機関誌『水の文化』13号
満水(まんすい)のタイ(タイランド)

満水のタイ写真紀行

左から、ロッブリーのピックアップバス、アユタヤーのミゼットタクシー、新交通システムBTS、バンコクの路地に積まれた土嚢。トゥクトゥク、ボート、飛行機、等々、タイの多様な交通機関にお世話になった。

左から、ロッブリーのピックアップバス、アユタヤーのミゼットタクシー、新交通システムBTS、バンコクの路地に積まれた土嚢。トゥクトゥク、ボート、飛行機、等々、タイの多様な交通機関にお世話になった。

20世紀初頭のバンコク市内を流れるチャオプラヤー川、手前がトンブリー、向こう岸左が王宮。浮き家が、中央から右側へびっしりと何層にも並んでいる。 右奥の川が蛇行した先には、大型船舶が3隻ほど停泊しているのが見える。Pipat Pongrapeeporn Panorama of BANGKOK in the reign of King RAMA IV SAMNAK PHIM MUENG BORAN, 2001より

20世紀初頭のバンコク市内を流れるチャオプラヤー川、手前がトンブリー、向こう岸左が王宮。浮き家が、中央から右側へびっしりと何層にも並んでいる。右奥の川が蛇行した先には、大型船舶が3隻ほど停泊しているのが見える。
Pipat Pongrapeeporn Panorama of BANGKOK in the reign of King RAMA IV SAMNAK PHIM MUENG BORAN, 2001より

雨期が終わった11月のバンコクは、気温も低くなって、ようやく過ごしやすい季節を迎える。つまり、夜寝るときにクーラーを入れる必要のない気温になってきているのだが、タイの人たちは寒い寒いと言ってジャンパーを着込んでいる。それもそのはず、ホテルやレストランでは、空調の温度設定が20度を少し上回るぐらい。とてもじゃないが、凍えてしまう。
前回訪れたのは、3月の末。その時期は40度近い熱暑で、朝昼晩のシャワーは欠かせなかったが、タイの人たちは、平均1日5回の水浴びが当たり前だという。だから狭い乗り合いバスで肌が触れても、サラッとしているし体臭さえ感じさせない。スーパーマーケットの歯磨粉、石鹸売り場が充実しているのもうなづけるというものだ。が、タイ王朝が栄えたスコータイに近いピッサヌロークを訪れたときには、びっくりするものと出会った。
それは、チャオプラヤー川の上流、ナーン川に浮かぶ浮き家だ。

編集部

トタン屋根の浮き家

ピッサヌロークには、まだ40軒ほどの浮き家が2つの大きな橋をはさんで転々と並んでいる。下流に向かって左側は護岸工事が施された場所が多く、浮き家はその反対側の右側に取り残されたようにあるのだが、その暮らしがなくなってしまうのも、そう遠くない話のようだ。

20世紀初頭に撮影された写真を見ると、川いっぱいに浮き家が並び、家と家との間には人工地盤ともいえる桟橋が張り巡らされている。タイの伝統的な尖った妻壁を持ち、屋根は板や藁が葺かれている。その藁葺き屋根も、現在は茶色く錆びたトタン屋根にとって代わられている(さぞかし雨音がうるさいと思うのだが)。

しかし屋根の素材自体が板や藁からトタンに変わっても、藁葺き屋根は浮き家以外の建物にまだ見ることができる。それは、建物とも呼べないような代物なのだが、昼寝用のスペース、サーラー(写真B)だ。竹をヒモで組合せたフレームに、藁の束を括りつけたものが載せられている。かつて浮き家の屋根を葺いていたスタイルも、写真をみるかぎり、これとごく近いものと想像できる。日本の茅葺き(これも茅不足から、藁葺きに変わりつつあるのだが)とは趣きがずいぶんと違う。厚さ、密度、結索方法、仕上げ方、どれを取ってみてもまったく違う。雪の重みに耐えなくてもいいというだけでも、屋根自体の構造、部材の大きさなどなど、違っていて当然なのだ。

屋根だけではない。壁は、筵(むしろ)と言ってしまっては失礼かもしれないが、竹の皮を網代(あじろ)に編んだもので造られている(写真A)。もちろん、板壁やトタン壁もあるのだが、とにかく「軽く」がテーマである。床を水面から15~30cmほど浮かせるための浮力は、竹の束を水中に沈めることで作り出しているのだから、うわものはできるだけ軽いことが第一条件なのである。

軽くてもすんでしまうのには訳がある。実はタイにはほとんど風が吹かない。だから軽くすることを最優先できるのだ。インドシナ半島の西側、チャオプラヤー川を中心としたデルタ地帯には、台風が来ない。風速15mの強風圏内を持つ台風が来ないどころか、日本のような集中豪雨すらもない。もちろん例外はあるが、平均して強い上昇気流も下降気流もないのだから、強い風は吹かない。したがって雨も静かに降るのである。だから壁は網代で充分、横殴りの雨風を心配する必要はない。

ひるがえって日本の屋根はどうだろうか。普通の瓦の2、3倍はありそうな西本願寺の瓦は、1つ7kgという代物だ。瓦は耐火性に優れた屋根葺き材だが、その自重が耐風性をも生み出している。だから台風銀座とも言われる沖縄地方の住宅は、重い瓦屋根の家が伝統的に見られるのだ。

地震がなければ耐震構造が発達しないのと同様、風のない地方には耐風構造の発達はない。

  • 左:浮き家の勝手口。壁は竹を網代編みしたもの。
    右下:増改築、特に移築が多いタイの住宅。 壁と屋根仕上げ材を外したら、人力でも動かすことができる、とても軽いものだ。写真の高床式住居は、3kmの距離を運ばれていった。
    Pierre Le Roux The Journal of the Siam Society Vol.86, JSS, 1998 より

  • 左:川は画面左から右に向かって流れている。その家にとって上流側に設けた洗面所やまな板スペースも、隣接した家の下流側に設けたトイレの真向かいということになることが多い。
    右:浮き家の洗面所は上流側のデッキ。写真の奥には、まな板スペースもある。

  • 現在、庶民の住宅のほとんどは、屋根がトタンで葺かれており、昔を彷彿とさせる藁葺き屋根には出会えなかった。唯一出会った藁葺き屋根は、スコータイのある庭に作られた昼寝場所。メンテナンスの手間などを考えると、タイでさえこの規模のものが限界ということか。
    右:19世紀中頃のアユタヤー。流れの向こう側に見えるのが、竹の上に浮く藁葺きの浮き家。手前は丸屋根のボートハウスで、屋根の素材は板材と思われる。ともに建物の間には杭が立っている。
    Karl Döhring, The Country and People of Siam, Land und Volk,1923より

(もや)

船が岸壁に停泊する場合は、大きく4本の舫い綱で船を繋ぎ留める。外側に向かうように船首と船尾にそれぞれ1本ずつ、船の中央から交差するように2本とるのが、舫い方の基本である。潮の流れがある場合は、流れに従ってこの舫い方が変化していくのだが、船にとっては潮流よりも風のほうが恐いので、どちらから吹くかわからない風に対抗するためには、この基本に忠実であるべし、というのが一般的。ヨーロッパで見られるハウスボートは、そういう意味から言っても立派に船の範疇に入るのだが、タイの浮き家は、舫い方から見たら船とは呼べない。川の流れしか、浮き家にかかる力を考慮に入れていない舫い方をしているからだ。

確かに浮き家側からは、その向きが変わらないように3点ぐらいからロープを出しているのだが、そのロープを受ける川岸側は1カ所に集中することが多い。つまり3点から出されたロープは、いろいろな方向からかかる力をまったく想定せず、単に強度として3本出されているのだ。人が作った杭などの場合は、強度的に弱いので川岸側も何カ所かに分散する場合が多いが、それこそ太い丈夫な木が生えていたりすれば、本当に1カ所に集中して舫っている。ただ、ロープの長さはやはりそれなりに必要だ。川岸がすり鉢状になっているので、舫っている杭などと家との距離が遠いからだ。

船に使われるロープには大きく2種類の素材がある。一つは伸縮性のない、カーボンなどの化学繊維を縒(よ)り合わせたもの。帆を上げ、固定するためには、伸び縮みのない素材が適している。もう一つは綿に代表される伸縮性があるもの。錨と船、岸壁と船を舫う際に使われる。風の力を吸収してくれるため、大型船でも、舫いロープには巨太な綿製品が使われる。

古い浮き家の写真を見直してみると、家と家との間にそびえ立つ杭と、家を繋ぐのに短いロープが使われている。浮き家はその杭に固定されているわけだ。つまり浮桟橋と同じで、水位の変化によって上下には動くが、横には動かない。もともとの考え方は、平面的には完全に固定してしまうものなのだろう。

現代の浮き家は、長いロープと併用して、竹で河岸と家を舫っている。(写真C)竹による舫いは長さの調節ができない上に、伸縮性がないので引っ張られる力を吸収することができない。しかし、水位の上下にのみ対応できればよしと考えるのであれば、竹を利用するのも納得がいく。近年電化製品の普及で、浮き家の中にも冷蔵庫とテレビは必ずあると言っても過言ではない。屋根にはアンテナがそびえ、川岸に延びる電源コードは舫いロープと同じく調節可能な工夫が凝らされている。しかし、家の位置が動かないのであれば、本当はその必要はないはずなのだが。いずれにしても、上流方向への強風や、川岸方向からの風は有り得ないと考えなければ、この浮き家の舫い方は説明がつかないのだ。

  • Pipat Pongrapeeporn
    Panorama of BANGKOK
    in the reign of King RAMA IV
    SAMNAK PHIM MUENG BORAN, 2001より

  • 11月の初め、雨期が終わった直後のためか大量の土砂を含んだ支流がロッブリー川に合流。

  • 左:河岸の階段の横で、シャモを飼っている。上中央:軒下にあるリールに巻かれているのが、電源コード。 右上:ロープのもやいは、隣りの住宅へ行く桟橋の上を通って河岸に固定されている。
    右下:浮き家は、手前と奥の2本の竹で河岸にもやっている。中央に鳥が1羽遊んでいるが、この茶色い川には小魚をはじめとする生きものが実にたくさん棲んでいる。

ゆっくりした流れ

川の流れの速さは、秒速50cmぐらい。1ノット(時速1.852km)あるかどうかである。潮の満ち引きも、東京湾の浦賀水道で5ノットだから、それに比べれば本当にゆっくりした流れである。

風が吹かないのだから、当然波も立たない。

波といえば、バンコクあたりのチャオプラヤー川を往来する船の引き波は、激しい。しかし満潮になると堤防すれすれまで水位が上がり、船付き場の浮桟橋は、陸地よりもはるかに高くなってしまうのだが、1日2回くるこの満潮時には、船のスピードは逆にゆっくりになる。それもコンクリート護岸堤防近くでは飛ばしていた船が、水辺に民家が並び堤防がない地域に入った途端に超低速になる。この配慮はヴェネツィアの水上バスにも見られるのだが、ルール以前のモラルの問題。自らが起こす引き波の影響に心を砕く船乗りに、志の高さを見た思いだ。傍若無人に振舞う日本のプレジャーボートのスキッパーに、爪の垢を煎じて飲ませてやりたい。

この船乗りたちが活躍するチャオプラヤー川河口から標高100mのスコータイまでは、国内線の飛行機で1時間強、400km近くの距離がある。そしてその勾配は0.25/1000。日本の一般住宅の排水管は、1/1000で施工されているので、それと比べても2割強しかない。関東平野を横断する利根川で、河口から標高200mの前橋までが約200km。その勾配はちょうど1/1000である。ちなみに前号で紹介した江戸の玉川上水の勾配が3.3/1000。こう見ていくと、チャオプラヤー川の勾配はかなり緩やかなのである。

チャオプラヤー川の流れは、多くの土砂を含むため、その水色は赤茶けている。また、流域はもともと川の氾濫でできたデルタ地帯で、その流れがすべての土地を覆い尽くしてきただけあって、本当に真っ平らだ。たまに小山があるが、山頂だけが平野に取り残されて、瀬戸内海の小島のように裾野がまったくない地形をしている。人が盛り土をして高低をつけなければ、どこまでも平らだ。

その流域に降りそそぐ水量たるや、川1本や2本ではとても受け止めきれる規模ではなく、雨期後半ともなるとデルタ地帯全体が川となる。これは洪水でも氾濫でもない。河川敷きが乾期に干上がってしまい、地図上で地面とされているだけなのだと叫びたくなってしまう。

干上がってしまう河川敷きには、もちろん浮き家はない。(否、なくなってしまった)。水がないときに浮力を生み出す竹管が潰れてしまい、いざ浮くべきときに用をなさないからだ。(数は少ないが、竹管が潰れないように工夫された浮き家もあったそうだ)。そういった地域には高床式の家が建っており、その集落以外には水田が広がっている。もちろん、今では浮き家に比べたら高床式住居が一般的で、数も断然多い。ただ、床下すれすれまで水がきている高床式住居を見るかぎり、浮き家との見た目の区別はつきにくい。

このデルタ流域では、チャオプラヤー川をはじめとして雨や風、水の氾濫、そして季節の流れさえもがゆっくり流れている。そう、人を取り巻く自然環境のすべてが、ゆっくり、ゆったり流れているのだ。だから私たち日本人が考える洪水とか土石流、暴風雨、台風、津波、高波など、いつ逃げ出すか命の危険の判断をしなくてはならないような水の自然現象は、そう頻繁には起こらない。水に脅威的な要素がないのだから、水に対する危機感は生まれない。まして肥沃な土を運んできてくれる水、命の糧の源に対して、恩恵以外の感情を抱けようか。

しかしチャオプラヤー川のゆったりした流れも、人の手が加わったことによって変わってしまった。

1957年、スコータイの南170kmにあるナコーンサワンに、チャオプラヤーダムが建設された。山岳地方(北だけではなく、東、西側にもある)に降った雨がデルタを巡り、バンコクに流れ込まないように治水政策が始まり、現在も進行中だ。

このデルタ地帯ではもともと浮き稲(水かさがあるところに育つ稲で茎が長い)の栽培が主で、それは広大で肥沃な河川敷き水田に最適な品種であった。しかし、経済成長の波の中では、いかんせん収穫量が少ないものだったので、水を人工的にコントロールし、収量の多い、また短期に収穫できる品種の稲作をするために、利水としてもダム建設が始められたというわけだ。

ダムの容量一杯まではいいのだが、満タンになってオーバーフローしそうなときには、事前に放水が始まる。放水による水位の上昇、流速の変化は、浮き家が舫いロープでコントロールできる域をしばしば超えてしまう。浮き家での生活はもはや困難となり、ダムのお蔭で水の氾濫がなくなった地域での生活に移行していくことになる。それは、長い歴史の中で育まれてきた生活習慣を変えざるを得なくなること。川から陸へと移住した人たちの「浮き家の伝統は消したくはないが、仕方がない」というフレーズに返す言葉が見当たらなかった。数千年も続いたゆったりした流れが突然、急流に飲み込まれたようなものなのだろう。

  • 写真上左よりトイレ、台所。 下左より寝室、リビング。渡り板は程よくしなって、足が洗われる。

  • 左下:観光開発のひとつであるナイトバザールが、向こう岸に建設されている。ここには水上マーケットのような、水側からのアプローチが見られない。雨期直後なのに水位が乾期と変らないのは、建設作業のためにダムが水量を調節しているからだ。 この半年前には、手前のような浮き家が対岸にも並んでいたのだが、新たな村に引っ越していった。

急流もどこ吹く風

ピッサヌロークの郊外、新しい村が移住者たちを迎え入れている。番地がナーン川の浮き家集落とまったく同じ、つまり、浮き家の住人たちが引っ越してきているのだ。川ではなく道路に沿った建物群は、ブロック壁に鉄骨と合板の小屋組みを乗せたようなもの。タイの伝統を受け継いだ部分は見当らない。建物だけを見れば、同じ造りが幾つも並んだ、日本の新興住宅街と似た風景だ。ところが、その使われ方が違う。と言うより浮き家の生活スタイルがそのまま残されている。塀で囲まれていない、住宅と道路のわずかな空間にテーブルとベンチがあって、大人たちはお喋りをしている。子どもたち3人が頭を寄せてノートを広げているのも、チョット離れたところにシャモの籠があるのも、昨日、川で見たシーンと同じ。それはそうだ、簡単に生活が変るはずがない。小高く土盛りされたこの村でも、「昨年の水はここまできたよ」とおばあさん。「いざとなったら、2階があるから平気」。絶対に浸水しない家から引っ越してきた割りには、悠長な答えだ。

タイの伝統的な高床式住居に住む人たちも「昨年の水はここまできたんだ」と、家の中で踝(くるぶし)あたりに手を振り、水面をつくって見せてくれた。高床式の床高は2mを越しているのだから、踝とは言っても相当な深さになる。壁の腰高ぐらいに残る水痕を指さして訊ねると、口をそろえたように「このときは凄かった」と7年前の大洪水の話が始まる。そして「こんなことは、何度もあったんだ」と自慢話のように話はどんどん盛り上がる。「床の高さをもっと高くすればいいんじゃないの」と言っても「普段はこれで充分」との返事。「別に命がなくなるわけでもないのに、大げさだなー」とでも言いたげな顔をする。

高床の住人は、大洪水に備えて床を高くすることはしない。否、実は長い年月を経て高くしてきたのだ。床を高くすれば階段の数が増えて登り降りに苦労する。できるだけ高くはしたくない気持ちと、水に浸かりたくない気持ちのバランスが、床の高さを決めてきたはずだ。その条件の中には、7年前の大洪水に近いものもあったはずだが、そうしたケースは例外として見なされ、高さの決定には考慮されていない。私たちの感覚と比べると、仕方のないもの、と判断されるケースがとても多いようだ。

熱心な仏教徒の多いタイの人は、会うと必ず手を合わせて笑顔で迎えてくれる。分かれるときも同様で、仏の加護を祈って再び手を合わせる。失って惜しむものをほとんど持たずに、余裕の笑顔を浮かべるタイの水上生活と、守りの態勢を模索する今の日本とタイの大都市バンコク。悠々と生きるためには、例外に対して「仕方がない」と納得する度量を備えることが必要なのかもしれない。そんなことを、タイの伝統的な暮らしから教えられた気がする。

  • 左上:アユタヤーの環状水路に面した高床式住居。他はその内部写真。
    右上:正面扉についた水の痕が、左の写真より低く見えるのは、床の高さが違うからだ。
    左下:家が傾いているので、腰高に残る大洪水の痕が、奥に行くにしたがっていよいよ高くなっているように見える。

  • 浮き家に住む人たちを、まるごと移住させる計画のもとに建設中の集落。お邪魔した家には真新しい家具があり、すべての持ち物がきれいに納まっていた。床に広げる平面収納から立体収納への変化と、がらんどうの白い部屋が強く印象に残った。

    浮き家に住む人たちを、まるごと移住させる計画のもとに建設中の集落。お邪魔した家には真新しい家具があり、すべての持ち物がきれいに納まっていた。床に広げる平面収納から立体収納への変化と、がらんどうの白い部屋が強く印象に残った。

  • 家の前は勉強、シャモの世話、お喋り、昼寝など、卓袱台的な空間がごく自然に生まれていた。

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  • 家の前は勉強、シャモの世話、お喋り、昼寝など、卓袱台的な空間がごく自然に生まれていた。


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