片法」(としゅせっぺんほう)です。例えばヒノキとスギとを顕微鏡で観察すると、分野壁孔(ぶんやへきこう)と呼ばれる小さな細胞の形が異なり、こうした点から同定できます。
木材から得られる情報には「年輪」もあります。数を数えれば樹齢がわかり、幅の広い狭いを測れば成長パターンがわかります。成長速度は一定ではなく、天候などいろいろな要因で個体ごと、地域ごと、年ごとに異なります。
模式的な図を一つ示します。これはスギの過去10年間の成長量の変動を、時間軸を横軸に、年輪幅を縦軸にとったものです。2020年は冷夏だったので成長が悪かった、2017年は猛暑で成長が悪かった、2013年は雨が少なくて成長が悪かった、など地域の気候の影響を受けたスギの成長曲線が描けます。同じ地域の複数の個体も同様のデータをとって平均することで、この地域におけるスギの標準的な成長のパターン、つまり「標準年輪曲線」が得られます。
ヒノキならヒノキの樹木の年輪の年ごとの広い狭いは一定の地域、樹種に共通するので、いま生育している樹木から過去の建造物や遺跡から出土した木材にさかのぼって年輪のパターンを調べて年輪パターンのものさし(標準年輪曲線)をつくり、そこに木樋の年輪パターンをあてはめます。すると、その木樋に使われた木が何年前に生育して、何年前に伐採されたのかがわかります。
この分野を「年輪年代学」と呼びます。
樹種や年輪を調べて、木樋にどのような木が使われていたのかを調べる年輪年代学の手法で解析した事例を1つご紹介します。
JR総武線の錦糸町駅と両国駅の間にある墨田区亀沢で発見された陸奥弘前藩津軽家の上屋敷跡です。弘前藩はこの土地に敷地をもらい、1689年(元禄2)にこのあたりを通っていた本所用水を引き込んだことがわかっています。敷地内から木樋や駒頭、井戸など上水施設のほか、多数の木製の遺構が検出され、これらについて樹種と年輪を調べました。
すると、さまざまな遺構にアスナロが大量に使われていることがわかりました。アスナロは中部山地に多く、その変種のヒバは東北地方を中心に分布しますが、両者は双子の兄弟ほどの違いしかないため、木材組織からは識別できません。しかし、木材のなかには弘前藩で使われていた藩の御用木に押す「卍」の印の極印が認められたので、江戸屋敷で使われていたのは青森をはじめ東北地方に多く分布するヒバの可能性が高いと考えられます。
さらに、これらに使われたのはひとかかえもある大きさの木材で、そこには樹齢200年以上、ものによっては300年近い非常に樹齢の高いものが使われていました。現在、このような年輪の詰まった樹齢の高い優れたヒバの材はほとんどなく、たとえ存在したとしても大変な高額になるような希少なものです。
このほかの事例も含め、江戸における木樋をはじめとした上水施設に認められた木材利用を見ますと、特に大名屋敷では木樋に樹齢200年超、300年近いようなヒノキやヒバを数多く使っていました。これらの天然分布や年輪を調べると、17世紀代に各藩の領内で切り出され、江戸に持ち込まれた可能性が高いと考えられます。
大名屋敷をはじめとする盛んな都市建設により18世紀以降は日本列島の天然林資源が著しく枯渇したことが知られていますが、木樋における木材の使い方を見てもそれは頷けます。
では、江戸中期以降の半田の醸造家はどのような木材を水道に使っていたのでしょうか。
ミツカングループの所蔵する半田市の醸造家で使われていた木樋などの上水施設を調査しました。多数の資料についてその樹種を同定し、また一部については年輪を計測し、どのくらいの樹齢の何の木が使われていたのかを明らかにしました。木樋から大きさ約1cm四方の木片を切り出し、そこからプレパラートを作成しました。
その結果、木樋や駒頭(小間頭)、井戸などの種類ごとにはっきりした傾向が認められました。木樋にはヒノキが多用され、スギがこれに続きます。これらを接続する駒頭には、もっぱらアカマツが使われていました。井戸の底板にはスギが多く使われていた一方、側板にはアスナロが用いられていました。文献史料に「井戸の側板にはクロベを使ったと記載されている」と金子さんから聞いてどきりとし、プレパラートを見直しましたがやはりアスナロでした。
資料を輪切りにしたり穴を開けたりはできませんので、特に駒頭の木口を写真に撮り、画像上の年輪を計測しました。若干の例を示すと、駒頭2と駒頭16はおおむね樹齢80年程度のアカマツが使われていました。
ただし、アカマツは耐朽性が低いとされていますので、それを駒頭に用いた半田の醸造家は間違った木材、安く使える粗悪な材を使っていたかというと、そうではないようです。
平井信二さんがまとめた『木の大百科』(朝倉書店 1996)のアカマツの項目を見ると、たしかに耐朽性は高くないとされていますが、一方で「心材の保存性は中庸であるが水中にある場合は長くもつ」という記述もあります。つまり、水と接点のある用途にアカマツは大変適した材なのです。
半田の醸造家の木樋の木材利用には、こうした木材や水に対する深い理解が現れていることがわかります。
また、江戸でも半田でも、ヒノキやアスナロ、ヒバなどのヒノキ科の木材が上水施設に多用されていました。前述の『木の大百科』のアスナロ・ヒバの項には「材の耐朽性が大きいのはその精油分に殺菌性の高い各種の成分が含まれているためである」とあります。つまり木樋にヒノキ科の樹種を用いることで安全で清潔な水が得られることを、当時の人々は理解していたものと思われます。
しかし、ヒノキ科の樹木はどこにでも生育しているわけではないので、入手するにはかなりの費用がかかったと思います。半田の周りにヒノキは比較的多いものの、サワラやアスナロ、ネズコはありません。もっとも近い中部山地からもやや距離があります。スギも近くには生育していません。
あらためて半田の立地をみると、東は境川に臨み、また矢作川や当時もっとも天然林資源に富んでいた飛騨や木曽の山地に源をもつ木曽川など大河川の河口にも近いことがわかります。ミツカングループの本社周辺にも運河が巡っていることから、おそらく舟運の便のよさを利用して中部山地などから適材を得ていたと推測されます。
半田の醸造家が敷設した上水施設では、耐水性の高さや殺菌作用などを重視し、いい材を吟味して使っていたことが窺えます。それは江戸においても、半田においても「安全で衛生的な水」は飲料や商品として、「やがて、いのちに変わるもの。」という意識があったと考えられます。
本日は江戸時代における江戸と半田の水道管についてお話ししました。基本的には、江戸時代の木を用いた水道技術はある程度斉一性があると考えて比較しました。江戸の木樋は幕末にマツが増えますが、本来はやはりヒノキを使いたかったと思います。 江戸上水と半田水道は、木樋を配水管とする点では共通していますし、木樋自体も同時期のものはよく似ています。また、引いてきた水を使う井戸も桶を使っており、共通点は多いです。
半田で調査する機会を得るまで、私自身は「江戸時代の水道は都市的、政治的なもの」とのイメージを抱いていました。しかし、半田のような小都市で、しかも民間の力によって水道がつくられていたという事実はとても興味深いです。江戸上水と同様の技術が用いられているので、江戸時代の技術水準やその普遍化を考えるうえで貴重な事例といえるでしょう。
実際に出土・保管されている木樋を分析し、また文献を読むと、実はもっとおもしろい事実があるのですが、今回はふれられませんでした。機会を見て深めていきたいと思います。
この会場に木樋を持参しました。皆さんは「数百年前の木樋がなぜ残ったのか?」と不思議に思うかもしれません。実は、木樋の多くは朽ちて原型をとどめていません。発掘すると「穴だけが木樋の形で出てくる」こともよくあります。腐らずに残っているのは、水分が多い土壌にあったものだけです。水気があると酸素が届かず微生物が発生しないので、腐らずに残るというわけです。いわば奇跡的に残った木でつくられた水道管を、私たちは分析しながら研究しているのです。
江戸時代の水道管についてはまだまだわからないことが多く、特に全国的な展開については知見が足りないので、今回の半田水道でわかったことも含めてさらに研究を続けていきます。
神吉和夫さん「近世の井戸を水源とする都市給水システムを考える―近江八幡・高松・半田―」
https://www.mizu.gr.jp/news/211221_report.html
セミナー参加者からの質問に対して金子 智さん、鈴木 伸哉さんが回答しました。
セミナー参加者のアンケートからいただいた質問に対して、金子 智さんが回答しました。
(文責:ミツカン水の文化センター)