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海のない地域に残る「海魚の食文化」
~「魚尻線」がもたらしたもの~

山あいの温泉旅館を訪れたとき、夕食に刺身が出てきて不思議に感じたことはありませんか? 今回の取材の発端は、機関誌『水の文化』50号に遡ります。ほうとうの取材で山梨県に伺うと、海がないのにマグロの刺身が今も多く食べられていて、その理由が「魚尻線(うおじりせん)にあたるから」と聞きました。海から離れた内陸部で海魚の食文化が残っていて、それには魚尻線が関与している――これはとても興味深い事実です。山梨県立博物館の学芸員、植月学さんを訪ねて、山梨県における海魚の食文化と魚尻線についてお聞きしました。

植月 学さん

山梨県立博物館 学芸課 学芸員 
植月 学(うえつき まなぶ)さん

1971年生まれ。早稲田大学大学院文学研究科博士後期課程単位取得退学。早稲田大学文学部助手、東京藝術大学助手等を経て現職。専門は動物考古学で、牛馬の歴史や縄文時代の環境・生業に特に関心をもっている。著作に『十二支になった動物たちの考古学』(新泉社、2015、共著)、『ハマ貝塚と縄文社会』(雄山閣、2014、共著)など。

山梨県はすし屋の数が日本一?

 海辺から内陸へ腐らせることなく生魚を運べる限界を「魚尻線」と呼びます。山梨県の甲府周辺はこの魚尻線にあたるのです。

 山梨県と海産物との関係を考えるときに、興味深い話があります。県民1人あたりの数に換算すると、山梨県はすし屋の数が全国一なのです。海に面しているわけでもないのに不思議だと思いませんか? 海辺の地域に比べると海産物を取り扱うには条件が悪いはずですが、だからこそ「刺身」ではなく「すし」なのです。

 甲府に明治時代創業の老舗のすし屋があります。明治時代初期の握りずしといえば、今の1.5〜2倍の大きさで、しかもネタには「一仕事」施したものを出すことが一般的でした。すしめしにそのまま生のネタをのせるのではなく、酢でしめたり、塩ゆでしたり、醤油に漬け込んだものを供していたのです。甲府はもともと江戸文化の影響を受けていますので、江戸前ずしのスタイルを引き継いだのでしょう。

 明治時代のすしの資料などを見ると、「仕事もしていないすしをお客さまに出すのは失礼だ」とまで書かれてあります。今ほど輸送手段が発達しておらず、冷凍や冷蔵といった保存技術もなかったため、酢や塩、醤油を使うことで魚の日もちをよくする目的があったのだと思います。

 このような伝統的な握りずしの形を今も守り続けているのが、前述の老舗すし屋の握りずしなのです。山梨の人は「これが甲府のオリジナルずしだ」と信じているほど定着しています。

 海のない内陸でも「生に近い海魚を食べたい」と思ったときに、刺身は無理でもすしなら多少保存が効くので食べることができた。そう考えると、山梨のような「海なし県」にすし屋が多い理由もうなづけませんか?

 ちなみにすしの1人あたりの消費額でいえば、栃木県の宇都宮市が日本一だそうです。栃木県も山梨県と同じ内陸です。この「二大海なし県」でそれだけすしが食べられているという事実は、共通した理由があるのでしょう。

内陸へ生魚を運ぶための限界範囲「魚尻線」

 では、海産物は当時どのようなルートで山梨にもたらされたのでしょうか?

 江戸時代から明治時代の文献によると、江戸時代の終わり頃から駿河湾で大量のマグロが獲れた時期がありました。まだ鉄道が開通する以前、マグロをはじめとする海産物は馬の背に積んで運ばれ、荷を運ぶ人馬が毎日何十頭と山梨や長野に向けて出発していました。

 このように、甲府は海辺から内陸へ腐らせることなく生魚を運べた。つまり魚尻線の範囲内にありました。そのために山に囲まれていても生魚を食べることができたのです。

 生魚を運ぶとき、何よりも重視するのは時間です。そのため、山道であろうがなんであろうが最短距離で運んでいました。沼津近海で獲れた海産物を甲府に運ぶために活用されていたのが、「魚の道」としても知られる「中道往還(なかみちおうかん)」です。富士山の西側を通るルートで、吉原(静岡県富士市)を出発して富士山の西麓を通り、本栖(もとす)・精進湖(しょうじこ)の間を抜け古関(ふるせき)、右左口(うばぐち)を経て甲府に至ります。かなりの山道ですが、このルートを使うと駿河湾で獲れた海産物を人力(馬が使われる場合もある)であるにもかかわらず一晩で甲府まで運べたのです。標高の高い場所を通るので夏場も涼しく、生魚の運搬に適していました。甲府に意外にも多くの海産物が入ってきた背景には、このような地理的特性があったのです。

 一方で、日もちする海産物は時間よりコストを重視しました。人や馬で少量運ぶよりも、船なら大量に荷を運ぶことができてコストも安いです。乾物や干物などを甲府に運ぶ際には、約4日間かけて富士川沿いを船で遡る富士川舟運を利用していました。昔は今よりも富士川が急流だったので、下りは8時間ほどで静岡まで戻れたといいますから、上りの運搬がいかに大変だったのかがわかります。

 こうしたすみ分けのもとで、甲府に海産物が運ばれていたのです。

  • 生魚運搬図 1966年(昭和41) 土橋驚堂筆 個人蔵

    生魚運搬図 1966年(昭和41) 土橋驚堂筆 個人蔵
    明治時代の頃の記憶をもとに、馬の背にマグロを積んで中道往還をゆく馬子を描いたもの

  • 地理学者・田中啓爾が調べた本州各地における生魚の魚尻線

    地理学者・田中啓爾が調べた本州各地における生魚の魚尻線(生魚が到達できる限界)。甲府は夏期も駿河湾の魚を生で持ち込める限界点にあたる。甲府同様、その他の地域にも魚尻線はあるが、夏は腐敗しやすいので持ち込める距離が短くなる。
    出典:田中啓爾著『塩および魚の移入路―鉄道開通前の内陸交通』(古今書院 1957)より「生魚の魚尻線」の図を改変
    山梨県立博物館『甲州食べもの紀行』より

  • 甲州へ海産物を運ぶルート

    甲州へ海産物を運ぶルート
    山梨県立博物館『甲州食べもの紀行』より

  • 生魚運搬図 1966年(昭和41) 土橋驚堂筆 個人蔵
  • 地理学者・田中啓爾が調べた本州各地における生魚の魚尻線
  • 甲州へ海産物を運ぶルート

今でも赤身好きな甲州人

 このような魚尻線のこと、そして昔の運搬の大変さなどを知ったうえで海産物を食べると、ありがたみがまったく違ってきます。

 この地域は石和(いさわ)温泉が近いので宴会などで旅館に行くことも多いのですが、12年前に出身地である千葉県から赴任して来た頃は魚尻線のことなど知りませんでしたから、食事にマグロの刺身が出てきても特に何も感じなかったのです。

 しかし、県外、特に海辺の地域から山梨に遊びに来られた方は、「山がちな土地に来てまで、なぜマグロの刺身を食べなきゃいけないの?」と思うかもしれません。「なんで山梨でマグロ?」と思ったときに、例えば旅館の人が魚尻線をはじめとするこの土地の文化や歴史を説明できたら、興味がわくし、有り難みもぐっと増すと思うのです。

 実際に山梨の人は昔からマグロが大好きで、消費量も多いのです。スーパーマーケットに行くとわかりますが、東京あたりと比べると売り場に並ぶ刺身のなかで赤身の比率が目立って多い。甲府のスーパーマーケットの方のお話として「白身魚を置いてもあまり売れない」と聞いたことがあります。

 あるおすし屋さんでは、甲府では昔からマグロを多く仕入れて食べてきたので、目利きの業者も多く、必然的にいいマグロが入ってくると聞いたこともあります。また、江戸時代の文献にある絵図を見ても、甲州の商人たちがマグロの買い付けに来ているとあります。

 江戸時代に大量のマグロが甲州に運ばれていましたが、江戸に住む人たちにとってマグロはそれほどランクの高い魚ではありませんでした。江戸時代の文献にある絵図を見ても、マグロの買い付けに来ているのは甲州の商人たちです。特に大トロなどは脂っこすぎて好まれず、江戸では捨てられることも多かったようです。ところが、山梨のような内陸で海の魚は大変貴重なもの。マグロはご馳走だったのです。

  • 浜でマグロを抱えて水揚げする人々。ともに残された文字記録には甲州から商人が来て、マグロが獲れたと聞くと、浜で直接買い付けの交渉をすると書かれている
    『天保三年伊豆紀行』画帳(「九十五年前の伊豆」) 静岡県立中央図書館蔵

海の魚は「ハレの日」に食べるご馳走

 内陸の食文化の特徴として興味深いと感じるのは「なんでも一つのものに収斂していく傾向がある」ということです。

 例えば静岡県の沿岸部のように新鮮な魚が毎日手に入る地域に住んでいたら、今日はヒラメ、明日はタイを食べようと、ごく当たり前のことのようにいろいろな魚をさまざまな調理法で食べますよね。しかし、山梨のように特別な機会にしか魚が入ってこない地域では、「魚=ご馳走=マグロ」という固定した考え方になっていったのでしょう。

 これも静岡との関係で理解できると思いますが、甲府はアサリの消費量が全国でいちばん多いのです。マグロは全国第二位、干しアジは第三位。貝も、魚と同じようにいろいろな種類を食べるというよりは、「貝=アサリ」の感覚があるようです。食べ方も味噌汁が多いようです。

 なんでも手に入るこの時代に、スーパーマーケットではいまだに赤身のマグロがよく売れるところをみると、昔からの習慣や刷り込みは根強いものだと感じます。

 地元の方におもしろい話を聞いたことがあります。親戚が集まると、マグロの赤身の刺身だけをドカッとお皿に盛って出すそうです。人が大勢集まる場で出す刺身といえば、一般的には赤身や白身、貝類など数種類が皿に盛られた「盛り合わせ」を想像すると思いますが、マグロのみだというのです。私がびっくりすると、「普通のことじゃないんですか?」と逆に驚かれました。マグロへの独特な執着があるようです。それも私が外から来た人間だから気づけたのかもしれません。地元では当たり前だと思っていることほど、ほかの地域との違いはわかりづらいものです。

 この話にもよく表れているように、ご馳走である海の魚は、やはり昔から婚礼やめでたい宴会の席など、「ハレの日」に食べられてきたものなのでしょう。川魚も食べてはいたものの、有名な川魚料理がないことから考えると、ご馳走感は薄かったのではないでしょうか。海の魚は、とてもありがたいものだったのですね。

食文化を解き明かす考古学の意義

「日本の食文化は変わった」とよく耳にしますが、このようにみてくると根本は昔も今も変わっていないことがわかります。表向きには、みんな同じような全国チェーンのファストフードを食べているようでいて、しかし地元に帰るとその地域ならではの食べ物や食習慣がまだまだ残っているはずです。

 考えてみると、人間の体も歴史的な産物といえます。その土地で採れたものを昔から食べてきたわけですから、体もそれに適応しているはずです。山梨県という狭い範囲で考えるとわかりづらいかもしれませんが、和食と洋食で考えてみてください。人間の腸の長さは穀物を多く食べる日本人の方が肉食の欧米人より長いことが知られているように、人間の体の構造ってそうそう簡単には変わらないはずですよね。だから、昔から食べ慣れてきたものを食べるのが、健康にはいちばんいいのではないかと私は考えています。

 私の専門は、実は食文化ではなく動物考古学です。食文化と考古学は一見つながりがないと思われるかもしれません。しかし、遺跡から人と動物の関係を探り、そこからさらに広げることで食文化の研究を行ないますので、考古学は昔の食文化の情報を得るのにとても役立っています。

 近年、山梨では「縄文ダイズ」の発見が相次いでいます。土器の表面にあるくぼみにシリコンを詰めてはがしたものを電子顕微鏡で見ると、明らかにダイズなのです。ダイズは、従来の歴史では弥生時代に中国から入ってきたとされていましたが、中部高地での縄文ダイズの発見により大陸から来たとは考えにくくなりました。縄文人が野生のマメを栽培して大きくしていったとしか考えられません。縄文人は私たちが考える以上の技術を使い、高度なことをやっているのです。

 例えば、日本最大級の縄文集落跡がある青森県の三内丸山遺跡では、周辺の森の大半が栗林だったこともわかっています。縄文人はたんに栗の実を拾うだけでなく、定住して栗の木を植えて食料を確保し、自分たちが暮らしやすいように環境を改変していったのでしょう。そう考えると、これまで私たちが思い描いていた縄文人の暮らしぶりや食文化の認識がガラリと変わります。

 また、最近では過去の動物のDNAの分析なども進められています。例えばマグロは、これまで骨だけで種を判定することは難しかったのです。しかし、江戸時代から明治時代にかけて繁栄した富士川舟運の川港「鰍沢河岸(かじかざわかし)跡」から見つかったマグロの骨にかすかに残るDNAを分析した結果、かつて静岡で水揚げされ、山梨で食べられていたマグロがクロマグロ(ホンマグロ)であったことがわかったのです。

 何事においても成果や効率が優先される昨今、考古学のような利益に直結しない学問は脇に追いやられがちです。発掘のたびに出土する土器を「保存していてなんの役に立つんだ」といった意見もちらほらあるのですが、縄文ダイズの例のように新しい分析方法が編み出されれば大発見につながる可能性を秘めています。考古学的な手法を活用して過去の生活を調べることで、食文化の成り立ちのような地域固有の歴史を掘り起こしていきたいと思っています。

明治時代後半の「魚骨(マグロ)」(鰍沢河岸跡出土)。一番大きい骨がいわゆる「カマ」。刃物で切り込んだ痕が残る 山梨県立考古博物館蔵(写真提供:山梨県立博物館)



(取材日 2016年7月4日)

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