那須野ヶ原土地改良区連合事務局長
星野 恵美子(ほしの えみこ)さん
前職は、ここの町役場の総務課。実家も主人も農家じゃありませんから、農業のことは、まったく知らなかった。
昔の総務課というのは、議会との連携があったのです。会場設営したり、議会資料作成にかかわったり…。もちろん、私はコピーする程度でしたが…。変わった職員がいると思ったのでしょうか、ある町会議員さんから那須野ヶ原土地改良区連合(現在の愛称:水土里ネット)の故渡辺美智雄理事長に会わないかと言われて。まだまだ、可愛い女の子というイメージのころでした。相手は国会議員さんですから、なんだか恐れ多くて。
連合自体は1970年(昭和45)に設立。土地改良区は旧五市町村(黒磯市・大田原市・西那須野町・塩原町・湯津上村)にそれぞれ分散しており、所属土地改良区は、市町村合併(現在の那須塩原市・大田原市)に連動して六つとなりましたが、最大17ありました。それをまとめているのが連合です。
ところで、この地域では、毎年4月15日に開墾記念祭が行なわれます。日本三大疏水の一つである那須疏水(注1)を開拓した二人の人物、印南丈作(いんなみ じょうさく)と矢板武両翁が祭られているのです。
故渡辺美智雄理事長が、1950年(昭和25)に隣の那須町から西那須野町に住まいを変えたときのこと。この二人が毎年、大事に祭られているのはなぜなんだろう、と思われ、だいぶ勉強されたそうです。そこで、第二の印南丈作・矢板武に自分はなろうと、那須野ヶ原に豊かな水を求めて奔走され、数々の偉業を成し遂げました。
私がここ土地改良区連合に就職した1976年(昭和51)は、国家プロジェクトである農林水産省の国営事業が進められていました。1974年(昭和49)に深山ダムが築造され、これから下流への事業が広がっていく時期でした。勧誘の際、この国営事業が完了した暁には、土地改良区連合は地域全体の水を供給する極めて大事な仕事をするようになるのだ、と言われました。
正直、役所にいるより、面白いって思ったんです。私って、日々の暮らしを普通に続けていると、だんだん生きる価値が見い出せなくって、シュンとしちゃうのね。本当にいつも何かしていないといられない人間で…。
ところが、面白いと思って来たものの、二人いた職員は、私が来た後、次々と辞められ、結局、私一人になってしまった。
よくよく考えてみると、二人の職員を維持するだけのお金が無かったのです。10aというと一反歩に当たりますが、賦課金という組織を維持するための負担金(税金のようなモノ)が、最初は10aあたり1円という時代。それを上げようとしても、ダムはつくったものの、水路が未整備でまだ農家に水を供給できる状況でなかったから、負担金の増額は難しい。
それで、当時五つあった市町村(旧:黒磯市・大田原市・西那須野町・塩原町・湯津上村)に出向き「土地改良区連合というところは、国家プロジェクトである国営事業が完了した暁には、水の管理や施設管理といった、この地域の根幹であるずべての水をコントロールする重要な役割を持つ…。」みたいな大それたことを、何もわからないものですから平気で言ったわけです。変な奴が来た、と思われたでしょうけど、当該地域の市町村にとっては、「命の水』という代名詞が存在しているほど、水は極めて貴重なものでしたから、土地改良区の育成補助金のような形で支援してくれました。
その後、仕事が少しずつ増え、職員が二人、三人と増加するに従い、さらに資金不足が生じてくる。今度は県の仕事をやらせてもらった。それで何年か凌ぐものの、組織の規模が拡大するに従い、当然、資金は不足する。最後は、国に委託事業をもらいました。
厳しい財政事情でしたから、契約した途端に「お金はいつ出ますか」って聞く。それで、取り立て屋のおばさんみたいだって〈サラ金のおばさん〉って渾名(あだな)が付いたことがありました。
そうして、組織の存続のために財政を切り盛りしつつ、28年間続いた国営事業を支えてきました。国営事業の完了に併せ、土地改良施設の自主的な維持管理費の軽減を図るべく発電所事業を導入し18年。とりあえず、管内で使う電力の契約相当ぐらいのボリュームまで漕ぎ着けました。振り返ってみると、土地改良区連合に就職以来、ずっと農家負担の軽減一筋に頑張ってきたように思います。
(注1)那須疏水
時の栃木県鍋島幹の発案により、那珂川から鬼怒川に至る運河構想に端を発し開削された那須疏水は、官側の主導で始まったように見えるが、那須開墾社の 印南丈作と矢板武ら地元民の熱意と努力によって実現した。那珂川は水戸藩の産米ルートとなっており、文化の伝播、物資の交流にかけがえのない交通路であった。印南と矢板両翁は、政府に灌漑用を兼ねた大運河の必要を訴えたが聞き入れられず、ついに二人は、私費による試削を決意。1884年(明治17)7月に試削を開始した。印南と矢板は引き続き、国営事業として大水路開削工事を起工するように、繰り返し陳情を行なうが、国が運河を認めずそうこうしている時期に、明治前期の激しい社会変動の中で、国道の整備や鉄道が敷かれ、運河は不要になっていく。こうした変化の中、印南・矢板両翁は、方針を転換せざるを得なくなり、灌漑用水に目標を絞り込んだ。
翌年4月、ようやく国営事業として起工、同年9月完成した。工期はわずか5カ月、まさに突貫工事であった。サイホンや隧道の内部は、「四方留」と呼ばれる特徴的な工法による石積で支えられ、安積疏水の隧道と同じ方式である。このような特殊工事は、大分県を中心とした九州の石工が受け持った。那珂川上流の西岩崎から那須開墾社までの約16.3kmの那須疏水は、最終的には約1000haもの土地を潤すこととなった。
那須野ケ原とは、那珂川と箒(ほうき)川に挟まれた、複合扇状地です。
山側や伏流河川が湧いて出る大田原市内には、古くから人の住みつきがありましたが、この扇状地のほぼ中央部の那須東原・那須西原と呼ばれていた約1万haの土地は、厚い堆積層に水が潜り込んで伏流するため、表流水としての流れを形成することができず、人々は容易に水を利用することができない。このため、長い間、武士のお狩り場として使われていたにすぎず、利用価値が極めて少ない地域でした。
河原に下り地面に耳を当てると、サアーという地下に流れている水の音を聞くことができます。これが地下を流れる伏流水の音なんです。
実は、1998年(平成10)の局地的な集中豪雨により、非常な被害が発生した"那須の水害"を体験しました。被害が顕著だった地域は、那珂川を挟んで反対側の那須町でした。
被害の最大の原因は、最大時間雨量89㎜という豪雨。5日間に降った総量が一年分の降水量(およそ1600~1700㎜くらい)の3分の2に達する1087mmでした。「よもや、こんな水のない地域で水害とは」と思いましたが、地形的に砂礫層であっても、これだけ降ったら絶対にキャパシティーオーバーで溢れてしまう。それでも那須野ケ原には、那須町のような被害はなかったのです。雨が止んだ途端、「あの水はどこへ行っちゃったの?」という状態で、サーッと退いちゃいました。それくらい砂礫層が厚く堆積している所なのです。
また、私たちは仕事柄、管内に供給する水を日々管理していますから、常時一時間毎の河川の水と雨量のデータを収集しています。一番末端で、取水した水を農業にどれだけ使い、どれだけ残水があるかというデータ管理もしています。それを分析すると、本当に恐ろしい結果が出ます。那須野ヶ原の森も手入れされていない状況ですから、保水能力も低下していますし。だから必要なときには水が不足し、大量に降った雨も一気に河川に流れ、充分利用ができないという悪循環に陥っています。
明治政府の殖産興業によって、隣の福島県の郡山市とその周辺地域である安積原野は、早くから国の認知を受けて開墾事業に着手した地域で、日本三大疏水の一つ、安積疏水(あさかそすい)(ほかの二つは、栃木県の那須疏水、滋賀県と京都府を結ぶ琵琶湖疏水)の通水で一大穀倉地帯に変わりました。
前述の通り、印南丈作・矢板武両翁らは、1879年(明治12)運河延長約45km、高低約353m、河川横断五カ所などの設計に基づき、大運河構想を国に訴えましたが、役所は、運河も重要であるがアメリカ風大農法が那須野ヶ原には適しているとして、開墾事業を推奨。開拓に不可欠な飲用水路へとシフトしていきました。
こうして、明治政府の殖産興業施策と相まって、大蔵省官僚であった松方正義の奨めもあり、アメリカ風大農場をつくろうと開拓農民がどんどん入植しました。しかし、水がない上に、那須山から降ってきた火山灰と砂礫層の厚く堆積する痩せた土地。遮るものが何もない地形にすごいからっ風。もともと、茫々たる茅場でしたから風よけになるような木もないし、火山灰は軽いため、結局、土は全部風で持っていかれてしまう。
もともと水のない地域でしたから、開拓農民達の飲み水すらない。結局、那須野ヶ原の初期開拓者たちは、飲み水を求めて、2~4kmも離れた箒川や下流域の湧水を汲みに行きました。
入植した人たちの多くは、水害で苦しんだ地域の人たちだったそうですが、水害で逃れて来たら、やせた土地に強い風。さらには水がなくて、その生活は困窮を極めたのです。
旧村は元々、沢水などを利用して、古くから人の住みつきが可能な水利をしっかり確保していました。入植者の中には、旧村から水を分けてもらうしかない条件下の方々もおりましたが、旧村には他所の人たちには分け与えないという不文律があったようです。
大田原城下に水を引くために引かれた用水路があり、今でも別称、御用堀と言われています。江戸時代に開削され古くから水利組合も組織され、一部は灌漑用にも使われていた歴史ある用水路です。常に滔々と流れている用水を見れば、飲み水にも事欠いていた開拓者らは、せめて飲み水だけでも分けてもらいたいとして、もらいに行こうものなら泥棒呼ばわり。結局、子供を行かせたと言っていました。大人だったら物を投げられたり、泥棒呼ばわりされたりするかも知れないが、さすが子供にはそこまでしないだろうと。でも、子供でもひどい仕打ちを受けたと聞かされてきました。
ですから、開拓者と旧村の人たちとの確執というのは、今でも根強く残っているようです。
1885年(明治18)、那珂川上流の西岩崎頭首工から那須開墾社に至る全長16.3kmの開削が、国営事業として進められました。地域農民は感極まったでしょうね。その時代を生きた方ではないのですが、地区内の左官屋さんが漆喰壁の材料を使って、当時の開拓農民の人たちの思いを描いてくれた鏝絵を寄贈してくれました。水管理センターの玄関に飾ってありますが、数えてみたら53人に犬1匹が、一斉に用水路周辺に集まり水が流れていく様子を見ている。今の私たちの想像をはるかに越える心の動きがあったのだろうと伺える情景です。
先人のそういう思い、心情がなければ、私たちはこんな豊かな生き方はできないわけですから、昔の様子を知り歴史を継承していくということはとても大事だと思います。
那須疏水が開削されたものの、当時の用水路は土水路でした。砂礫層の厚く堆積している扇状地に開削された土水路では、下流まで安定した用水が流れるというのは至難の業です。ですから、相変わらず水争いが絶えなかった。水利秩序を定め約束事を取り決めても守られないわけです。「今日はAブロックに水を配ろう」と約束がなされても、わずかな水では、田畑に充分に行き渡らない。夜になると守番が水門の上に筵(むしろ)を敷いて番をするものの、日中の過酷な開墾作業に疲れ寝入ってしまうわけです。すると、筵ごとそーっとどかされて反対側の水門が開けられていた、なんていう出来事が頻繁に起こっていた。
そこで、できるだけ公平に分配するために、本地域で編み出した背割り分水方式というのがあります。この分水方法は、水が豊富なときも少ないときも、それなりに分水できるという方法で、公平に分かち合うという精神に基づいてつくられた方式で、公平分配に対する工夫が見て取れるシステムになっています。
小水力発電は、先人達の熱意と労苦によって生み出された水を、ただ、下流に流すだけではもったいない。上手に活用していく事業なのです。
この地域は勾配がきつく、受益地の下流域で標高が120m、一番上の受益地で600mくらいあります。私たちの最も大事な仕事は、受益地に安定的に水を供給するということですが、下流まで480mもの落差があるために、水をそのままストレートに流下させてしまうと、流速が速くなり危ない。それを解消するため、水路には工夫がいろいろあります。例えば、階段(落差工)をつくって水路の流速を抑えている。階段は大きいもので2mくらい、小さいもので70cmくらい。オープン水路だけでもそういう施設が100カ所以上もあります。上流のほうではパイプラインが多くあるため、減圧水槽や空気弁を整備し、エア抜きして破裂しない工夫などの工夫があるのです。
そうした水管理を通して、ある日「これってエネルギーを殺してるってことだ」と気づいたのです。農家の人たちは水管理に必要な賦課金を納めているわけですが、水路を流下している水を使って電気を起こせれば、負担軽減がなされ、厳しい今の農業状勢を少しでも楽にできるのではないか、と考えたのです。
調べていくと、昔、開拓農民のための発電所があったことがわかりました。また、昭和30年代(1955年~)後半まで東京電力(株)による小水力発電所もありました。高度成長期を迎え、火力発電や原子力などの新しい電力にシフトし、小規模の小水力発電は全国各地で廃止になっていったのです。
土地改良区という組織が小水力発電事業を実施するには、法律の壁は、すごく大きかったです。法律の壁もさることながら、電力会社との売電協議のほうも大変でしたね。「ゴミみたいな発電所をつくって何するの」と言われるところから始まりましたから。
片方では省庁の協議、片方では売電協議を同時並行的に行なう。その中で、何度も意識をぐちゃっと潰されました。今では、当地の事例を多くの皆さんがネットワークにしてくださっています。たくさんの人が視察に訪れたり、私が出かけて行ったりして、小水力発電所導入のノウハウを共有してきました。しかし、「ああ、元気もらった。やろう!」とそのときは思うようですが、2カ月、3カ月経つと「やっぱりたいへんかな」となってしまうのか、他地区ではなかなか実現しない。当地で7基の発電所が導入されたのは、最終的には、やる気と根気と本気があったからだと思います。絶対あきらめないという信念が、実現につながったのだと思います。
一番最初に導入した那須野ヶ原発電所は、1992年(平成4)にオープンしました。そのときは農林水産省の事業もまだ並行的に行なわれていて、農林水産省の事業である灌漑排水事業の付帯工事により実施したので、補助率が高く農家負担が軽減されました。国営土地改良事業として全国で初めて計画設置された発電所でしたので、農林水産省の出先の事業所の方々もだいぶ苦労しましたね。
1983年(昭和58)から農林水産省の小水力発電事業制度が導入され、灌漑排水事業により発電が可能になったのです。それにいち早く乗っかったのです。
そんな時代になぜそんな制度がつくられたかという背景に、やっぱり土地改良施設維持のための経費を軽減しようという意図があったものと思われます。関係農家から賦課金を集めて水路の維持管理に充てるのですが、だんだん施設の高度化が進み、水門の開閉も電気、地下水の汲み上げも電気、水管理センターなどの管理施設にも電気代がかかる。昔と違ってほとんど電動化され電気代が嵩むようになりました。そこで、電気代を軽減することによって、全体の維持管理費を軽減すると考えたわけです。
このシステムを伺ったとき、私は、直感で、「これはいける」と思った。国もできる、と言っている。しかし、国が説明しても、農家の代表である理事から「開拓農民のための発電所が那須疏水本幹水路にあったが、それはカボチャをぶら下げたような電気だった」として猛反対されました。最初は意味がわからなかったのですが、結局、ぼやけていて、あまり使い勝手の良くない電気だったと。水量によっては出力が安定せずに、ついたり消えたりロウソクよりましな程度で、今の時代にあんなものをつくって何になるのだろう、という意味だった。実際に体験した理事が理事会でそうおっしゃっていました。だから、ぜんぜん乗ってこない。通常、水や施設という、要するに目に見えるものを管理している土地改良区という団体が、目に見えない電気という世界に入るということが釈然としない、という思いも強くあったようです。
当時、岩手県遠野市に、早くから発電所をやっているということ知りました。売電していると聞いたので、そこへ行って話を聞こうと。しかし、事務所の経費を使って出張すれば反対者がいるわけだし、星野が悪いという中傷もささやかれていたわけですから、そうはいかない。それで、個人として調査に行ってきました。土日しか行けないと遠野市にお伝えしたら、休みの日に対応していただき、いろいろなノウハウを教えてくれました。
担当者からは、売電単価が重要なポイントと知らされました。最後は、結局は30銭でも50銭でも高くなければ、小水力発電は採算が取れない世界だと教えてくれた。市だからやれるけど、あなたの所だったら農家に直接負担がかかるから無理だと。「やり方がわからない」と言ったら、売電単価だけを黒く塗りつぶした契約書のコピーを全部くださった。今でも深く感謝しています。
ノウハウはキャッチできたので、ますます、絶対できると思いました。最後まで「そんなにやりたいのなら、失敗したら責任を取れ」と言われつつ、「わかりました!」と言ってスタートしました。1号基は340kWです。星野が悪い、悪いと怒られながら、すごいブーイングの中で始まりましたが、つくってみたら電気代がまったくかからなくなった。そうしたら、皆さん、途端に喜んでくれました。
内部監査でも、発電によって農家の賦課金が安くなったと評価いただいたので、少しずつ調査をかけては適地を探し、今や7基となりました。
農水省であれ、経済産業省であれ、探せば補助金制度は種々ありますから、それらを上手に活用し、設備導入費の負担軽減を図ってきました。
つくった電気をダイレクトに土地改良施設に供給することもできるのですが、そうすると送電線を張らなければならないため、採算割れが生じやすい。このため、土地改良区が小水力発電設備を導入する場合は、水門の開閉とか事務所の電気代など土地改良施設の電源として利用するという仕組みから、送電線を電力会社からお借りしても〈自家発電設備〉とするという約束事が関係省庁等の通達により定められています。一度は電力会社に売り、私たちは電気を買うというシステムにより運営がなされています。
でも、最初の2年間は大変でした。国営事業では調査設計が最初という発電所ですから、無理も無かったのかもしれません。
一番の問題は、ゴミ。ゴミが水車に混入し、すぐ止まってしまうのです。何回もこれを繰り返す日々でした。「何でこんな所にゴミが入るのだろう?」って半日ずっと観察しました。観察の結果、水の力ってすごいと思いました。これではバースクリーンでは防げない、と。適切なスクリーン探しに奔走しました。これは、というスクリーンを装着して、やっとクリアしました。
また、最大出力340kWを想定した水車を設置したものの、300kWも出ない。素人の私が考えても、水位調整がうまくいっていないと判断しメーカーに掛け合ったものの、素人だからでしょうか、聞き入れてはもらえなかった。そこで東京電力(株)に相談しました。設計書など諸書類をつぶさにチェックいただき、やはり水位調整がおかしいということがわかりました。メーカーには東京電力(株)の小水力発電の専門家もそう言っているからと伝え、結果、嫌々だったのかも知れませんが、動いてくれて。それでやっと、安定した出力が出せるようになった。
こうして、いろいろ経験させていただきましたが、小さな発電所でも除塵さえしっかりやっておけば大丈夫です。今は自信を持って言えますね。
市などの行政が導入するならともかく、もし失敗したらもろに農家に負担を強いることになります。ですから、本当に採算が取れるようにするために、かなり厳密に工夫してきました。
2基目に導入したのは、小さな発電所。小水力発電は土木工事が一番経費負担になるので、これを伴わない方法でやってみようということになって。また、利息が発生する融資制度の活用は、負担増になるため、上手に資金調達し実施してきました。
たまたま隣の県の(株)中川水力の社長さんが、どこでも発電所みたいな小さな発電所をつくるのが夢だったそうで「小さな発電所をつくりたい。那須野ヶ原で用水路を借りられないか」と、突然事務所を訪問されました。
話を伺えば、おもしろいお話。とにかく一年半、実証実験をやってもらいました。これがなかなか優れもので、これはいけると思いましたね。条件にマッチした落差2mの水路が4カ所あったため、その全部に設置しました。最大出力30kWですから、4基で120kW。これで発電所は全部で5基。それが2005年(平成17)です。
除塵は工夫しています。最初の発電所に設置したメッシュの除塵機は予算的につけられないので、お金をかけずに除塵するシステムをつくることになりました。これまた、2年間、除塵では苦労しました。特に、台風時や落ち葉の時期には、携帯電話に転送されてくる発電所からのラブコールに対応すべく、2時間おきに発電所のゴミ取り作業に従事しなければなりませんでした。夜中に何度も起こされました。このため、職員全員で何か工夫しようということになったのですが、なかなかいいアイディアが出ない。
そんなある日、鮎の簗(やな)に鮎がボンボン上がっているのを見ていて、鮎もゴミも同じだと思いました。簗方式をやろうと、竹を農家の竹林からもらってきてやってみようと提案しましたが、誰も乗り気にならない。流速が速い。水圧がどうだとか言って。技術者は頭が固いんです。
お金をかけずにやるには、絶対これしかないと思っていたのですが、納得させるためには時間がかかりました。福島県に小さな用水路ではありましたが、イメージに近いスクリーンを使って除塵をしている所があると聞き、行ってみました。流水に影響もなく、溢れることはほとんどないと。「上がったゴミは昼間取ればいいから、夜は寝られるよ」と教えてくれました。一緒に行った職員も、実際に管理している方の声を聞き、初めてやる気になったようです。早速、導入してみたところ、まったく問題が起こらなくなりました。私たちの仕事は、インターメンテといって、水路に何か問題が起きたら常に携帯に情報が発信されるシステムを活用していますが、この除塵機をつけて以降、それがいまだにありません。もう、大威張りです。
材料は市販のV字型のスクリーンを使っているのですが、農業工学研究所の「V字にしてみれば」との助言を参考にさせていただきましたが、原理は鮎の梁から生まれたもので、星野の発案です。特許といえば特許になるのかも知れませんが、特許を取るより、多くのみんなが利用くれたほうが価値が高い。全国的にマイクロ発電の世界では除塵に苦労されていると思うので、これを使うといい、と自信を持って伝えています。
ほかにもいろいろな人が知恵やアイディアを出してくださるなど、当地の発電所を応援してくれています。お蔭さまで、今は順調に稼働しています。
小水力発電を新たに始める人のためにも、導入のためのハードルを低くしなければチャレンジできないですね。チャレンジする人が増えれば、メーカーもコストを下げられるだろうし、メリットは多いと考えています。
例えば、水利権の許可の問題です。既に灌漑用として許可を受けている用水を使って発電所を設置する場合でも、目的が異なるため、別途水利使用の許可を求めなければならない仕組みになっています。しかし、灌漑用の許可を受けた用水の範囲内で発電事業を行なうわけですから、水利権水量にまったく影響がない。もちろん、用水路に設置する発電所は河川構造物ではありませんので、設置する構造の許可を求める必要もないはずです。最初に灌漑の許可を得た範疇で、対応できるものではないかと。届け出だけで充分なはずです。それをクリアすべく、今年、県が特区申請をしてくれています。まだ、どうなるかわかりませんが。
小水力発電は安定した水がある限り、点検等で止めるとき以外には、常時発電できるわけです。それに、一度設置された後は、きちんとメンテナンスしたならば50年や60年は保つ。制御関係など一部の部品は20年くらいで換えなければならない設備もありますが、水路や発電機自体は、管理を怠らなければ長い間使えるため、工事にかかるCO2の排出量も少なくて済みます。太陽光発電の場合は、レアアースとか特殊な物質を使わなければモジュールもできないですし、何より、照った日と照らない日、発電量に大きな差が出ますし、夜は電気を起こすことができない。それなのになぜ、太陽光発電よりも低い価格でしか買取っていただけないのでしょう。しかも、それが電力会社の裁量に委ねられていることが納得できません。
現在、買取り制度の導入が検討されていますが、その代わり補助金は出さないということのようです。補助金が出なくなって、買取り価格が1kWあたり15円~20円の範囲で検討されているようですが、これでは、採算が取れない事態が生まれます。なぜ太陽光発電と同じ48円にしないのでしょうか。
太陽光発電や風力発電は貿易商品になるわけですが、水力発電の場合は水が豊かな場所でないと設置できないなどの理由から、海外にはそう売れない技術、要するに輸出しにくいという理由からかもしれません。しかし、日本には水しか資源がないのですから、もっと利用できるシステムを構築すべきでしょう。
農林水産省の補助事業で発電所を設置すると、仮に、たくさん利益が出れば、その余剰分を国庫に納付しなければいけない仕組みになっているのです。これが、すごい制限になります。小水力発電の適地があったら、どんどんつくらせてほしい。しかし制限があるので、ポテンシャルはあってもつくれないという課題もあり、小水力発電事業の施策は、広く社会に貢献できる流れになっていないのが現状です。
さて、我が国には、何と地球10周分にも及ぶ約40万kmもの長大な用水路が整備されています。それら用水路や水を管理することによって、どんな多面的機能があるのかということで、試算した結果があるのですが、それが22兆円。過小評価していますよね、たった22兆円じゃないだろうと。適正な試算結果か否かはともかく、先人の遺業は、計り知れないモノがあります。
「水を使う者は、自ら水をつくれ」という、先人の教えがあります。でも、〈水を使う者〉というのは、すべての国民なわけでしょ?
私たち土地改良区は、組織として水を管理しているわけですが、水をつくっているのは、森。水は森からの贈りものです。そこで、土地改良区では、今、森が健全になるための仕事をいろいろ始めています。この間も森の健康診断を実施しました。中学生・高校生・大学生はもとより市民や林家の方々に体験していただきました。山主さんも初めて「この森は健康ではなかったのだ」って気がついたという有様です。
食料自給率はカロリーベースで40%と言われていますが、農業の従事者の平均年齢が68.3歳。林業も同じようなものでしょう。この世代の方が引退したら、さらなる低下は避けられないし、牛乳とか、牛肉をつくる際の飼料の大部分を海外からの輸入に依存しています。これらを考慮すれば、実質の自給率は20数%。我が国で唯一頼れるのが米です。米さえあれば、生きていける。味噌も醤油もできる。エネルギー指数も極めて高い米の依存率を高めるべきです。
棚田の石垣一つひとつは、重機もない時代に手で積んだわけでしょう。一代では済まない箇所もあって、二代目、三代目がそれを継承し、やっと豊かになったと思ったら、四代目で壊してしまうというのが、現実です。
先人が就寝を惜しんでひと鍬ひと鍬開墾した田畑が、今、見るも無惨な状態になっているのを見ても、先祖に申し訳ないとは思えない農業事情が現実には有る。しかし、これしか生きる道がなかったはずなのに、なぜ、日本人はきちんと継承しないのか、できないのだろうかと思います。政策も社会構図も間違っている。
私は農家ではなかったのですが、数年前に農家になりました。新規参入したのですが、もう大変でした。新規参入は、法律の壁がすごくて、なかなか認められない。こんなに離農者が多い中、ドップリ土地改良区に浸っている私ですら、農業委員会が通らないのです。本当に大変でした。結局、膨大な書類を出して、やっと認められました。なぜか、離農や農地転用は簡単なのです。でも新規参入は難しい。たまたまチャンスがあって、現在、1ha耕しています。
食糧がなくなったとき、「私は土地改良区の職員で、水守しているのだからお米を分けて」と言っても、現実には通用しないと思ったからです。一般に、農作業している姿を見るに、ほとんど大型機械です。そこには必ずガソリンなどの燃料が使われます。もし重油が輸入されなくなったら大型機械が使えない。結果、自分の家族の食料だけで精一杯の収穫しか見込めなくなる。そんな状況の中、気前よく分けてくれるお人好しがいるでしょうか。食料紛争とはそういうことです。
最近、耕地を借りて耕作している人が多い。しかし、誰でもそうですが、土地を良くすることが良い作物をつくるわけだから、良い田畑になったら返してほしいと思うでしょ。それが人の心情。だから、絶対に土地を自分のものにしなければいけないと思って。
現在、日本の総輸入量が5億2970万t、食料と食料生産に必要な肥料・塩の年間輸入量は6827万t。日本に輸入される輸送手段の大部分が船で、1万tクラスの船が延べ6827隻必要になります。それで日本人は贅沢な暮らしをしていられるわけですが、その内、日本国籍の船は95隻のみ。外国の船が物資を運んでくれるのは、お金をきちんと支払えているからです。お金がまともに支払えない事態になっては運んではくれません。そうなったときに暮らしが維持できないのは明らかだし、陸続きなら隣の国へ行って食料を分けてくださいって言うこともできますが、日本は島国ですからそうもいかない。日本は本当に大変ですよ。食料危機は戦争だけではない。何かの原因で、船や飛行機が入ってこられない問題が発生する恐れがある。私は随分前から、「物はいずれ、絶対買えなくなる時代がやってくる。とにかく、必要最低限の物だけは、お金が使える今のうちに買っておけ」と言っているんです。
TPP(Trans-Pacific Strategic Economic Partnership Agreement:環太平洋戦略的経済連携協定)の話にしても、単純に農業支援ということになると、国民は認めないのではないですか。やはり農業バッシングに結びつける。
私は、それはおかしいと思うのです。申し訳ない言葉を使いますが、都市の人は農家の働きに寄生して、食べものや水を得ているわけですから。単純な農業支援の問題ではないはずです。
TPPを境に、国民がもう少し、生きる元って何か、一番の原点は何かを、一つひとつひもといてくれたら、真の農業の維持発展につながっていくのではないかと思うのですが。
自殺者3万人、とよく言われますが、厳しいところに追い込まれて亡くなるよりも、無視されて亡くなる人の数のほうが多いそうです。そんな生き方は間違っていると思うので、ダッシュ村をつくりたくて、土日になると適地探しを行なっています。
ダッシュ村って、あまり大型機械を使わないでやっているじゃないですか。これがずっと継続できる一つポイントです。だから絶対使わない、と決めつける必要はないのですが、あまり大型機械を使わないで耕作する仕組みを取り入れる。多くの人たちを集めて「生きるってなんだ」っていう場所づくりをしたいわけです。
古民家のだだっ広い所に、人が集まるのが一番自然と思い、古民家探しをしています。素敵な古民家を紹介されても、田んぼがない。それは、山の上の古民家しか残ってないということでもある。要するに田んぼに近い所は、そこそこ生きていけるから古い家を取り壊して、新たに家を建築し住み続けているというのが現実であって、田んぼと古民家がセットになった適地が、なかなかみつかりません。
人間は、ヒト科の動物です。生きる原点は、食べもの。食べ物はどこからできるのかと問えば、田畑から。誰が田畑で作業しているのっていったら、農家です。なのに、今、多くの農村が限界集落に移行している。この限界集落を守らなかったら、土壌流失をはじめとする自然破壊が起こり、生きる現場がなくなってしまうのに。
私が、ダッシュ村を運営し、しっかりとした生きる価値や基盤づくりが見出せれば、近くの集落の人たちが「変なことやってるけど、あそこの仕組みで経営が成り立ち、生きていけるとしたら、俺たちも頑張らなきゃいけない。やってみよう」という思いになってくれるかもしれない。結果的に都会に行った子供たちが戻ってきてくれるかもしれない。そんな思いで、夢の実現を目指しています。
小水力発電事業は、命の原点である水を、次代にきちんと継承するための一つの手段でもあり、農家がちょっとでも経済的に楽になるようにという、一つの手立てでもあります。
小水力発電事業はもとより、水管理を通して、那須野ヶ原4万haの広大な扇状地の、なお一層の健全な水循環形成に努めるため、すべての生きものの保全活動と地下水涵養支援、河川維持用水供給支援、地域溢水被害防止支援など、土地改良施設の積極的な活用に努め、地域のすべての資源をフルに活用した地域づくりに貢献していきたいです。
DASH村(ダッシュむら)
日本テレビ系列で放送されている番組の1コーナーで、地図上に名前を残すことを目指して新たにつくった架空の村。ジャニーズ事務所所属のTOKIOメンバーなどが農作業に携わる姿が放映される。
(2010年11月15日)