機関誌『水の文化』28号
小水力の包蔵力(ポテンシャル)

みたか水車博物館
働く水車が伝える水のポテンシャル

使われなくなった道具、メンテナンスされなくなった道具は一気に風化する。

使われなくなった道具、メンテナンスされなくなった道具は一気に風化する。
そして人の息吹さえも消えてしまう。道具を保存するためには、使い続けることが要求されるのだ。
白抜きの図版は、三鷹市教育委員会編集・発行の『水車屋ぐらし』より作図。
※写真をクリックすると水車透視図の拡大図が開きます。

「動力革命」の立て役者だった水車は、食糧増産と産業発展の陰の功労者。当時の最先端のテクノロジーを体現していました。1897年(明治30)の統計では全国で6万台を数えた水車も、動力が蒸気、電気へと転換し、河川の水量が減ったことなどで、急激に衰退していきます。 しかし小水力発電の視点で見たときに、日本の風土に合った水車は、水の持つポテンシャルを思い起こさせてくれる生き証人です。

小坂 克信 (こさか かつのぶ)さん

水車の歴史

今でこそ、水車は田舎とか農村部のイメージを持つが、人力に比べて圧倒的な動力を持ち、大量生産を可能にした「動力革命」の立て役者だった。しかも、それは都市の動力だった。「水車は農村のもの」というイメージは、都市に動力用電力が整備されることで水車がなくなっていき、農村部にのみ残ったために形成されたのである。

エネルギー源としての動力水車のほかにも、田畑に水を引く揚水水車が活躍し、それまで水を得にくかった土地に灌漑を施し農地を広げていった。

つまり水車は、食糧増産と産業発展の陰の功労者。水車の「力」なくしては、日本の繁栄は有り得なかったと言っても過言ではない。

日本に水車が入ってきたのは610年(推古天皇18)だといわれている。『日本書記』に高麗からの伝来とあるが、粉食に適した臼だったようで粒食を主とする日本には普及しなかった。その後、水車を671年(天智天皇9)製鉄に利用したという記録が残っている。

揚水用水車を灌漑に使っていたという最古の記録は、829年(天長6)『類聚三代格(るいじゅうさんだいきゃく)』の太政官符に見られる。

江戸時代には動力水車が大いに発達した。主に米搗(つ)きや菜種油絞りに使われたが、江戸中期から発達した背景には酒造業の発展や城下町への人口集中があった。短期間に大量の米搗きをする必要があることから、大型水車で多数の搗き臼を動かした。

江戸後期になると、米搗き以外にも火薬製造や針金づくり、鉱石の粉砕、ふいごの動力、漢方の生薬挽きなどにも利用され、各種産業に応用されるようになる。現在の東京・小平市では火薬製造中に大爆発が起き、「所々で鳴動があった」と、江戸時代の名主の日記(東京・立川市)に記録されているから火薬製造はリスクと背中合わせ。したがって、高い手間賃を取ることができる仕事でもあった。

この他にも、ノコギリを動かして製材をする水車、線香の材料となる杉の葉を挽く線香水車、陶土をこねる陶土用水車、と水の力を動力に変換して、考え得る限りに利用され尽くしたといえる。

北関東と中部地方の製糸工場では、撚糸水車が活躍する。糸を染色してから織る先染(さきぞめ)織物は、生糸が細くて傷みやすいために、生糸を何本か撚り合わせる撚糸工程を経てから染色する。そのため、先染織物の製造には大量の撚糸を必要とするのだ。その動力として、水車が活躍した。

今の群馬県・桐生の岩瀬吉兵衛が、一度に10〜20錘の糸を同時に撚れる八丁車と水車を結びつけて撚糸の大量生産に貢献したのは、1783年(天明3)といわれている。その後、栃木県・足利や東京都の八王子、半原(現・神奈川県愛川町)などにもその技術は伝えられた。

増大した江戸市民の胃袋を満たすために、各地から米が輸送されるようになったことも、動力水車の増加に拍車をかけた。

五街道の入り口(東海道:品川、中山道:板橋、甲州街道:内藤新宿、奥州街道と日光街道:千住)には米穀問屋が立ち並び、その周辺の渋谷や目黒などの村々には、精米用の水車がつくられていった。こうしてできた搗き米屋は人力によるものも含めて、2000軒にも上るといわれている。

1697年(元禄9)に、現在の三鷹市役所付近に水車がつくられたという記録も残っているが、江戸人口のさらなる増大で、武蔵野など江戸近郊にも米搗き水車は広がっていったようだ。ただし、この水車は無許可でつくられたため、すぐに取り払われてしまう。当時の武蔵野地方は、江戸幕府の直轄領で、水車1台つくるにも、代官所の許可が必要だったのだ。

正規の許可を得た水車が増えてきたのは、安永年間(1772〜1780年)のこと。この時代、武蔵野地方では新田開発が進み、村落が安定すると江戸へ小麦粉を売る商いが始まったからだ。

玉川上水の記録文書『上水記』には、1788年(天明8)、「武蔵野台地には33台の水車があった」と記されている。水車の持ち主は、豪農や村役人が多かった。水車は建造にも維持管理にもお金がかかったので、個人が持とうとした場合、必然的に富裕層の所有になる。しかしこのことは、結果的に村の共有資源であった水を有力者たちが個人使用したことになる。これに対して、村民がかなり反発したという記録も、当時の公文書には残っている。

余談であるが、日本の水車は村で共同利用されることが多いのに対して、ヨーロッパでは領主や教会などがパンをつくるのに欠かせない製粉事業を独占するために、水車に高い税金をかけた歴史がある。水車小屋の番人はしばしば税の徴収人を兼ねた。ヨーロッパで水車に悪魔のイメージがあるというのも、そうした虐げられた農民の差別意識からくるものといえる。セルバンテスの書いた『ドン・キホーテ』に粉挽き小屋の番人を悪魔と間違えて攻撃するシーンが出てくるのも、こうした背景があるからだ。中国や中東でも水車所有はヨーロッパ型だったそうである。

水車の回転運動は、杵を上下に動かすピストン運動に変換されて利用された。手前の10個の搗き臼の背後に水輪(みずわ)が平行してあり、その背後には4個の搗き臼、2個の挽き臼と篩(ふるい)、昇降機がある。これらを動かす力を、流れる水が生み出していたとは。
水車が息を吹き返すことができたら、水音と木と木とが軋み合う響き、臼を搗く振動が、多くの人の胸に水の力強さを伝えるに違いない。

明治期の水車

明治時代になると動力水車はますます発達し、地域の産業を支えた。動力水車はいわばモーターで、用途に合わせて何にでも使える。

この時代には、武蔵野にも撚糸用水車がつくられるようになっていた。1905年(明治38)東京・国分寺にあった撚糸用水車は、長野県岡谷市の片倉製糸の所有。明治時代、繭の一大生産地となっていた武蔵野に拠点を設け、絹の撚糸を現地生産したというわけだ。砂川や国分寺で生産された絹糸は横浜港で船に積まれ、海外に送られた。当時の絹糸は、多額の外貨を稼ぐ貴重な輸出品でもあった。

日本の山地は、急峻な地形の所が多い。小水路を利用して、小型の水車を設置するのに適していた。しかし比較的なだらかな武蔵野台地では、大規模な水車を見ることができたそうだ。今の東京・西新宿にあたる淀橋にあった水車は、1887年(明治20)の改修で、水輪(みずわ:水を受けて回転する部分)の直径約6.67m、搗き臼59個、挽き臼3個という巨大なもの。ここまでになるとコトコトコットンの水車ではなく、まさに「機械」と呼ぶにふさわしい規模になる。

水輪(みずわ)に使われる材は赤松。

左:水輪(みずわ)に使われる材は赤松。
中左:水輪の回転を直角に変換している2つの歯車。一番トルク(回転力)のかかる部分だけに、大小2枚のギアを張り合わせた木製のベベルギア(傘歯車)を使っている。
中右:水輪の反対側の稼働部分。手前から、篩(ふるい)、挽き臼、4個の搗き臼。奥の壁にはパーツなどが整理して掛けてある。中央の挽き臼の左は、昇降機の動力を2階へ伝えるシステム。斜めの角材はドライブシャフトだ。
右:奥が水車システム。手前左は、電動モーターを動力にした精穀機。水車が止まった後も、電化して製粉業が続けられていた。

水車の衰退

水車が近代日本において、いかに重要だったかを物語るものとして、「水車業規則」がある。これは1897年(明治30)に東京府で制定された法律で、水車の新設、所有権の委譲、機械設備の変更、廃止などの届け出が義務づけられた。『水車屋ぐらし』(三鷹市教育委 員会編2000)によれば、東京府の水車について長年研究してきた末尾至行や鈴木芳行の調査で、増設台数は1894年(明治27)から1917年(大正6)の23年間に多く、1921年(大正10)以降になると新設が0となり、一気に衰退していくという。

特に製粉は、明治後半に水蒸気を使ったロール製粉機(注1)が登場。1896年(明治29)には約90%が水車による製粉だったが、1908年(明治41)には50%を切り、その後は一気に需要が減っていく。

また、水車は水のエネルギーで回転させるため、当然のことながら自然条件に左右される。旱魃(かんばつ)の水不足のときには動かない。そのため大規模な工場では、すでに明治の後期から、水力から蒸気力へと転換を図っていくのだ。

ところが水車の総数は、この時点では減るどころか増えている。1897年(明治30)の統計では、全国で6万台に達している。

大正期に入るとさすがに減少を始めるが、水利に恵まれ、生産物の消費地に近く安定した経営が見込まれた地域では、水車は1970年(昭和45)ごろまで生き残ることとなる。東京近郊の水車が意外と長く残ったのは、こうした条件に恵まれたからである。

蒸気と電力の動力が水車を駆逐した、と一般には考えられがちだが、電気を引くために遠隔地まで電信柱を立て、電線を引っ張っていくコストが見合わないような地域など、実際にはさまざまな事情があった。水車を利用したほうが安上がりな生産物もたくさんあった。作業効率の悪い「粉砕」などには、ただで水の力が利用できる水車は、まだまだ競争力を持った動力だったのだ。

水車衰退の理由は、動力の転換が主だが、ダム建設や河川改修などによって川の水量が減ったり、水路がつけ変えられたりしたことにもよるのである。

現在は正式な統計も無く、水車の実数は把握されていない。しかし、研究者によれば、オブジェ的なものを除き、純粋な「働く水車」の存在は風前の灯であるという。

(注1)ロール製粉機
対になったロールのかみ合いに、小麦またはストックを通して砕く機械。ストックとは加工途中の小麦。小麦をいっぺんに砕いて小麦粉までにすると、表皮の破片が混じって、色がくすんだり喉越しの悪い仕上がりになるため、最初は大きく割っただけの小麦を入れ、ふるってから粒度別にして数回に分けて砕いていく。ロール製粉機の登場で、1台で一気に粉にする従来の製粉機は駆逐されていく。

武蔵野の新車

野川にかかる相曽浦橋から下流を見ると、右岸の一画にある休憩所に水車が回っている。しかし正真正銘の「働く水車」が、そのすぐそばに保存されていることは、ちょっと見ただけではわからない。

「みたか水車博物館」として公開されているその水車は、川の上にかかった水車という一般的なイメージとは趣を異にして、覆屋(さや)と呼ばれる水車小屋に入っているので目に触れないのだ。

「新車(しんぐるま)」と呼ばれるその水車は、水輪の直径4.8m、幅0.97mで、精米製粉用の水車としては大規模なものだ。

東京・立川で育ち、小学校教諭として玉川上水の研究などに携わってきた小坂克信さんは、「産業考古学会・水車と臼分科会」の代表も務めている。玉川上水の歴史を子供たちに教えるために調べているうち、160年間働き続けた新車に出会ったという。以来、水車の魅力にみせられ、研究まで始めてしまった。

その小坂さんに、「みたか水車博物館」を案内していただき、新車について次のように解説してもらった。

多摩川の支流、野川の水流を利用して新車がつくられたのは、1808年(文化5)のことです。200mほど上流に大沢村の名主が設置した水車があり、これが「大車」と呼ばれていたことから、この水車は「新車」と呼ばれるようになりました。峯岸家では大車をカミ、新車をシモと呼び合って、親戚づき合いをしていたそうです。

峯岸家8代目、1910年(明治43)生まれの清さんが、1968年(昭和43)まで稼動させてきた新車。その起源は峯岸家に残る文書によると「大沢村の名主半兵衛と地主久衛門から敷地の提供を受けて、府中経頭(きょうず)の五郎右衛門と上石原村の五右衛門が新車を設置した」とあります。

しかし、当初は思うように経営がたちゆかず、2名の出資者が経営から離れました。1817年(文化14)からは、峯岸家5代目になる婿養子の弥左衛門(乙次郎が改名)が新車を譲渡され、以来峯岸家で水車経営を続けてきたということです。

1903年(明治36)、新車には搗(つ)き臼10個、挽き臼1個があり、その後、挽き臼を1個増やしています。また時期はわかりませんが、水流に平行だった臼の列を直交させる大工事もしています。しかし、また水流に平行するよう元のスタイルに戻しています。1919年(大正8)の改修は、清さんの叔父の藤三郎さんが担当しましたが、途中で亡くなっています。

杵の列が水流と平行に置かれている例は、私も近隣では見たことがなく、清さんに理由を尋ねますと、「このほうが作業がしやすい」ということでした。また、叔父さんからは「後を大事に守ってくれ」と、よく言われたそうです。

現在は、搗き臼は鉄製で、2斗(36リットル)入る二斗張りが2個と四斗張りが12個。挽き臼は御影石製で、小麦用の挽き臼が直径一尺八寸(約55cm)、大麦用の挽割臼が直径一尺四寸(約43cm)で各1個ずつある、メカニックで大がかりな水車です。

近隣の顧客のために精米・精麦と製粉を引き受けるほか、清さんの父親の繁蔵さんの代には、千駄ヶ谷に米の販売店を構えていました。粉の売上げ高は、近隣と東京ではかなり差があり、1881年(明治14)当時の東京・小金井市の記録には1年間に、村落内では150円、東京市に出荷すると2000円と記されています。

明治後期、ロール製粉機の普及に危機感を覚えた武蔵野の水車屋は、新しい製品をつくることで活路を開こうとしました。七味唐辛子の原料となるミカンの皮を搗いたり、バッテリーなどの材料となるエボナイト、洗剤などに使われるベントナイトの粉砕を請け負うところもあり、カレーに使うスパイスを搗くうち、ノウハウを覚えてカレー製造業に転じた水車経営者もいるほどです。

1924年(大正13)、甲州街道沿いに電気の動力線が敷かれました。さらに同じ年に、玉川上水が水道水に利用され始め、分水の水量が減ってきます。電気は通るは、水量は減るはのダブルパンチで、武蔵野からも水車は徐々に消えていく運命にありました。

清さんは、そんな状況にもめげず水車を動かしていましたが、1968年(昭和43)野川の拡幅工事で水の流れが変わり、水を引き込めなくなり、160年間回っていた水車がとうとう止まりました。新車は1978年(昭和53)に、母家は1994年(平成6)「古民家(峯岸清氏旧宅)」として三鷹市文化財に、1998年(平成10)には「武蔵野(野川流域)の水車経営農家」として東京都文化財に指定。清さん夫妻は、1994年に、水車と母家を三鷹市に寄贈しています。

水車が止まる3年前に、清さんは精米機、精麦機、製紛機、粉砕機などをモーターに直結し、電力でも稼動できるようにしていました。ですから、寄贈してからも注文があれば製紛などを行なっていました。私が、清さんからいろいろなことを教わったのも、この時期のことです。残念なことに、清さんが体調を崩したことから2005年からは休業しています。

  • パーツを並べた写真と、峯岸清さんの水輪製作風景は小坂さんの取材・撮影によるもの。直径4.8m、横に寝かすとその大きさに驚かされる。

    左:新しくつくった交換用の水輪パーツを並べた写真と、峯岸清さんの水輪製作風景は小坂さんの取材・撮影によるもの。直径4.8m、横に寝かすとその大きさに驚かされる。
    右:「みたか水車博物館」を案内しながら水車の歴史を解説してくださった小坂克信さん。
    現状の水輪の材は、井の頭公園から手に入れたが、昔は使う木を近隣の山林でまかなった。修復を行なったら次に使う材料を用意し、乾燥させておく。今の水輪は1959年のもので傷みがひどく、年間8,000人近く訪れる見学者の多くも「水輪の回っているところが見たい」という。

  • 木材でつくられた水車システムは、非常に細かないパーツで構成されている。というのも、こすれて擦り減る部分が、消耗品としてすべて交換可能なパーツに分かれているからだ。機能的で、実に美しい。

  • パーツを並べた写真と、峯岸清さんの水輪製作風景は小坂さんの取材・撮影によるもの。直径4.8m、横に寝かすとその大きさに驚かされる。

「働く水車」の文化を継承

東京都文化財に指定されたことで、貴重な水車が保存されることになったのは喜ばしいことです。しかし、本来であれば「働く水車」のノウハウと技術もセットで残していかないと、単なるモノの保存で終わってしまい、文化の継承までは望めません。

ご覧の通り、峯岸家の屋敷林には、武蔵野らしい欅や樫の大木が茂っています。どちらも水車の部品の材料として欠かせない樹種の木です。水輪には腐りにくい赤松が使われますが、根曲がり部分をうまく曲面に利用して部材を取っています。そうした松も、今では手に入りにくくなっていますから、この先の材料の手配が思いやられますね。

今の新車の水輪は、1959年(昭和34)につくられたものです。伝統的な水車づくりには設計図はなく、型板を使います。水輪は8〜10年で新しくつくり直されますので、清さんは、子供のころから3回ほど水輪の交換に立ち会っています。また、杵の部品などは、清さんが自分でつくってきました。

水車では、大きな部材は高価なことから、常にこすれて傷みやすい箇所は一部分だけを交換できるようにつくられています。そんなところにも、毎日使い続けてきた生活の道具ならではの合理性が生きていて感心させられます。

修復を行なうたびに、次に使う木を伐採して、次回の修復に備えて乾燥させておくのもそうした知恵の一つです。最後の改修からおよそ50年経って、使われなくなって乾燥した新車の水輪はボロボロになっています。この水車を見学した多くの方がその技術に感心しますが、中心機構ともいえる水輪が崩落してしまったら、その魅力は半減するでしょう。

2003年(平成15)、清さんが用意しておいた材料を使い、市民の協力を得て技術の記録・保存のために水輪の部品まで完成しています。これを使えば水輪は交換できるのですが、しかし予算の関係や文化財に指定されていることで、水輪の部品も納屋で眠っている状態です。高齢の清さん(97歳)がお元気なうちに、是非水輪が再び回る姿を一緒に見たいというのが、我々周囲の気持ちです。

単なる形だけの水車を復刻している例は多いですが、それでは水がいかに大きなエネルギーを持っているかが伝わってきません。また、水力ポテンシャルの再発見、日本の風土に合った水車動力の見直しにまではつながりません。昔の技術や生活のあり方を伝える身近な教材という意味でも、できれば修復して動いている姿を、私自身も見たいですし、子供たちにも見せてあげたいと思っています。

新車は野川の水を利用して稼働していたが、河川改修のために取水できなくなった。

新車は野川の水を利用して稼働していたが、河川改修のために取水できなくなった。左写真の右側が水車、排水溝は向こう側の野川に水を戻す流路。「さぶた」と呼ばれる仕切り版が取水された水の流量を調節する。
峯岸さんの作業風景の写真も、「みたか水車博物館」の貴重な財産だ。



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