NPO活動法人 南畑ダム貯水する会理事長
山下 輝和 やました てるかず
1972年福岡市生まれ。那珂川の水が産湯、福岡県糟屋郡志免町(かすやぐん しめまち)出身。福岡県内の高校を卒業後、東海、関西、関東を転々として2000年1月に福岡に戻る。2009年4月より、現職。
1994年(平成6)に"平成の大渇水"(通称、平六渇水)があって、その対策として、福岡県の住宅課が雨水利用のモニター事業を1999年(平成11)から2003年(平成15)まで行ないました。5年間モニター調査に協力することを条件に、県が25万円を負担して「家で雨水・生活排水を貯めて再利用しましょう」と。
トイレに流すまでの大掛かりなシステムだったので、費用が50万〜70万円くらいかかったんですけどね。そのときの県のキャッチフレーズが「そういう家庭が県内に5万軒あると、約600万m3の水道水が節約できます」というものでした。
600万m3って言ったってピンとこないけど、実際に福岡県筑紫郡那珂川町にある南畑ダムが590万m3だから、ちょうどそれくらい。「みんなで頑張ったら、それくらいできるとよ」っていうことが、キャッチフレーズだったんです。
貯めて使うと良さがわかるじゃないですか。きれいな水だし、すぐ貯まるし、水道代まで安くなるから幸せだし、環境に良いから、「雨水貯めるのって、いいよね」って言っていたら、住宅課が2003年(平成15)で事業を終了すると言い出しました。
「やめたらいかんだろうが」って思った人間が、雨水タンクのメーカーの人に「県にやめないように言って来てよ」と頼んだんです。そうしたら、けんもほろろに、「県は一企業の言うことは聞けませんので」って言われた。企業じゃなくて、モニターの声なのにね。
当時たまたまNPO法人についての説明会をやっていて、ちょっと覗いてみたら、行政とも企業とも違う立場で話したり、事業をしたりできるらしいことがわかった。事業が終了するんだから、僕らが残さないと雨水を貯める人がいなくなっちゃう。それでNPOをつくろうかって。
それで、エイヤっとつくったのが、〈NPO活動法人 南畑ダム貯水する会〉(以下、貯水する会)です。
〈貯水する会〉のオリジナルメンバーは、そのとき県のモニター事業に応募した雨水タンクのユーザーです。ユーザーは、糟屋郡志免町(かすやぐん しめまち)という、僕が住んでいる地域に多くいたんです。
設立時のオリジナルメンバーは11人。構成メンバーはモニターが8人、技術のことはわからないからメーカーとか代理店の人にも入ってもらって。
2003年(平成15)4月に設立して、登記は7月25日なんですけど、その直前の7月19日に、御笠川の大水害が起こって博多駅が水に浸かった。博多駅が水に浸かったのは、このときが2回目です。
当時、福岡県は事業を終了するときの理由の一つに、本来、雨水利用の助成制度というのは、都道府県ではなくて市町村単位でするものだと言っていました。それで「じゃあ、福岡市に新しい制度をもらおうか」ということになって、議会への請願とか、助成制度ってどうなんだろうって調べていたときに、あの水害が起こったんです。
全国の都市の雨水貯留の助成制度を調べていたら、洪水・治水対策がほとんどだったんですよね、当初僕らは節水が雨水貯留の目的だと思っていて、なぜかわからなかったので、たまたま出会った福岡県の河川課の方に、九州大学の神野健二先生を紹介してもらったんです。
神野先生は九州大学の教授で、水循環が専門でした。
「先生、雨水を貯めたら、水害がなくなるって本当ですか」って、聞きに行ったんです。先生は、「当たり前じゃないか、私はいつでも授業でそれを教えているよ」って言われて。
最初は何もわからないから「はぁーっ!?」と思いました。でも、神野先生が言う通り、福岡市の土地利用の変化を調べてみたら、大変な都市化が進んでいることがわかった。山や畑や田んぼが緑色、都市は赤色で表わしたら、地図がほとんど赤色に変わっていた。それを見て驚いた僕らに、神野先生は、昔の山や畑や田んぼは保水したけど、都市域は保水しないんだって教えてくれました。
先生はいつも学生にそういうことを教えているし、当たり前のことだとおっしゃるけれど、普通に都市化した町に暮らしている僕らに、そういった話は聞こえてこなかった。
御笠川と同じ日に、宇美川も氾濫して大水害が起きたんですけど、その"7.19水害"が僕の一大転機になりました。
僕は御笠川と宇美川の間の丘陵の集合住宅地で育ったので、両方とも故郷の川だったんです。御笠川と宇美川は1999年(平成11)と2003年(平成15)の2回水害が起きていて、僕が故郷に帰ってきた1999年(平成11)のころには改修工事でカチンコチンのコンクリート護岸の川に変わろうとしていました。
そんな川の姿を見て「寂し〜い」と思っていたんだけど、よくよく考えたら都市化して、宅地化して、水害が起きたわけでしょ。「原因の一端は俺ん家?俺か!」と気づいた。
で、何したらいいだろうと、勉強会を毎月やった。貯留はしたことあるけど、浸透はしたことないので、年が明けて1月に熊本市に浸透の勉強に行こうとしたけど、さて、何を勉強したらいいやら… と、福岡県の河川課に「教えてください」って訪問しました。そうしたら「山下さん、島谷先生って知ってる?」って聞かれて、知らないと答えたら「モグリだね。」と言われました。モグリも何も、素人ですからね。
寂しいとか言ってるけど、僕も犯人の一人だって気づいた、ちょうどそのタイミングで島谷幸宏先生と初めてお会いすることになりました。島谷先生は前年の11月に九州大学にいらしたばかりで、翌2月に会いに行ったんです。
「僕、川があんなになって寂しいんだけど。僕のような人が、みんなで水を貯めて、ゆっくり流したら川はかえってきますかねぇ」と島谷先生に言うと、先生は「当たり前じゃないか、それをやるんだよ」と言われました。
不審がる僕に、先生は「できるさ!」と明るく言ってくれました。「でも、20年かかる」って言われましたけど。
で、今7年目。思ったより早いですね、と言ったら、島谷先生に「そうだよね、でもまだわからん」と言われたり、わからんことばっかりです。
あれほどの水害が起きたのに、人間って一年経つと忘れてしまうじゃないですか。それはいかんよねって。
ただね、被災者の方があつまる集会になったら大変なことになるかもしれないと、腰が引けている人も多くあった。そのとき唯一、味方をしてくれたのは、被災された方たちの直接の窓口になっている福岡市民局の防災課の課長さんでした。
課長さんも、「一年経っても何もしないんじゃいけない」って言って、意気に感じてくれて、〈7.19水害フォーラム〉をやりました。予算ゼロですから、市の講堂を借りて、島谷先生には謝金ゼロで基調講演していただきました。
これが伝説のフォーラムになったんです。
「これからは川だけが変わるんじゃいけない。みんなで治水しなきゃいけない。治水だけじゃなくて、新しい環境の時代を築くんだ」。感動的な基調講演が終わり、「質問ありませんか?」って言った途端に「俺はそんな話を聞きにきたんじゃない。うちの被災した家の補償はどうなるんだ? 保険は? あそこの堤防はどうなってるんだ」と発言した人がいました。
別の方が手を挙げて、「被災者の方を代表して言うが」…そういう人が、次々と出てきた。そこで島谷先生が、「堤防とか、補償がどうとか、そんな基調講演なら、僕はしない!」って言ったんです。先生、真正面から受け止められたんですよね。
その水害フォーラムも、2007年(平成20)で既に4回。4年間も続けてくると、みんなの反応も毎年少しずつ変わってきて、この年にもう一度、先生に基調講演をお願いした。「リベンジかね?」って聞かれましたが、先生、もう一回いきましょうって言って。そうしたら島谷先生、4年前とまったく同じ話をした、今度は、終わったあとに拍手喝采でした。
変わるもんですね。そりゃ、感激のフォーラムでした。毎年やっていて、お祭りと化してます。
実はこれが結構大事なんですよ。行政の方ってどうしても、人事異動で入れ替わるじゃないですか。2、3年一緒に活動して、仲良く打ち解けてきたころに異動になってしまう。ところが夏にフォーラム、秋にシンポジュウムを続けていると、どうやら引継ぎ事項になるんですね、「今年もよろしくお願いします」みたいな。
やはり、お祭りは大切。それで一昨年は、〈第2回 雨水ネットワーク会議 全国大会 in 福岡〉をやりました。国交省、県、市、市民団体、大学のみんなで協力して実行委員会を立ててやったんです。
〈第2回 雨水ネットワーク会議 全国大会 in 福岡〉の実行委員会で、「雨水ネットワーク九州宣言」を大会の最後にまとめようと、みんなで文章を検討していたんですね。ところが全国大会の2週間前に、会場の福岡大学が流域にある樋井川があふれた。
雨水ネットワーク九州宣言では、「4.雨水を貯留・浸透・利用する技術およびそれらのシステム化、産業化について研究開発する。5.雨水を貯留・浸透・利用を促進するための制度や社会システムを研究・構築する。6.雨水の貯留・浸透の効果が把握できる試験サイトを確保し、実証する」と宣言してしまっていて、「これはもう、せないかんよね」って。全国大会が終わったら、行政の方も大学もみんなで樋井川に取り組もうと、まとまりました。
実は樋井川は御笠川に比べて、取り組みやすい理由があるんですよ。御笠川の場合、あふれるのは博多駅なんだけど、上流は大野城市、春日市、太宰府市、筑紫野市って複数の自治体がまたがるので、流域全体での取組みを始めるのが難しい。
ところが、樋井川流域は油山(あぶらやま)からヤフードームがある河口までの12kmが、福岡市内で完結している。県管理の2級河川で、しかも水利権がほとんどないんです。農業が少し残っているだけで、漁業権もないし、水道用の取水もしてないし。そういう意味で取り組みやすかった。良いモデル流域になる可能性があったんです。
だから県と市が協力してくれればできるじゃないか、と。
市も県も「そうだね、やろう」と総論は賛成でした。ところが僕らがやろうとしているのは、住民だけじゃなく、行政も単に河川だけでなく、下水道、公園、学校、道路、田んぼ、ため池、住宅、山林それぞれが、つながりを持ってできることを流域で試そうってことだったので、「山下くん、その『つながりを持って幅広くみんなでやる』っていうのが、僕ら行政は一番苦手なんだよね」って、そりゃそうですね。
それで、島谷先生と共に集まったのが6人のサムライです。リバーナースの天本さん、貯水する会の副理事長の角銅さんと、島谷先生と九州産業大学の山下三平先生、福岡大学の渡辺亮一先生。で、私と。これらの人が集まりまして、「市民会議をしよう」と。
行政マンも、社長さんも、議員さんも、みんな一市民として話し合う場にしようと〈樋井川流域治水市民会議〉を始めたんです。始るときに意識したのは、「意見の違う人」が来れる場にしようとしたこと、「環境よりも治水だ!」とか、そういうことを発言してくれる人。そういう人も一市民ですかって島谷先生に聞くと、「そうそうそうそう」と。
もう一つ意識したのは、なるべく市民会議を始めるということを多くの人に伝える、もしくは伝えようとしている姿を示すこと。どうも僕らの社会では「寝耳に水」な話って、取り返しがつかない。知らないところで何かが始まっていて、あとから「なんで、俺に知らせんとか!」って怒っちゃったら、仲間になりづらいですよね。
それでこの一年間で14回の市民会議を開きました。これでも、ペースは遅くなったんですよ。大体、1月28日に提言書出すまでは、市民会議以外も含めると、月に2〜3回ぐらいは必ず何かやっていましたから。最近は月1回のペースです。
市民会議は基本が手弁当。さらに、みんな日ごろ忙しい方ばかりなんです。大事なのはオシリ(=期限)を決めること。市長さん、県知事さんに提言を出そうというのも、アポイントを先にとっちゃう。「よし、何日に行くぞ」となると、みんなも、それまでにやるべきことを考え始めてくれるんですよ。面白かったですよ。非常に勉強になりました。
初めは雨水タンクから始まった会ですが、どうもいろいろと変わってきています。
〈貯水する会〉が福岡市の雨水タンク助成制度に請願書を出して、いろんなところで騒いでいたら、本当に福岡市で助成制度ができちゃった。当初5年の制度でしたが2010年(平成22)に拡充されて継続にはなったのですが、結果的に不満があった。5年のうちにNPOとホームセンターしか雨水タンクを売る所がなくなって、事業者が目立たなくなってしまった。
最初は市役所が、問い合わせした市民に「こんな所でタンクを扱っています」という案内を配っていたんですが、そのうちに「雨水タンクはホームセンターで購入してください」と応対するようになってしまった。NPOとつながりがある人はNPOで買うけれど、ホームセンター以外の選択肢がほぼなくなることになってしまったんです。
問題なのは、ホームセンターは福岡市外の店舗には雨水タンクを置いていないこと。つまり、助成制度のある所にしか置いてないんです。だから、助成制度がなくなったら、タンクをお店に置かなくなる可能性がとても高い。
これは5年経ってみて、初めてわかったことです。
それにNPOは赤字を出していましたし、そこまでして物販を続けるのは健全じゃない、という理由もありました。これからはNPOに代わって、ちゃんとした健全な雨水の産業が育たないといかんと。
どうしてもNPOが物販していると、そういう事業者さんから商売敵に見られてしまう。ちょうど樋井川でモデル的にやれることを目指し始めたので、そのときにいろんなメーカーとか、技術とかが参入してきほしいですし。それでやめようということになって、2010年(平成22)に販売を中止しました。
そのときに在庫が120個ぐらいあったので、県の人と相談して樋井川流域でモニターを募集しようと考えました。福岡県の水資源対策課が協力してくれて、福岡大学の学生はどれくらい節水ができて、どれくらい洪水を抑制することができるかを、在庫の雨水タンクを利用して福岡大学が研究するプロジェクトを始めました。
貯めてみないとわからないっていうことで、2010年(平成22)の4月、5月で学生とつけて回りまして。面白い、過去にはないような論文が書けましたよ。
基本的に、樋井川の下流から上流まで全域に設置しました。下流はやっぱり災害にあった地域が、積極的に取り組んでいます。
〈樋井川流域治水市民会議〉でも、最初は、「あんたたちは、環境を守りたいっちゃろ、俺たちとは立場が逆たい」「川の下にもう一本、トンネルの川を掘れ」とかって、そんな意見も多くありました。
鳥飼という最下流の合流する所にポンプ場が5カ所あって、今年、6カ所目ができちゃってるんですよ。下流域の水を全部、そこに持ってきて、そこから排水しようとしてるので、かえってそこが危なくなる。だから、地域の人たちは、「そのポンプ場は、俺たちが動かさん」と言い続けていました。島谷先生は、それを全部受け止めていた。それで6回目の市民会議だったでしょうか、この人たちの話す言葉が変わるようになった。何かが変わった。信じてもらえたんでしょうかね。
「わかった。僕らもポンプ場を止めることは、無理だとわかっとう。本当にできる対策は、流域のみんなで貯めるしかないって、わかっとう」って言ってくれたんです。もう、涙が出ましたね。
で、そのあとにモニター募集しますって言ったら、その地域が、まずバッとつけてくれた。
つながるということは、そういうことですよね。
島谷先生にはいつも励まされるし、できるんじゃないかって気がしてきます。「こうなったらいいなって、思うんだよ」って言うし、なんかイマジン(元・ビートルズのジョン・レノンの楽曲)みたいですよね。
もうそこで既に騙されているような気がするけれど、でも、それはとても大切なことだと思います。
だって最近思うんですけど、未来って何も決まってないんですよね、僕らの思い込みでしかない。思い込み、期待、もしくは不安でしかない。やったもん勝ち、想像したもん勝ちですよ。それが、最近わかってきた。非常に不思議な気分です。
下流の、被災した所の人が雨水を貯めて、意識が変わってきますでしょ。そうすると、上流の自治会長さんが「上流も貯めないかん」って、貯め始めて。町内会の回覧板を廻した地域では、おばちゃん連中も雨水タンクをつけ始めて。
ある女性は「治水? 知らないわよ! 私は節水したいから申し込んだの」って、最初は言っていた。マスコミの方が取材させてくださいって言うから、そこには何回か取材に行って。その人が実はキーマンで、牛乳の配達をしていて顔が広いから「雨水タンク、いいわよ」って広めてくれたんです。
ところがその人が突然に「わかったわ、洪水対策よ」と言い出したんですよ。それでなんでそう思ったのか聞いてみたら、「だって、すぐ貯まるじゃない」って。最初はすぐ貯まるのがうれしかったけど、その内、怖くなってきたって。貯めなかったら、全部川に流れていくって気がついたと言っていました。
「貯めなきゃ、いけないわよ。あそこの公園で貯められないかしら」とまで言い出しています。本当に、雨水を貯めると、人は恐ろしいほどに変わっていくんですよ。
建築学会の方が雨水建築の規準っていうのをつくられているんですが、有効に雨水を利用する住宅っていうのは、基本的に2tから6t水を貯めるということになっています。家庭用の設置型の雨水タンクは、基本的に200ℓ。たかが知れてるんです。でも、意味があるんです。
雨水建築のほうのタンクは地下の埋設型にするんですけど、意外と200ℓの小さいタンクも悪くない。というのは、見えるじゃないですか。地下に入れちゃうと、効率はよくて、いっぱい貯まるけれど見えないのです。
この間、建築学会の神谷博先生とみんなで話していただいたときにも、やっぱり地上にも一基置いておこうと。つまり、併設。
花と緑の学習をしている小学校に置いたことがあるのですが、そのときに校長先生がすごいことをおっしゃった。
「山下くん、雨水タンクはいいね」
「そうですか。どのへんがいいですか」
「空(から)になるのがいいんだよ」
「はぁ? 空のタンクは意味ないでしょう?」
聞いてみたら、水撒きって楽しいから、子供たちって最初の2日、3日でダアーっと撒いてしまって「先生、空になった」って言ってきたそうです。
「わし、そのとき初めて教えられた。あのね、水って限りがあるものだから、お花がどれくらい水を欲しがってるか、どのくらい水が貯まっているか、考えて使わないとなくなるとよ、と子供に言ったんだけど、わし自身、初めて教えられたよ」って。そう言った先生ね、雨水タンクの近くの蛇口を外して、「これしか使ったらいかん」て条件づけまでしているそうです。
子供たちは、水が蛇口から無尽蔵に出てくると思っているから、空になるのって、大事なんです。渇水の経験がある福岡でもそうなんですね。
福岡は、流入人口が多い都市なんですよ。東京に全国から集中するように、九州各県から福岡に来る。地元の人がどんどん少なくなり、流入者がどんどん増えています。若い世代が流入して来るんで、子供たちも水の大切さを知らずに大きくなっちゃうのかと。水道代だけは、高くてビックリするらしいですが。だから、皆さん、雨水を貯めると喜びます。貯めがいがあるって。
ついこの間も話していたのは、〈見える化〉って実はよくないんじゃないかってことです。見えるものしか信じない、見えるものでしか判断しないと、大切なものを見失うよねって。〈感じる化〉も必要です。やっと最近、わかってきました。
例えば空間の履歴を想像する。神様や、仏様や、地形を調べると、今では見えなくなったものが見えてくる。治水なんかにはとても意義があることが隠れていることが多いです。
でも、〈感じる化〉が大事だって気づくことだって、今まで隠してたのを〈見える化〉だよねって言って、やってみて初めて「見えるものだけじゃだめなんだ。感じることも必要だ」って、少しずつきたんだと思う。だから島谷先生は20年かかるって言ったんでしょう。やっと3分の1ですからね。
わかる過程が大事なんですよね。
雨水を貯めるには、それぞれの立場で貯め方も違うし、目的も違うし、使う先も違う。いろいろな人のつながりがネットワークしないとできないんですよ。
治水にも、環境にも、防災にも、いろいろなつながりを取り戻すことが求められています。雨水を貯めることを通じて、つながりを取り戻せるってことが、今は信じられます。福祉って、助け合いっていうけれど、人を知ってないと助け合えないでしょ? 一緒なんですね。
「総合治水というのは、つながりを取り戻すための作業」というのは、島谷先生の名言。これがわかるのに4年かかりました。まさに、That is 成富兵庫(なりどみ ひょうご)って感じですね。
成富兵庫茂安(なりどみ ひょうご しげやす 1560〜1634年)
戦国時代から江戸時代前期にかけての武将で、佐賀・鍋島藩の治水家。 嘉瀬川と多布施川を分流するための石井樋(いしいび)や、筑後川の千栗堤(ちりくてい)などをつくり、佐賀平野全体で治水、利水、排水を処理するというシステムを構築した。
(2010年12月12日)