ミツカン水の文化センター里川文化塾 第16回は、越前奉書を使って木版画をつくり続けるデービッド ブルさん(せせらぎスタジオ)と、高田誠さん(元・岐阜県紙業試験場、前・岐阜県紙業連合会の事務局長及び美濃手すき和紙協同組合事務局長)と杉原吉直さん((株)杉原商店代表取締役 和紙ソムリエ)をお招きして、木版画と和紙産地の新たな取り組みについてお話しいただきました。
せせらぎスタジオ主宰 木版画家
デービッド ブル David Bull
1951年イギリス生まれ。国籍はカナダ。1986年拠点を日本に移し、東京・羽村で活動を始動。1989年から勝川春章の百人一首復刻を版画で製作開始し、1998年完成。2001年から東京・青梅に〈せせらぎスタジオ〉を構える。
元・岐阜県紙業試験場、前・岐阜県紙業連合会の事務局長及び美濃手すき和紙協同組合事務局長
高田 誠 たかだ まこと
1973年岐阜県庁入庁。37年間の岐阜県職員時代の29年間、岐阜県紙業試験場で紙関係の研究開発、依頼試験、技術相談に従事。1999年には名古屋市立大学の元・芸術工学部長森島紘史さん、越中八尾の手漉き職人牧田努さんとの3名で、中米カリブ海のハイティ共和国にてバナナ繊維を使った手漉き紙製造の指導を行なう。機能紙研究会、繊維学会地方支部での学会発表、特許出願取得等研究者の立場で活動。現職派遣で財団法人岐阜県研究開発財団の技術振興部長、財団法人岐阜県産業経済振興センターの事業推進部長として、岐阜県の技術関係のとりまとめを行なった。 2010年3月退職、4月からの3年間、岐阜県紙業連合会事務局長と美濃手すき和紙協同組合事務局長を兼務。
(株)杉原商店代表取締役 和紙ソムリエ
杉原 吉直 すぎはら よしなお
1962年福井県越前市不老町生まれ(旧・今立郡今立町不老)。成城大学経済学部を卒業し、創業360周年の和紙問屋小津産業(株)入社。1988年福井県に江戸時代より続く越前和紙問屋 杉原商店10代目として家業に就く。1993年インクジェットプリンター対応和紙「羽二重紙」を開発。2004年フランス・パリ国際展示会〈Salon du Meuble de Paris 2004〉、2008年ドイツ・ フランクフルトの〈アンビエンテ〉、2009年フランス・パリ〈MAISON&OBJET〉、2010年イタリア・ミラノの〈ミラノサローネ〉への出展など、海外の展示会で精力的に和紙をアピールする。国内でも展示会、建築家向けのセミナーを開催。
「木版画は大量生産できる美術品。アートではありません。作品のメッセージをできるだけ多くの人たちに伝えるようにするのが目的なのです」というデービッド ブルさん。伝統的に、版元の指示のもとに彫師と摺師が分業で制作してきた作業工程を一人で一貫して行なうなど、革新的なやり方を開発してきました。
みんなが欲しいと思う題材を木版画で表現し、インターネットに載せることで世界中に発信しています。木版画の需要が増えたことで、産地の和紙職人さんも大忙し。若手の摺師も育ってきました。デービッドさんの興した木版画の新しい潮流を、見て触って体験していただきました。
ともに1300年の伝統を持つ和紙産地、越前(福井県越前市)と美濃(岐阜県美濃市)は「越前奉書、美濃書院」といわれるように用途に特化することで、産地ごとの特色を育んできました。
機関誌『水の文化』41号では取り上げられなかった美濃が、和紙産地として伝統を守りつつも新しいチャレンジを模索している現状を、高田誠さん(元・岐阜県紙業試験場、前・岐阜県紙業連合会の事務局長及び美濃手すき和紙協同組合事務局長)にご紹介いただきました。
また杉原吉直さん((株)杉原商店代表取締役 和紙ソムリエ)には和紙の歴史と特色についてお話しいただきました。
高田 誠さん
ミツカン水の文化センターで美濃の紙についてお話しさせていただくということで、水とのかかわりをどう説明しようかな、と考えて、最初にこれを持ってきました。
美濃には川晒し(かわざらし)という方法で、より白い紙を漉こうとした歴史があります。今のように、現代的な技術や道具がなかった時代に行なわれていた方法です。
手漉き和紙原料の楮(こうぞ)の白皮(しろかわ)を川の流水に晒すことで、より白い紙を漉けることを紙漉き職人は知っていたのです。
紙漉きの工程は、最初に楮を水につけてアクを取り、太陽光に晒して自然漂白をしてからソーダ灰で煮て繊維をバラバラにするところから始まります。楮処理の一番最初の工程が、この川晒しだったのです。
今はこんなことをしなくても白い紙が漉けるようになったのですが、歴史と伝統を忘れないために毎年1月第1週に板取川で川晒しを行ない、一般に公開しています。今年も1月5日だったと思うのですが、まだお屠蘇気分も抜けない時期に仕事始めの意味も含んで続けています。
川底の石には苔とか泥がついていますから、そういう汚れをきれいに掃除して、川の中に石で囲んだプールをつくって材料の楮を沈めていきます。
板取川は、周辺に工場もなく非常にきれいな水質を保っています。通常、BOD(生物化学的酸素要求量)、COD(化学的酸素要求量)ともに0.3ppmぐらい。水質でいうとAA+というランクにあります。特徴的なのは、カルシウム硬度、マグネシウム硬度が全硬度40ppmぐらいだということ。0〜60ppm未満が軟水です。渇水期になりますと天水が少なくなりますから60ppmぐらいまで上がってきますが、上がってきたといってもこの程度であり、軟水の状態は維持されています。きれいな水がなくては漉けない和紙の産地として、美濃は願ってもない好条件に恵まれているのです。
私たちは美濃手漉き和紙協同組合という組織をつくって、後継者の育成などを行なっています。1981年(昭和56)「伝統的産業振興に関する法律」通称〈伝産法〉というものが経済産業省によってつくられたのですが、そこで認定されている協同組合です。
〈伝産法〉の基準はいろいろありますが、わかりやすく簡略化して申しますと、100年を超える伝統工芸の産業が途中で途絶えることなく続いているというのが条件となっています。ですから、北海道は明治以降に開拓された土地ですので、〈伝産法〉の伝統工芸に該当するものはありません。現在、全国に210程の〈伝産品目〉があったように記憶しています。
〈伝産法〉では、伝統工芸士を認定する試験を行なっています。ベテランの職人の中には、この試験に合格して伝統工芸士になっている人もいます。現在、30代の若い人も合格するようになって、美濃では14名が認定されています。
現在、美濃には工房が19あります。職人数は、現在、把握している人が41人で75歳以上の人が19人、40歳以下も11人います。
これとは別に本美濃紙保存会という組織があります。こちらは文部科学省が工芸技術などの無形の技を重要無形文化財に指定するとともに、その技を高度に体得している人々が構成員となっている団体を認定する「保持団体認定」となっています。法律的には、文化財保護法という法律によって決められています。
重要無形文化財になっているため、以下のような指定要件が定められています。
1 原料は楮のみであること。
2 伝統的な製法と製紙用具によること。
2-1 白皮作業を行い、煮熟には草木灰またはソーダ灰を使用すること。
2-2 薬品漂白を行なわず、填料を紙料に添加しないこと。
2-3 叩解は、手打ちまたはこれに準じた方法で行なうこと。
2-4 抄造は、「ねり」にとろろあおいを用い、
「かぎつけ」または「そぎつけ」の竹簀による流し漉きであること。
2-5 板干しによる乾燥であること。
3 伝統的な本美濃紙の色沢、地合等の特質を保持すること。
本美濃紙保存会の会長は澤村正さんです。
石原秀和さんは、伊勢型紙用の薄美濃紙をつくっている唯一の職人です。市原達雄さんは手漉き和紙組合の理事長を長く務められ、2013年の叙勲で瑞宝単光章 (ずいほうたんこうしょう)を受賞されました。
高齢者が多い職人の世界では、あと5年もしたら美濃紙がつくれなくなってしまう、そういう危機感から10年ぐらい前から後継者をつくる努力をしてきました。
ただし、安易に夢を見せるのではなく、経済的に厳しい世界であること、道具を揃えなくてはならないこと、工房が必要なことなどを話します。道具の中でも干し板は高価です。1m×2.5mぐらいの大きな板ですが、今、市場で買おうと思ったら20万円から50万円ほどします。それが50枚も100枚もいるのです。
無い無い尽くしの中で始めてもうまくいかないことをわかった上で、どうしてもという決心の固い人を紙漉き職人の弟子に取るという形で始めます。現在、弟子をやっている人は2名です。
弟子の期間は2年間です。基本的に、親方は授業料を取らない代わりに、給料も出しません。アルバイトをするなどして生活することになりますから、冒頭に覚悟を確認するわけです。
現在、行政からの支援として、美濃和紙の里会館のアルバイトを斡旋しています。美濃市からも補助金の可能性があります。組合と親方が市に申請して認められれば月に5万円の補助金が交付されます。生活するには厳しい金額ですが、底支えにはなります。他県では、こういう助成を行なっているという話は聞いたことがありませんので、美濃市が美濃紙にかける思いの強さが伝わる気がしています。
美濃和紙の里会館の中に和紙漉き体験のコースがあり、見学者が気軽にできる1枚だけのコース、1時間コース、1日コース、2日間コース、1週間コース、1カ月コースを設け、さらに真剣に紙漉きを覚えたい、という希望がある場合には組合で面接をします。
そういう中から育ってきた倉田真さんは、澤木健司さんとコルソヤードという工房を構えています。
そんな厳しい環境ですが、和紙のヒット商品が話題になっているという明るいニュースもあります。保木工房がつくっている〈スノーフレーク〉は、手漉き和紙を落水模様で雪の結晶に仕立てた商品です。これはガラス窓を濡らして貼付ける装飾品で、ヨーロッパで大変売れているそうです。開発は10年ほど前ですが、3年前ぐらいからブレークし始めました。最近では雪の結晶模様だけでなく、季節ごとの柄が開発されています。
和紙というのは重さ当たりで値段が決まります。〈スノーフレーク〉は3枚入って小売値が840円ですから、計算すると1kgで20万円になります。そこまでの価格をつけられれば、職人にも中間業者にも充分な対価が残ります。それで仕入れ業者のみなさんも扱いたがる商品となっています。
もう一つのヒット商品は、水うちわです。つくるそばから売れてしまって、納品待ちの状態です。和紙でつくったテープも人気があります。このように付加価値をつけて、単価が高くなるものを一生懸命つくっています。
あとは参考のために「美濃和紙あかりアート展」(http://www.akariart.jp/)という催しを紹介します。1994年(平成6)から毎年10月に行なっています。最優秀賞の賞金は100万円。全国から500点ぐらい、子どもの作品を含めると1000点を超える出品があって、大人気です。
このように美濃では組合と行政が一体となって、和紙の普及に努力しているところです。
杉原 吉直さん
1996年(平成8)中国で、紀元前179〜142年ごろ(前漢代)につくられた紙が発見されました。中国甘粛省の放馬灘(ほうばたん)から出土した現存する世界最古の紙で、線のように見えるのは地図ではないかといわれています。2200年前の紙が残っていたというのは、驚きです。
放馬灘紙は、麻でできています。麻は神社のご神体になっているところもあり、とても神聖なものとされてきました。麻は栽培が簡単で生長が早く丈夫なので、いろいろなものに使われてきました。服や漁網に使って古くなったものを、水に浸して、掬い上げたのが紙の始まりといわれています。
紙の製法を書き留めて後世に残したのが蔡倫(さいりん 50〜121年?)という中国後漢時代の宦官で、紙が実際につくられたのは蔡倫が生まれる200年ほど前だと考えられています。
中国で発明された紙が西に伝わるうちに、材料がコットンに変化します。それで西洋ではコットンペーパーがつくられるようになりました。
東向きの伝播、韓国経由で日本に伝わると材料は麻から楮(こうぞ)、三椏(みつまた)、雁皮(がんぴ)に変わります。
よく「世界最古の紙はエジプトのパピルスでは」と言われることがあります。ペーパーの語源であるということは間違いありませんが、構造的には植物の茎を縦横に並べて叩きシート状にしたもので、現在はこれは紙ではないということになっています。
紙の製法は長い間、秘密とされてきました。製紙技術の伝播の地図を見ると、中国から西ヨーロッパのほうに紙の製法が伝わったのは、唐の時代に国がものすごく大きくなってイスラム圏の大国と衝突したことから、偶然伝播されたといわれています。タラス川あたりで捕虜になった中に紙漉き職人がいたのでしょう。しかし、中国より東側の朝鮮や日本には500〜1000年ほど早く製紙法が伝わっています。
紙漉きの技術がなかなか伝わらなかった西洋では、高価なパピルスの代わりに牛や羊の皮をなめして薄く叩いたパーチメントが開発されました。
中国から韓国を経て日本に伝わるルートを地図上で見ると、玄関口が福井県であることがわかります。福井というのは今でこそ〈裏日本〉といわれ、寒い寂しい地方になっていますが、当時は中国や韓国といった文明の先進地域の情報をキャッチする、前線基地のような位置にあったのです。
和紙の産地である今立(越前市)の隣に、服部谷があって機織りの神を祀る朽飯(くだし)神社があります。その隣には、漆器の産地があります。その横に、日本の六古窯の一つである越前焼きがあります。そのまた横に、刃物の産地があります。鉄も採れたんですね。
こうしてみると大きなコンビナートのような構えで、高度な技術を持った集団がいて、ここでつくられたものが京都や奈良に送り出されていたようです。表玄関としての福井があって、京都、奈良がある、と私は自負しています。
正倉院の中には、730年(天平2)の年号を記した〈越前国大税帳〉というものが収められており、今でも染み一つない1300年前の紙がきれいな状態で残っています。737年(天平9)の「正倉院文書」には、紙の産地として越前のほかに美作(みまさか 岡山北部)、出雲、播磨、美濃などが記録されています。
日本最古の印刷物といわれる百萬塔陀羅尼もつくられました。
百万塔陀羅尼とは:
国家の鎮護と滅罪を祈願した称徳天皇が、奉納した陀羅尼(仏教において用いられる呪文の一種)。100万巻印刷されて百万塔と呼ばれる木製の小さな塔に納められ、770年(宝亀元)法隆寺・東大寺などの10大寺に10万基ずつ奉納された。ほとんどが焼失したり散逸したりして、現在では法隆寺に4万数千基が残っているほか、博物館や個人に数基所蔵されている。
平安時代に入って貴族が盛んに紙を使うようになって、和紙生産も盛んになるのですが、そのころはまだデービッドさんが木版画に使っている楮紙はできていなくて、雁皮を原料にした紙がつくられていました。繊維が緻密な雁皮を使うと、仮名書きに適した紙がつくれたのです。
西洋でパピルスやパーチメントを使っている時期に、日本ではどんどん和紙が漉かれ、材料だけでなく製法も変わりました。平安時代になると、中国や韓国で行なわれていた〈溜め漉き〉から〈流し漉き〉へと進化して、効率的に多様な紙を漉くことが可能になりました。これは紙料(漉けるように処理された紙の原料)にトロロアオイなどからつくったネリと呼ばれる物質を入れて、植物繊維を水中に浮遊させることで実現された製法です。
溜め漉きとは:
紙料を入れた漉槽から簀や網で紙料を汲み込み、水分が濾されるまでじっと置いて、簀や網の上にできた湿紙を布に移す方法。代表的なものに西洋のコットン紙がある。
流し漉きとは:
紙料を入れた漉槽の中で簀や網を動かして、紙料を汲み込んだり捨て戻したりしながら紙層をつくる方法。
鎌倉時代以降、武家社会になって漢字を多用するようになってから、楮紙がつくられるようになります。1336年(延元元)室町幕府がつくられると、足利高経が越前守護となりました。大瀧に勢力を持つ土豪だった道西掃部が献上した楮紙が非常に良質で、高経はこの紙を〈奉書〉と名づけるように申し渡したといいます。
今も大滝町にある三田村家は、この道西掃部が三田村を名乗り、1338年(延元3)に創業したとされ、39代当主の士郎さんが紙漉きを続けておられます。
三田村家文書によると、掃部はのちに織田信長に仕えて製紙の特権を得るようになります。掃部は紙座だけでなく、大瀧寺別当職としても力を持っていたそうです。これは、大瀧寺(現在は神仏習合のため岡太〈おかもと〉神社と同一)が紙座支配に力を持っていたことの表われでもあります。
戦国時代になると織田信長や豊臣秀吉が紙の権利を独占するようになります。三田村家には織田信長が「天下一」だというお墨付きとして賜わった七宝の印が残っています。同じように豊臣秀吉の桐紋の印、徳川家康の印もあって、公文書用に幕府に奉書を納めるようになりました。信長たちは、多分、流通に対するロイヤリティーを取ったんではないでしょうか。その代わりに保護してくれたというか、押印していない紙は取り締まるよ、ということなんでしょう。今だったら、独占禁止法に抵触するようなことを、時の権力者がしていたんですね。
平安貴族が使っていたころは、紙は貴重品でごく一部の人しか使えませんでしたが、江戸時代には瓦版とか浮世絵といった、一般庶民の手に入れることができるものに普及していきました。
ただし越前は、武家の公文書として楮でつくった〈越前奉書〉をつくっていましたから、官営工場のような性格を呈していました。掃部の跡を継いだ和泉は、江戸幕府直参の地位にある御用紙工となっていますし、福井藩初代藩主に着任した結城秀康(家康の次男で、二代将軍秀忠の兄)が御紙屋制度を設置して、越前は紙の産地としも特別な存在になっていきました。
1666年(寛文6)徳川秀忠の甥の松平忠直が福井の殿様だった時代に藩政が困窮して、藩札が発行されました。越前福井藩が発行したこの藩札は、現存する最古の藩札といわれています。これには、透かしなどの紙漉きの技術がたくさん採用されています。
明治維新になると奉書の需要はなくなりますが、全国統一の紙幣〈太政官札〉が初めて発行されることになり、越前の和紙が選ばれました。印刷は京都で行なわれました。その後〈日銀券〉が発行されたときには、私たちの村から何人かの職人さんが大蔵省の印刷局まで行きまして、透かしなどの紙漉きの技術を教えています。大蔵省から財務省になった今でも、印刷局には岡太神社の分院が祀られています。
お札を西洋の印刷機で刷るときに、いろいろな紙で試してみたそうです。その結果、一番良かったのが雁皮でした。ただし雁皮は栽培ができず、今でも生長するのに7年ぐらいかかる天然のものを山から採ってきて使います。それで同じジンチョウゲ科の三椏を使うようになりました。現在のお札の材料には、三椏とマニラ麻をミックスして使っています。
明治になりますと、海外で行なわれた万国博覧会が日本の伝統文化を発表する場になったのですが、1900年(明治33)のパリ万国博覧会には、三椏局紙を出品して金賞を受賞しています。このころのヨーロッパには、まだ和紙というものが伝えられておらず、三椏局紙がパーチメントに似ているということで評判になりました。この和紙を出品した工場は、今も今立に現存しています。
人間国宝の岩野市兵衛さんが漉いた和紙を顕微鏡で見ますと、繊維が長く、シンプルに絡み合っていることがわかります。楮の繊維は10mmほどあって、水素結合で絡み合っています。水素結合というのはイオンレベルでの電気的な結合で、とても弱いのです。この弱いというところがミソで、強い結合の場合はポキッと折れてしまうのですが、弱くても柔軟なために、いったん離れても濡らしてやれば再びそこで結合が起こります。
一方、コピー用紙を見ると、繊維が短く、繊維以外の物質が隙間を埋めて固められていることがわかります。つまり、一般の洋紙は印刷効果を高めるために植物繊維以外のものを加えて、表面を固めているのです。言ってみれば、コンクリート板のようなものです。
断面を見ますと、市兵衛さんの和紙は隙間だらけです。この隙間を空気が行ったり来たりして呼吸していて、水分をものすごく吸収する余地があるのです。だから木版画を刷ったときに、繊維の奥まで色が入って深みが出ます。一般的な洋紙の場合は、絵の具は表面に載るだけです。
うちは父が9代目で私が10代目になります。代々紙を扱ってきた家で、祖父や曾祖父が、1928年(昭和3)にご大典の儀に使うための紙を近くの駅に持っていくときの写真が残っています。
先程、美濃の伝統工芸士のお話がありましたが、越前和紙の産地である今立では伝統工芸士は27〜28人いたと思います。ただ越前では、機械漉きの和紙と手漉きの和紙が一緒になっているので規模が拡大しています。全部合わせると400人ぐらいの紙漉き関係者がいることになります。
紙漉きの人間国宝は現在3人いまして、その内の一人がデービッド ブルさんが使っている生漉き奉書を漉いている市兵衛さんです。
最近はインテリアや建築に使う和紙の注文が増えています。これは今年大阪にオープンしましたインターコンチネンタルホテルのディスプレイです。こちらは地元のNHKのセットです。今年の4月に入れ替わって和紙を使ったものになりました。毎日、夕方6時のニュースになるとこのセットが写し出されます。
美濃の高田さんの発表にもありましたように、今までとは違った和紙の使い途が開拓されて世界に向けて売れないかな、と思っているところです。
今年の1月、パリのゲランという香水店、今はルイ・ヴィトングループの香水部門になっているのですが、そこの七つあるショーウィンドウデコレーションを和紙でやらせていただきました。大変好評で、来年の正月飾りも和紙でやることが決まりました。
現在は日本人の暮らしの身近なところに和紙がまったくありませんから、接触頻度が低くなって、ますます和紙から遠ざかっています。和紙の持つ普遍性は、外国の人のほうが理解してくれる、というのが現実です。私が必死で海外の展示会に出かけて行くのは、海外でなら手応えを感じられるからです。今日、ご参加のみなさんに、日本での和紙利用の促進に、是非お知恵を拝借したいと思っています。
デービッド ブル David Bullさん
木版画を見立てる審美眼
機関誌『水の文化』41号 和紙の表情
木版画とコピーされた絵の違いはどこにあるでしょう。それは照明を消してみるとわかります。木版画は立体的な絵、いえ単なる絵ではなくオブジェなのです。
1枚の木版画を見ただけで、私には20人ぐらいの職人の力が浮かび上がって見えてきます。彫刻刀をつくった人、刃物の切れ味、版木をつくった人、絵の具をつくった人、和紙を漉いた人、摺師の力も見えますが、一番大切なものが光です。
明治ぐらいから、日本の暮らしが変わりました。ほとんどの部屋の天井に照明器具がついたのです。生活が明るくなったことは良いことだったかもしれませんが、私の大好きな木版画の美しさが、そのときに失われてしまいました。均一な照明によって、それから120年ほど経った今、木版画の鑑賞の仕方が忘れられ、木版画の魅力も知られないものになっています。
江戸時代には木版画はアートではありませんでした。芝居のお知らせのチラシだったり、役者のブロマイドだったり、伊勢参りに行った人たちのお土産だったり、旅の道中の景色だったり。木版画の中身には用途があったのです。ところが明治に入って印刷機械が導入されたことで、用途のある印刷物は木版画で表現されなくなりました。江戸時代以降の彫師、摺師の仕事が印刷機に奪われてしまったのです。
天井の照明で照らされることで、立体的表現という美しさが失われ、用途としての機能を奪われた木版画は、少しずつ低迷していき、ごくわずかに趣味でやっている人だけが残ったのです。
私は毎日インターネットオークションをチェックします。摺師が亡くなると大切な道具を一緒に棺桶に入れる習慣があったので、道具は本当に残っていないのですが、たまにオークションに出品されるからです。
うちの工房は2年前まで一人でやっていたのですが、今は5人が働いていますから、特にバレンが欲しいのです。本バレンを注文すると8万円もしますし、でき上がってくるのに1年もかかりますから、オークションで安く買えると助かりますから。
数カ月前に珍しく本バレンがオークションに出ました。段ボール箱一杯に道具が入っていて、それを上から写した画像が出ていました。オークションの箱の中身の明細にはバレンをつくるための道具も入っていたので、素人ではなく職人のものだと確信できました。
私は「8万円のバレンを5万円で手に入れるならまあまあか」というぐらいの気持ちで構えていたのですが、箱の中身がはっきりしないまま入札価格は競り上がっていきました。とうとう入札の競争相手は19万9999円を提示してきたので、私は思いきって20万円を提示。やっと落札することができました。
しかし、お金を払ってから箱が届くまでの時間の長いことといったら! しかし、期待は裏切られないで済みました。道具のほかに、戦前の千社札が何百枚も入っていたのです。20万円以上の価値があるものでしたが、お金の価値だけではなく、色も、彫りも、和紙も素晴らしい本当に美しい千社札でした。
お目当ての本バレンは7枚入っていました! その中の2枚は、何年か前に亡くなった村田さんというバレン職人の作でした。「百万円出してもいいから、村田さんの本バレンを譲ってほしい」と言ってきた人もいましたが、私の工房で大切に使っています。
箱には所有者がわかるようなものが一切なかったし、出品した人にも聞いたのですが、とうとう誰のものかはわかりませんでした。本当に夢のような話です。
道具の問題は深刻です。版画を買う人がいなくなると、版画をつくる人も、道具をつくる人も、和紙を漉く人も維持できなくなります。
つくり手がいなくなることもありますが、現代社会ではとても高価につくからです。漉いた紙を張って乾かす板は、高田さんのお話にも出ましたが非常に高価です。濡れた和紙を張って、太陽の下で乾かすために、板の表面はすぐに荒れてしまいます。削ってスムーズにすることはできますが削ると板が薄くなりますから、紙漉き職人はあまり削りたくありません。そのため、紙の表面がラフな仕上がりになってきます。そういう紙は、版画を摺る前に下ごしらえをしなくてはならず、手間がかかります。
バイオリンなどの楽器をつくるとき、木の表面を削るスクレーパーという道具を使います。それで干し板の表面を化粧直しすれば、干し板を薄くしなくても済みます。こういうアイディアを出し合えば、解決できることがあると思います。
版木の表面は桜材ですが、合板の芯にヤマザクラの板を貼ったものを使っています。主版(おもはん)は細い線を表現しなくてはなりませんし、広い面積をベタに色付けするものもありますから、表現するものによって版木を使い分けています。
私が百人一首を復刻したときに、島野慎太郎さんという版木職人さんの板を使いました。
江戸から明治になったとき、版画の彫師は何百人もいて、版木職人の工房は数十カ所もありました。島野さんの親方でありお父さんである人に、ずっと以前お話をうかがったことがありますが、それだけ需要があったので、山に入って木を選ぶ専門の人がいたそうです。市場に出る木の中から選ぶのではなく、山の中で版木に向く木を選んだということです。私が驚いたのは、土を舐めて「これは良い版木になる木だ」と判断した、という話です。
百人一首の99枚目を彫っているとき、100枚目の板がまだ工房に届く前に島野さんが亡くなりました。京都にもう一人、青山さんという版木職人がおられましたが、青山さんもその翌年亡くなられて、以来、日本には版木職人はおりません。
今は島野さんがいないので、普通の問屋さんに頼んでいます。桜材を使って家具をつくる人などはまだいますが、版木づくりとは全然違います。版木を見て「まあまあかな」と思って彫り始めると、途中でたいがいガッカリするのですが、たまに「おお、これは素晴らしい」というものにも当たります。
誤解を恐れずに言いますが、文部科学省などが日本の伝統文化を守ろうとして、国の補助金を出すのは逆効果だと思います。音楽のことを考えてみましょう。みんなが知っているモーツァルトはクラシック(古典)ですが、誰もクラシックを守ろうとしてモーツァルトを聴いたり演奏したりしているわけではありません。ずっと聴き続けられてきたから、伝統的音楽としてではなく今も価値のある生きた音楽として愛されているのです。
同じように、私が、人が欲しいと思う木版画をつくれば、それは伝統工芸ではなく生きたオブジェになります。実は私は、アメリカの若いイラストレーターと組んで、若者が大好きなテーマで新しい生きた木版画をつくっています。これは若者を中心に大人気になって、インターネット上で飛ぶように売れています。
いったん途絶えた昔の技術がどこまで復活できるかは、難しいところだと思います。江戸時代と同じような美しいものがつくれるのかどうか、わかりません。しかし、若者に人気があるテーマの木版画が売れてくることで、岩野さんの紙漉き仕事も忙しくなりました。そうなってくると彫師も摺師も増えて、道具や版木をつくる職人も増えるかもしれません。
私は木版画が果たせる、もう一つの役割を感じています。
現代社会ではどんどん機械化、ロボット化が進んで、人間が手の技でつくったものは本当になくなろうとしています。しかし、人間は人間の手でつくられたものが大好きなのです。そして、人が何かをつくっている様子を見ることも大好きです。私の工房にはライブカメラが設置してあって、彫ったり、摺ったりするところをインターネットで流しますが(http://woodblock.com/webcam/j_index.html)、それを実に多くの人が見てくれます。「ああ、人間がつくっている」「人間がつくっているものだから意味がある」と多くの人が思うようです。
21世紀の木版画の意味を整理しましょう。第1は用途(意味)を持たせる。第2は美しい。第3は人間がつくる。この三つがあれば、伝統工芸を守ると考えなくても木版画は生き残れるはずです。今日これから、私はたくさんのことをお話しすることになりますが、みなさんが帰られるときに一番頭の中に残してほしいのは、このことです。
私は話が下手なので、この辺で終わりにしたいと思います。私のバレンと道具が、このあともっとうまくお話しします。
木版画は印刷であり、1枚だけつくるものではありませんから、紙は100枚ぐらい用意します。テストのために何枚か試し摺りして、5枚目ぐらいから色がうまく載ってくるようになり、本番用に使えるようなものができます。
和紙は湿らせて使います。先程、杉原さんが顕微鏡写真で見せてくれたように、繊維の隙間にバレンでこすって絵具を入れていくのですが、湿らせることで奥深くまで色が入っていき深みのある色になるのです。
紙は湿らせると伸びますから、同じぐらいの湿らせ具合でないと紙のサイズが変わって、見当が狂い版ズレが起こります。それでビニール袋に入れて、湿らせ具合を保持します。
絵具の色の素になるは顔料で、油性樹脂で練り合わせたのが「油彩」、水とアラビアゴムで練り合わせたのが「水彩」、膠(にかわ)で練り合わせたのが「日本画」ということになります。木版画の場合は、顔料と小麦粉でつくった糊を合わせます。糊は小麦粉を使って自分でつくります。問題はすぐにカビが生えることです。ですから、1日か2日分、少量ずつつくります。
絵具には岩絵の具を使っています。その名の通り、鉱物が主な原料で、水や油に溶けない固体の無機化合物です。しかし残念なことに、江戸時代の岩絵の具とは質が全然違います。退色しづらい合成顔料もありますが、私は岩絵の具を使っています。
主版(おもはん)という線がある版は、うちの工房では月曜日に摺ります。その上に色版をすぐに摺ることはなく、一日置き落ち着かせてから色版を摺ります。
水と糊と絵の具を摺りたいイメージが彫られた所に載せたら、刷毛で力を入れて伸ばします。最後に刷毛筋をなくするように、丁寧にサッサとなぞります。
一番難しいのは板に紙をセットすることです。見当という印の位置に合わせないと、版ズレしてしまいます。版木の下側のコーナーに合わせて紙をセットしたら、上側は成り行きに任せて手から離してください。それで紙の位置が合います。
デービッドさんによる実演に続き、参加者も木版画の摺りを体験しました。希望者多数のため、くじ引きで10人強の人が実際にバレンを手にして簡単な図案を摺りました。
実際には丈夫な紙なのですが、持つ手はおっかなびっくり、位置合わせに四苦八苦して、慣れないと肩に力が入る作業だったようです。しかし、自らの手でものを生み出す魅力は、体験したことで一層深まったようです。
Q:私が使っている紙は和紙なんですが、機械漉きなのでしょうか。発色が良くないのと、紙の伸び縮みがあるのでどうしても見当がズレてしまいます。
A:機械漉きは一定方向に簀が動いているので、水分を含むと縦方向と横方向の伸び縮みの差が、3倍から5倍あります。手漉き和紙の場合は、縦横に簀を動かして繊維を絡ませているために、縦方向と横方向の伸び縮みの率が一緒ですからその心配がありません。それと白い紙はほとんど機械漉きです。手漉き和紙は生成り色です(高田さん)。
A:私は岩野市兵衛さんの紙を使っていますが、材料や手間を考えると大変貴重なものですから、つい、もったいないと思いがちです。試し摺りや弟子の練習用には使いたくない、と考えてしまいがちですが、みなさんはもったいないと思わずにどんどん使ってください。同じ版木、同じ絵具でもびっくりするほど素晴らしい作品に変身します。良質の和紙には、そのような力があります(デービッドさん)。
Q:和紙を漉くときに水の温度は影響がありますか?
A:和紙を漉く際にネリと呼ばれる粘材を使います。普通はトロロアオいの根っこなのですが、多糖類ですからバクテリアや高い温度で分解されやすく、品質が変わります。それで寒い時期に高級な紙を漉く、ということになります。美濃では夏場は分厚い紙、つまり安い紙を漉いています(高田)。
Q:和紙へのこだわりについて、もう少し聞かせてください。
A:私が初めて木版画をつくったときは、和紙に凹凸があることは知りませんでしたし、紙の上に絵の具を塗って絵をつくるもの、と考えていました。西洋の版画と同じ、と思っていたのです。しかし、それは大きな間違いでした。
日本の版画は紙の上に絵の具が載っているのではなく、紙の中に絵の具が入っているのです。職人のバレンの力で、紙と絵の具が一体化するのです。ですから、市兵衛さんがつくるような(空気をたっぷり含んだ)和紙がこの世の中からなくなったら、私の仕事もおしまいです(デービッドさん)。
Q:和紙はどういうところに行けば買うことができますか。
A:立川駅西口から徒歩7〜8分のところに、紙匠〈雅〉というお店があります。そこでは岩野市兵衛さんの生漉き奉書も売っています。行く前に在庫を確認してください。
東京都立川市柴崎町2−2−19 電話042−548−1388
今回の里川文化塾は、一般参加者以外に紙にかかわる仕事につく人が多く参加されました。それもあって休み時間にはナビゲーターやゲストに質問したり、参加者同士、活発な情報交換が行なわれていました。
実演体験終了後に、参加者全員に心に残ったことや和紙利用の拡大について「伝統工芸ではなく現在進行形」「和紙に触れる頻度を増やす」「どこに旅行に行こうかと迷ったら、和紙の産地に行くといい。水の良い所に和紙産地あり」といった感想をいただきました。
デービッドさんは、以前、彫りも摺りも一人でやっていたのですが、忙しくなって2年前からスタッフを増やしました。
昔は包み紙とかのし紙といった需要があったので、修行中の職人がやる、お金になる簡単な仕事がたくさんありました。今はそういう仕事はありませんが、それでも摺りは何枚か失敗しても許される仕事だといいます。
しかし彫りのほうはそうはいきません。版がズレてしまっては、使い物にならないからです。ですから、摺師は5人いるけれど、彫師はデービッドさん一人。これ以上仕事を増やすことができません。
そんなとき、とても素晴らしい彫りの板に出合ったそうです。味わい深い素晴らしい線を彫ったのは若い女性で、神戸に住んでいることがわかりました。もう彫りをやめてから何年か経っていて、別の仕事に就いているということでした。
諦めきれないデービッドさんは、紙と板を彼女に送りました。彼女は試しに彫ってみると約束してくれて、数週間後、家に小包が届いたそうです。何年か休んでいたにもかかわらず、彼女の彫ったものは素晴らしい出来映えでした。
デービッドさんには、木版館という大きな建物に、工房があってたくさんの人が働き、木版画を売るショップがあるのが目に浮かぶといいます。その夢を実現するのは、新しい仲間の決断かもしれません。趣味で木版画をつくる人が増えていますから、デービッドさんの夢も近い将来、かなえられることでしょう。
(文責:ミツカン水の文化センター)