機関誌『水の文化』創刊号
舟運を通して都市の水の文化を探る

舟運を通して都市の水の文化を探る(1)

“水の視点”から都市の見直しを進めてきた陣内秀信、岡本哲志の両氏による「一乗谷・福井・三国」のフィールドワークを紹介します。これら都市の生成と舟運ネットワークの立体的な関係が、丹念な現地調査により現代に姿を現します。

陣内 秀信さん

法政大学教授
陣内 秀信 (じんない ひでのぶ)さん

1947年 福岡県に生まれる。東京大学工学部建築学科卒 東京大学大学院工学系研究科建築史専攻・博士課程修了。工学博士。1973年イタリア政府給費留学生としてヴェネツィア建築大学へ留学、ユネスコのローマセンターを経て1976年帰国。東京大学助手を経て1982年より法政大学へ。現在、法政大学工学部建築学科教授。専攻、ヴェネツィア都市形成史、イスラム都市空間論、江戸・東京都市空間論。1985年「東京の空間人類学」でサントリー学芸賞他を受賞。 著書は、『ヴェネツィアー都市のコンテクストを読む』(鹿島出版会)、『私の東京学』(日本経済評論社)、『都市を読む・イタリア』(法政大学出版局)、『江戸東京のみかた調べ方』(鹿島出版会)、『水辺都市ー江戸東京のウォーターフロント探検』(朝日新聞社)、『ヴェネツィアー水上の迷宮都市』(講談社)、『都市と人間』(岩波書店)、『中国の水郷都市』(鹿島出版会)等多数。所属団体「日本建築学会」、「建築史学会」、「地中海学会」、「日伊協会」、「東京のまち研究会」等。「水辺の都市」の権威。



岡本 哲志さん

岡本哲志都市建築研究所代表
岡本 哲志 (おかもと さとし)さん

1952年生まれ。法政大学工学部建築学科卒。都市の水辺空間に関する調査・研究に永年携わる。丸の内/日本橋/銀座などの調査・研究プロジェクトに関わり、都市形成の歴史から、近代都市再開発の問題や都市の「定着、流動」と都市の活力や創造力の関係性を検証している。 著書に、『水辺都市江戸東京のウォーターフロント探検』(朝日新聞社、1989年)、『水の東京』(共著、岩波書店、1993年)などがある。

はじめに

江戸―東京の都市構造を「水」からの視点で研究しはじめて、20年の歳月が経つ。その間、様々な切り口でこの都市の水辺空間に関する調査を行ってきた。特に近年は、舟運から都市を読むことの重要性を強く感じるようになった。江戸時代初頭に全国展開した「舟運のネットワーク」の解明が、実は江戸―東京の都市の成立を理解する上で必要な糸口となり、また「舟運」という視点は、水辺に生まれ発展してきた日本の都市の構造をより深く知る上で重要なアプローチとなるのである。

「舟運を通して都市の水の文化を探る」という今回の調査研究には、二つの視点がある。その一つは、近世において全国規模で展開した舟運ネットワークを解明し、「流域」という視点から日本の都市を見直すことである(注1)。二つ目は、特に戦後すっかり忘れ去られた「舟運(注2)」からの眼差しで水と結びついた都市の空間構造を描きだすことである。とりわけ港の機能をもつ場所の形成と、それが近代に変容していく過程を明らかにしたい。こうした都市の中には、近世初頭に建設された城下町を基礎とするものも多く、港と城下町の関係も重要なテーマとなる。このような「水」からの視点で日本の都市を問い直すことは、今日的課題としての「都市の水の文化」を探る試みとなる。

この調査研究は、「ミツカン水の文化センター」研究事業の一環として、1997(平成9)年にスタートした。研究対象としては、国内では舟運の重要な位置を占めた江戸と大坂をはじめ、これら巨大都市と結びつきながら近世に発達した日本全国の「港町(注3)」を取り上げている。その中でも、特に注目すべき5つの地域をフィールドワークの柱として位置づけ、重点的に研究している。一方、海外においては、水の文化が今も生き続ける都市として、アジアの蘇州とその周辺、バンコク、ヨーロッパのヴェネツィア、アムステルダムなどを調査対象に予定している。同時にこれら諸外国の都市と日本の都市の水の文化比較も試みる。

研究の方法としては、文献史料を活用すると同時に、現地でのフィールド調査に重きを置き、建物や外部の空間の実測、及びヒアリングを行いながら、水の文化の構造を様々な角度から解き明かしている。

1997(平成9)年からこれまで2年間、国内における5つの重点地域と、中国江南の蘇州及びその周辺、タイのバンコクのフィールド調査に取り組んできた。今回の報告においては、国内の研究成果に絞り、五地域の調査をヴィジュアルな形で簡潔に示すとともに、「一乗谷・福井・三国」を中心に調査研究の一部を紹介する。

(注1)
今までの都市史の研究には、流域の考え方を視座に据えるものがあまりなかった。
(注2)舟運
舟(船)を使って川や海を航行し、人や物を運ぶことについて、水運、海運、河川交通、舟運など、様々な呼び名で言い表している。それぞれの語意や使われる範囲が微妙に違う場合があるが、ここではあえて「舟運」という言葉に統一している。それは読者の混乱を避けるためと同時に、川や海の航行には舟(船)という道具を基本的に使っており、広い意味での水の上の交通として、「舟運」という言葉を一貫して使うことにした。
(注3)港町
舟(船)によって運ばれた人や物の発着場あるいは集散基地を、古くは津、浜と呼び、近世に近くなって湊や河岸という名もうまれてきた。そして近代になると、港という言葉が一般的に使われるようになった。ここでは広い意味で「港」という言葉を使うようにつとめたが、どうしても港という言葉では誤解をまねいたり、言い表せなかったりした場合には状況に応じて使い分けている。

  • 新版大坂之図・明暦年間

    新版大坂之図・明暦年間

  • 千葉県佐原

    千葉県佐原

  • 新版大坂之図・明暦年間
  • 千葉県佐原

河川舟運の芽生えと沿岸航路の開発

江戸時代初頭から急速に進展する全国規模での舟運ネットワーク時代の序曲として、各地で様々な舟運を目的とする河川開発がすでに部分的に進められていた。16世紀末の天正年間には、上杉景勝の家臣が信濃川筋の改修を行なった。それは、新潟平野開発の礎石ともいうべきもので、中の口川を信濃川から分離することで、各々を用水のための河川、舟運のための河川につくりかえた。豊臣秀吉は、巨椋池と宇治川の分離工事を行い、山城盆地を咽喉部の淀でおさえ、伏見を安定した川湊とするため、京都と大坂を結ぶ淀川舟運の確立に努めた。また、1584(天正12)年には、大坂城修築に先立って、築城と城下町の設営に必要な大量の木曽材を搬出するために、秀吉は木曽川の改修を行なったといわれている。

こうした江戸時代に入る以前の各地で行われた舟運を目的とした河川改修の試みは、江戸幕府の利根川や淀川、東北の雄・伊達藩の北上川での大規模な河川工事を誘発すると同時に、大小の違いはあっても東日本を中心として全国的に進められていった。

また海運においても、江戸時代初頭までは全国規模の航路整備が行われておらず、断片的な舟運にとどまっていた。例えば、東北諸藩の江戸向けの廻米は、はじめ東北の海を北から南へ東廻りのルートで運ばれていたが、直接江戸湾まで通じていたのではなかった。常陸国の那珂湊までは海路であったが、それ以降は陸路も交えて、涸(ひ)沼・北浦・霞浦などの湖沼や利根川・江戸川などを経て舟で江戸に運び込まれたために、膨大な時間と労力を費やさざるを得なかった。

このような不便を解消するために、1644〜48(正保年間)年に那珂湊―銚子間の海路が改善された。その後、幕府は1660(寛文10)年に河村瑞賢(注4)を起用して西廻りと東廻りの両航路の改善を命じ、1661(寛文11)年には東廻り航路、1662(寛文12)年には西廻り航路が整備されたことで、本州沿岸を一周する航路がほぼ完成する。東廻りでは、瑞賢が東北方面から来る船を一旦伊豆に向かわせ、西風に乗せて浦賀水道を通って江戸湾に引き入れる比較的安全なルートを発見したことで、江戸と東北との結び付きがより強化された。

(注4)河村 瑞賢(かわむら ずいけん)
江戸時代前期に活躍した商人。1617(元和3)年生まれ。1657(明暦3)年の振り袖火事に際し、木曽福島にとび木材を買い占め、土木建築を請け負って巨利を博した。幕府より出羽国の天領租米を運ぶための回漕航路建設を命じられ、東廻り航路、西廻り航路の建設を行った。晩年は旗本に列せられた。1699(元禄12)年没。

近世日本における舟運ネットワーク

近世日本における舟運ネットワーク

港町と城下町

各地に形成された城下町は、周辺の農村との流通拠点であるとともに、領国外の京、大坂及び江戸の三都との広域流通の結節点としての役割をも果たすことによって、領国内の政治・経済・文化の中心的な地位を確立していった。これらの城下町は、物資の大量輸送に備えるために舟運を重視した。西国を中心に、多くの城下町が水上輸送の可能な海辺か河口に建設され、町人地には掘割が張り巡らされた。海辺に立地しない城下町でも、舟運の便の確保が重要視され、河港や外港との関係から場所が選択された。

大藩では城下町以外にも町奉行支配下の町が置かれたし、また法制的には農村とされた地域にも、実質的に商工業が展開し、都市として機能した町があった。これら城下町以外には港町・宿場町・門前町など様々な範疇の町があり、それらを総称して「在郷町」という。これらの町は、城下町と農村、城下町と三都との間をつなぐ流通の中継地となり、特に港町は、江戸時代に大きく成長を遂げた。そして、城下町と港町を結ぶ全国規模の流通ネットワークが形成され、全国の市場を対象とする特産物の生産が各地に広がった。18世紀には、全国規模での商品・貨幣経済の発展によって地域的分業が完成し、日本の各都市は市場経済化の中で、多彩な都市文化を花開かせたのである。

城下町の中の港

「陸」からではなく「海」や「川」からの視点で都市を捉え直すと、城下町は既存の湊や河岸に成立した市や町場の存在にすり寄るように成立したケースが多いことに気付く。それは、舟運による物流がこの時代の都市形成にとってすでに重要なものになっていたからである。こうして中世後半からの全国的な物流の拡大と港町や在郷町の存在が、戦国時代から江戸時代初頭におとずれる城下町建設ラッシュの時期に大いに生かされることになった。

その一例は毛利氏の広島城建設に見られる。山間部の一豪族だった毛利氏は安芸にある草津(注5)という湊を重視していた。毛利氏は、秀吉に服属して以来、上方との交流を強め、その多くが草津からの海路に依存していたのである。このような上方との連絡だけではなく、中国地方から、郡山へ送られてくる年貢の輸送や、遠征時の兵糧の運搬にも、草津の港がよく利用されたようである。草津はいわば、郡山と瀬戸内海を通じて外界とを結ぶ重要な結節点としての湊だった。従って、毛利氏が新しい城下町の地として港町・草津に近い広島を選んだのも当然のことであった。

その後の毛利氏は、草津に側近の児玉氏を配置し、やがて直轄領にしたように、一貫して、港町を中心に要となる都市を押さえていった。それは、宮島と一体になって地域経済圏の核となっていた廿日市に元就の四男元清を置いたのをはじめ、赤間関(下関市)、尾道、鞆などへ代官を派遣したことにもうかがえる。交通の要衝を押さえ、税収入を確保するという軍事・財政的な理由だけでなく、鍛冶などの高度な技術者がいたことも、城下町が港町との関係を深めることにつながった。

(注5)草津
現在の広島市西区草津地区にあった港である。江戸時代に入って埋め立てが行われ、昭和40年代にはさらに大規模な埋め立てによって西部流通団地が造成されたため、海岸線は1.5km余りも沖合へ出てしまい、港町の雰囲気はほとんど残っていない。

独立した港町の台頭

港町と城下町の関係は、大きく二つに分類される。港町が独自に成立しているケースと城下町のなかに港の機能を取り込むケースである(注6:下図参照)。後者においては、江戸や大坂ばかりか、大規模な城下町の多くが海と川の結節点か、舟運の可能な川に沿って成立している。ここで注目したいのはむしろ、前者の独立した港町の存在である。近世以降も、強力な武士権力の影響を受けながらも、堺のような独自の都市形成を成しとげた港町が多く登場した。これらの港町は、城下町形成期にその一部と化すことなく、独立した都市の形態を維持し、繁栄し続けた。しかし、そこには恵まれた地理的条件が必要だったし、一国一城という徳川幕府の政治的判断も、この独立した港町のその後の展開に重要な役割をもった。

江戸時代初頭には、河村瑞賢が開発した西廻りと東廻りの海路が物流の大動脈となり、全国の港町は中世よりさらに活況を呈した。西廻り航路が開発されたことにより、酒田をはじめとする新潟・小木・福浦・三国などの日本海沿岸の港町は、京との最短距離にあって中世以前から重要な港だった敦賀を凌ぐ勢いで成長・発展を遂げた。北では蝦夷の産物を西へ送る松前・江差などの港町が新しく舟運の表舞台に登場した。東廻り航路では、青森や太平洋に面する石巻・那珂湊・銚子などの港町が成長していった。瀬戸内海沿岸には、赤間関(下関)・上関・尾道・鞆・牛窓・室津などの中世以前に成立していた港町が西廻り航路の充実でさらなる繁栄を見せた。

江戸時代に入って繁栄した港町を見ると、中世にすでに骨格を形成したものは、靹・尾道など、瀬戸内海沿岸に多く、近世以降に新たな町割りが成された港町は新潟・青森・酒田などの日本海沿岸に多い。さらに、中世に形成された骨格を再編成した堺・博多・長崎などの国際貿易港として発展していったケースも見られる。

このうち江戸時代に入ってから成立・発展した港町の特色として、1624(寛永元年)年に町割りがなされた弘前藩の青森、1655(明暦元年)年に新たな地へ移転を果たした長岡藩の新潟は、いずれも計画都市として建設され、1615〜23(元和期)年に新たに町割りされた堺と同様、城下町から城と武家地を除いた都市プランをつくりだした。こうした港町では、街路を挟んで均質な間口の町家が連続する町並みが形成され、海や川に面して荷揚げ場が設けられる一方、その反対側には緑の丘陵を背にして寺町がつくられ、丘陵部の海や川に近い突端部の小高い丘が、風向きや出入りする船の様子を知る「日和山(ひよりやま)」となった。さらに、町の通りと並行に掘割を通すことで荷揚げの便を図り、均質な町割りがつくられていった。

都市社会の安定を実質的に支え、近代社会の胎動を促したのは、このような地方に生れ、全国規模の流通ネットワークの結節点として機能した港町である。これらの港町は、近世日本の物流経済に重要な役割を演じ、商人が主体となった独立した都市として繁栄していった。

(注6)
流通経済の拠点である在郷町のうち、港湾や河岸の機能をもつ都市を、ここでは広義の意味での「港町」としている。従って、内陸にある河岸をもつ商都(在郷町)も、ここでは港町として位置づけている。ここで言う川とは、物流としての舟運が重要な位置を占めていることを前提にしている。従って、都市が海と川の接点に位置していても、川に以上の舟運という要素がなければ含めていない。ここでは港町だけではなく、流域に成立した河岸の存在も視野に入れる。

主な港町と城下町の場所と特性
都市として独立した港町 港機能を組み込んだ城下町
港・湾に直接面する都市 敦賀、小木、江差、長崎、半田
長崎
長崎 [8]
福岡、唐津、函館、松前 小浜、
高知、鹿児島
松前
松前 [12]
瀬戸内海に面して立地する都市 鞆、尾道、牛窓、堺 伊予西条、多度津、室津、由良
尾道
尾道 [7]
広島、高松、丸亀、徳島
高松
高松 [11]
川と海との結節点に位置する都市 三国、銚子、那珂湊 石巻、酒田、新潟
新潟
新潟 [6]
江戸、大坂
大阪
大阪 [10]
川沿いに立地する都市 佐原、大石田、伏見 倉敷、栃木
伏見
伏見 [5]
大洲、盛岡
大洲 [9]

※[ ]内の数字は、引用絵画・写真の番号。文末参照。

越前における舟運と都市(一乗谷・福井・三国)
―中世都市・一乗谷の空間構造―

一乗谷は、九頭竜川支流である足羽川を遡って、山間部に入る最初の深い谷間(たにあい)に成立した中世都市である。田園と化していた一乗谷は、1967(昭和42)年からはじめられた発掘で400年の眠りから醒め、その全容を現しはじめた。

応仁の乱(1467〜77の11年間)によって、京都への文化の一極集中が崩れ、全国へ分散化する流れが生まれた。その結果、京都を中心に政治経済を動かしていた室町幕府とそれを支えていた守護大名は衰退し、戦国期には各地に城下町ができ、地域の政治・経済の中心となっていった。だが、一方で戦乱の都を離れて地方に下向する公家や文化人も多くなり、京都の都市文化が城下町で再現されるという現象も見られるようになった。朝倉氏の手でつくられ、越の小京都と呼ばれた一乗谷にもそれが特徴的に表れる。

朝倉孝景(注7)が一乗谷に城下町を建設した背景としては、この周辺が早くから朝倉氏の勢力下にあり、経済的な要地としての基盤があったこと、周囲を高い山々に囲まれ山城としての自然条件が整っていたことに加わえ、足羽川上流で船が上がれる限界地点であり、古くから港町として栄えていた三国との舟運を可能にする場所でもあったことが考えられる。

一乗谷は、谷の閉じた空間に、土塁と濠で囲われた城下町を形成している。一方、外には自由な商業活動の場である市場や町場を配していた。城戸のなかの閉じた空間と、城戸の外の地形的にも開放された町で構成された一乗谷は、近世城下町には見られない、内と外という都市空間の二重構造をつくりだしたのである。

城戸外に古くから成立していた阿波賀は、閉じた都市と外の世界との境にあたり、自由な交流ができる接点として、独特の都市機能をもった(注8)。阿波賀は、人・物資・文化など、有形無形のものを運ぶ街道と主に広域からの物資を運ぶ舟運によって、活発な場となっていた。美濃街道が北の庄から北国街道と一乗谷を結び、さらに美濃へとつなぐ陸の道である一方、足羽川は日本海航路の拠点三国湊から北の庄を経て一乗谷を結ぶ川の道であった。朝倉街道は府中と一乗谷を結び、東の山裾を坂井平野へと継ぐ第二の陸の道となって、全国に結びつく北国街道や日本海航路につながっていた。この3つのルートの結節点に物資の集散地として阿波賀などの町があった。15世紀末には、一乗谷の城戸外にあった阿波賀では、川湊である物流基地の町として陶磁器など唐物の売買も盛んに行われていた。それは、定期市が河原で寂しく開かれるといった風景ではなく、見物に値するにぎやかな町にまで成熟していた(注9)。三国から上ってくる物資をさばく船着場の周辺には蔵が建ちならび、京と結びついた商人たちが活躍する町となっていた。北の庄や三国湊とともに商業が集積する活気にあふれた都市空間をつくりだしていたのだ。このように常設店鋪と市場が併存する阿波賀には、1〜2ヵ月の間隔で米、綿などの主要な物資の相場を決める都市機能も備わっていた。ここで決められた相場は、越前のほぼ3分の1ほどの広さにあたる足羽郡、吉田郡、坂井郡の経済圏の基準となっていたようだ。

(注7)朝倉 孝景(あさくら たかかげ)
越前国坂井郡を本拠とする国人領主。応仁の乱で初め西軍に属したが、細川勝元から越前の守護の約束を得ると寝返り、1471(文明3)年守護職となり一乗谷に築城、本拠地として越前を治めた。孝景の死後、子の義景は織田信長と対立し、1573(天正元年)年、信長の越前侵攻で破れ、朝倉氏は滅亡した。代わって越前を治めたのが、信長の筆頭家老である柴田勝家である。
(注8)
現時点で阿波賀についての広域的な発掘調査はされておらず、山裾の西山光照寺のみが発掘調査されただけで、町屋の実態は考古学的には不明な部分が多い。
(注9)
小野正敏氏が「戦国城下町の考古学」(講談社選書メチエ)において、遺構の分布や「真珠庵文書」の記述から推論している。

  • 九頭竜川流域図

    九頭竜川流域図

  • [25]空から見た一乗谷

    [25]空から見た一乗谷

  • 九頭竜川流域図
  • [25]空から見た一乗谷

中世都市・一乗谷から近世都市・福井への転換

阿波賀の市は、戦国時代を通じて、経済圏としては越前一円にまでは影響が及んでいなかった。それは、廻船に関係する敦賀、三国そして、北の庄の有力商人・橘屋などが自らの本拠地を一乗谷に移転しなかったからである。そのため、これらの都市の経済上の優位さは、朝倉時代になっても変わらなかった。朝倉氏は、既存の経済力を積極的に利用しながら政治・経済両面からの支配体制の確立を試みたが、結局はそれまでの地域的な枠組みを突き崩して、越前全体の経済圏を一乗谷に統合することはできなかった。このような政治と経済の中心の不一致が戦国城下町・一乗谷の限界となって見えてくる。各々の地域圏の枠組を越えて、首都が経済的にもその地位を確かにしていくのは、柴田勝家が北の庄(注10)に城下町を建設してからである。

柴田勝家が北の庄築城と城下町を建設するのは、1575(天正3)年である。この地には、朝倉時代以前から足羽(あすわ)川を挟んで「三ケ庄」と総称される北の庄・石場・木田の三集落が町並みを形成していた。柴田勝家が朝倉の一乗谷の山城を捨てて北の庄に平城を構築したのは、そこが近世という新しい時代における領国の政治中心にふさわしい場所であったばかりか、この「三ケ庄」という古くからの商業集積地を城下町の核に取り入れることが重要だと考えたからであろう。柴田勝家が越前の首都となった北の庄には、一乗谷からも商人たちが移り住み、一乗町を形成したが、この地はもともと北国街道と足羽川、美濃街道が交差する古くからの北部経済圏の中心地だった。しかも九頭龍川の舟運ネットワークと重要な湊である三国との関係を考えるなら、その後の首都発展の可能性の面でも、一乗谷より遥かに北の庄に対する経済的優位性は高かったと言えよう。

(注10)北の庄
現・福井市

福井の舟運と九十九橋周辺の都市空間

足羽川に戦国期以来架かっていた越前で最古の大橋・九十九橋の北側には、柴田勝家が町割りを行った旧市街地が広がつている。越前の国内諸方面への里程の起点もこの橋のたもとにあり、そこから北陸道に沿って京町・呉服町といった大店の町家が並んでいた。呉服町と片町の両通りの間には、南から浜町・本町・米町・伝馬町・魚町・一乗町・長者町・板屋町・紺屋町・柳町が東西に走り、呉服町の西側にも木町・塩町・夷(えびす)町などがあって、同業の職人や商人が集住する城下町特有の都市空間を形成していた。これらの町人地の中に魚や青物を扱う市場があった。

福井の魚市場は城下の中央の繁華な場所に、300年以上もあった。青物市場も魚町の隣の米町にあって、同じような歴史をたどってきた。これらの市場が九十九橋近くの中心に位置し続けた背景として、城下町建設以前にあった「三ケ庄」の存在があげられる。町場の人々に魚や野菜を売る市場的な存在があったのである。三国湊との舟運関係で見れば、北国街道と交差する九十九橋周辺は市場を成立させる格好の土地だ。

現在、魚市場は田原町市場への移転を経て、1974(昭和49)年福井郊外に移転している。そのため、旧魚町には魚市場の面影はほとんどないが、そこに住んでいる方に話を聞くと、市場関係の人達が今でもずっと住み続けている場合が多く、町の機能が大きく変化してきた中で、地域の人々のコミュニティが変わらずに生きている場所だという。

九十九橋を挟んで城の反対側には、江戸時代から遊興空間があり、足羽山西麓の誓願寺町(現足羽1丁目)には、芝居役者や芸娼妓稼業の者が住む城下唯一の遊廓があった。その後、遊廓は1885(明治18)年に九十九橋の南詰西の足羽川沿いに移転し、さらに大火で類焼したために栄町に移転して栄遊廓となった。九十九橋附近は、近世から近代を通じて物流・遊興・市場が集まる繁華な場所で、橋詰めには市街のランドマークとして時を告げる時鐘櫓(じしょうろう)も設けられていた。このように九十九橋周辺には都市の様々な要素が集中していたが、足羽川に面し今は料亭街になっている浜町には、船の発着所が設けられ、三国と結ぶ足羽川舟運の重要な役割を果たしていた。

福井平野を流れる九頭竜川流域は、本流も支流も舟運が盛んであった。なかでも、最も利用度の高い流路は三国―福井間で、昼夜の別なく舟運の便があった。近世の三国湊には川船が30艘前後あって三国―福井間をはじめ九頭竜川舟運で活躍していた。川舟が扱う幕末頃の主な商品には、繰綿・木綿・生蝋・晒蝋・鰹・鉄鋼・砂糖・蜜など加工材料から日用品まで様々な種類にのぼり、三国から川舟で運ばれてきたこれらの商品は九十九橋下まで運ばれ、市中で売りさばかれ、あるいは周辺の農村へ運ばれた。また、周辺で生産される米などの産品も、九頭龍川流域に発達した舟運網を使って、街道筋などの主要な場所につくられた河戸を中継して、三国湊に運ばれていた。

  • [28]九十九橋周辺のにぎわい

    [28]九十九橋周辺のにぎわい

  • 魚町時代の魚市場風景 (福井市、昭和25年頃)

    魚町時代の魚市場風景 (福井市、昭和25年頃)

  • [29]現在の旧魚町水との結びつきを記憶にとどめる。

    [29]現在の旧魚町水との結びつきを記憶にとどめる。

  • [30]河岸の蔵並みと近代化のシンボルとして建てられた旧三国小学校(明治期)

    [30]河岸の蔵並みと近代化のシンボルとして建てられた旧三国小学校(明治期)

  • [31]市民に時を告げる時鐘櫓が見える明治初年の浜町通り

    [31]市民に時を告げる時鐘櫓が見える明治初年の浜町通り

  • [28]九十九橋周辺のにぎわい
  • 魚町時代の魚市場風景 (福井市、昭和25年頃)
  • [29]現在の旧魚町水との結びつきを記憶にとどめる。
  • [30]河岸の蔵並みと近代化のシンボルとして建てられた旧三国小学校(明治期)
  • [31]市民に時を告げる時鐘櫓が見える明治初年の浜町通り

港(湊)町三国の都市構造の変化 ―九頭竜川河口に成立した港町―

越前の海岸は、古くから北辺の蝦夷経略の基地として重要な地位を占めていた。海路水軍が頻繁に使われていたからである。その核となる湊が九頭龍川河口であり、三国湊もその一端を担っていたと考えられる。さらに越前国は日本海を隔てて、満洲や朝鮮半島北部など、大陸との交流もあった。高句麗の日本への朝貢は、新羅・百済と同じく筑紫を経由するのが原則だったようだが、八世紀に入って渤海との通交が行われるようになって、むしろ日本海側を横断するコースが一般的にとられるようになった。

奈良後期に三国湊が史上に登場するのは、京畿の後背地として越前平野の開発が進み、東大寺等の荘園米の積出港としての機能を発揮するようになってからである。平安後期には九頭竜川下流域に奈良興福寺兼春日社領河口庄が、さらに鎌倉後期になって同じく坪江庄が成立すると、三国湊は坪江下郷に属し、両庄の荘園年貢物の積出港として繁栄していった。

その後、1306(嘉元4)年に津軽船といわれる廻船が寄航したり、くだって朝倉時代には唐船が来航するなど、中世の三国湊は国の内外を問わず、かなり広域の舟運ネットワークをすでに持っていた。こうした舟運のネットワークを通じて、中世の三国湊では日本海沿岸の直江津・博多・敦賀・小浜とともに早くから問丸が発達していた(注11)。国内商業が発達し、三国湊における船舶による物資の集散が頻繁化するに従って、物資を取り扱う問屋に発展していく。三国湊は1596〜1623(慶長・元和年間)年以降、西廻海運の航路が少しずつ充実していくなかで、北前船が出入りする「北国七湊」の一つとして繁栄を迎えた。さらに江戸時代の三国は、福井藩の外湊として、北国諸藩の運輸業務を請け負って、大いに活躍した。

福井藩は財政面で三国湊をきわめて重要視し、厳重な統制・監視下においていた。一方で、経済に貢献する三国湊の役割が大きければ大きいほど、藩財源の確保と増大を図って、福井藩は湊の特権を保証していた。こうした藩の「アメ」と「ムチ」の政策のなかで、三国はますます繁栄していった。三国湊の船は、日本海沿岸や蝦夷地ばかりでなく、瀬戸内海や九州方面にまでも進出し、運ぶ荷物の種類は200種を超えていた。

(注11)
中世の港で発展した問丸は、最初荘園物資の輸送から倉庫保管および販売の業務を担当していたが、鎌倉時代末期には庄園領主との隷属関係を断ち仲介輸送業者として独立し、中には為替業や宿屋業を営むものもでてきた。こうした問丸を媒介として遠隔地商業が展開していった。

舟運から読む三国の都市構造

九頭竜川河口の三国は、川沿いの僅かな平坦地とその背後に広がる丘陵地とで構成される地形の上に成立した。

中世における三国湊の町づくりは、鎌倉後期に丘陵地に広がる荒野の開拓が進む一方で、竹田川に面した平坦地に集落がつくられていく。三国湊は、中世から近世にかけて3つの段階を経ながら、蔵が川に沿って連続する独特の都市景観をつくりだした。

最初の町づくりは、三国神社やこの町で最古の歴史をもつ千手寺(天台宗)、性海寺(真言宗)の二大密教寺院を中心に、竹田川上手の岩崎町から下手の西町までの範囲で行われた。この段階では、川の流路に沿って蛇行し、自然の微地形にあわせるように町がつくられている。

第二段階のまちづくりは、1644(正保元年)年頃までにはほぼ完成しており、西光寺(浄土宗)を中心とする松ヶ下町から川下に新町が形成された。新町はさらに発展して元新町と下新町に分れた。

1648(慶安元年)年、元新町より川の下手に、木場町が日和山を崩して成立した。一方、丘陵部の農地が宅地化されて上新町が形成され、これまで松ヶ下町にあった遊廓もこの上新町に移転する。こうして1645(正保2)年から四半世紀余の間に元新町・木場町・上新町と拡大し、三国湊の商業活動の中心もより河口に近い新しい町に移っていった。

第三段階に入ると、三国は、九頭竜川河口に向って帯状に伸展する。江戸中期の1717(享保2)年には、河岸の砂地が埋立てられて今町が成立すると、元新・下新・今・木場の各町がつながり、九頭竜川に沿って連続する蔵並みが形成された。一方、丘陵上の上新町のまわりには、寺社をとりこみながら新たな町がつくられた。第二、第三段階の町づくりでは、第一段階の自然発生的な町の形態に比べ、直線的な通りを軸とする計画的な市街地がつくられた。

江戸中期頃、川沿いの下タ町には問丸・庄屋・地方庄屋・舟庄屋という支配構造下にあり、船着場・荷揚場がつくられ、直接港に関わる酒屋・油屋・米屋などの問屋商人、町役人を務める豪商が住む三国湊の中心的な街区が形成された。このように港の繁栄に伴って、市街は河岸に沿い下流へ伸びていったが、そこには丸岡領の滝谷があるため、背後の丘陵上へ拡張しなければならなかった。丘陵部につくられた町には、川沿いの町とは対照的に、別系統の上新町庄屋が置かれ、小売商人や職人が数多く居住し、港湾機能を背後から支える人たちの活動の場となっていた。さらに、港の繁栄とともに歓楽街もより盛んになり、初期には湊の西端の松ヶ下あたりにあった遊女の住居場所は、湊が西へ西へと延びるにつれ、町の周縁へと移動した。万治から宝永年間にかけて形成された上新町に牛頭天王宮が移されると、その周囲に遊廓街が形成された。三国湊の繁栄のバロメーターのように、上町一帯は遊興空間としてのにぎわいを増していった。

こうした三国の都市空間には、出入口があった。川上側の四日市町、および川下側の滝谷出村境にある平野町、そして山側の北東方面に伸びた平野口町に木戸が設けられていた。一方、川沿いの滝谷出村境の木場町には川口番所(口留番所)が置かれ、この3 所の木戸と川口番所が外との境になり、三国湊の領域をはっきり示していた。

福井の城下町の外港である三国湊には、特に藩と関連する各種の施設が置かれていた。まず、九頭竜川と分流の竹田川との合流点付近にある上ミ町には、藩の蔵が建ち並び、また1643(寛永20)年に幕府が異国船改めのための番所の設置を命じたのを受け、滝谷地境に川口番所が建設された。幕末の1861(文久元年)年には下新町に運上会所がつくられた。その他にも、三国湊には藩の公的な施設が随所に置かれ、福井藩がいかに港町・三国を重要視していたかがうかがい知れる。

近世三国の都市構造

近世三国の都市構造
これらの地図は、建設省国土地理院長の承認を得て、同院発行の空中写真を複製したものである。(承認番号 平11総複、第178号)

九頭龍川沿いの町並みの特色

三国には、妻入から発展したとみられる未完成の平入建物が多い。すなわち、切妻々入平家建ての前方に庇がついた形の建物である。その後、通りに面する前方の屋根がしだいに発展して二階建となり、正面が完全に平入の形式をとる建物が多くなっていく。前者の「葺下(おろ)し下屋」がついた建物は一般の民家に多く、後者の「カグラ建」と言われる建物は商家に多くみられる。「カグラ建」はとくに川方の問屋の建築に多くみられ、商家の格式の高さを示しており、三国独特の都市景観を演出する重要な要素となっている。

三国では、母屋の間口は四〜五間が一般的で、奥行きは町が出来た年代や場所によって様々である。一階はみせ・おえ(居間)・ざしき、二階はざしきとなる平面プランが町家の典型として一般的に見られる。川沿いに建てられた町家の平面構成を、江戸時代に米や雑貨を商っていた坂井家を例にとり、もう少し詳しく見てみよう(下図「坂井家の建物内部の空間構成」参照)。では、まず通りに面して「カグラ建」の主屋が建てられ、その後方に「せど」と言われる中庭をつくる。この中庭を挟んで「くら」(土蔵)が建てられ、さらにその奥の川沿いに「にぐら」(荷蔵)を設けている。このように奥行きの長い短冊型の宅地に、縦に主屋・土蔵・荷蔵を配列する形式は、京都の通庭(とおりにわ)式の町家ともよく似ている。そして海陸の荷物運搬のため、土間の通路が川から通りへ突き抜けている。石を敷き詰めた土間の中央部分が窪んでいるので当主にたずねると、廻船問屋の時代に荷を担いだ人々の行き来ですり減ったとのこと。ここにも活気に満ちた時代の証が生きていた。坂井家の他にも数件の建物内部を見せてもらったが、その体験で驚いたのは、便所の脇や庭の片隅にさり気なく「水琴窟(すいきんくつ)」が置かれていたことだ。多くはすでに音がしなくなっているが、幸いにも宮本家の「水琴窟」は健在で、透き通る張り詰めた音を堪能でき、歴史が培った都市文化の響きを共有することができた。

川から見た近世の三国は、九頭竜川沿いに連続する無数の蔵をもち、舟運によって成熟した日本の湊町の典型的な景観をつくりだしていた。蔵が並ぶ河岸に川舟や導舟などが着くと、荷は仲仕の手で蔵に搬入された。廻船があつまる季節は春から秋にかけてであり、なかでも廻米船が出入りする3月から5月は三国が物や人で溢れ、もっとも活気のある時期だった。そして夏になり、蝦夷地産の魚肥が大量に入港すると、三国の河岸は再び大変な賑わいをみせたのだ。

  • 坂井家の建物内部の空間構成

  • 宮本家の建物内部の空間構成

    宮本家の建物内部の空間構成

  • 宮本家の建物内部の空間構成

物流・産業施設の変貌

三国には、森田家と内田家という二つの大廻船問屋があった。森田家は1619(元和5)年に、加賀藩主前田利光の藩米輸送を任命され、船五艘に限り諸浦へ自由に出入りすることを許された廻船問屋である。その後加賀藩との関係は、白山の帰属をめぐる対立もあって一時停滞したが、幕末から明治にかけて再び大廻船問屋に発展する。一方、内田家は、1760(宝暦10)年に福井藩の御内御用達商人に任命されてから、三国湊の大廻船問屋に成長した。しかし明治に入って、江戸時代に活躍した森田家と内田家は対照的な経緯を辿ることになる。

三国湊は明治維新によって、それまで保持していた種々の特権を失い、決定的な打撃をうけた。明治政府は、国内の統一を推進し、産業を振興させるための、まず国内市場の形成を阻害していた封建的諸制限の撤廃に全力を傾けた。

こうした処置は、封建的な特権の上にあぐらをかいていた町人にも大きな影響を与えずにはおかなかった。福井藩ともっとも関係の深かった御用商人の中には、藩主に貸付けた金が返済されず、倒産する者が少なくなかった。

宿場町と違って人為的につくられた町ではなかっただけに、三国が衰退していく過程は比較的緩やかであったが、明治中期、小松まで北陸線が開通したことにより、三国港の持つ役割は完全に失われた。交通体系は、中世以来主流だった、三国を中心とした海運から、北陸線を中心とする陸運にかわった。港の衰運は、この町にとって大きな打撃となった。商業や廻船業の衰退のみにとどまらず、町全体から活気を奪い取った。

廻漕業は1880(明治13)年頃まで好景気を保った。だが、1883(明治15)年に至って物価が大暴落し、廻漕業者も大打撃を受けた。松方デフレーションの波は三国へも遠慮なく襲いかかった。船持で富豪の内田周平家は、このデフレーションのため一朝にして倒産し、内田家が所有していた廻船は次々に売却された。日本の興隆期の中で内田家の他にも、廻船を営んでいた多くの商人たちが明治・大正期を通じて没落している。その頃、越前屈指の豪商・森田家は、酒・醤油醸造と船問屋を営み、1894(明治27)年には銀行業に転換している。現在の森田家の建物には、江戸、明治と激動の時代を乗り切った記憶が残されている。川から荷を運び入れるための地元産の笏谷石(しゃくやいし)で敷き詰められた通路や奥行の長さを誇る醤油蔵が、当時の繁栄ぶりを物語っている。

森田家の他にも、明治になって廻船問屋から紙商や金融・農園に転業して、没落を免れたケースが見られる。しかし時代が下るに従って、海運の中心が日本海から太平洋にうつり、船舶の構造が帆船から汽船に変わったことで、大汽船の来航に不適当な三国港は、国内沿岸航路の小さな港に転じ、さらに漁港としてとり残されていった。

森田家の建物外部の空間構成
森田家の建物外部の空間構成

森田家の建物外部の空間構成

戦後における町並みの変容

明治中期以降、全国に鉄道が敷設され、物流の構造自体が大きく変化するなかで、三国の都市機能も様変わりせざるを得なかった。しかし、第二次世界大戦で空襲にあうこともなく、昭和20年代までの三国は、前近代の舟運による繁栄で築きあげられた港町の都市形態をほぼそのままの形で保持していた(下図参照)。

明治中期以降、鉄道が三国の都市機能を根底から変え、港に関係していた船問屋や北前船が行き来する物流の中継をした問屋などは商いをやめ、建物の多くは単に居住空間としてのみ使われるケースが次第に増えていった。 戦後の高度成長期を迎える頃、漁港を中心とする単なる一地方都市となった三国にも、自動車交通の波が容赦なく押し寄せた。新たな道路が、複雑に細かく敷地割りされている町のなかを避け、舟運機能を失った川沿いに建設された。

道路建設で川と蔵を結ぶ河岸の姿は失われたが、さいわいにも、蔵や町家が連なる三国の個性ある町並みが切り取られることはなかった。昭和20年代はじめと川沿いの道路が建設されて間もない昭和37年の航空写真を見比べてみても、ほとんど変化がないことがわかる。

だが、川沿いに道路ができたことによって、それに面して隙間を埋めるように倉庫や一般住宅が建ちはじめ、ある意味では通りの顔が徐々に生まれているともいえる。

高度成長期のさなかの昭和30年代後半から昭和40年代にかけては、通りに面する母屋の建て替えが行われはじめる。連続して建ち並ぶ伝統的な建築で構成されていた町並みは、歯抜け状態になっていく。

だが、この三国の町並みが最も急激な変化を遂げるのは、ここ20年のことである。古い道の側でも、川沿いの新しい道側でも、建て替えが進むと同時に、伝統的な建物を壊して駐車場のための空地がとられる。これはなにも、三国だけの現象ではない。近世以前から続く伝統的な町にも、近代以降に成立した町にも、同じように自動車が入り込む。そして駐車場という無表情な空地が前近代の舟運による歴史的な都市の中心部を空洞化していくのである。

戦後における酒井家周辺の町並みの変容

坂井家周辺の一ブロックにおける戦後の建物の変化を見ていくことにする。戦災に遭わなかった三国は、戦後まもなくは舟運で華やかだった江戸や明治期の建物がそのまま残されていた。その後、川側に道路が通り、河岸機能は失われ、残された蔵のいくつかは居住空間として建て替えられる。だが、道側の母屋は1960年代まで建て替わらずに残っていた。その後、表の通り側の母屋も次第に建て替えられていき、この20年の間には、表の通りも川側も、建て替えが急増していった。しかも、車社会を迎え、駐車場にするための空き地化や蔵の駐車場化が見られるようになる。日本の他の町に比べて、町並みとしての歴史的景観は良好に残されているとはいえ、今後も建て替えが徐々に進行することが予想される。

戦後における酒井家周辺の町並みの変容

戦後における酒井家周辺の町並みの変容



フィールドワーク I 江戸・佐原・仙台

利根川流域に成立した多くの河岸は、江戸を核とした舟運ネットワークの形成を背景に、都市として発展、成熟していった。なかでも、利根川舟運の重要な河岸であり、周辺地域からの物資集散の基地でもあった商都・佐原に着目し、舟運 で生きた都市構造の変容を描きだした。

次に、東廻り海運で最も江戸と関係が深かった仙台藩に目を向け、仙台藩の外港・石巻と城下町・仙台の関係を読みとりながら、石巻を媒介とした江戸と仙台の舟運と都市の構造 的な関係を明らかにしている。

  • [2]近世石巻の都市構造(絵図に描かれている水辺の都市施設の配置を調べることで、港町、石巻の都市構造が明らかになる。)

    [2]近世石巻の都市構造(絵図に描かれている水辺の都市施設の配置を調べることで、港町、石巻の都市構造が明らかになる。)

  • 左:佐原川からの荷揚場が随所に造られていた
    中央天保江戸絵図 江戸は掘割が めぐる“水の都”であった。[4]
    右:東京昭和地図 戦前まで“水の都”の性格が受け継がれている。[3]

  • [2]近世石巻の都市構造(絵図に描かれている水辺の都市施設の配置を調べることで、港町、石巻の都市構造が明らかになる。)


フィールドワーク II 大坂・伏見

大坂では、中之島を中心に各藩の蔵屋敷が建ち並び、堂島に全国から集まる米の市が立って、全国の経済に強い影響を与えていた。まず舟運を基軸として成熟していった商都・大坂の都市構造を明らかにした。舟運のネットワークの視点からは、淀川筋にあって、京都―大坂の物流の重要な物資の中継都市であり、広い意味で京都の外港でもあった伏見に着目し、どのような経緯をたどって川湊としての繁栄を迎えてきたのかを解きあかした。一方、大坂に集まる米の量からすると金沢藩が有名であるが、ここでは広島藩の蔵屋敷と瀬戸内舟運の重要な港町・尾道、その尾道を外港としていた広島藩という関係を掘り下げ、瀬戸内に面する城下町・広島がどのように都市の水文化を築いてきたのかを探っている。

フィールドワークの時には、古地図、都市の名所絵、明治の写真を持って今の町を歩くと“水の都”の構造が受け継がれていることがよくわかる。そうした水辺の空間が今も都市の魅力を生んでいる。

フィールドワーク II 大坂・伏見

フィールドワーク II 大坂・伏見



フィールドワーク III 一乗谷・福井・三国

中世から近世への変化のなかで、三つの異なる都市像をもつ一乗谷・福井・三国が九頭竜川という河川の舟運のネットワークを通して、どのように変容し、成熟し、あるいは消滅していったのかを探っている。一乗谷では、深い谷に包まれた中世城下町特有の都市のコスモロジーをつくりあげていたことを描きだし、閉ざされた中世城下町の外に位置する川湊の存在に着目し、三国との関係も含めて舟運を中心とした物流構造を明らかにしている。

近世になって越前の首都は、一乗谷から開けた平野の福井に移る。福井は一乗谷以上に港町・三国と舟運で深く結びつくことで都市文化を花開かせた。中世から近世に社会が変容するなかで、三国は依然として九頭龍川流域の物流拠点であったと同時に、北前船の寄港地である港町としてより一層の発展をとげた。三国に関しては、都市構造を明らかにしつつ、ここを舞台にして展開した舟運による都市間ネットワークの意味を探っている。

フィールドワーク III 一乗谷・福井・三国

フィールドワーク III 一乗谷・福井・三国



フィールドワーク IV 酒田−大石田

江戸時代になり、東北地方では河口港町を基軸に、河川流域の舟運が盛んになる最上川の舟運に注目し、流域舟運のネットワークと日本海沿岸に成立した海域航路とがどのような関わりがあったかを示している。 

ここでは特に舟運と深く結びついて成立した都市に光を当てている。最上川流域の河口に位置する港町・酒田と中流域に位置する中継港として栄えた都市・大石田を取り上げ、最上川の舟運で栄えた二つの都市の成立・発展・成熟の過程を描きだす。

下図は、中世以前に形成された大石田の都市空間を構成する重要な都市軸である道と、都市の核となる寺社と湊の位置をプロットしてある。大石田が近世に入って南北を軸とした道と最上川が交差する点的な町から、最上川沿いに平行して都市が発展してきた経緯が読み取れる。

フィールドワーク IV 酒田-大石田

フィールドワーク IV 酒田-大石田



フィールドワーク V 瀬戸内海沿岸の港町・城下町

古代から舟運の重要な道であった瀬戸内海を取り上げる。瀬戸内海は、古代・中世の京都と中国を結ぶ交易の重要なルートであり、近世に入っても朝鮮使節団が瀬戸内海の港町を辿って来日した。西日本では舟運に適した河川がほとんどないために、海に直接面して成立する港町の存在が重要視され、海道沿いには古くから都市として独立した港町が成立していた。その主な都市として鞆(とも)、尾道、室津などがあり、これらの港町を中心に都市成立の特性を他との比較を交えて分析している。同時に高松、松山など、港機能と一体化した城下町の存在も見のがせない。これらの都市が、瀬戸内海海域の舟運構造によって港町を取り込みながらどのような都市構造をつくりだしたのかを探っている。

  • 鞆城跡から望む鞆の町並み

    鞆城跡から望む鞆の町並み

  • 近世の港町の構造を残す大雁木

  • フィールドワーク V 瀬戸内海沿岸の港町・城下町

    近世に作成された地図と現在の風景を重ねあわせることによって、近世以前から港町として成立していた鞆の都市構成を浮かびあがらせている

  • 鞆城跡から望む鞆の町並み
  • 近世に作成された地図と現在の風景を重ねあわせることによって、近世以前から港町として成立していた鞆の都市構成を浮かびあがらせている

おわりに

日本の都市の多くは、川沿いや海の水辺につくられ、舟運を生かしながら経済的な繁栄を実現した。水の空間は、経済・流通の軸だったばかりか、文化を育み、美しい風景をも形成して、まさに豊かな都市環境をつくり上げるのに欠かせない存在だったのである。

だが、近代に物流の手段が舟運から鉄道、そして自動車に切り替わると、河川や堀割の意味がすっかり忘れられ、単に防災への配慮から高い防潮堤がつくられ、また道路が水辺に貫通した。そして機能性、生産性を追求する都市づくりが一貫して進められたが、かつての水辺がもったような心地よく、また美しい空間を生み出すことは、きわめて難しかった。どこの都市にも車が溢れ、便利になったが、個性や潤いが失われた。

しかし、経済発展を遂げ、豊かな時代を迎えた今日、再び人々の環境を見る目が変わり始めている。観光のための水上バス、クルージングばかりか、実用を前提とした水上交通の復活を目指す動きも見え始めている。交通渋滞を招く陸上交通を補って、快適な舟運が再びある役割を担う可能性も十分にありうる。

また、かつての舟運の機能が完全に失われたとしても、河川や堀割・運河、そして海の水辺空間が、人々にとっての今日的な意味を様々な形でもっていることは言うまでもない。大きな広がりをもった空間は人々の気持ちを開放し、また都市風景にとっての象徴軸となる。近代の都市計画では生み出させない大きな価値をもっている。だが、近代化の過程で、我々はそのことをすっかり忘れてきた。歴史のなかで舟運と結びついて形成された水の空間全体の構造と、それがもったあらゆる価値を再発掘することが今、求められているのだ。

水と結びついた町のかつての姿を知り、場所にこめられた本来の意味を理解すると、人々はそこに愛着をもてる。都市の記憶はそこに住む人々の心を豊かにする。水辺の空間がまた市民の生活の中で、意味をもち始める。そんな動きが各地に生まれるきっかけとなることを我々の研究はめざしている。

◎各地のフィールド調査では多くの方々にお世話になった。福井では、旧魚町に住む間俊之氏から当時の魚市場の話を聞かせていただいた。三国では、森田家、宮本家、坂井家の方々に建物内部を見せていただくとともに、かつての使い方に関する様々な話を伺えた。大石田では、地元に深く入りながら調査・研究をされている東北芸術工科大学の温井亨氏に大変お世話になった。酒田では、酒田市立光丘文庫文庫長の高瀬靖(きよし)氏のご好意で貴重な絵図や写真を接写させていただいた。これらの方々に、この場を借りてお礼申し上げたい。

主な参考文献

■ 主な参考文献
  • 小野正敏著『戦国城下町の考古学 一乗谷からのメッセージ』講談社選書メチエ、1997年
  • 小出博著『利根川と淀川』中公新書、1975年
  • 高橋康夫 吉田伸之 宮本雅明 伊藤毅編集『図集日本都市史』東京大学出版会、1993年
  • 高橋康夫・吉田伸之編『日本都市史入門・町』東京大学出版会、1990年
  • 太陽コレクション『城下町古地図散歩1 金沢・北陸の城下町』平凡社、1995年
  • 中國新聞社編『広島城四百年』第一法規、1990年
  • 三国町史編纂委員会編『修訂 三国町史』国書刊行会、1983年
  • 三国町百年史編纂委員会『三国町百年史』三国町、1989年
  • 三国町教育委員会『三国町の民家と町並』三国町教育委員会・三国町郷土資料館、1983年
■ 引用絵画・写真
  1. 新版大坂之図・明暦年間(古地図資料出版より)
  2. 石巻絵図(東北大学蔵、「石巻の歴史」第九巻付図より)
  3. 模範新大東京全図・昭和8年版(古地図資料出版より)
  4. 天保江戸図・天保年間(古地図資料出版より)
  5. 吉田東伍・蘆田伊人『大日本読史地図(復刻版)』冨山房、1980年
  6. 小尾保重「新潟真景」(『江戸時代図誌13 北海道2』筑摩書房、1977年)
  7. 守住貫魚「全国名勝絵巻」(『江戸時代図誌20 山陽道』筑摩書房、1976年)
  8. 寛永長崎図(『江戸時代図誌25長崎・横浜』筑摩書房、1976年)
  9. 大洲城及付近侍屋敷図(『太陽コレクション「城下町古地図散歩6 広島・松山・山陽・四国の城下町」』平凡社、1997年)
  10. 大坂実測図・明治23年、内務省地理局(柏書房)
  11. 高松城および城下町絵図屏風(『太陽コレクション「城下町古地図散歩6 広島・松山・山陽 ・四国の城下町」』平凡社、1997年)
  12. 松前屏風、松前町郷土資料館蔵(『太陽コレクション「城下町古地図散歩8 仙台・東北・北海道の城下町」』平凡社、1998年)
  13. 『写真で見る大阪市100年』(財)大阪都市協会、1989年
  14. 天満青物市場の図、大阪市立博物館蔵(『太陽コレクション「城下町古地図散歩4 大阪・近畿[1]の城下町』」平凡社、1996年)
  15. 『写真で見る大阪市100年』(財)大阪都市協会、1989年
  16. 『写真で見る大阪市100年』(財)大阪都市協会、1989年
  17. 淀川下流域の河岸、「大川便覧」所収、大阪城天守閣所蔵(『太陽コレクション「城下町古地図散歩4 大阪・近畿[1]の城下町』」平凡社、1996年)
  18. 『写真で見る大阪市100年』(財)大阪都市協会、1989年
  19. 八軒家船着場(『江戸時代図誌3 大阪』筑摩書房、1976年)
  20. 『写真で見る大阪市100年』(財)大阪都市協会、1989年
  21. 『写真で見る大阪市100年』(財)大阪都市協会、1989年
  22. 蔵屋敷、「浪華百景」所収、国立国会図書館蔵(『太陽コレクション「城下町古地図散歩4 大阪・近畿[1]の城下町』」平凡社、1996年)
  23. 『写真で見る大阪市100年』(財)大阪都市協会、1989年
  24. 雑魚場、「浪華百景」所収、国立国会図書館蔵(『太陽コレクション「城下町古地図散歩4 大阪・近畿[1]の城下町』」平凡社、1996年)
  25. 福井県立一乗谷朝倉氏遺跡資料館編『一乗谷』1981年
  26. 福井県立一乗谷朝倉氏遺跡資料館編『一乗谷』1981年
  27. 福井県立一乗谷朝倉氏遺跡資料館編『一乗谷』1981年
  28. 福井江戸往還図屏風(部分)(福井県立博物館『川の生活誌』1991年)
  29. 『創立90周年記念誌魚紋』福井魚商協同組合、1979年
  30. 三国町郷土資料館蔵
  31. 『創立90周年記念誌魚紋』福井魚商協同組合、1979年
  32. 鞆町絵図、沼名前神社蔵(『江戸時代図誌20 山陽道』筑摩書房、1976年)
  33. 越前三国湊風景之図・慶応元年(部分)、三国郷土資料館蔵(福井県立博物館『描かれた越前若狭―江戸時代の絵図―』」)
  34. ベース地図は『三国町の民家と町並・付図3 明治初年・三国町の住人と職業』
  35. 三国町教育委員会『三国町の民家と町並』三国町教育委員会・三国町郷土資料館、1983年
  36. 三国町教育委員会『三国町の民家と町並』三国町教育委員会・三国町郷土資料館、1983年
  37. 三国町教育委員会『三国町の民家と町並』三国町教育委員会・三国町郷土資料館、1983年
※ 航空写真は国土地理院で制作したものである。

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