機関誌『水の文化』31号
脱 水(みず)まわり

LDKが変えた日本の住宅 家の中心は水まわり

女性の地位と台所は、戦後歩みを一つにしてきた、という藤森照信さん。ガスと水道が完備することで、暗くじめじめして、低い所に置かれていた台所が床上に上がってきました。 床の間が男性の象徴だとしたら、明るくきれいなダイニングキッチン、輝く一体成型のステンレス流し台は、まさに近代女性の象徴だったのです。そして今、次なるトレンドはくつろぎの風呂に移ってきたようです。

藤森 照信さん

東京大学生産技術研究所教授
建築史家 建築家 工学博士
藤森 照信(ふじもり てるのぶ)さん

1946年長野県生まれ。1971年、東北大学工学部建築学科卒業。東京大学大学院及び、生産技術研究所で村松貞次郎に師事し、近代日本建築史を研究。
主な著書に『日本の近代建築』(岩波書店1993)『人類と建築の歴史』(筑摩書房2005)ほか。熊本県立農業大学校学生寮(熊本県菊池郡2000年)で日本建築学会賞作品賞受賞。

台所が床に上がるまで

日本でいうと明治ごろまでの大住宅、イギリスだとビクトリアン様式まで、いわば邸宅といわれる住居では、水まわりを内に入れていない。

水まわりで一番大きな所は台所です。台所は、臭いと音がお客さんや主人にいかないようにするのがすごく重要だった。だから、主人のいる所とは離す、という大原則がある。できるだけ、遠い所や別棟でやっていた。

お寺に行くと庫裡ってあるでしょ。行事はお堂でやりますが生活部分は庫裡。そこはお客さんが来る所とは少し離れているんですよ。お客さんが来る所には、畳が敷いてあって天井が張ってある。でも庫裡は全然違っていて、土間で梁が露(あらわ)し。それは作業場という意味がある。

これは近代化以前の町家もそうで、通り庭に台所があって、要するに「工場」ということ。もっと言うと、あそこだけは縄文以来の名残を止めている。縄文時代の名残は、ずーっと水まわりに引き継がれていたっていうことですね。

東京でも、関東大震災復興前の時代の住宅を調べると、やっぱり水まわりは土間。大隈重信はヨーロッパ流の立派なキッチンを入れるんだけれども、やはり土間で、天井はがらーんとしている。

では、台所が生活の中に入ってくるようになって、今のような状態に変わってきたのはいつなのか。

震災復興期には、下町の商家などでは台所が床の上に上がってきて、板敷きですが土間ではなくなっていく。これは、水道の敷設と竃ではなくガスを使い出したのが大きな理由。だって、竃や水瓶だったら、やはり板敷きの上に上げにくいでしょ。

火と水がちゃんとして、どこかから汲んできたりしなくても水道管やガス管を捻れば水や火が供給されるようになったことが、縄文時代との決別を促したんです。

ガスと、蛇口を捻って出るようになる鉄管の加圧水道が完備して、初めて台所というのは普通の空間になった。もっと言いますと、女の人の空間が床の上に上がってきて、初めて普通の生活レベルになったということです。

だけれど、相変わらず陽の当たらない、暗い汚い所にあったことは間違いない。これが本格的に変わるのは、やはり戦後です。

UR都市機構「集合住宅の源流を探る」をもとに、編集部で作図

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LDKの成立

先駆的にはね、大正ぐらいから「こんなことじゃあ、まずい」といって運動はあったんですが、本格的に変わるのは戦後で、まあ日本住宅公団(現・独立行政法人都市再生機構)ですね。

公団は台所の窮状をなんとかしようとして、まず台所と食堂を一緒にするんですね。それで台所が明るい所に出てくるんです。

明るい所に出てくるんだけれど、それにふさわしいものにしなくちゃいけないという大問題が生じてくる。その結果、ステンレスの流し台という新製品がサンウエーブで開発されます。ステンレス流し台で決定的に変わるんです。

公団っていうのは偉大でね、戦前の暮らしっていうのは座敷が重要で、床柱を背に男の人が座る。それは一番良い席だった。南側の庭に面した部屋で、正月とか、お客さんが来たときだけとか、日頃は使っていない場合も多い。座敷は男の象徴だった。

それが戦後、台所と食堂、それとリビングを一緒にする。つまりLDKの成立。今の住宅は、ほとんどこの形式です。それによって、男女の力関係が一気に逆転しちゃった。これは戦後の家族像そのままです。今、自宅の建築費の中で一番単価の高い所は台所。これはかっての床の間の代わりみたいなもんですよ。

同潤会が先鞭を付けたコンクリートの集合住宅という器に、公団が新しい生活のための間取りと設備を組み直して入れた。その立役者はステンレス流し台だった。

それ以前の人研(じんと)ぎの流し台というのは、何とも汚いものだった。魚の鱗(うろこ)とかがこびりつくとどうしようもない。サンウエーブが開発して、ステンレス流し台は日本の近代住宅に素晴らしい発展をうながした。

不思議ですよね、道具一つで変わるんですから。それまでのセメントの人研ぎの流し台でやっていたら、LDKなんていうものにはならなかったと思いますよ。そういう意味では、日本はLDKの先駆者じゃないかな。

でも結局、仕方なしにやったことなんですよ。狭くて、「どうやって暮らすんだ」と頭を悩ますぐらいの空間でしたから。それぐらい狭い場所は、食事をする場所と寝る場所を分けるのがまず第一だ、と京大の西山夘三(注1)先生が「食寝分離論」で言ったんです。

それまではお茶の間といって、昼は卓袱(ちゃぶ)台を出して、夜になると脚を畳んでしまい、布団を敷いて寝るという、食寝同室だった。西山先生は、狭くてもいいから食事室を安定したものとしなさい、という主張を戦前にしていたんです。

それを公団ができたときに、東大の吉武泰水さん(注2)や鈴木成文さん(注3)などが参考にしていった。だから、もともとは公団が考えたことではない。

(注1)西山 夘三(にしやま うぞう 1911〜1994年)
京都帝国大学建築学科を卒業後、石本喜久治の建築設計事務所に入所。1940年に同潤会研究部を経て、京大教授。食寝分離論を展開し、のちの住宅計画に影響を与えた。
(注2)吉武 泰水(よしたけ やすみ 1916〜2005年)
日本の建築計画学の創始者。集合住宅のプロトタイプである「51C型」や、建築における規模計画に用いられる数理・統計手法「あふれ率法(α法)」などで知られる。病院・学校・集合住宅などの研究に業績を残した。
(注3)鈴木 成文(すずき しげぶみ 1927年〜)
吉武泰水のもとで、建築計画学を研究する。東京大学工学部教授を経て、神戸芸術工科大学学長。公営住宅の標準型「51C型」の設計に吉武研究室の一員として参加。

ステンレス流し台とバランス型風呂釜とシリンダー錠

よくLDKの発祥は1951年の公営住宅標準設計「51C型」といいますけどね、実はたいして広くないの。同潤会といい勝負。公団と同潤会は組織としてはつながっていませんが、技術者とか人は結構流れて来ているんです。だから、同潤会のことはよく知っている。それで、同潤会と同じものじゃいけないと考えた。

公団がこのままじゃマズいといって、3つ改良点を挙げるんです。1つは一体成型のステンレス流し台。それまでに鑞づけのステンレス流し台をやった経験があった浜口ミホさん(「ダイニングキッチンの誕生」参照)に指導させて、サンウエーブにやらせた。サンウエーブの柴崎勝男さんは三菱電機の工場の片隅を借りてやっていたらしい。ステンレス板を絞っても絞っても割れるんだよ。それで巣鴨のとげ抜き地蔵のお札を貼って絞ったっていうんだよ。まあ、そういう面白い人なんだ。熱心で。

公団が「台所を明るくしよう」と思った理由は明確で、狭いけれどせめて台所を明るく新しいイメージにしたい、と。

もっと言うと、本城和彦さん(注4)がおっしゃっていたのは、新しい所はないんだって言うんだよ、公団をつくったけれど。それで、せめて、せめて流し台だけは良くしようと。それぐらいはできるだろうと。これは技術者側の思い。

次に風呂釜。これを東京ガスに開発させた。ところがRCでがっちりつくってあるので、今までみたいに隙間風なんかがないから中毒になる。それでバランス釜を開発した。

最後は鍵。初めて鍵つきにしたのが公団。これを、掘金物店にやらせた。

だから流しと風呂と鍵。

もう一つ言うと、公団の初代総裁というのは加納久朗(注5)で、東京銀行の前身だった横浜正金銀行ロンドン支店長を長く務めた。だから外国の暮らしに比べ、日本の住宅があまりに悲惨だと。だから加納は、せめて一つぐらい光るところをつくりたい。なんとかしろ、と号令をかけた。とても熱意のある人だった。そんなこともあって、鍵はすぐに実現した。

今見ると、シリンダー錠なんか、ちゃちなもんですよ。ただ、それまでの日本にはネジ式のもっとちゃちな錠前しかなかった。

だから公団は、女性進出とプライバシーの確立に貢献したんですよ。プライバシーっていっても、他の住戸からのプライバシーを鍵で守る程度。中はたいした扉もついていないし、まだ個室化していませんから。個室化していくのは、このあとの段階です。

(注4)本城 和彦(ほんじょう まさひこ 1899〜2002年)
ダイニングキッチンという造語の命名者。1938年(昭和13)東京帝国大学工学部建築学科を卒業後、逓信省営繕課に入省。戦後間もなく戦災復興院に移り、経済復興計画の作業や国土総合開発法の立法に携わる。日本住宅公団在職中には、当時の公営住宅規模(2K:12坪)を超えた公団の規模(2DK)を決定し、住宅内の食寝分離型を進めて居住水準を高めるなど、現在の間取りの原型となるスタイルをつくり上げた。
(注5)加納 久朗(かのう ひさあきら 1886〜1963年)
上総一宮藩最後の藩主加納久宜(かのうひさよし)の子で横浜正金銀行ロンドン支店長、取締役などを歴任、日本住宅公団の初代総裁(在任1955〜1959)に。1962年(昭和37)千葉県知事に当選するも、在任わずか110日で急逝した。東京湾の大規模埋め立てによる新首都建設を提唱し、この計画の解説書として『新しい首都建設』(1959時事通信社)を著している。

世界を席巻したLDK

こういう人たちの熱意で公団住宅が完成して、圧倒的にステンレス流し台が評価を受けた。あんなに売れるとは思わなかったらしい。あれで日本の住宅は、一気にLDK、女の城っていう路線になる。

こういうことは世界の住宅史でも珍しいんですよ。最初は貧しい人たちをどうするかというところから始まって、西山さんの食寝分離、そして戦後になって狭いけれどちゃんとした住宅をつくろうよ、というところにつながっていく。それが今では高級マンションでも、だいたいがLDKでしょう。

下から始まっていって上を変えるというのは、大変に珍しい現象です。他の国の場合は、お金持ちはあんなに狭い所に住んでいませんから、日本だけでしょう。

ただ、欧米でも建築家のつくる家はLDKが多いですよ。建築家ってもともと、部屋を区切るのが嫌いだからです。

そういう意味で日本は、LDKというスタイルを富める者も貧しい者も採用するという、珍しいケースなんです。LDKの中心は台所なんです。

立体最小限住宅とコア・システム

当時一世を風靡した立体最小限住宅は、日本では池辺陽さん(注6)が中心になってやった。あれはル・コルビュジエのところにいた坂倉準三さん(注7)が、モダニズムの人たちがやっていた生活最小限住宅に強く影響されて、持って帰ってきたものが基になっています。

池辺さんは東大に来る前は坂倉事務所にいた。池辺さんが生活最小限住宅で小さなアイランドキッチンをつくったときには、もちろん一体成型のステンレス流し台じゃありません。一体成型というのは、金型をつくるのにものすごくお金がかかるから、何千何万という数をこなすものでないと使えないんです。

最小限住宅で台所を独立してつくるのは大変なんです。それで真ん中に置く。

もっというとね、配管を真ん中に置くっていう考え。ガス、水道、電気の配管をすべて真ん中に持ってくる。これはコアっていって、オフィスビルのつくり方なんだ。一番でかい配管がエレベーター。人間の乗り物というよりも、人間を流しているんだね。だって、みんなあれに入るとシーンとして黙っちゃうでしょう。ぎっちり立って流れてる状態なんです。

(注6)池辺 陽(いけべ きよし 1920〜1979年)
建築家。1950年(昭和25)「立体最小限住宅」と呼ばれる住宅を発表し、都市住宅のプロトタイプを機能主義の視点から提案した。また、建築を工業化という方向からとらえた。
(注7)坂倉 準三(さかくら じゅんぞう 1904〜1969年)
建築家。1929年フランスに渡り、パリ工業大学で学び、引き続きル・コルビュジエに師事する。1937年のパリ万国博覧会・日本館の設計を手がけ、建築競技審査で一等を受賞。モダニズム建築を実践したほか、1959年ル・コルビュジエが基本設計した東京国立西洋美術館を同じく弟子であった前川國男、吉阪隆正とともに担当するなど、ヨーロッパ建築界との架け橋となった。

住宅政策

普通は行政が政策を出せば、儲かって利益が出る業界が現れ、業界利益を擁護し官庁と結託する族議員というのが誕生する。でも住宅の族議員なんて、聞いたこともない。建設省(当時)がどんなに素晴らしい住宅政策を出しても、それが材料や物品をコントロールする通産省(当時)の産業政策として機能するから、住宅政策立案者を擁護してくれるような業界も議員も現れなかった。

戦後日本は、官僚と業界と族議員が緊密に結びついて動く、いわゆる「鉄の三角形」が引っ張ってきた。全部の産業がそうやって回わりながら、業績を伸ばしていったんだから、官僚・議員と業界が結びつかなかったというのは、住宅産業にとって最大のネックです。

だから、政策としてちゃんと住宅をとらえようと考える政治家も官僚も出てこなかった。このことは早い段階からわかっていた。唯一やろうとしたのが同潤会だったんですが、内務省内のこの方面の担当だった池田宏という人は貴族院に「お前のやっていることは社会主義だ」といって潰されてしまいます。

土地と住宅を公共財としてみないのも、建て替えサイクルがヨーロッパの国と比べて極端に短いというのも、こういうところからきているんです。先進国でこんな考え方なのは、日本ぐらいですね。

スクラップ&ビルドでどんどん建て替えてもらえると、建設業は喜ぶ。ただ、そこには役人が天下るとか、政治家がバックアップしてもらえる団体があるわけではない。だから、やっぱりバラバラに存在して、回っていない。

住宅の所管官庁は、もともとは内務省の社会局です。内務省にあったら、話が別だったでしょうね。内務省は警察と地方自治が中心なんで、地方政策で公共住宅をつくりなさい、という話になっていたでしょうね。

政策に期待できないとすると、民間はどうか。売れ残った不良資産をどうにかするために、マーケットベースで売れる方策を努力して開発する可能性はあるのか。僕はないと思うね。民間のデベロッパーは公団の後追い。何も民間らしいものは生み出していません。

まず、これはアメリカで言われ始めるんだけれど、ある時期から建築レベルが滅茶苦茶落ちてくるんですよ。それはデベロッパーが仕事をコントロールするようになったから。デベロッパーが興味を持つのは、投資とどれだけ収益が上がったかということだけで、住宅の質とかつくりには興味がないんだ。

バブル崩壊の引き金

僕が聞いた話ではね、本当かどうかはわからないけれど、世界のバブル崩壊というのは必ず不動産・住宅と結びついているという。最初のバブル崩壊の引き金はパリの大改造計画(注8)だったそうです。あれで住宅をバアーッとつくってひどいことになったらしい。

工業とか産業とかでは、なかなかバブル崩壊までいかないらしい。だって、いらないのに工場をいっぱいつくって倒産するヤツはいない。どんな製品だって在庫がいっぱいになったら銀行がきて、「もうつくるな」って言うでしょう。

住宅って、値段が高い割には決定権は個人にあるから、事態がわかるまでにタイムラグがある。工場に製品が並んでいればすぐにわかって、誰かがやめろって言えるけれど、住宅はやめろって言うまでに時間がかかる。それに住宅は政府が保護しますから、借金がしやすい。あとのことを考えずに、やってみたらダメだったという先送り。それが今回のアメリカのサブプライムローン問題につながっているんでしょう。

こういう危うい面がある住宅だから、日本もちゃんとした政策づくりに取り組んでいく必要があると思いますよ。

(注8)パリ大改造計画
19世紀、セーヌ県知事のジョルジュ・オスマン(1809〜1891年)が取り組んだフランス最大の都市整備事業。ナポレオン3世の構想に沿って行なわれた。

男も女も水まわり

僕が家を設計するとき、水まわりは普通にしますよ。特別なことはしない。

公団がLDKを考えたときに、水まわりはもう成熟しちゃったと思う。ほかにやりようがないもの。決定的に変えて欲しいという要求が出ないぐらい、もう50年ぐらい前に成熟している。

公団とか池辺さんたちのコアシステムとか、いろいろ出尽くしているでしょ。それで充分って感じがします。台所について主張がある建築家っていうのは、宮脇檀さん(注9)が最後なんじゃないのかな。

台所の水まわりというのは、女性の力が向上するのと同じように歩んでくるわけです。悲惨な江戸時代から、今や一番単価の高い所になるように。

問題は、じゃあ男はどうするんだっていうことですよ。ひたすら、落ちていますから。まあ、実際家にいても、たいして役に立たないし。いや、昔は役に立ったんですよ、薪を割るとか。今はほとんどそういう役割はないからねえ。

男の人は居場所もないし、お金をかけることもできない。例えばね、庭に松を植えない。松は男の象徴のような木だった。ガーデニングなんてブームになっているけれど、名もない草を植えて、幼稚園のお遊戯室みたいな状態になっている。あらゆる所で、男はダメなんだ。

最近住宅機器メーカーさんと話していて面白いと思ったのは、住宅内での男の居場所として、お風呂が充実してきているらしい。勤めから帰って、まあ女の人も今は働いてる人も多いから帰ってくるんだけれど、お風呂に入るぐらいしか楽しみがない。一時、「書斎をつくろう」という動きもあったんだけれど、結局物置にしかならなかったからねえ。お風呂は1m2増やすだけでも相当違いますから。

こうなると、少しは男の立つ瀬もあるんじゃないかと。寂しいけどね。ほかにないからなあ。お父さんだけが使う空間にお金をかけようとすると、ほかの家族に却下されちゃう。風呂だって、結局男だけじゃなく家族みんなで使う場所なんだけれど、そこには触れないようにして男の城である、と。寂しいけど、面白いですよね。水まわりが結局、男と女の双方の要望を満たすものになっているんだ。

風呂を屋上につくる人とか、露天風呂にする人とかもいるな。風呂は、台所と同じぐらい広く! そうなると、どっちが南向きを取るか、熾烈な争いになるかもしれませんね。

(注9)宮脇 檀(みやわきまゆみ) 1936〜1998年
建築家、エッセイスト。洋画家の宮脇晴とアップリケ作家の宮脇綾子の子息。東京芸術大学で吉村順三に師事し、集落調査などを経験。工学に軸足を起きがちな日本の建築を、美や芸術の視点から見直すことを提唱した。打放しコンクリートの箱型構造と木の架構を組み合わせたボックスシリーズがあり、「松川ボックス」は1979年に第31回日本建築学会賞作品賞を受賞。著書も多く、家族のあり方まで踏み込んで書いた『男と女の家』(新潮社1998)は絶筆となった。

【コラム 狭小住宅考】

都市への人口流入によるスラム形成や、震災や戦災による住宅の焼失は、「雨露しのげる場所さえあれば」というほどの住宅難を引き起こす。日本の住宅の狭小さは、こうした住宅難に素早く対応することを急ぐあまり、質や広さを後まわしにしたことから始まっている。

しかし、こうした貧しさ故の狭さではなく、思想やモダニズムの見地から狭さに挑戦した人たちがいた。水まわり空間が一体化していく源は、そうした建築家たちの手法にも求められるのかもしれない。

【明治期の住宅改良運動】

アメリカ・シアトルで雑貨屋「橋口商店」を経営していた橋口信助は、1909年(明治42)に帰国後、東京の洋家具発祥の地である芝で「あめりか屋」を開業する。ツーバイフォー式の輸入住宅と建築材料や家具の販売を始めたのだ。

部屋の独立性の低さなどから、伝統的な住まいを改良する必要性を訴える声が上がっていた時代に、橋口が提案する「中廊下のある住まい」は中流層の支持を受け、橋口は家政学者 三角錫子らと住宅改良会を立ち上げている。

三角は、アメリカの自動車メーカー フォード社の生産技術システムを家事労働に取り入れて、科学的管理下の家事労働を提唱した人物。自邸は、その「動作経済」概念を体現するものとして、橋口が設計した(注)。当時の中流家庭では女中がいることが珍しくなかったが、三角は主婦が一人で家事をこなすために、思い切って台所空間を小さくつくっている。

(注)三角錫子邸
1917年(橋口信助)間取りは年表を参照

コア・システム

椅子式・水洗トイレ・改良台所といった近代的生活に必要な最小限の要素を確保するために、建築費のバランスをとりつつ、いかに一般住宅の価格に近づけるかを、池辺陽は平面・断面のデザインで追求した建築家だ。

当時欧米で流行り始めたコア・システムの概念を、「プランニング・コア(平面)」「コンストラクション・コア(構造)」「エキップメント・コア(設備)」と名づけ、建築の構成原理として理論化。水平方向(間取り)だけでなく、最小の容積内に良質で最大の生活空間をつくろうと試みた。藤森さんが言うように、狭さ故に設備は中央にまとめられる傾向にあり、そのことが水まわり空間の集中を促したといえよう。

1995年 住宅 No.28

1995年 住宅 No.28

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