水の文化資料室
地図

121年前の甲府盆地西部の主な河川と土地利用


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掲載
機関誌『水の文化』 32号「治水家の統(すべ)」
出典および参考資料
大日本帝國陸地測量部が1888年(明治21)に測量した2万分の1地図「松嶋村」「甲府」「市川大門村」「韮崎」「小笠原」「鰍澤」(国土地理院)を合成し、安達満さんの師である農業経済学者の古島敏雄(ふるしま としお)さんにならって編集部が主だったところを着色した。
山吹色:桑畑と果樹、黄緑色:二毛作可能な田、濃緑色:水田と沼田、水色:水の流れ、赤茶色:人工的な土手。
この地図は、国土地理院長の承認を得て、同院発行の2万分の1地形図を複製したものである。(承認番号 平21業複、第211号)

中央南北に釜無川、その西側に扇状地をつくっているのが御勅使川(みだいがわ)、都市部の西側を南北に流れているのが荒川、南部を東西に流れているのが笛吹川、最南部ですべてが合流し富士川となる。
田んぼが「季節によって乾く二毛作可能な田」「水田」「沼田」の3つに区分されているのは、陸軍歩兵が歩行に要する時間を計算するために土の状態を表わしたため、といわれている。水が引かない歩きにくい地域や利用されていない空白地帯を、水の流れと合わせてみると、御勅使川や釜無川の元の流れや、暴れ具合が想像できる。釜無川の堤防は、霞堤(かすみてい)ではなく長く続く部分が多くなったとはいえ、意識的に分断されており、広い遊水地が用意されている。釜無川は、信玄堤より上流にも多くの人の手が入っているようだ。釜無川の流れを高岩にぶつけるために蛇行させたとも見て取れる。信玄の御勅使川の流路変更計画は、そのエネルギーを利用して釜無川を蛇行させるためだったのかもしれない。
御勅使川扇状地は、通常は水が地下にしみ込み、ワジ(注:雨季になると急激に出水することがある、普段は流水のない涸れ川)のように地表は乾いてしまうようだ。御勅使川の流れを変える信玄の治水工事は、水のない状態での作業だったのだろう。その甲府盆地西部の砂礫地帯に田んぼがつくれるようになったのは、江戸時代初期に釜無川上流から引いた徳島堰の功績だ。また、扇状地南部に沼田が多いのは、いったん砂礫地帯に染み込んだ地下水が、湧水として地表に湧き出てくる土地柄だからかもしれない。

国土地理院提供のデータを利用した地図について

地図の中には、国土地理院の承認番号が記載されているデータがございます。この承認番号は当サイト内でのみ有効な番号となりますので、他のwebサイトや資料としてご利用の際は、別途申請が必要となる場合がございます。申請が必要かどうかの判断は当センターでは致しかねますので、お手数ですが国土地理院までお問い合わせください。

国土地理院 地理空間情報部
「測量成果の複製・使用」
http://www.gsi.go.jp/LAW/2930-index.html

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