機関誌『水の文化』16号
お茶の間力(まりょく)

雨に思えば

角山 榮さん

堺市博物館館長
和歌山大学名誉教授
角山 榮 (つのやま さかえ)さん

1921年生まれ。京都大学経済学部卒業。和歌山大学経済学部教授、同大学長、奈良産業大学教授を経て、93年より現職。 主な著書に『茶の世界史』『時計の社会史』(ともに中央公論社)、『生活史の発見』(中央公論新社)、『堺‐海の都市文明』(PHP研究所)等他多数。茶の社会史喫茶から社会を考える

最近経営学の分野に、耳新しい「ホスピタリティ(もてなし)産業」が登場して話題になっている。具体的にはレストラン、ホテル、観光業といった業種がその対象になっているが、その目的はというと、サービスの提供者と消費者の間に、たがいの信頼と忠誠の関係を構築することにあるとされる。いままでサービス産業として一括包摂されていたこれらの業種が、「もてなし産業」として分離し概念化されるようになった背景には、つぎのような事情がある。つまりアメリカ式のファーストフードに見られるように、食事や飲み物は確かに効率的に提供されるようになったが、そこにはかつて家族的経営にみられた「ふれあい」と「もてなし」のサービス精神が消えてどこかに行ってしまった。これでよいのかという反省がそこに込められているのである。一口に「ふれあい」と「もてなし」といっても、民族、宗教、風俗が違えば、もてなしの仕方、あり方が異なることはいうまでもない。私たちが日常生活でしばしば利用するのがレストランである。日本では食堂に入ると、「いらっしゃいませ」と店員がお茶を持って挨拶にくる。

私はかつて一年間の留学を終えてロンドンから帰国したとき、店員が「いらっしゃいませ」といって日本茶を持ってきたのに驚いた。「オヤ、注文もしないのにどうして、お茶が?」しかも料金がいらない、チップも不要、とあれば、いったいこのお茶は何であるのか。私は考え込んでしまった。すべてのものを商品化する市場経済が社会の隅々まで浸透している現在、商品でないこの日本のお茶は何であるのか。そのとき私が気がついたのは、このお茶は文化である、しかももてなしの文化であるということだ。

ところで、元来スムーズな人間関係の形成において、一般的に行われている手段は宴(うたげ)である。宴はふつう酒食、歌舞音曲を中心に構成される。ところがそれに代わって茶がもてなしの主役として、その地位と役割を確立したのは戦国時代、堺の千利休によってであった。利休の一期一会、和敬清寂のもてなしの哲学は、茶が抹茶から煎茶、さらに番茶に代わっても、日本では現代に至るまで日常生活の中に、食堂のサービスの中にも脈々と生き続けているのである。とすれば、日本はホスピタリティ産業の先進モデル国ではないだろうか。

それでは茶が海の向うに渡ったヨーロッパにおいて、茶は人々のコミュニケーションをどう変えたのだろうか。茶が国民的飲料として定着した英国、そこではコーヒーが男性のビジネスのためのコーヒーハウスで飲まれたのに対し、茶は女性を中心に家庭の中で茶を媒介とする家族のふれあいの生活文化を創造したのである。まず18世紀中頃に成立した朝食(ブレックファースト)がそれである。すなわちそれ以前の朝食は、家族揃って食べるのではなく、個人が個々に採っていた。バターつきのパン。それに飲み物はビールかエールに決まっていた。17世紀後半の日記作者として著名なサミュエル・ピープスも、街頭のタバーン(居酒屋)でひとり朝からビールで朝食を採っていたことが日記に出てくる。

ところが、ティーが到来して以後、ティーを家庭内に持ち込んだ上流階級の女性が、ティーパーティーを家族揃っての暖かいふれあいの場にしたのが、豪華な料理を揃えた英国風朝食である。やがて19世紀中頃に成立した午後4時のアフタヌーン・ティー、さらに午後7時に全員揃って採る夕食といったふうに、ビクトリア時代に家族中心の幸せなホーム・スウィート・ホームを築いたのが、女性を中心とした英国風紅茶文化である。

さて、こうした英国風紅茶文化が明治維新後、日本へ入ってきた。明治30年代には女学校で紅茶の入れ方、お客への出し方といった行儀作法が教えられ、さらに大正デモクラシーをへて、昭和時代に入るとともに、茶道、華道の稽古が若い女性の身だしなみになったのである。

「お茶が生み出すもてなし関係」につづく



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