千年に一度という規模の東日本大震災が2011年3月11日に起きてしまいました。防災を考えるには日本で起きた昔の地震を知ることが大事です。歴史時代の地震を知るには、各地の旧家やお寺に残された古文書が大きな手がかりとなります。地震学者の都司嘉宣さんは膨大な古文書を集め、コツコツと解読し活かす作業を続けてきました。その一方で、地震、津波が起これば、すべてをほっぽり投げて、すぐ現場に駆けつけるといいます。地震、津波のことから震災に備える話などをうかがいました。
東京大学地震研究所 災害科学系研究部門 准教授
都司 嘉宣 つじ よしのぶ
1947年生まれ。1972年東京大学大学院理学系研究科修士課程終了。理学博士。地震学者。古文書の解読により有史以来の日本の地震、津波を研究。
主な著書に『富士山の噴火―万葉集から現代まで』(築地書館 1992)、『東海地方地震津波史料』(国立防災科学技術センター 1979)、『千年震災』(ダイヤモンド社 2011)ほか
日本で初めて地震計がつくられて、西洋的な意味での学問としての地震学が始まったのが、だいたい明治20年代(1887〜1896年)です。
学問の水準をいち早く西洋に追いつかせたい、ということで、お雇い外国人教師を招きました。中でも忘れるわけにいかないのは、〈地震ミルン(Earthquake Milne)〉とあだ名されるようになったジョン・ミルン(John Milne)とジェームズ・ユーイング(James Ewing)、そしてトマス・グレイ(Thomas Gray)の3人のイギリス人です。彼らの工夫を集成してつくられたのが、「ユーイング=グレイ=ミルン地震計」です。これによって地震動の水平2成分・上下成分・時刻を記録することができるようになったんです。
ユーイングとミルンは物理学者で、最初から地震学をやろうというのではなかった。そもそも彼らの母国があるヨーロッパには地震というものがなかったものですから、1880年(明治13)の横浜地震に驚いて、これをなんとか測定しようということで地震学が始まりました。
ミルンが発明した地震計は、煤がある円盤の上を竹ペンで引っかいて描いていくものです。地震が始まると紙の円盤が回り始め、地面の振動を拾って線を描きます。この地震計自体は古くなってしまいましたが、測定された記録は今でも役に立っているわけです。客観的に地震を測定したという記録は、明治20年代から現在まで、既に120年くらいの蓄積があるのです。
天候を観測する目的で、1872年(明治5)北海道函館に気候測量所(函館海洋気象台の前身)が開設しています。地震計がない時代ですから、気候測量のプロが自分の体感で「揺れた」とか、身の回りのことで「花瓶が倒れた」とか記録していました。地震が起きた時刻とその様子をハガキに書いて、当時の中央気象台、現代の気象庁に送っていたのです。ですから1872年(明治5)から約20年間というものは、一応、気象学のプロというべき人が体感で地震を測定していた時代なんです。
1891年(明治24)に濃尾地震という、愛知県と岐阜県にまたがる大地震が起きました。震源は根尾谷(ねやだに 現・岐阜県本巣市根尾)です。当時の帝国大学の総長であった加藤弘之さんが、濃尾地震について、あらゆる機関、警察から鉄道関係、大きな旅館を営んでいる人、大きな商店、それから兵隊の組織などに、どんな風に揺れたのかと問う、非常に細かいアンケートを出したのですね。
それを集めたのが、本格的な地震観測の始めです。全部で本8冊ぐらいになるでしょうか。これは今でも濃尾地震の記録を伝える貴重な史料です。地震学というものを推奨して、日本全国で取り組むきっかけになったものです。これから後というのは、古文書や一般の人が書いた日記、あるいは犠牲者の墓石などを調べないでも、学問的意味での観測データが存在する時代になった、というわけです。
東海地震のことでいえば、一番新しい記録は1944年(昭和19)の地震で、これは機械で観測されています。しかし、その一つ前というのは、幕末の1854年(安政元年)11月4日に起きた安政東海地震です。機械的観測は、もちろん日本では行なわれていません。実は世界全体としては行なわれていて、このときもヨーロッパには観測記録があるのです。大きな津波がアメリカ大陸で観測されているという記録が残っています。
実は、歴史時代に書かれた古文書を集めて活字にした本があります。戦争前の1941年(昭和16)から1945年(昭和20)に、上野高校の英語教師だった武者金吉(むしゃ きんきち 1891〜1962年)が取り組んだ偉業です。
武者は、東京帝国大学(現・東京大学)地震学講座の教授であった今村明恒さんの下で、嘱託として地震史料を精力的に集めました。
武者は独学で地震のことを学び、集めた史料を『増訂大日本地震史料4巻』(1946年〈昭和21〉刊行)という3000ページぐらいあるような大部にまとめました。一銭のお金ももらわず、自費を使い尽くして研究に没頭したといわれています。この本のデータは長い間、理科年表とか地震に関する表に使われてきましたし、以降の地震研究者たちは大変大きな恩恵を受けました。
今村 明恒(いまむら あきつね 1870〜1948年)
薩摩藩士・今村明清の三男として生まれ、東京帝国大学理科大学(現・東京大学)物理学科に進学、大学院では地震学講座に入り、そのまま講座助教授となる。陸軍教授を兼任し、陸地測量部で数学を教えた。過去の地震の記録から、関東地方では周期的に大地震が起こるという記事を雑誌『太陽』に寄稿し、関東大震災の地震を予知した研究者として「地震の神様」と讃えられるようになった。1929年(昭和4)日本地震学会を再設立。専門誌『地震』の編集にも携わった。東京大学を退官後も私財を投じて地震の研究を続けた。
ところがそれ以降、古文書から地震を研究している人は、東京大学地震研究所(以下、地震研)では宇佐美龍夫さんしかいなかった。宇佐美さんが1975年(昭和50)ごろから全国の図書館や古文書館、あるいは旧家、お寺などに保存されている地震に関する記録を片っ端から集めるまで、こうした研究する人はほとんど現われなかったのです。
宇佐美さんは、特に1887年(明治20)以前に起きた地震の記録というのは、残しておかなければならないと、精力的に蒐集しました。
その当時、私は国立防災科学技術センター(現・防災科学技術研究所)におりました。私も史料を集めたのですが、とにかくいっぱい出てくるんですね。私は東海地方、静岡県、愛知県、三重県、紀伊半島を担当して、宇佐美先生がそれ以外の場所の史料を集めるということでやってみたら、じゃかすか集まりました。私は、宇佐美さんが退官された2年後に地震研に入りましたが、古文書を使って地震を調べる人が誰もいなかったので、私が引き継いでいるような格好になっています。
私は東京大学理学部の地球物理学出身なので、古文書なんてまったく読んできませんでした。古文書は筆で書かれていて、パッと見せられても現代の人には読めませんね。しかし地震史料を解読するには、自分で古文書を読めなくてはいけません。それで、〈古文書を読む会〉というのに通いました。地震研に来てからも、東大の史料編纂所に行きましたら、やっぱり〈古文書を読む会〉を開いていました。あちこちにあるんですね。
東大の史料編纂所には、江戸時代に書かれたものを読んだり、江戸時代の日本史を専門的に研究しているところがあり、そこの人にもちょっと手伝っていただいて、原文書を読んで活字にしていくという作業を、1980年(昭和55)ごろから20年ぐらいかけてやりました。解読が済んだ分を、編年単位で刊行していって、全部で22冊になりました。1冊あたり800〜1000ページもある本です。史料は全国にわたりましたから、全部で2万2000ページぐらいになりました。その膨大な史料から、地震の震度分布や津波がどこまできたかという情報を出していく、という仕事をやったわけです。
東海地震説の一つの根拠になっているのは、安政の東海地震(1854年〈安政元〉)です。このときの震源域は、三重県あるいは遠州沖から、震源域がずっと駿河湾の中まで延びていました。
東海地震の周期設定はだいたい100年に1回なんですね。1887年(明治20)からあと、現在までの約120年間の記録の中に1回しかない。東海地震の癖というか、法則を出そうとしても、1回の記録からでは法則を引き出せるわけがありません。当然2回、3回と複数の東海地震のことを調べて、共通の特徴などを探っていかないと、東海地震の本当の正体がわかってきません。それで私も調べてみると、安政の東海地震のほかに、宝永地震(1707年〈宝永4〉)、さらに古くは1498年(明応7)の明応地震と呼ばれる、もっと大きな東海地震があることがわかりました。
それでそれぞれの東海地震について調べてみると、どの東海地震にも共通しているのは、地震と同時に浜名湖の地面が下がるんですね。それで、浜名湖に外から津波が入ってくる。それから、浜岡原発がある御前崎の所で地面がドカンと隆起する。もう一つのケースは、震源域が駿河湾の中まで入ってきた場合、富士川の流れている所を走っているプレートの境界がズレるんです。
安政の東海地震のときには、そこがズレていますが、1944年(昭和19)の地震では、ズレなかったし、1707年の宝永地震のときもズレていません。ところが、もっと古い1498年の明応地震になると、またそこがズレているんです。
この違いは、何なのか。それで、1707年の宝永地震のときの、静岡県の平野部の震度分布を出してみたら、実は安政の東海地震とはかなり違っていて、駿河湾の中まで震源地が延びていなかったことがわかったのです。宝永の東海地震もまた、同様です。
そうしてみるとどうも、東海地震というのは、熊野沖、あるいは遠州沖から始まっても、その震源域が駿河湾の中まで入る場合と、入らない場合がある。ちょっと変な言い方ですが〈地震の気まぐれ〉というのが、実はあるんだということがなんとなくわかってきたんですね。
1944年(昭和19)の昭和東南海地震(とうなんかいじしん)というのは、三重県、遠州沖だけであって、駿河湾の中まで延びていない。とすると、これは駿河湾に至る地震のストレス、応力が残っているから、ここだけを震源とする東海地震がいつ起きてもおかしくない、ということを石橋克彦さんは1975年(昭和40)に発表なさったわけです。
一番直近の東南海地震は1944年(昭和19)12月7日に起きていて、東海地震と南海地震はだいたい100年に1回起きると思われていたので、次は2040年ぐらいかな、起きたとしてももっと先のことだろうと誰もが思っていました。それを石橋さんは、「いや、ストレスが残っているから、今にも起きるかもしれないぞ」という警告を出された。その警告は意義があったと思います。
さらにそれより古いところで、1498年(明応7)8月25日に起きた明応地震は東海地震だけ起きて、南海地震はなかったと思われていたんですね。ところが四国・高知県の旧・中村市(現・四万十市)、それと徳島県の旧・板東町(現・大麻町坂東)という所で液状化の跡が確認されました。それは、どうも明応の東海地震に対する、南海地震の痕跡と考えてもおかしくないのです。ただ、明応地震のあと、四国は長宗我部氏の時代でしたが、江戸時代に入ると長宗我部氏はお取り潰しになって、前の記録が全部失われてしまった。しかも戦国時代を挟んでいるので、記録がないんですね。
しかし、私はどうも明応の南海地震が起きたのではないかと思っていました。すると、意外なことに、中国の上海に記録があったのです。
実は、安政南海地震の津波の記録が中国の上海にあったのです。日付がピタリと合う。静岡に地震があり、その次の日に、和歌山県、徳島県、高知県で大きな地震、津波の被害があったのに、日本ではその記録が失われてしまった。ところが、安政南海地震が上海にまでおよび、「大きな地震、津波を感じた」という記録が、上海に残されている。
1707年の宝永地震も、やはり東海地震、南海地震の連動型でしたが、大きな津波が起こりました。この記録も上海に残っています。実は韓国の済州島でも、津波がきた、という記録が見つかりました。
石橋 克彦(いしばし かつひこ、1944年〜)
日本の地球科学者。東京大学大学院理学系研究科博士課程修了。東大地震研究所助手、建設省建築研究所国際地震工学部応用地震学室長、神戸大学都市安全研究センター教授を経て、神戸大学名誉教授。
1976年(昭和51)、東海地震説のもとになった「駿河湾地震説」を発表、静岡県周辺の防災対策強化や直前予知体制が官民挙げて進められるきっかけとなった。
東南海地震は、紀伊半島沖から遠州灘にかけての海域(南海トラフの東側)で周期的に発生する海溝型地震で、規模は毎回 M 8.0 前後に達する巨大地震です。1944年(昭和19)12月7日に、紀伊半島南東沖を震源とした昭和東南海地震が発生しました。遠州灘沿岸(東海道)から紀伊半島(南海道)にわたる一帯で被害が集中したために東南海地震と呼ばれるようになって、過去の同地域の地震についても同じ呼称で呼ばれるようになりました。
安政の東海地震では、32時間後に安政南海地震が起きています。それから1944年(昭和19)の東南海地震が起きた2年後に昭和南海地震が起きています。その前の宝永地震は同時に起きた。
何か気がつきませんか。東海地震が起きると、それからまもなくして南海地震が起きる。今まで何となくわかっていたのは、ペアで起きるのかなということ。連動型といわれているわけです。しかも、なんとなく東海地震が先で南海地震がその直後に起きるように思う。ところが明応地震(1498年)は、東海地震が8月25日で、南海地震が6月11日、順序が逆になっている。つまり南海地震のほうが先に起きて、東海地震のほうがあとになる例があるのです。
ですから、例えば和歌山や徳島、あるいは高知に住んでいる人は、「まだ東海地震が起きていないから、南海地震はまだ起きない」と思っていてはいけないんですね。南海地震が先に起きることもある。そういうことが上海の記録からわかったんです。
全国の地震を示す歴史史料というものを、くまなく集めて調べてみますと、我々の先輩たちが考えていたことで、あちこち修正を迫まられることが出てきたんです。今まで知られていなかったことがだんだんわかってきた。ちょうど遺跡調査で、埴輪が出てきたとか、銅鐸が出てきたことで、今までわからなかったことがわかった、とそれと同じようなことが地震研究の世界でも起きたということです。
それからもう一つ、大阪の記録をずうっと調べていたのですが、安政東海地震で、大阪の町で家が、結構、倒れているんです。東海地震というのは、静岡や三重の地震ですね。南海地震で大阪が揺れるなら、近いですから理解できる。ところが、東海地震が起きて、大阪でたくさん家が倒れている。何かおかしいと思って、理論地震学の専門家がコンピュータで計算をしてみると、東海地震で起きた揺れの強さが伝わって、大阪の町が結構大きく揺れるということがわかったんです。
大阪は水の都といって、結構地盤が軟らかいのです。大阪の環状線の真ん中、西横堀の西、海の側は、鎌倉時代以後の古い埋め立て地ですが、震度が大きくなる。もう一つ、環状線の鶴橋から奈良のほうへ行く近鉄電車が走っていますが、その沿線の布施から東大阪にかけても、揺れが強いんですよ。
安政南海地震の揺れの分布図を見ると、大阪の河内平野は揺れが強く現われます。内陸部なのに、どうしてこんなに揺れる所があるのかというと、それは弥生時代には大阪湾の最奥部だったからです。大阪は西暦3世紀、4世紀のころには、河内平野の中まで大阪湾だった。入り口が細く、中はガァーと広い海が広がっていた。
奈良時代には完全な平野になって、以降1500年ほど陸地になっているので、ここの地盤が軟らかいことには誰も注目していませんでした。
調査していて、面白いことに気がついたのですが、近鉄線で生駒の長いトンネルの近くに、盾津(たてづ)という関西電力の変電所があるんですよ。生駒山の入り口なんですが、実はここは古事記に出てくる蓼津(たでつ)。古事記には、九州からやって来た神武天皇がここで上陸して、長髄彦(ながすねひこ)の軍勢と戦争をして負けた所であると書かれています。
しかし今の盾津は、海岸線から20km以上離れている陸のど真ん中です。歴史学者の津田左右吉は、古事記に書いてあることは、真実とはまったく無関係だと言っていた。しかし、弥生時代は海であったことが、昭和40年代に地質学、考古学で解明されています。私も地震の揺れを調べたことから、古事記の話は真実であるということを、図らずも証明したというわけです。
ちなみに安政の南海地震(1854年)のときは、津波が紀伊水道を上がり、和歌山県と淡路島の間の紀淡海峡を通って入ってきて、2時間くらいかかって大阪に到達しています。大阪には、運河があって船が浮かんでいました。地震で揺れて家が倒れそうになった人たちが船で逃げたのですが、津波がきて船が橋桁に打ちつけられたり、転覆したりして350人ほど死んでいます。そのときの津波は、3mから3m50cmくらい水が上がったといわれています。
それより古い宝永地震(1707年)のときは、大阪の町で3000人くらい津波で死んでいます。1946年(昭和21)の南海地震は規模が小さかったので、津波も天保山で70cmくらい水位が上がっただけ。大阪全体としては全壊家屋も10軒程度だけだったため、「そろそろ次の南海地震がきますよ」と話しても、1946年の地震の記憶があるので、大阪の人は大したことはない、と思ってしまうようです。
大正橋(木津川にかかる千日前通の橋。大阪市大正区三軒家東一丁目と同市浪速区木津川一丁目・幸町三丁目の間)の辺りは土地が低く、0m地域なんです。津波がこなくても堤防が破れたら、それだけで1階の天井まで水に浸かるような災害に弱い場所です。
南の難波に地下街がありますが、安政の南海地震のように3mも水位が上がったら、地下街の中に水が入ってきます。そうなったら、たぶん逃げようがないでしょう。産業革命で地下水を過剰に汲み上げて、余計地面が下がっているわけですから、大阪は、震災対策をしっかり考えないといけないです。
1855年(安政2)の安政江戸地震は、1854年(安政元)の安政東海地震の翌年に起きた直下型地震で、江戸の市中で1万人くらい死んだといわれています。安政江戸地震を解明して、東京、首都圏の弱点を探せということで、5年くらい前から地震研の所長をはじめとして研究に取り組んでいます。
私は古文書係として、どこが弱いかを調査することになりました。そこでお寺を調べてみました。たいていのお寺は、江戸時代の初めからあるものが多いからです。今から約150年前の安政江戸地震のとき、お寺の本堂が倒れとか、庫裏が倒れたとか、そういうことはお寺さんはよく知っているわけです。東京中のお寺全部にアンケートをやるなり、実際足を使って、地震被害の状況を解明していったんですね。それに引き続いて、関東平野全体を調査してみた。
すると意外なことがわかりました。いちばん弱い所は、皇居と東京駅の間。それから北側の神保町、共立講堂、一ツ橋そして後楽園球場をつなぐ線が、地震道みたいになって被害が大きい。それから浅草と上野の間、隅田川の向こう、そこも被害が大きい。これはちょうど、関東震災で家がたくさん倒れた所と、ほとんど一致するんです。
埼玉県のお寺で被害に遭っているのは、現在の東武電車が走っている所。北千住から北に行って、東武動物公園、埼玉県の一番東寄りの平野の中。北側は幸手、栗橋と、この間のお寺には、倒れているところが多いんです。
そして、そこは液状化の被害も大きいのです。太田道灌が江戸城をつくって、徳川家康が幕府を開いたわけですが、群馬県から流れてくる利根川が、江戸のすぐ横を流れていた。現在の江戸川、あるいは隅田川に流れていた。ところが大きな川が江戸のすぐそばを流れているのは危ないからというので、銚子に向かって流れていた渡良瀬川と利根川をつないで、江戸のほうに流れてこないようにした。
現在の埼玉県のくわしい地図を見ると、古利根川というのが中川の北のほうを流れていて、ほとんど東武電車と並行して走っているんですよ。その古利根川の氾濫原であった所では、安政江戸地震のときにお寺が倒れて、液状化も起きている。家康が川筋をつけ替えてから、安政江戸地震まで250年ほど経っているにもかかわらず、ですよ。地形から見たら何の痕跡もないのに、いったん地震が起きると、かつて利根川の本流であった氾濫原の所に、やはり大きな被害が起きるわけです。
東京駅から見て皇居の側が地震に弱く、皇居の反対側が強いんです。ちょうど日本橋や人形町や八丁堀のほうが強い。中央区は強いです。その地域を調査してみると被害が少ないのです。中世の地図を見ると、そこは江戸前島と呼ばれて、はるか昔から陸だった所なんだそうです。ただ佃島だとか、築地本願寺のほうは弱いんですね。
溜池は、かつての江戸城の外堀の一部です。池の近くだから一見地震に弱そうですが、意外に溜池の周辺は強くて、関東大震災でもそれほど被害はない。なんで強いかというと、溜池というのは江戸時代になってから、田んぼに水を引くために人工的に掘った所なんです。だから、水がある所であっても地震に強いのです。
古い地図を今の地図に重ねてみますと、どこが強くてどこが弱いかとピタリとわかります。首都圏でいえば、地震に強い所は江戸川の向こう側、千葉県の市川市、松戸市。台地で地面が固い所です。
東日本大震災の被災地に行ってみて、思うことが山のようにあり、教訓とすべきこともありました。
石巻にある大川小学校では、108人の生徒さんの7割が亡くなりました。13人の先生の内、10人亡くなった。大川小学校は北上川の河口から4kmほど内陸にあって、小学校の標高は2m半しかない。前には堤防があります。
大地震があって津波警報が出たので生徒たちをいったん外に出した。生徒たちをちょっとでも高い所に連れていくのがいいというので、裏山に上がらせるか、北上川の自然堤防、標高6mの所に上がらせるかで議論が始まってしまった。最終的に、北上川の標高6mの自然堤防のほうに向かいました。ちょうど津波がくる方角に、生徒を一列に並ばせて歩いたわけです。それで前から順番に津波に飲まれてしまいました。
裏の山に上がればよかったのに、とも思いました。しかし、実際に現地に行くと、後ろの山は45度の傾斜で、しかも3月11日の石巻ですから雪が積もっているわけです。私が行ったのは6月ごろですが、道も何もなくて、上がれるような状態ではありませんでした。せめて山道が1本つくってあれば、逃げられた。なんとか裏山に這い上がった数人の先生と生徒は、助かったのですから。
また、松島湾から石巻に行く途中の野蒜(のびる)という所に、野蒜小学校があります。そこの体育館は標高8mで集落の平野より高い所にあり、津波の避難指定地になっていました。しかし津波警報が出て、その体育館に避難した人の内の20人が死んでしまいました。
私はそこにも行ってみました。体育館の床から3mくらいの所まで津波がきたようです。避難した人は体育館の中にまで津波が上がってくるとは思っていなかったんでしょうね。大きな津波が迫っている直前まで中にいて気がつかず、助かりようもなかった。体育館というのは中に入ってしまったら、ほとんど外が見えない。津波避難場所としてはまずい構造です。
これから先、考えることがありました。
避難所の条件としては、千年に一度の大津波がきても助かるような、充分な標高がなければいけない。東北地方で20m以上、関西地方、あるいは和歌山県や徳島県、高知県では15m以上の所、これが第一条件です。
二番目はそこから海が見えること。ここまで津波がきたらやばいなあ、と逃げた人自身が把握できることです。
三番目には、そこから後ろのさらに高い所に移動できることです。この三つの条件がないと避難施設にはならないと思います。その意味では体育館はよくなかった。
実は、石巻市の分浜(わけはま)に、津波の避難所にお寺の本堂が指定されている所があります。そこは標高が12mくらいで、分浜の集落のどの家よりも一番山寄りの所にある。今度の津波は千年に1回の大きさで、お寺の本堂の天井まで水がきた。ところがそこに逃げた人は誰も死ななかった。なぜかというと、本堂の窓を開けたら自分の集落から海から全部見えるわけです。津波がどんどん迫ってきて、この本堂でも危ないぞということにすぐ気がついて、そこからスロープの緩やかな坂を上がって逃げて、誰も死ななかったのです。津波の避難施設はそうあるべきです。
今回の震災は昼間に起きましたが、東北電力の電源が止まってしまったので、もしも月のない闇夜に起きた場合は、ソーラーバッテリー、無停電装置をつけた明かりがなければいけない。そして避難所へは、ある程度の緩やかさで上がっていけなくてはいけない。そういう条件を満たすような避難所を考えておく必要があります。
3月11日の大震災の前と後で違っていることというのは、津波対策をする際に、百年に一度の津波と千年に一度の津波を分けて考えなくてはいけない、ということです。
例えば海岸近くに80年間住んでいるとすると、千年に一度の大津波にその人が出遭う確率は8%。その8%の確率で出遭ってしまったら、ほとんど確実に死んでしまうのですから、千年に一度だからといって無視できません。その代わり、家が流されたり、あるいは漁船が流されたりしても、財産は諦める。命だけは助かるようにする。人の命と原発だけは千年に一度を考えなければならないですね。
もう一つ、今回の地震で「津波てんでんこ」とよく言われます。つまり津波がきたときは自分ひとりだけの体だけ考えて、家族のことなど一切考えずに逃げろという、生きるための悲しい知恵というか教訓です。三陸では、1890年(明治29)の津波、1933年(昭和8)の津波を経験して、伝えられてきました。自分の命は自分で守れ、ということです。
今回、津波が襲ってきたときに、寝たきり老人を助けようと自主防災の人が3人ほど担架を持っておじいさんの所に行くのですが、4人とも津波で死んでしまったんです。非常に痛ましいことです。そういう例が実に多いのですね。
津波てんでんこの考え方をすれば、例えば、おとうさんとおかあさん、小学校2年の子どもがいる家族がいるとします。小学校2年生の子は家にいる、おかあさんはマーケットに行って、おとうさんは会社にいる。そこに、大きな地震の揺れを感じて、津波警報が出たときに、おかあさんは津波警報が出たので、子どもが心配だからと家に戻ってはいけない。おかあさんは、そこから直ちに高い所に避難する。そして子どもは、小学校2年生にもなれば自分で逃げられる。
普段から地震の揺れがあって津波警報が出たら、「おとうさん、おかあさんを待たずに高い所に上がれ」そういうことを教えておく。それで、集まっていくべき避難場所は、一番近い所にする。とにかく命を守ることが大事で、千年に一度の震災では、それを目的として防災を考えるべきですね。
釜石の奇跡といわれる例があります。これは、岩手県の釜石という町で、小学校、中学校あわせて14カ所、3000人の生徒がいて、誰も死ななかったのです。これは徹底的に津波てんでんこが衆知されていて、かつ逃げる場所がある。自主的に逃げて来た子からどんどん高い所に上がっていって助かったのです。
そうすると、これから先、いったいどういうふうに考えたらよいのか。寝たきり老人が一人いるとわかっているときに、見放すことはできない。だから、これから先は江戸時代の隠居生活の知恵ですね。体が不自由になったときは、標高25mより下に住んではいけない。そもそも、津波がくるような所で、体が不自由な人は寝起きしてはいけないんですよ。
下のほうの町には、会社や工場をつくることは構わないと思います。ただ千年に一度、津波にやられる。会社の従業員たちは、警報はちゃんと守ることができ、津波がきたときには高い所に上がれることが条件です。そのことを知ったうえで、生産や商売とかはやってもいいわけです。ただし、住む場所の条件は、標高25m以上の避難所やタワーに5分か10分以内に上がれるようにすべきです。
震災が起きたとき、地震研の研究者も海岸工学、土木、地質学の人など全国で調査団をつくって、早く被災現場に行きたいと思っていました。しかし、人が生きているのが大変なときに、調査のためだけに行くのは自粛しようと、我々は被災現場にすぐには入らなかったのです。3月11日から3週間後の、4月になるまで自粛しました。それで4月1日になったとき、一斉に東北に調査に行きました。
そんなとき、関西大学の高橋智幸さんと京都大学の森信人さんが、関西の大学は現地から遠いから、インターネットの全体の取りまとめ役をやると言ってくださった。また、重複調査をしないよう、グループごとに調査地点を調整してくれました。
現地に入った調査グループは、集めたデータを片っ端から関西大学、京都大学に送りました。すると関西の大学は、データから表をどんどんつくっていくわけです。それで、今まで(2011年12月現在)に調査した地点が、調査団全体で3000地点を超えたそうです。この3000地点のデータは、インターネットで外国からも閲覧できるようにしました。これは全部、関西大学、京都大学の先生のおかげです。あのとき津波の研究者は、日本全体で本当に極めてテキパキ無駄なく動きました。
地震学で必要な能力があります。一つには、すぐ動くこと。インドで地震が起きたとなったら、それ、とばかりに行く。われわれが尊敬申し上げる先輩の先生は、予算も何もないのにすぐ行ってしまう。破傷風の注射もマラリアの注射もせず、パッと行く。
それからもう一つは、文部科学省に調査費用の予算を要求するため、書類を書いて出すこと。調査団を呼びかけ、まとめること。災害が起こったら、瞬時に外国や現地の国などの研究者の人づてをずーっと辿って連絡していく。そういったことを迅速に行なう。実際、このようなことを東京にいながらにして、全部やっています。
地震や津波の研究というと、地味なように思われますが、こういうフットワークの軽さや人脈を持たないと続けられない仕事なのです。
我々の先輩は、1933年(昭和8)の昭和三陸津波など、立派な報告書を後世に残してくれました。我々の代でサボったものしかできなかったら、後世から見て、一目瞭然。ばれてしまうわけですね。そうなっては恥ずかしい、平成の時代の研究者はさぼっているなあと、そう言われないようにやってきたつもりです。
私は今64歳、あと3カ月半で定年退官です。今まで大学の修士課程を9人、博士を4人、教育指導しました。一人だけ、あとから医者になった者がいますが、私の自慢はその13人がみんな、うちで勉強した津波、地震のことを生かして月給をもらっていることなんです。今回の出来事の前は、学んだ学問を生かしてなかなか飯が食えなかったにもかかわらず、頑張って続けてきた。
ハザードマップをつくるコンサルタント会社に入社した卒業生は、今回の大震災が起きてから目が回るほど忙しい。大震災が起きる前のハザードマップはもう役に立たないから、新たにつくらないといけないからです。不幸な出来事ではありましたが、そこから復興するために、また新たな悲劇が起こらないようにするために、我々の研究が生かされたら研究者冥利に尽きますね。
(2011年12月9日)
1498年 | 明応地震 東海地震 | 明応7年8月25日 |
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明応地震 南海地震 | 明応7年6月11日 | |
1707年 | 宝永地震(東海地震、南海地震の連動型) | 宝永4年10月4日 |
宝永の富士山の噴火 | 宝永地震の49日後 | |
1854年 | 安政東海地震 | 安政元年11月4日 |
安政南海地震 | 安政元年11月5日 | |
1855年 | 安政江戸地震(直下型地震) | 安政2年10月2日 |
1891年 | 濃尾地震 | 明治24年10月28日 |
1896年 | 明治三陸地震津波 | 明治29年6月15日 |
1923年 | 関東大震災 | 大正12年9月1日 |
1933年 | 昭和三陸地震津波 | 昭和8年3月3日 |
1944年 | 東南海地震 | 昭和19年12月7日 |
1946年 | 昭和南海地震 | 昭和21年12月21日 |