水の風土記
水の文化 人ネットワーク

心の湯浴みを取り戻せ 
〜癒しの時代に求められるホンモノの温泉〜

ここ数年、温泉業界では水質偽装など多くの問題が噴出しています。ただ、問題が起きる裏には、長い温泉文化の歴史の中で、利用者が温泉に求める価値が変わりつつあるという点も見逃せません。 今回は、温泉教授として知られ、おそらく誰よりも温泉を足で調査してきた松田忠徳さんに、「温泉文化のいま」についてお話をうかがいました。

松田 忠徳

旅行作家・札幌国際大学教授
松田 忠徳 まつだ ただのり

1949年生まれ。東京外国語大学大学院修了。モンゴル国立大学客員教授も務める。
主な著書に『温泉教授・松田忠徳の日本百名湯』(日本経済新聞社、2004)、『これは、温泉ではない』(光文社、2004)、『温泉の未来』(くまざさ出版社、2005)他多数。

温泉には個性がある

 今まで、温泉偽装問題が起きる前から、いろいろな温泉問題を提起し、ホンモノの温泉を取り戻そうという活動をしています。

 例えば、1ヶ月に1回しかお湯を抜かない温泉があれば、それを1週間に1回、さらには1日おきにと、温泉のレベルを上げてもらうことで、お客さんに本当に喜んでもらいたい。

 循環風呂ならば殺菌しないと駄目なわけですが、塩素以外にも殺菌の仕方があるわけですし、塩素を使う場合でも、臭いを抜いてしまうという方法もある。

 そもそも、私は「源泉かけ流し」を良いと人にも奨めている人間ですから、温泉にどうして塩素を入れるのかがわかりません。私の考えでは、プールと銭湯には塩素入れているので、温泉にも入れているのでしょう。ただし、プールと銭湯は、水道の水ですが、温泉にはいろいろ成分が含まれています。アルカリ性の湯なら塩素は効きにくいですし、泉質によって化学変化を起こす場合もありますし、有馬温泉のように鉄分が含まれていますと、その成分は失われてしまいます。泉質にいろいろな個性があるから温泉は面白いのです。

 それに、温泉は毎日お湯を抜くことが基本なのに、塩素を入れることで、経営者は安心してしまい、ますますお湯を抜かなくなる。一方、毎日お湯抜いて掃除してレジオネラ菌が検出されたことがない施設に対しても、塩素を入れろという。どうして入れないと駄目なのか。かけ流しの温泉にまで塩素を入れていると耐性を持ったレジオネラ菌が出現しかねない。

 私の気持ちは「常に、温泉経営者にレベルアップをしてもらいたい」という点につきます。

 このようなことを言うのも、今の温泉経営者の中にはあまり努力もせずに、昔ながらの気持ちで勝負している方もいるからです。経営者のレベルが上がるためには、消費者の意識が上がることが一番良い。例えば、循環風呂の「ぬるぬる」は多分に他人の体の脂ですが、それを「いいお湯だね」と消費者が言ってしまえば、経営者はその言葉で満足してしまうわけです。だから、ショックを与えるかもしれないけれども、私は消費者に直接呼びかけました。

 これを支持してくれたのは、主に大都会の若い人たちと女性でした。

 温泉にはそれぞれ個性があります。例えば、草津の湯畑からお湯が出てくる。この湯畑のお湯を100メートル先で引いてる宿、500メートル先で引いてる宿、それぞれが違う温泉になります。空気に触れている時間が違うからです。ましてや草津の中で、泉源が別ならば、これも微妙に違います。世界中に二つとして同じ温泉はないということです。

 日本人にはそれが面白いのでしょうね。だから、風呂に入るのでも、お猪口を浮かべて入りたくなったり、雪見をしたりと、何かと風情を楽しみたくなる。

 日本人は温泉というものは、個性が違うもので、お湯そのものはシンプルなものと思っていたわけです。

 それにもかかわらず、今回の一連の騒動で、温泉業界は信頼の一部を失いました。「信頼」こそが、温泉文化を支えてきた源泉なのに。

 ただ、私は、1948年(昭和23)に成立した温泉法についても異議を唱えたいのです。温泉法では成分はなくても25度を超えると温泉と言います。すると、水道水を温めて温泉にするのと、25度を超えただけで温泉と言うのと、いったいどこが違うのかわかりません。要は、法律そのものに欠陥があるわけで、見直しをする必要があるでしょう。

 なぜなら、いまだに私達利用者は、温泉に成分があると思って足を運ぶわけですから。

混浴観察にもお国柄が出る

 日本人は、日常的に風呂に入り、風呂の最高の形態にして最も豊かなものを温泉と位置づけています。その根拠となるのが、温泉成分です。

 しかし、欧米だけではなく日本以外のアジアでも、日本のような形で日常的に風呂に入る習慣は珍しいのです。

 日本にやって来た欧米人に、日本の銭湯や温泉をすすめると、最初は嫌がります。一般的に知らない人と風呂に浸かる習慣がないからです。でも、だいたいはその後、とりつかれて喜々として風呂に浸かるようになりますね。知識人ほどそうで、入浴のマナーや風呂のあり方に日本の文化を見るようですね。

 おもしろい話がありまして、黒船が下田に着いた時、アメリカ人のペリーは混浴を見て「日本人は野蛮だ。入浴施設に混浴で入っている。野蛮な民族だ」と言っています。

 一方、江戸時代、長崎の出島にいたオランダ人医師が、同じく混浴を見て、「日本の銭湯は秩序が保たれていて、素晴らしい国だ」と言っている。混浴一つとっても、観察する人、その人が背負っている文化的な背景によって解釈が異なってくるわけで、一面的にものを見てはいけないということですね。

 私は混浴を、安全であることの証拠と見ます。安全だから混浴するわけです。そして、安全は文化です。例えば、今の時代に「混浴どうですか」と日本の女性に言ったとしましょう。「イヤです」と答えるのは「恥ずかしいから」です。「危険だから、暴行されるから」という気持ちは、まあ、あまりないでしょう。ところが、欧米の方が混浴を拒む場合は、まさにそれが理由ですから。

 この安全の文化は、日本の温泉では保たれてきました。例えば、共同浴場が昔からありましたが、そこは当然、昔は混浴です。そこで、性的モラルに反することがあればお湯は止まる、というような説話・言い伝えが残っている所はたいへん多い。お湯は村の共有財産ですから、本当に止まったら、村八分ではすまないくらいです。だから、温泉場で不埒なことは伝統的に起きなかったわけです。

 混浴の解釈が異なる背景には、日本の入浴と、欧米の入浴が異なるということがあります。

洗い流す文化と浸かる文化

 私は、「ヨーロッパ人が発明した最高の道具はシャワーだ」という言い方をよくします。狭い場所で洗い流せますし、穴を開けることによって少ない水を強くあて、体の表面を洗い流す。そして、お湯を使うようになったら、そのお湯が流れないようにバスタブにしたというのが私流の解釈です。ですから、夫婦であっても基本的にバスタブは共有しない。以前、ドイツのテレビ局の人に、「ドイツではシャワーは何歳ぐらいから浴びるのか」と訊いたら、「5歳ぐらいからです」と言っていました。

 これを私は「洗い流す文化」と言っています。必要なのは、シャワーとバスタブと便座の3点セット。

 それに対して日本人は、淀んだ水やお湯の中に浸かります。「浸かる文化」と私は呼んでいます。知らない人たちとそのお湯を共有するので、お湯をきれいに使います。洗い場で流します。きれいに使うためには、それなりの文化的な申し合わせを守らないとなりません。ちゃんとかけ湯をして、下半身の汚れを流して入る。

 さらに、そのようなお湯を大切にするから、共同体精神が育ったわけです。いまは、それが崩壊しつつありますが。

 この共同体精神というのは、現代であっても大切なものです。

 熊本県・黒川温泉が古き良き田舎の風情を醸し出すことで、いま大変な人気がありますが、その秘密は、共同体にあります。都会の人間は共同体を捨て、村を捨ててきたわけです。そうした人達に向けて、全ての宿が露天風呂を作った。作れない宿や土地がない宿には、違う宿が、その土地を提供した。これは共同体精神、助け合う精神です。

 利用者は、そこで、知らない人たちとお湯を共にして、輪を保つ。いろんな人たちと輪になりながら、和を極める。これは日本人のもっていた共同体の精神性でして、入浴の形態の中でそれが全部出てしまうわけです。

日本初の20代温泉ブーム

 温泉学者として言えることは、ここ数年、日本の歴史始まって以来、初めての20代が主役の温泉ブームに入っています。

 昔は、管理職にある人たちは、若者が「温泉に行きたい」と言ったら、「20年早い。もっと働け」という通念がありました。つまり、温泉は、おじん、おばんのものだった。しかし、今の温泉ブームを支えてるのは、20歳代、30歳代の人達です。

 なぜか。

 若い人たちは感性が豊かですから、会社でも社会でも、ひずみを感じてしまう。そこで温泉場に究極の癒しを求めているのでしょう。

 ただの温泉でよければ、東京に近い熱海だってブームになったはずです。高度成長期は、熱海に行くことが成功者の証でした。その後も、「熱海にリゾートマンション持てたらサラリーマンの成功のステイタス」という時代もありました。たかが温泉地一つでも、時代の流れや、求められているものは何かを表してきたわけです。

 今の人が温泉に行くのは、真に癒されたいからです。宴会騒ぎをするためではなく、心身再生の場として温泉を求めているのです。しかも、本当はお金もあまり使いたくない。ですから、どこに行くかという選択も重要です。自分のお金で温泉を選び、宿を選ぶので、失敗のないところを選びます。だから、しっかりと選ぶわけですね。女性が選ぶところを見ると、教えられる点は多いですね。

観光地としての温泉

 今、日本で「温泉地」は3,100を超えます。宿泊施設のあるところを温泉地と言います。熱海も一つとしてカウントしますし、山の中の一軒宿でも一つとカウントします。しかし、日帰りしかできないようなところで宿泊施設のない場所は、温泉地とカウントされません。

 その温泉地も、かつての鉄筋の温泉ホテルが並んでいるような温泉地よりは、一軒宿のところがいまは調子がいい。何故なら、一軒宿は、これまでお客さんと対面してきたからです。反対に大きなホテルのような所は、お客さんよりももっぱら旅行代理店や銀行と対面してきた。だから、世の中の変わりように、一軒宿はすぐに対応できた。

 さて、先ほど、現代の若者が温泉場に癒しを求めていると言いました。

 温泉場もそのような時代の流れに対応しないと、レベルアップできません。つまり、いまの温泉場の役割というのは、都市のビジネスパーソンを再生する場なんです。ですから、かつては利便性のよい、「歓楽型」とひとくくりにされたような個性のない温泉は魅力が薄れ、秘湯と言われるような、山の中の一軒宿の方が勝っているのです。

 今、この難しい時代に、どのようにお客さんを惹きつけるのか。なぜこの不景気な時代に、飛行場から2時間もかからないと行けないような温泉場、例えば黒川温泉に、お客さんが全国から来るのか。その秘密は何か。何故魅力があるのか。そこをよく考えてほしい。

求められるのはホンモノの温泉

 では、今、温泉場に求められるものは何なのか。

 私が経営者に言いたいのは、「お客さんの目線に立って下さい。自分が客になって下さい。自分が行きたい宿は、何なんですか」ということですね。「とりあえず自分が泊まりたい宿」を目指してもらいたいのです。今の時代に、2泊3日の時間とお金があれば、自分はどこの温泉地のどの旅館に行きたいか。

 実際に視察に行く経営者はかなりいるのですが、つい旅行者ではなく経営者の目線で旅をしてしまう。あくまでも、お客さんの目線で観察してほしい。

 今、都市のビジネスパーソンは自分の、精神の安定を充たすために温泉場に行く。特に30歳代を中心とする若い人たちは。その彼らは、生まれた時から家庭に風呂がある世代です。

 また、もう一つの主要なお客さんである女性も、年配の方ならば、少々オーバーに言うと新婚旅行ぐらいでしか温泉に行ったことがなかったような人や団塊の世代の奥さん方です。このような人々が主役なんですよ。

 これらの客は何を求めて温泉に行っているのか。癒しですが、もっと言うと、家庭の風呂で得られないものです。その最たるものは、温泉の成分です。本当に成分があるかどうかわからないにしても、いわばそういうものを求めている。この志向を、違う言葉で言えば「ホンモノ」なんですよ。ホンモノ志向。

 だから、料理も食べに温泉場に行き、そこの食材を求める。築地に一番いいネタが集まることはわかっていても、飛行機代を払って札幌まで飛ぶ。それは、取れたての方が美味しいと思っているからで、鮮度というホンモノを求めているんですね。温泉場に行く意味は、ホンモノに触れられることなんですよ。

風呂敷と浴衣のような柔軟な気持ちを思い出そう

 こうした時代で利用者が求めるべきものは「心の湯浴み」です。温泉地に豊かさを得るために行き、そこで、余裕を楽しむ。これを楽しむのが心の湯浴みです。利用者が温泉に求める気持ちも、もっと自由であっていい。

 この気持ちを理解してもらうために、私は「風呂敷を思い出して欲しい」と言います。風呂敷はフレキシブルなものです。私も子供の時に、近くの温泉共同浴場へ母親に連れて行かれた冬の日を思い出します。風呂敷包みに着替えを包んで行って、脱衣所が板の間です。冷たいですよ。すると、板の間の上に風呂敷を敷いて、その上で、着替えをする。「風邪ひかさないように」という母の親心でしょう。脱ぎ終わったら、また衣服を風呂敷に包んでそこに置いておく。まさに風呂敷は、風呂で敷いて、風呂で包むものです。我々日本人に今必要なものは、たった一枚の風呂敷を様々に使いこなす柔軟な頭、心ではないでしょうか。

 同じような例として挙げたいのが「浴衣」です。浴衣は、平安時代の高貴な人々が風呂に入る湯具でした。そのうちに、「洗うのに不便」と、だんだんと使われなくなり、男性は湯ふんどし、女性は腰巻になっていきます。そして、一応バスローブの役割を果たしたようで、何枚も着て、汗を取るために着るようになり、それが江戸時代まで残っていた。これが、江戸時代から、「かつて高貴な人たちが着けていた浴衣が、粋だ」ということで、外で着るようになる。庶民が着て、外に出ることがおしゃれになったんですね。

 そして今。若い人たちが温泉街に行って浴衣を着て歩く。これは最高のおしゃれと思いますよ。山陰の城崎では、宿によってはもう、50枚、100枚と、いろいろな種類を用意していますね。今の若い人たちには浴衣を着て街を歩くことは新鮮なのでしょう。そういう柔軟な心を大事にしたいですね。

 文化というのは、遊びです。わたしたち現代人はすごく几帳面で、何かあればすぐに緊張するような環境で暮らしています。やはり温泉で、入浴という遊びの部分を通して自分を癒し、余裕を取り戻し、柔軟な心を思い出す。それは、日本人にとっての大きな文化なのです。

 (2005年1月26日)



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