企業人としての生活をリタイヤして、自由になったときに何をするか。人生80年時代において、その決断は大きな意味を持ちます。香川県と高松市の観光名所でボランティアガイドをしている川添和正さんは、以前からの興味を発展させて、素晴らしい第二の人生を歩んでいます。郷土の宝を歴史や地理から掘り起こし、多くの学びを発信できる〈ボランティアガイド〉の働きについてうかがいました。
香川県・高松市ボランティアガイド
川添 和正 かわぞえ かずまさ
1940年、香川県高松市に生まれる。百貨店の営業職を退職後、団体職員を経て、人材派遣会社を通じて特別名勝栗林公園の造園課の仕事に就く。2006年から香川県と高松市のボランティアガイドに登録。
栗林公園は、当地の豪族佐藤氏によって、公園の西南地区(小普陀付近)に築庭されたことに始まるといわれています。16世紀後半、元亀天正のころのことです。その後、寛永年間(1625年ころ)南湖一帯が讃岐国領主の生駒高俊によって造園され、生駒氏の転封に伴い入封した初代高松藩主の松平頼重に引き継がれ、さらに100年以上経た1745年(延享2)、5代頼恭(よりたか)のときに完成しました。以降も歴代藩主によって修築が重ねられ、明治維新までの228年間、松平家11代の下屋敷として使用されました。
1871年(明治4)の廃藩置県で新政府の所有となり、1875年(明治8)県立公園として一般に公開されるようになりました。
背後に抱く紫雲山を含めると約75ha(約22万8000坪)、紫雲山を除く平庭部分だけで約16.2ha(約5万坪)で、文化財保護法による特別名勝に指定された中では最大の面積を持つ回遊式庭園です。平庭に六つの池と13の丘を配し、水面の果たす役割が非常に大きな庭園であることが特徴です。
私は退職してから、10年。栗林公園のボランティアガイドに登録させていただいて6年になります。
実は退職しまして1年目は、国際貿易を振興する団体に勤めさせていただいたのです。世界中のチョコレートとかの見本を並べて、業者さんが見に来て良いものがあるな、と思ったら取引を始めていただく。そうした斡旋をしていたのです。
私は百貨店におりましたので、物を売るのが商売。だから、一生懸命に物を売って、売り上げを伸ばしたのです。ところが、その団体では輸入振興が本来の目的でしたから、やはり趣旨が違うという話になりまして、2年目は更新せず、もともと庭をいじったりするのが好きでしたので、退職してから県の造園学校で学びました。
それで今は、栗林公園の造園課の下で働かせていただいています。栗林公園だけでなく、香川県と高松市にもボランティアガイドとして登録しています。
栗林公園のボランティアガイドは、登録数では100人ぐらいいます。高松市は50人くらい。それと、もう一つは県の歴史博物館ですね。ここは少し難しくて、1年くらい講習があって、それをクリアして、こちらも登録しています。
きっかけは市保有の高松城のガイドから入ったわけですけれど、栗林公園が高松城主の下屋敷という関係から、栗林公園の歴史も一緒に勉強しました。
ガイドの中へ入ったら仲間とのグループができますので、その人たちと連携しながら、次々とテーマを決めてガイドクラブの勉強会をやりました。もともと歴史が好きだったからですが、やはり本格的に勉強したのは、ガイドの仕事に携わってからです。
ガイドの中でも専門があるのです。お城の石垣ばかりなさる人とか、建物ばかりなさる人とか。で、公園になりますと、石とか、樹木とか。だから、仲間の樹木医から樹木について教えてもらい、深堀りしていくわけですね。
みんな、テーマを持っている。栗林公園には歴史的な資産がたくさん残っていますので、漢詩とか屏風とかについてのガイドができる人材もいます。そればっかりなさっているお客様がおいでになった場合にも、対応できる専門ガイドという形ができるわけです。同じ栗林公園でも、マニュアル的に全体をご案内する場合と、専門ガイドとしてやる場合にある程度分けられますね。私はどちらにでも顔を突っ込んでおりますので、一通りはこなします。
専門ガイドとしてご指名を受けることは、ボランティアガイドにとって、とても幸せを感じます。VIPにご指名いただいたときには、やはり服装から変えて行かなくては。やはり栗林公園は国宝ですから、VIPがいらしたときにご案内したりすると、とても誇りに思いますし、それこそ、やめられない面白さを感じます。
もちろん関連書物というのは、ある程度自分でも集めていますし、自分で手に入れられないものは、県立図書館に入り浸って調べますね。
私が資料として自慢できるのは、明治このかたのもの、例えばお手植えの松の当時の新聞記事をコピーして、自分のための資料として用意していること。古い記録はマイクロフィルムから取ります。
昭和天皇のお手植えの松がどのような経緯で、どのような状態で植えられて、そのとき香川県がどのような対応をしたとか、歓迎の仕方という話まで、一応話せるようにしています。だから、松一本の説明でも、何分にもわたって説明できるよう心掛けています。
園内には徳川家将軍ご拝領の五葉の松がございますが、将軍の話から始まって、高松の藩主の話、親御さんの話、亡くなるまでの経歴が全部資料としてそろえてあります。
掬月亭(きくげつてい)についても、屋根に使われいる柿(こけら)が何万枚使われているか、どういう構造になっているかまでお話ができるように勉強しています。でもこういう話は、ご興味がある人にだけお話します。そういうお客様に出会って、熱心に聞いていただけると本当にうれしいですね。
高松城は、またの名を玉藻城と呼ばれていました。名前の由来は、柿本人麻呂が万葉集で讃岐の国の枕詞として「玉藻よし」と詠んだことに因み、この辺りの海が玉藻の浦と呼ばれていたから、といわれています。
高松城は、1587年(天正15)に豊臣秀吉から讃岐に封ぜられた生駒親正がつくった城です。ただ、天守台の石垣解体復元により、2代藩主 一正の時代につくられた可能性も出ています。日本三大水城の一つと呼ばれ、瀬戸内の海水を外堀(現在は商店街)、中堀、内堀に引き込んでいます。
生駒家四代目城主の高俊は、1640年(寛永17)に生駒騒動といわれる御家騒動で、出羽(秋田県)由利郡矢島1万石の地に移封されました。2年後の1642年(寛永19)には、徳川家康の孫で水戸の徳川頼房の子、松平頼重(水戸光圀の兄)が高松城に入り、1869年(明治2)の版籍奉還まで11代228年間在城しました。
高松城のボランティアガイドに登録したら、当然、藩主さんの一人ひとりの知識が求められる。そうすると、別荘だった栗林公園の知識も必然的に必要になってくるわけです。それに加えて、江戸の下屋敷、上屋敷、人間関係、というような形で、どんどん勉強する範囲が膨らんでいくのです。
どんどんテーマが増えていくわけなんですが、この年齢になると最適な知識をすぐに取り出せなくなる。困りますね。資料をファイルにまとめるのですが、一部屋一杯になって、本棚も一杯になって、わけわからないですね。何がどこに置いているのか、さっぱりわからないです。家族には呆れられているんじゃないでしょうか。でも、私なんかまだ序の口で、お城に関する調査をしている仲間は、家中脚の踏み場もないほど蔵書を蒐集している者もおります。
私自身、ある程度の資料をそろえていますが、そういうのはボランティア同士の内々の話で、みなさんの目に留まることはまずないです。まとめて本を出すとか、そういうこともないですね。好きでやっているわけで、努力するのは自己啓発のため。そのために水面下でやっていることは、あまり外には出しませんね。ただし、仲間内では自慢し合います。
知識だけじゃなくてコミュニケーション能力がすごく求められますが、私は百貨店育ちなので、その点では恵まれています。
最近ご案内が難しいのは、若い人です。前提となる知識があまりに違って、話が通じないのです。歴史的に当たり前な話、例えば昭和天皇のお話をしても、昭和天皇がどなたかわからないのですね。ですから、どうしても若い人のご案内は遠慮しがちです。
お客様を選んではいけないのですが、中年以上のご夫婦だったり、あるいは年配のお客様が多くなります。
フリーで園内を歩いていて、そういうお方が園内地図をご覧になっているところに声をおかけしたりして、さりげなく、なんとなくという形でご案内に入って参ります。
造園家から見た場合、栗林公園ができた時代は、一目瞭然にわかります。一斉にできたのではないですから、エリアごとに作庭時期が違う。石にしたって、沢の石、山から切り出した石、と石の種類までだいたいわかる。
造園では少なくとも30年、普通はもっと先の形を想定してつくります。だから、400年前は、今、私たちが見ている現在の庭の形だったわけじゃないんです。
栗林公園でいえば、その時代、その時代で姿を変えてきたのです。北の庭は1910年(明治45)から3年かけて県の予算でやっています。そのときの庭師は皇居の造園師だった豊田弥平という人です。
1913年(大正2)に完成したのですが、今の四国新聞の前身である香川新報という新聞に、豊田弥平の話が6回の連載で掲載されています。その中で豊田弥平は、当時の県知事に「100年後を見てください」と言っています。当時、樹木を4933本植えています。写真もあって、それを全部丁寧に読んで分析したのですが、こういう記録から樹木の数、石の数までわかるのです。
栗林公園の松は平庭部で1400本くらいありますが、その内約1000本が手入れをしている松で、特に大切な松は人間と同じようにカルテをつくって管理しているのですよ。幹周りが10cm以上の松は全部登録して、統計を取って、ずっと管理しているのです。松の木の専任は14人、そういう仕事を含めて二十数人の人が造園課で働いています。
100年前が問題になるのと同じように、100年後も問題になります。例えば、松の寿命というのは決まっていて最高で600年も生きるらしいですが、平均すると500年くらい、300年で枯れ始める木もあるようです。ですから栗林公園をどのように維持して、次の時代へ渡すかというので、造園課長の頭はいっぱいだそうです。大変な作業なんですね。
それで現在は、後継木というのを育てることで対応しようとしています。別の場所で30本以上育てています。いつ枯れても困らないように、30年前から既に準備はしています。鶴亀の松とか、五葉の松とか、固有名詞がついたものは、いろいろ準備しています。
全国大名庭園サミットでは、昨年、高松が当番を務めました。所属しているのは茨城・偕楽園、石川・兼六園、岡山・後楽園、香川・栗林公園、東京・小石川後楽園の五つが設立メンバー。それに彦根が加わり、その後、会津鶴ヶ城と広島縮景園が参入して、8庭園が持ち回りで交流会をやっています。大会運営は、大半がボランティアの活動です。
現役時代に活躍された人もいますが、お互いのプライベートはしゃべりませんね。なんで続けているかというと、一には自分の健康。好きなことができるというのが、一番楽しい。体も使えるし、頭も使えるから本当に健康にはいいんです。それと昔は藩主さんしか入れなかった栗林公園に、皆さんをご案内するというのは、藩主さんになったような良い気持ちになるのですね。これが二番目の理由。
高松城(玉藻城)は、1869年(明治2)版籍奉還に伴って廃城となり、1884年(明治17)老朽化のため天守が破却されてしまいました。1890年(明治23)に旧藩主である松平家に払い下げられ、現在は〈史跡高松城跡 玉藻公園〉として一般に公開されています。その中に披雲閣(ひうんかく)という建物があって、老朽化を理由に明治維新後に取り壊された旧・披雲閣を再建したものです。松平家の12代当主賴寿伯爵が1914年(大正3)に再建に着手し、3年余りの歳月をかけて完成されました。披雲閣は松平家の別邸として建てられましたが、香川を訪れる賓客をもてなす迎賓館としても利用されました。現在は一般にも貸し出されていて、私も個人的な集まりによく利用させてもらっています。まさに殿様になった気分を味わえる魅力的な会場です。
それと、自分のペースで動けるというのが、いい。週の内、3日は決められた日に出て、あとはフリーでガイドをしています。私は年間に200日以上は公園に出ています。
とはいうものの、のめり込んでいくと「現実逃避なんじゃないか」と反省することもあります。現役時代にバリバリ仕事をしていた人は、のんびり隠居なんてしていられないですね。
でも、人様に迷惑をかけるわけでなし、喜んでいただけて生き甲斐を感じられるのですから、まあいいかなあ、と考えています。
栗林公園と玉藻城は、奇しくも水に大変縁の深い文化財です。そのボランティアガイドをより良く務めようとしたことで、歴史だけではなく、水を使う仕組みや治水についても目が開かれました。
栗林公園内庭に、全国的にも有名な治水家 西嶋八兵衛に因んだ〈大禹謨〉なる石碑がございます。それをきっかけにして、禹王研究家の大脇良夫さんをはじめ、多くの方と出会うことができました。一地方の街の一ガイドである私が、このような発表の場を与えられたのも、〈大禹謨〉のお蔭であると感謝しています。
人間、幾つになっても知らないことがわかるというのは、楽しいものです。それを認めてくれる仲間と、ご案内を楽しんでくださるお客様に出会えるんですから、ボランティアガイドというのは最高の趣味といえるんじゃないでしょうか。
(2011年12月5日)