機関誌『水の文化』16号
お茶の間力(まりょく)

新しい人間関係とライフスタイルの行方
お茶が生み出すもてなし関係

堺市博物館館長
和歌山大学名誉教授
角山 榮 (つのやま さかえ)さん

生活史から捉え直す

お茶の話になると、どうも精神論ばかりが強調されがちですが、私は専門の経済史の視点から、モノや具体的な生活も検証してみたくなりました。それにお茶と言えばまず日本の茶道を思い浮かべますが、私はヨーロッパ、特にイギリスにおける紅茶文化を探ることで、日本におけるお茶の位置づけをしてみたのです。

日本人の感覚でいうと、イギリスは紳士の国、紅茶の国でしょう。しかし、本当に現在でもその通りなのか。まず、その現状を正しく認識してみよう、と思い立ちました。イギリス政府は毎年イギリス人の食生活について、食べ物への支出、消費、栄養摂取などの調査報告書を出しています。

『イギリス人の食生活調査、2000年版』(NationalFoodSurvey, 2000:AnnualReportonFood Expenditure,Consumptionand NutrientIntakes,TheStationery Office,2001)によれば、過去30〜40年間でイギリス人の食生活に劇的な変化が起こっていることがわかります。この報告書によれば、現代家庭のじゃがいも、お茶、ミルク、卵、肉の消費量は第二次世界大戦直後と比べるとほぼ半減しています。これは外食、個食の増加、すなわち家族関係が崩壊したことを如実に物語っています。ビクトリア時代(1837〜1901年にいたるビクトリア女王の治世の時代でイギリス経済の黄金時代)は、現在常識と思われている家庭像が確立した時代でもありました。言うなれば、Home SweetHomeの成立です。私たちは、イギリスにはこのような伝統がいまだに大切に残されているという幻想を抱いていたわけですが、イギリスもご多分に洩れず、伝統文化の変貌という危機に見舞われているというわけです。

英国のティー文化

巻頭言でも書きましたように、ティー(緑茶も含む)はイギリスに入って新しいライフスタイルを生み出す原動力になりました。そのあたりの事情を、もう少し詳しく述べましょう。

茶がイギリスに入ってきたのは17世紀中ごろで、コーヒーよりは少し後になります。コーヒーがコーヒーハウスで飲まれるのはトルコの影響で、コーヒーハウスはクラブの前身でした。商人や貴族の社交場であり、情報交換センターとなっていたのです。おのずと、そこは男性のコミュニケーションの場となり、当時の女性が入っていかれる場ではありませんでした。

コーヒーはイギリス人の男性に熱狂的に支持され、ロンドンには瞬く間に3000軒ものコーヒーハウスができたといわれています。イギリスといえば紅茶、と思い込みがちな現代からはちょっと意外な気がします。

一方コーヒーハウスに夫を奪われたイギリス女性は、おそらく頭にきたのではないでしょうか。亭主が家を放ったらかしてコーヒーにうつつを抜かしていることへの怒りは、異教徒の飲み物であるコーヒーに向けられました。そこで上流社会の女性たちは、アジア・中国のティーに注目したのです。

コーヒーハウスへの対抗として、女性たちは家庭でティーパーティーの集まりを催します。ここで目的とされたのは、憧れのアジアの物産品を見せびらかすことでした。言うまでもありませんがここで飲まれたティーは中国から東インド会社の手をへて輸入された、高価なものでした。ティーを飲むこと、それ自体が大変贅沢な行為だったわけです。そしてティーパーティに使用されるカップ、ポットなどの茶道具も、すべて中国直輸入の陶磁器で自慢の種になりました。当時は緑茶のほうが主流だったのですが、緑茶にも砂糖が入れられました。大部分は西インド諸島のバルバドスかブラジルから来たもので、これも貴重品。身につけるドレスもトップモードの木綿ドレスで流行を競っていました。こう言うと「木綿より絹や毛織物のほうが高級ではなかったか」と思われるかもしれませんが、インド産のキャリコは17世紀中ごろから末にかけて東インド会社が輸入に力を入れていたものの一つで、木綿人気が国の基礎を危うくするとして、1700年に輸入禁止処置がとられるほどでした。

これらの事柄から、当時アジア、特に中国は大変な憧れを持って受け入れられており、文明の中心として認識されていたことがわかります。明治維新以降の日本人の頭の中には、この時代の文明の中心がアジアにあったという意識がない。この辺がわからないと当時のイギリスの茶の文化が見えてこないのです。つまり、現在の西洋中心の価値観では想像もつかないほど、アジアは畏敬の念を持って捉えられていました。ティーパーティーは、当時の最高のアジア文明を代表する物(=茶)と精神(=もてなし)を体現したトップレベルのファッションだったのです。そのため上流階級の女性たちは、その場の担い手として競いあいました。

このような「見せびらかしの消費」は、世界を征服する大英帝国のシンボルともなり、茶葉、砂糖を植民地生産する原動力ともなったのです。

  • 左 :18世紀のコーヒーハウス 右:ティーテーブル

    左 :18世紀のコーヒーハウス 右:ティーテーブル

  • 19世紀初め、中産階級の朝食

    19世紀初め、中産階級の朝食

  • シノワズリー(中国趣味)は、ティー文化とともにヨーロッパを席巻した。ヨーロッパで磁器が作れるようになるまでは、中国から茶器が輸入され、上流社会の憧れの的となった。急須型のポット、ハンドルのない湯のみ型のカップが、当時を物語る。これらはデンマークのコペンハーゲンにある工芸美術博物館のコレクション。急須型は、銀器にまで受け継がれ、竹で編んだハンドルにも、東洋への憧憬が見て取れる。

    シノワズリー(中国趣味)は、ティー文化とともにヨーロッパを席巻した。ヨーロッパで磁器が作れるようになるまでは、中国から茶器が輸入され、上流社会の憧れの的となった。急須型のポット、ハンドルのない湯のみ型のカップが、当時を物語る。これらはデンマークのコペンハーゲンにある工芸美術博物館のコレクション。急須型は、銀器にまで受け継がれ、竹で編んだハンドルにも、東洋への憧憬が見て取れる。

  • シノワズリー(中国趣味)は、ティー文化とともにヨーロッパを席巻した。ヨーロッパで磁器が作れるようになるまでは、中国から茶器が輸入され、上流社会の憧れの的となった。急須型のポット、ハンドルのない湯のみ型のカップが、当時を物語る。これらはデンマークのコペンハーゲンにある工芸美術博物館のコレクション。急須型は、銀器にまで受け継がれ、竹で編んだハンドルにも、東洋への憧憬が見て取れる。

    シノワズリー(中国趣味)は、ティー文化とともにヨーロッパを席巻した。ヨーロッパで磁器が作れるようになるまでは、中国から茶器が輸入され、上流社会の憧れの的となった。急須型のポット、ハンドルのない湯のみ型のカップが、当時を物語る。これらはデンマークのコペンハーゲンにある工芸美術博物館のコレクション。急須型は、銀器にまで受け継がれ、竹で編んだハンドルにも、東洋への憧憬が見て取れる。

  • 左 :18世紀のコーヒーハウス 右:ティーテーブル
  • 19世紀初め、中産階級の朝食
  • シノワズリー(中国趣味)は、ティー文化とともにヨーロッパを席巻した。ヨーロッパで磁器が作れるようになるまでは、中国から茶器が輸入され、上流社会の憧れの的となった。急須型のポット、ハンドルのない湯のみ型のカップが、当時を物語る。これらはデンマークのコペンハーゲンにある工芸美術博物館のコレクション。急須型は、銀器にまで受け継がれ、竹で編んだハンドルにも、東洋への憧憬が見て取れる。
  • シノワズリー(中国趣味)は、ティー文化とともにヨーロッパを席巻した。ヨーロッパで磁器が作れるようになるまでは、中国から茶器が輸入され、上流社会の憧れの的となった。急須型のポット、ハンドルのない湯のみ型のカップが、当時を物語る。これらはデンマークのコペンハーゲンにある工芸美術博物館のコレクション。急須型は、銀器にまで受け継がれ、竹で編んだハンドルにも、東洋への憧憬が見て取れる。

奢侈品から生活必需品へ

ティーのもてなしの精神、茶会での会話や飲み方のエチケットなどの中に、イギリス人は優雅さを見出し、茶の文化を学んだに違いありません。そしてこのような模倣の時代をへて、独自の茶の文化を模索する時代へと移行していきます。男性のコーヒーハウスはクラブハウスへと移行し、家庭が大切であるという理念が浸透し、家庭での女性の役割とティーが受容されるようになります。こうしてティーは女性の指導のもと、新しいライフスタイルの形成に寄与することとなりました。

17世紀中ごろまでは、貴族は大きな屋敷にそれぞれが個室を持ち、召使いが個々にサービスしました。だから、家庭としてのまとまりはありません。それが、お茶が入って女性が支配権を握り、家族のみんなが集まって朝食をとるというかたちで、初めてブレックファースト(breakfast)が成立する。fastの元の意味は「断食」。つまり夜の間、食を絶っていたわけですから、断食をやめるという意味です。

私はこのことが、近代生活が成立する上で重要なことと思います。まさしく、茶を一緒に飲むということが、女性の側から見た家族関係の始まりということです。贅沢品の茶が貴族層の家庭に入り、女性が家庭を支配したときに起きたのが、家の中のコミュニケーションの大きな変化、ブレックファーストの成立なのです。

19世紀中ごろ以降、植民地インドでの茶葉生産も進み、以前のように中国茶に頼る必要性が薄れていきます。こうした背景もあって、近代的な家族関係の確立だけでなく、従来の中国趣味から脱却した、イギリス独自の創出と展開によって華麗な茶の文化に昇華していきました。貴族的なティーパーティーから、中産階級にまで普及したブレックファーストの習慣が、奢侈品から生活必需品へとティーの底辺を広げていったのです。

人間関係に価値をおく

このように、文明の中心はいったん西洋に移ります。しかし、今後出てくるのは多神教の性格をもつアジアの文化だと思います。イギリスにアーノルド・トインビー(1889〜1975)という著名な歴史家がいました。

トインビーは、オックスフォード大学を出てずっと文明の研究をし、戦前は、日本を中国文明の衛星と位置づけていました。ところが、その後彼は日本の文化を学ぶにつれて「日本は中国の衛星ではなく、独自の文明を持っている」と気づき、さらに日本とアジアに興味を持つようになります。

彼は古代からヨーロッパ文明を研究してきました。すると、キリスト教のような一神教は既存の文明を滅ぼしてきたのに、アジアは宗教が平和的に共存している。その理由がなぜかを探っていったときに、特に多神教的な色彩の強い大乗仏教に関心を持ちました。

要は、一神教は個人と神との対話であり、魂の救いがある。あくまでも個人が単位です。それに対して、アジアはそういう何もかも聞き入れてくれる便利な神様はいないわけです。神道をみても、交通安全の神様、お産の神様というように、神様にも分業があってね。日本の場合は、神は暮らしの中にいて利用する存在としてある。

ところが実はもっと大事なのは人間関係で、仏教と儒教は人間関係主義なのです。日常の生活の中で信頼関係が形成されないと社会がうまくいかないわけです。

安土桃山時代に日本を訪れたポルトガル人の宣教師、ジョアン・ロドリゲスが『日本教会史』という本を残しています。その中でロドリゲスは、人間関係の徳について書いています。ヨーロッパと違ってアジア、特に中国、日本には五つの徳があるというのです。

人間の学問すなわち道徳の学問は、礼儀を弁え、共同に生活する社交性を持った動物としての人間を扱う。その人間は天と地を共通一般の両親として、その秩序、道理、特質を模倣して共同に生活し、すべての人に通用する五つの道徳を守っている。それはシナ人がウチャン(五常)と呼び、日本人は五常と呼ぶもので、各々は(中略)日本人は仁、義、礼、智、信という。それらの中の第1のものは、慈悲、従順、仁愛、愛情およびやさしさであって、これらのすべてを包含しているのである。第2は正義、平等、公正および清廉であり、第3は尊敬、礼儀、礼儀正しさであり、第4は賢明さであり、第5は人間の交際と交渉における信義と誠実である。(ジョアン・ロドリゲス『日本教会史』岩波書店、1967)

仁、義、礼、智を一つ一つ人間関係の基本とし、そういうものを通じて最後に信が生まれるという一つの体系があるわけです。それを人間関係の基礎としている。こういうシステムの中心に、人間関係を大事にするという理念がある。これを茶が媒介し、人間関係がスムーズにつくられていくさまを、ロドリゲスは大変興味深く観察しています。

そのようなお茶の役割の成立は、喫茶が宴会から独立してからの話です。それまでは宴(うたげ)が社交の主流でした。しかし、それが応仁の乱以降、成立しなくなります。人間不信に陥って毒が盛られる恐れがあるような状況で、宴など成立しないからです。ところが戦国時代に入って、その人間不信が極限まで高まったとき、宴会のプロセスから締めくくりであったお茶を独立させたのが、舞台を堺に据えた茶の湯の発展でした。

当時は人間不信が極限に達した時代だったといっていいでしょう。しかし、人間不信といっても、人間は関係をつくっていかなくては生きてはいけない動物です。だから人間関係が崩壊した世の中だからこそ、本当の人間関係を再構築するということが最大の問題になるわけです。それは、現在も同様です。

小さな小屋を建て、武器を外し、丸腰で集う。そして、みんなの見ている中で点てた茶を回し飲みするという行為は、安全の証明です。

これこそが、ロドリゲスが発見した「もてなし」の作法にほかならないのです。

現代は家庭の中でも人間関係は崩壊し、孤独になってきている。イギリスでも日本でも、家族が崩壊しバラバラになってきている。ろくに朝ご飯も食べない中学生高校生がおり、1時間目が終わったら弁当出して食べてしまうような現状。夕食を一緒に食べるかというと、子供は塾、親父は夜遅くならないと帰ってこない。現代の生活様式では無理なことかもしれないけれど、やはり集まって人間関係をつくらなければ人間は生きていかれないはずです。

もてなしが生む社会

近代都市の生活単位を形成してきた家庭は、今や崩壊の危機を迎えています。女性の社会進出が当たり前になった現在、社交下手は男性に留まりません。社交するのが苦手なのは、キャリアや肩書が場や間の感覚を狂わせてしまったからだと思います。そんな中で、組織を離れた人間はどこに行ったらいいのでしょうか。

しかし、未来は悲観ばかりかというと、そうではない。新しい人間関係のルールができつつあると、私は思っています。

先日、あるNPOの女性に講演を頼まれました。その方はすごいエネルギッシュで、僕の前には、ドナルド・キーンさんをわざわざアメリカから講演に招いたという。「講演料はいくらお出しになられたのですか?」と訊くと「ボランティアで来てくださいました」。そう言われたら、私も引き受けないわけにはいかない。そこで私はお茶の話をしました。このようにお茶とお菓子、いわば番茶のもてなしを媒介につながっているNPOやNGOの小グループがあちこちにができていて、金銭ではなく、もてなしで結びついている世界がある。「これは新しい生き方だな」と思いました。

携帯電話で情報のやり取りをするけれど、実は場や間の感覚は衰えています。場や間の感覚を鍛えるには、組織を離れて社交する必要があります。結局、趣味やNPOを通じたもてなしの結びつきで、新しいライフスタイルが生まれてくるのではないでしょうか。そこで飲まれるのは、酒ではなくお茶でしょう。ただ、そこには、ふれあいともてなしの気持ちをお互いが持つというルールが必要です。

自動販売機やペットボトルのドリンクは、ともすると批判の矢面に立たされがちです。しかし日本は、ヨーロッパだったら各国でコインが違うため故障しやすかったり、治安の問題で置いておけないアメリカとは違って、自動販売機が機能する国。また、誰もが実感していることでしょうが、ペットボトルのドリンクはとても便利な存在です。

しかし便利だからいい、ということだけでは片づけられない、守るべきものがあるはずです。今、経営の場でホスピタリティ・インダストリーが重要視されてきているように、「売る人と買う人の関係」だけでは何かが足りないことに気づき始めています。「互いがもてなしあう関係」ということを復活させないといけないということが、経営者もわかってきたのではないでしょうか。でも、そんなことは、日本では昔から行っているわけです。そういう点では、日本は先進国です。

もてなしの価値を、私は「アジア的価値」と呼んでいます。儒教というと忠孝という縦の人間関係ばかり連想されますが、「友あり遠方より来る」という横の関係もあります。上下関係を離れてそのような横の関係をつくるのに、お茶はうってつけなんです。聖なる空間でこのようなふれあいを持つことは、ヨーロッパでは有り得ません。ロドリゲスも、「ヨーロッパでは下の者が上の者を招待するということはないが、日本のお茶の席では、目下の者も上の者を呼んでいる」と驚いて書いています。

実は日本には、中国伝来の抹茶文化とイギリスのティーの文化という、本国では失われつつある茶の文化がきちんと継承されています。千利休が創出した茶の心は、「聖なる空間でふれあいを持つこと=茶室」を含め、現代社会に通用する偉大なる哲学を併せ持っています。長い歴史の中で男性の世界だった茶の湯が、明治維新以降、女性のたしなみとして男性を締め出してしまったようにも見えますが、もう一度真の茶の心を見直すことは、組織を離れて行き場のない人たちの新しい社交の場となりえるのではないでしょうか。堺市では、今こそ千利休の目指したホスピタリティを後世に伝えるために、小学生に茶の湯の楽しさを教えています。お茶の文化が場や間の感覚を取り戻し、これからの新しい人間関係の構築に、大いなる役割を果たすと信じているからです。



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