右奥に見える高い山が「白山」(はくさん)、手前を流れるのが手取川(てどりがわ)。御前峰(ごぜんがみね/2702m)、剣ヶ峰(けんがみね/2677m)、大汝峰(おおなんじみね/2684m)の三峰とその周辺域を含む総称として白山と呼ぶ
石川県の南西に位置する白山市は、暖流の流れる日本海の影響を受けた、世界的にも稀な低緯度の多量積雪地帯です。その全域を範囲とする「白山手取川(はくさんてどりがわ)ジオパーク」は、2011年(平成23)9月5日、日本ジオパークに認定されました。一級河川の手取川を軸に、日本海から白山(標高2702m)にかけて比較的コンパクトな地域で水循環が生み出されるとして、「山−川−海そして雪 いのちを育む水の旅」をテーマに掲げています。「水」を前面に打ち出したジオパークは全国的にも珍しいですが、いったいどのような暮らしや文化があるのでしょうか。白山手取川ジオパーク推進協議会の案内で、〈水の旅〉を体験しました。
「ジオパーク」をご存じでしょうか。一般的にはまだ馴染みがないかもしれませんが、山登りや釣りといったアウトドアの趣味をもつ人であれば、既知の言葉であり場所かもしれません。NPO法人日本ジオパークネットワーク(JGN)のウェブサイトでは、「ジオパークとは『地球・大地(ジオ:Geo)』と『公園(パーク:Park)』を組み合わせた言葉で『大地の公園』を意味し、地球(ジオ)を学び、丸ごと楽しむことができる場所」と紹介されています。
端的に言い換えると「さまざまな価値ある地質・地形や自然遺産、景観を楽しみながら、その影響を受け、つくり出されてきた文化などを学べる場」といったところでしょうか。ジオパークを通じた教育、地域振興にもたらす意義から2015年よりユネスコの正式プログラムとなり、認定制度をとっています。現在までに35カ国127地域が「世界ジオパーク」として認定を受けており、日本でも8地域が認定。さらに35地域の「日本ジオパーク」が世界ジオパークの認定を目指し整備や普及に努めています。なお、日本ジオパークも国内での認定制度が存在します。
今回取材した石川県白山市の「白山手取川ジオパーク」は、35の日本ジオパークの一つです。それぞれが個性をもつジオパークですが、白山手取川ジオパークではこんなキャッチフレーズを掲げています。
『何気ない風景に隠された「大地の物語」
山-川-海そして雪、いのちを育む「水の旅」』
これについて、白山手取川ジオパーク推進協議会の日比野剛さんはこう言います。
「海から蒸発した水分が雲をつくり、雨や雪を降らせる。雨水や雪解け水が大地を削り地形をつくり、川ができる。川が水を海に戻す過程で生み出された平地が、人間の生活の場となり、文化が生まれていく……。そんなメカニズムを、地理の教科書などで見たことはありませんか。白山手取川ジオパークの個性は、このメカニズムが白山市という一つの自治体にコンパクトに収まっていることです」
ジオパークには、インパクトのある珍しい地形が前面に出されたものも多いのですが、白山手取川ジオパークは日本三名山の一つとして知られる「白山」があるとはいえ、峡谷や河岸段丘、扇状地といった地形そのものは特別珍しいものではありません。キャッチフレーズにある「何気ない風景」とはそういう意味とのこと。ただし、その風景の連なりから、背景にある物語を読みとる体験は、白山手取川ジオパークならではのものだそうです。
NPO法人白山しらみね自然学校理事
山口隆さん
白山手取川ジオパークは、「山と雪のエリア」「川と峡谷のエリア」「海と扇状地のエリア」の三つに分かれています。最初に訪れたのは、手取川の上流域にあたる「山と雪のエリア」の白峰(しらみね)地区でした。
ここは日本海から吹く水分を含んだ風が白山の山体にぶつかり、多量の雪として大地に落ちる場所です。海をゴールとする〈水の旅〉の出発点となります。話を聞かせてくださったのは、NPO法人白山しらみね自然学校理事の山口隆さんです。
「白峰地区は温帯に位置していながらも世界有数の豪雪地帯です。冬は雪に閉ざされます。一方で、古くより修験信仰の対象となっていた白山への登拝者との交流から、全国の情報がもたらされ、かなり高度な文化が育まれていました。また、近隣地域との生糸、木材などの特産品の交易などの収益源をもっていた白峰は、豪雪地帯の集落としては異例の発展を遂げました。通常、集落の戸数は近隣の耕地面積の広さに制約を受けます。しかし、この地では集落から離れた山中の比較的平坦な土地に居を構え、焼畑農業や山の恵みを利用して生活する『出作り(でづくり)』と呼ばれる居住形態が集落を存続・拡大させました」
手取川によってつくられた上流部の狭い河岸段丘に、豪雪に備えた建築様式の住宅が高い密度で立ち並ぶ独特のまちなみは、文化庁より「重要伝統的建造物群保存地区」に選定されています。山奥に突如現れた異世界のようでありながら、どこか温かく懐かしいまちなみです。
集落の中心に、他を圧倒する大きさの建物があります。これは集落の有力者だった山岸家の旧住宅。なかにはお白州があったと伝えられ、警察機能も担っていました。
「江戸時代、白峰を含む周辺の18の村々は幕府の直轄領となっていたこともあり、山岸家は大庄屋(取次元)として長く君臨していました。庭を見てください。山岸家専用の水路が引かれていますよね。こんなところからも当時の役割や握っていた権力の大きさがわかるかと思います」(山口さん)
地区内には、まちなみの景観は維持しながらも古民家を喫茶処に改修したお店なども営業しています。そのなかの一つの「雪だるまカフェ」にお邪魔し、白峰の特産だという「かましいりこ」をいただきました。
「かまし」とは雑穀のシコクビエ(四国稗)のことで、かましいりこはそれを挽いて炒ったもので、白峰で収穫できる貴重な炭水化物。お湯と砂糖を混ぜて練り上げ、おやつとして食べてきたそうです。大好物だと言う日比野さんの「最初は砂糖を入れないで味わってください」というアドバイスに従うと、雑穀の素朴な風味が味わうことができました。ちなみに「かまし」とはシコクビエの穂が鴨の足に似ていることから、「鴨足→かまし」となったのだとか。そのほかにも「とちもち」と呼ばれるトチの実を混ぜたお餅や採れたてのワサビを売っているお店も並んでいます。白峰の繁栄に寄与した、訪れた人に集落の特産品を提供する文化は、脈々と受け継がれているように感じられました。
白峰地区を後にして、手取川のダム湖を右手に見ながら道を下っていきます。すると、対岸に白山手取川ジオパーク「山と雪のエリア」のもう一つの見どころである桑島化石壁(くわじまかせきかべ)が見えてきます。これは約1億3000万年前の恐竜たちが生きていた時代(中生代)の川や湖に溜まった砂や泥の地層が、手取川の侵食によって露出した壁。恐竜、爬虫類、哺乳類、また植物などさまざまな貴重な化石が発見されており、中生代の環境を知るための貴重な手がかりを与えた学術的価値の高い場で、国指定の天然記念物にもなっています。
「この壁が脚光を浴びるようになったのは、明治時代初期にドイツから来日して白山信仰をはじめさまざまな自然・文化について調査していたヨハネス・ユストゥス・ライン博士という地理学者のおかげなんです。彼がここに立ち寄り、植物の化石を拾って本国で分析を仰いだことが研究の端緒となりました。福井県などでも恐竜の化石が出ていますが、実は桑島化石壁の方が発見された時期が早く、研究の歴史も長いのです」(日比野さん)
絶え間なく続いてきたこの地域での〈水の旅〉。今、その傍らで生きているのは私たち人間です。けれど、ずっと前には、〈水の旅〉のそばに恐竜たちがいた時代もありました。地球という舞台のほんとうの主役は水や大地で、私たちヒトは脇役なのかもしれない。生命の痕跡が刻まれたゴツゴツとした化石壁を見上げながら、そんなことを考えました。
さらに下っていくと、手取川中流域の「川と峡谷のエリア」に入っていきます。支流と合流して流れを大きくした手取川は、川底をどんどん削りダイナミックな峡谷をつくり出しています。20〜30mの絶壁となった両岸の脇には、上流部よりも広い河岸段丘がつくり出されており、人々の生活の場となっています。
そこで出会ったのが、「弘法池」というスポット。川底の割れ目や凹みなどに石や砂利が流れ込み、川の流れの力を受け、回転するようにして凹みの周囲を削り取った結果、川底に丸い穴「甌穴」(おうけつ)が開くことがあります。その後、大地が隆起して、穴が地表に露出し、さらに地下水が湧き出した弘法池は、いうならば天然の井戸のようなもの。その珍しさから「弘法大師が霊力でつくった」という伝説も生まれたのだそうです。環境省が選定する日本の名水100選にも選ばれており、地域でも愛飲する人が多いのです。私たちが訪れた際にも、水を汲みに来た人たちが「生活で使う水はみんなこれです。コーヒーを淹れたりするとおいしいんですよ」と教えてくれました。
峡谷地帯を抜け「海と扇状地のエリア」に入っていきます。より多くの人々が暮らす平地では、水と人間の暮らしがこれまで以上に接近しはじめます。手取川と人間の暮らしのかかわりとしてまず挙げないといけないのは「河川の氾濫」です。日比野さんが扇状地の扇頂部付近に位置する獅子吼(ししく)高原展望台から扇状地、加賀平野を眺めながら、こう説明してくれました。
「現在は江戸時代以降進んだ改修工事により、海に向かって左(南)側に流れが固定されています。しかし、かつての手取川は暴れ川で、扇状地のなかで何度も流れを変えていて、そのたびに人々は被害を受けていました。集落が大きく固まっておらず小島のように分散しているのがわかりますか? あれは『微高地』(びこうち)と呼ばれる周囲よりもほんの少し高い土地に、家屋を建てているからです。手取川の氾濫に備えてきた名残なのです。集落の名前に『島』という字が多く使われるのもそうした理由です」
白山比咩神社(しらやまひめじんじゃ)が高台にあるのも、暴れ川である手取川の影響です。創建2100年とも伝えられる長い歴史をもつこの神社は、白山(はくさん)を御神体とする白山信仰の総本宮。かつて白山は遠くから眺めて拝められていました(遥拝[ようはい])が、717年(養老元)に僧侶の泰澄(たいちょう)が登頂し開山してからは登拝する修験者が増え、修行の場となっていきました。白山比咩神社は加賀馬場(かがばんば)として修験に旅立つ際の拠点の一つとなったため、多くの人で賑わうようになったといわれています。
そんな白山比咩神社ですが、当初は手取川がつくり出した河岸段丘の一部「舟岡山」に創建されるも、297年に手取川河畔の「十八講河原」に遷したところ、手取川の氾濫により何度も社地に被害が発生。716年(霊亀2)に「安久濤(あくど)の森」と呼ばれる河畔の別の場所を経て、1480年(文明12)に現在の位置に遷ったのだそうです。
ただし、時に暴れる手取川であっても、そこを流れる水は、あくまでも御神体である白山からそこで暮らす人に恵みをもたらす「命の水」でもありました。権禰宜(ごんねぎ)の田中天善さんからはこのような言葉も聞きました。
「白山比咩神社は扇状地で農業を営んでいる方々はもちろん、漁業を生業とする方々からも崇められてきたのです。漁師の方々は航海中に白山を目印(山だめ)にしていたこと、また漁においては川から海に注がれる栄養素、つまりは山の恵みが重要であることも知っていたからだと思います」
さて手取川上流、中流のエリアの〈水の旅〉は手取川が舞台でした。しかし下流域にあたる「海と扇状地のエリア」では、これとは別に用水路も旅の舞台となっていきます。私たちは扇状地に張り巡らされた「七ヶ(しちか)用水」を知るために、七ヶ用水白山(しらやま)管理センターを訪ね、手取川七ヶ用水土地改良区の中川晃さんにお会いしました。
「稲作を営むために手取川から水を引き農業用水とすることは、古くから行なわれていたようです。七ヶ用水という名前は当時から7本の用水路があったことからきているそうです。ただし、水の取り入れに難があり、水の供給は安定していませんでした。水を巡っての争いも絶えなかったと言われています」
転機が訪れたのは明治時代。村の役人だった枝 権兵衛(えだごんべえ)という人物が1865年(慶応元)、私財を投じて扇状地の扇頂付近に位置する安久涛の淵の岩に穴をあけて300mのトンネルを掘り、農業用水の安定的な取り入れに成功します。この掘削を突破口に、明治、昭和、平成と大規模な改修を重ね、扇状地での農業の発展を支える用水の整備が進められたそうです。
「1903年(明治36)につくられた『大水門・給水口』は歴史的な農業土木施設。非常に堅牢につくられていて今も現役です。当時の技術の粋を集めたのでしょうね」(中川さん)
なお、七ヶ用水には発電所も設置されています。環境にやさしい小水力発電ながら、1100戸が1年間に消費する発電量に相当する電気を起こすことができるのだとか。このほか、用水沿いにも手取川の本川にも水力発電所がありますし、手取川の水は飲み水として広く石川県内で用いられています。白山と手取川がもたらす水という恵みを、最大限に活かすための努力の跡がそこにはありました。
「美川おかえりの会」の会長
西川義正さん
手取川、そして七ヶ用水に加えて、〈水の旅〉にはもう一つ特徴的なルートがありました。それが「扇状地伏流水」です。峡谷など狭い山間地の谷間を流れてきた川が、開けた平野部に流れ出たところにつくられる扇状地は、川を流れてきた比較的大きな石が堆積するため水はけのよい土地になりがちです。それは河床についても同じで、川の水の一部は地下へと浸透していき、潤沢な地下水に恵まれることがあります。
手取川でもそうした現象が起きており、手取川の河口に近い、標高の低い扇状地の端(扇端部)にあたる美川(みかわ)地区では、至るところで湧水が湧き出していました。この「白山美川伏流水群」を案内してくれたのは、ボランティアで観光ガイドを務めている「美川おかえりの会」の西川義正さんです。
「目をつぶって、耳を澄ましてみてください。いい音がするでしょう? 白山から100年近くの年月をかけて水が湧き出しているんですよ」
水が流れ出す音が重なり合い心地よく響きます。湧水が水路を通って流れ込む安産川(やすまるがわ)は、まちなかを流れる川ながらきわめて透明度が高く、美しい景観に一役買っています。地区内には湧水ポイントがあり、地域住民の水汲み場となっているほか、自宅の敷地内に湧き出しているお宅もあるとのこと。また、湧水の流れを使って石川県の希少野生動植物種に指定されている淡水魚「トミヨ」を保護するための増殖池などもつくられていました。
「お台場の水」という湧水ポイントで水を飲んでみると、非常に冷たく、角がなくてまろやか、そしてどことなく甘さを感じるほんとうにおいしい水でした。なお、こちらも環境省による「平成の名水百選」に選出されているそうです。
「美川地区の湧水がもたらした興味深い影響がもう一つあるんです」と西川さん。それは、江戸時代から明治時代にかけて日本海の海運を支えた「北前船」とのつながりです。
「長い航海には、腐りにくいきれいな水が必要だったのですが、美川の湧水はそれに最適でした。水を求めてたくさんの北前船が美川の港に停泊するようになり、その結果、美川は大きく栄えたんです」
白山がもたらした水は、当時の日本の海運に寄与し、それが人々の暮らしを豊かにしていました。些細なことがのちに大きな現象の引き金になるという「バタフライエフェクト」ではありませんが、水がもたらすものの多彩さには驚かされました。
美川地区をひと回りした別れ際に、西川さんがつぶやきました。
「実は2年前に、湧水の量が突然減ったんですよ。今はだいぶ回復したんですけどね」
手取川上流での斜面崩落の影響とも言われている湧水の水量低下。湧水は決して人間にコントロールできない「恵み」なのだと思いしらされます。今であれば科学的に原因を探ることができますが、それができなかった時代に同じことが起きたら……。海辺の町から、白山に向かって手を合わせるほかなかった人々の姿を想像しました。
株式会社吉田酒造店 専務
吉田泰之さん
〈水の旅〉をたどる取材で最後に訪ねたのは、湧水を用いて日本酒づくりに挑む株式会社吉田酒造店の若き専務、吉田泰之さんです。吉田酒造店は1870年(明治3)に設立された酒蔵です。白山がもたらす湧水、肥沃な手取川扇状地がもたらす米はいずれも良質。それらを用いてつくってきた「手取川正宗」や「吉田蔵」などの地酒は、白山と手取川がもたらす恵みの結晶といえるでしょう。吉田さんは、長い歴史をもつ酒づくりを踏襲しつつ、新しい風も吹き込もうとしています。
「最近は、品質を追求した結果、温度管理などに膨大な電力を費やす酒づくりが増えています。けれど、環境に負荷を与えながらの酒づくりは、これから先ずっと続けられるものではないと思っています。自分たちは、環境負荷をできるだけ抑えたうえで品質を追求するような酒づくりがしたいのです」
サイボーグのような日本酒ではなく自然との調和のなかでつくられる日本酒を、さらに環境への配慮が求められる未来においても持続可能な酒づくりを、吉田さんたちは目指しています。それ以外にも、相部屋が当然だった杜氏の宿舎を個室にしたり、女性や外国人を杜氏に積極採用したりと、若い感性を活かした改革も進めています。
さらにもう一つ、吉田さんが挑んでいるのが、地域を巻き込んだ取り組みです。
「地元産の酒米を使った酒づくりです。兵庫県の山田錦という銘柄の酒米を使うことが多かったのですが、今は地元の農家の方々と力を合わせて、この土地で育った酒米を用いてさらなる品質向上に取り組んでいます。後継者問題に直面する地域の農業に、地酒づくりを通じて何らかの貢献ができればと思っているのです」
この話を聞いたとき、吉田さんが「手取川」という川名の由来の一説を教えてくれたときの言葉と重なりました。
「手取川の名の由来の一つに、かつて戦に赴いた武士たちが急流に流されないように手を取り合って渡ったから、というものもあるんですよ」
吉田さんは、一緒に夢を追う仲間を探しているのかもしれません。
白山と手取川を舞台にした〈水の旅〉を追いかけてきました。今の自分が生きている時間とはスケールがまったく異なる時間の流れが存在することを認識する体験だった、というのが正直な感想です。
ただし、スケールが異なるにもかかわらず、随所で親近感を覚えたのも事実です。それは豪雪と折り合いをつけながら栄えてきた白峰のまちなみが美しかったり、明治時代につくられた取水口の緻密で堅牢な工法に感動したり、100年近くを要して湧き出した水やその水でつくられたできたての日本酒がおいしかったりという〈水の旅〉や〈大地の物語〉に基づく体験が、自分の感性に影響を及ぼしたからではないかと思います。
雨や雪や川の流れが地形を変えるのと同じように、私たちの暮らしも自然によって簡単に変えられてしまうこともあります。ただし、変えられても、それに順応して行動できるのが人間ではないか、そしてその行動が文化なのではないか――そんなことを考えました。
(2017年11月9〜10日取材)