<経済学者が書いた環境問題の本>というと、難解な数式やグラフが並んでいるページをつい想像してしまいます。ところが、2003年に出版された『環境』という本は、一般にはあまり知られることのなかった市場と社会の捉え方が平易に書かれているばかりか、ソーシャル・キャピタルという考え方を取り入れ、環境経済学の考え方を乗り越えようという著者の意気込みが感じられます。 そこで、今回はこの本の気鋭の著者、諸富徹氏を訪ね、「道具として市場を使う」ことの意味をうかがいました。
京都大学大学院経済学研究科助教授
諸富 徹 もろとみ とおる
1968年生まれ。京都大学大学院経済学研究科修了。専攻は財政学、環境経済学。
主な著書に『環境』(岩波書店、2003)、『環境税の理論と実際』(有斐閣、2000)、また共著に『環境政策の経済学』(日本評論社、1997)他多数。
私が同志社大学の学部生の頃、学校ではミクロ、マクロ経済学を習っていたわけですが、それとは別に、友人の伝手で、当時大阪市立大学で教鞭をとっていた宮本憲一先生のゼミに参加していました。公害問題の領域では著名な方でしたので、いろいろな人がモグリでゼミを聞きにきていたのですが、それを自由に受け入れていたのです。
といっても、私は宮本先生が公害論で有名というのは岩波新書等で知っていましたが、その時はとりたてて関心があるというわけではありませんでした。ゼミではアダム・スミスの『国富論』を読んだのですが、古典を読めるゼミということで惹かれたわけです。そのうちに、徐々に公害問題にも興味を示したということですね。
学生時代には、岩波新書の古典的なもの、丸山真男さん、大塚久雄さん、内田義彦さん、そういうものを読んでいたのですが、おそらく私の世代は、このような古典的な思想に関する本を学生時代に読もうと思った最後の世代でしょね。いまの学生の本の知らなさはびっくりしますが。
一方、私の本籍である同志社大学の先生は、国際マクロ経済学が専門だった篠原総一先生で、徹底的にミクロ経済学とマクロ経済学をたたき込まれました。ただ、それだけではどうもものたりない。そこで、同志社と大阪市立大学の二重生活を続けていたわけです。当時の日本では、環境経済学という言葉もありませんでしたし。
学生時代、ある先生に「経済学をやるなら、モノを考えなくていい」とはっきり言われたことがあります。まず、ミクロとマクロの体系を身体にたたき込み、次はそれを使って論文を書き、それができたらやっと、社会的なことを言えるようになればよいということです。
しかし、難しいのは、「それならば、経済学をマスターすれば、有益なことを言えるようになるのか」というと、必ずしもそうではない。理論的な分析の後に、時事的なことに言及すると、意外に内容が凡庸だったという研究者の話はよく聞きます。トレーニングを積めば、社会的な分析が鋭くなるという部分もあるのですが、それだけでは何かが欠落する。経済学という学問がいろいろな仮定に依拠し、あえて問題にしていないことがたくさんあるわけです。そこは自分で拾っていかなくてはならないだろうと、学生時代、直感的に思っていましたね。
学部の3年生が終わった時、1991〜92年ですが、交換留学制度を使ってドイツに1年留学したのです。でも経済学を学ぶ気がせず、社会学のゼミに出ていましてね。コントやスペンサー、ハーバマスまでを一気に読みました。
この頃、日本はバブルが崩壊したわけですが、当時のドイツは、いまの日本程度の環境への意識の高さが既にあったのには驚きましたね。車よりは自転車に乗る。牛乳を買う時はビンを持参し、それに入れてもらう。スーパーへは自分のバッグを持っていく。さらに、エコバンクというものが設立されていました。みんなでお金を持ち寄り、商業銀行からはお金を貸してもらえないような社会的に意義ある活動に融資しようというもので、それが成功していた。今で言う社会的責任投資のはしりですね。
緑の党も、州政府では連立に入っていた頃で、一緒に過ごした学生達も、緑への意識が高かった。これには影響されましたね。まさに環境問題はこれからの問題だと。
ただエコロジー論そのものではなく、環境問題を経済学で料理したらどうなるか考えようと思ったわけです。ちょうどその頃、日本では植田和弘・落合仁司・北畠佳房・寺西俊一『環境経済学』(有斐閣、1991)といういい本が出版されました。これは、それまでの「公害問題」の経済学とは違っており、きちんと理論分析を使っていた。そこで、日本に戻り、大学院を選ぶ時、宮本先生と篠原先生に相談すると「植田さんの所が良いのではないか」と奨められ、京都大学にすすみ、これから大きなテーマになると思った環境税を自分のテーマに選んだわけです。環境税は、当時ドイツで議論されていましたし、日本ではきちんと分析されていませんでしたので。
環境経済学には二つの大きなテーマがあります。一つは「どのような政策手段をとるか」ということで、排出権取引や環境税はこちらに入ります。もう一つは、「環境をどのように貨幣価値で計るか」ということです。例えば、長良川の河口堰を造らなければ、もともともっていた環境価値はいくらか、逆に、造ればどれだけの環境価値が失われたかということを、どのように金額にして表すか。
経済学の発想で環境問題を取り扱うと、市場ではとりあつかえないもの(例えば、汚染物質やCo2などはその一つ。外部性といいます)を、価格をつけたり取引権を設定したりして、どう市場の中で取引できるようにするか(これを内部化といいます)という論理のたてかたをします。経済学で進む場合は、その方法の限界には疑問をもたずに、この論理を精緻化していくのが普通です。環境税は仕事としてきちんと業績をつくろうと取り組みました。でも、精緻化ばかりしていくと、ある部分が抜け落ちてしまうという思いは、依然としてありましたね。
―― そこで、昨年書かれた本の話になるわけですが、これは『環境』という題名にもかかわらず、具体的な自然環境の話は出てきませんし、かといって環境経済の典型的な考え方も出てきません。
その感想は、よく言われます。これまでの新古典派経済学のものさしで環境について書く気はありませんでしたし、「自分にとって環境とは何か」という枠組みのアイディアを提示したかった。それと、環境と経済の関係を大きく把握した上で、「発展とは何か」ということも考えたかった。
環境と経済の関係は、たいへん気になる所です。なぜ自然環境が悪化するかということを、経済学の人間から見ると、経済的なメカニズムの中で自然環境を壊していくプロセスが動いていると捉えます。その中での主要な行為者である企業にとって、普通に考えれば、環境は自らの営利活動の意思決定に直接関わらないという意味で、市場の外にあり、企業活動と自然環境は切れています。でもそうではなく、自然環境が守られながら、企業活動が発展していくための方法と考え方をはっきり書いてみようというのがもともとの発想ですね。
さらに、一人当たりGDPを上昇させるという「発展」の考え方も、変わってきています。人々の評価軸が変わり、お金中心の評価から、モノではない世界を評価し始め、生活の質の向上も求めている。自然環境ももちろんその中に含まれます。そして、このような新たな発展を支える社会的基盤は何かということも問題になります。道路などの社会資本は自然資本の破壊を招いている。これらは、経済学では明示的には明らかにしてこなかったことなのです。
自然環境に人間が介入することをマイナスと考える根元的なエコロジストは、自然環境と経済活動を対立関係と捉え、その間の調停は不可能という立場に立つので、自然環境と経済活動の望ましい相互関係を求めようという発想には興味を示さないでしょうね。こうした人々からは、私の本について「自然の絶対性についての記述が無い」と言われますよ。「すべての根元には侵すべきではない自然がある」というわけです。でも、私は、経済と自然環境の接触面を探ると、これらの議論では多々抜け落ちている論点があると思っています。
自然環境がこれ以上悪くならないように、人間社会が負のインパクトを自然環境に与えないようにするために、われわれは制度とか、信用を生むような人々の関係を表す社会関係資本(ソーシャル・キャピタル)をきちんと捉え、経済活動と自然環境の間をうまく保つような社会制度をつくっていかねばならないと考えていますので。
逆にいえば、ある程度自然環境を利用することは、認められるべきだろうとも思っています。
われわれの社会が市場に使われるのではなく、われわれがうまく市場を使えないかといのが私の基本的な出発点なのです。情報を伝達し、求める人々に財を効率的に生産・配分し、人々に財を守る誘因を与える。このような市場が果たしている役割は重要なもので、それを別の何かに取り替えてしまうのは無理ではないでしょうか。
自然界の物質代謝の中に経済活動を完全に埋め込んでしまおうというのがエントロピー経済学の考え方ですが、それは非常に難しい。逆に、市場メカニズムを上手に利用する中で、マイナスの作用をどのようにコントロールするかを考えねばならない。市場を放っておいたら環境にダメージを与えるというならば、どこまで市場を制度的に誘導できるのか。そこで環境税や排出権の考え方が出てくるわけです。
公害が社会問題になっていた時には規制や基準を設け、守らなかったら操業停止などの措置が取られました。しかし、いまや汚染主体となる可能性があるのは企業、市民、実に多数に上ります。環境税や課徴金のように価格に訴えるという市場の効能は、こうした多様な人々が活動する市場の動きをあまり乱さずに、環境を守る動きを組み込めることにあります。市場で決まる価格に、人為的に価格を上乗せするだけでいい。中央政府が指令的に規制を行うのも大変です。人々は表面的には利潤を追求しながら、いつのまにか環境が守られるように誘導されていく。そこがメリットでしょうね。
この「市場を使った社会のコントロール」の考え方も、ヨーロッパとアメリカでは大きく異なっています。アメリカの場合、例えば社会保障制度をみると、年金、医療保険が皆保険になっていませんし、多数の弱者が市場の圧力に直接さらされています。一方、ヨーロッパは市場をうまく利用しながら、社会的コントロールを必要なら実施していこうと考えている。自然環境も、市場と整合的に守るためにはどうしたらよいかを考えている。アメリカは環境を守ること自体がわれわれの経済を破壊してしまうと考え、やめてしまう。ずいぶん哲学が違うと思いますね。
環境税や、環境と調和した市場メカニズムをどのようにつくるかと考えますと、集権的な制度がよいのか、あるいは地域で分散的・分権的に維持され発展していく制度がよいのか、気になってきます。これが次の課題でしょうね。日本でも、財源が地方に委譲され分権が進んでいった時に、地方ではどのような制度をつくるのか、問題になってくるでしょうね。
この点については、ヨーロッパでもフランスとドイツは違うと言われます。ドイツは、例えば電気でも、消費地に近い場所で発電し、供給していくシステムに変えようとしています。こうしますと、日本のように大規模発電で遠方に供給するより、分散型でロスが少ない。どうも、ドイツは根元的に地域で何とかしていくということに、こだわりをもっているという印象をもっています。
日本でも、徐々に権限を分散させながら、地域で環境保全に関する決定を行っていく方向にならざるをえないと思っています。
私の場合、水問題で言えば、排水課徴金などの方法を使い、水汚染問題をどのように解決するかに関心がありました。これを調べる上で、おもしろいのはオランダです。
オランダの環境税は、価格による排出物抑制というインセンティブ効果もあるのですが、もともとは水管理組合の財源調達制度です。水量管理、洪水管理、水質管理の三つを、水管理組合が行っているのですが、その財源を組合員から調達するシステムなのです。ごく普通の料金徴収システムでして、水質にかかわる部分で、「水を汚した人はたくさん払いなさい」というだけのシステムです。しかし、いざ実施してみると、予想以上によく効いてしまった。OECDの環境税の評価でも、オランダはもっとも効果が上がったケースとされています。
経済学から見れば効果ばかりに目がいくのですが、私の場合、水管理の組合というのが組織としておもしろいと思いました。何しろ800年の歴史があり、国の歴史より古い。
どうやってものごとを決めているのか調べると、利害関係者から構成される委員会がある。分担金の支払額により票数の差があったのですが、現在では民主化して、一般の人が投票できるようにしたと聞いています。
集めた金額をどのように割り振っているのか、財政分析もしました。すると自分たちが汚した水を水管理組合が集合的に処理するという仕事を行っています。そして、その組合が排水の質を常に監視していまして、もしある人が汚れの10%に責任があるとしたら、10%のコストを負担してくださいというので、文句を言えない。
オランダは国家以前にそういう組合が存在していたわけですから、財政的にも独立しており、意思決定も独自に行う。これが成功の秘訣でしょうね。水の一元的な管理ということが第一の条件でしょう。
世界銀行はオランダ的なモデルを各国に普及させようとしていますね。
水について気になっているのは、第1に水源涵養、第2に水質改善。第3に、価格コントロールという方法でいいかどうか、だめなら、どのような制度的手段があるかということです。
この第3の点については、途上国での貧困層に対するネガティブな要素が気になります。日本では水道が税でまかなわれてきたので、コストが意識されてこなかった。ところが、途上国では安全な水さえ供給されずインフラ整備の前にペットボトルが生活に入りこみ、高価な水が流通している場合がある。でも、水はそういうものではないでしょう。
他方、日本では効率的な水を大量に供給し成功したのかもしれませんが、すべき負担をしてこなかったのかもしれません。それを今後どうすべきか、問題になると思います。わたしたちは、これ以上質の高い飲料水を要求すべきか。現在都市部で行われているような高度浄水処理を全国すべてで行うのか。高価な汚染物除去施設をわれわれは払う意思があるか。
水源涵養林の場合を見ても、密集しており、間伐も満足にされていない。それを整備するには公共事業として行わざるをえなくなっており、その費用負担として神奈川県が行おうとしているような水源環境税のような形にするのかどうか、気になります。
神奈川県民の方や、県内の川を守っているNPOの方に聞くと、「払ってもよい」と言います。でも、続けておっしゃるのは、「それが、環境とは関係のない目的に使われるのはイヤだ。われわれも決定するプロセスに関わりたい」と言います。それが、水をどうガヴァナンスしていくかということであって、自分たちで監視し、自分たちが決定プロセスに参加することが大事なわけです。これが進むと、流域という意識もが出てくる。制度がみんなから見えることが大事ですので、目的税にしてくれとみなさん言いますね。コストの問題を提起すると、ガヴァナンスの問題を提起せざるをえないでしょうね。
すると、社会的な信用を生み出す人々の関係を表す社会関係資本(Social Capital)の概念も、今後いろいろなケースを分析し、地域で社会関係資本を使い、どのような制度をつくればよいかということも考えていかねばならないかとも思っています。
(2004年6月18日)