激しい干満の差がある有明海と結ばれた佐賀平野の川は、潮、砂、水不足に悩まされてきました。民政家として活躍した成富兵庫茂安は、大水の氾濫さえも仕組みに入れて、水害でなくしてしまう治水の天才でした。 近代化が進んで分離してしまった水利を、再び束ねていくには成富兵庫茂安の多面性に学ぶ必要がありそうです。
九州大学大学院教授
島谷 幸宏 (しまたに ゆきひろ)さん
1955年生まれ。1980年九州大学大学院工学研究科修士課程修了。旧建設省入省後、建設省土木研究所にて河川研究に携わる。国土交通省土木研究所河川環境研究室長を経て現職。専門は河川工学、河川環境。
主な著書に、『水辺空間の魅力と創造』(共著/鹿島出版会1987)、『河川風景デザイン』(山海堂1994)、『河川環境の保全と復元ー多自然型川作りの実際』(鹿島出版会2000)他。
佐賀には、治水家として有名な成富兵庫茂安という人がいました。彼の遺した水利システムを地図上に見ると、肥前の国のほとんどの地に彼が足跡を残したことがわかります。
僕は、武雄河川事務所に赴任したときに、「今の技術、計算技術などをもってすれば、絶対に成富兵庫茂安の仕事を越えられる」と思っていました。それで六角川(ろっかくがわ)の遊水地の計画を立ててみると、彼がつくった遊水地とほとんど一緒だったんです。俺は何やってるんだろう、と思いました。彼がやったことは、間違いなく「最適」だったんです。
成富兵庫茂安は1560年に生まれ、戦争にも強い勇猛な武将でした。しかし、40歳を超えたころからまちづくりとか治水事業に携わるようになり、人生の後半30年は、民政家として活躍しました。
この時代には、全国で大規模な築城が行なわれました。特に江戸城の造営は日本国中からいろいろな人が集まって、技術を競いました。技術交流は、かなりのレベルに達していたと考えられます。
兵庫は戦争で国土が荒廃した後、国づくりをきちんとしなくてはいけない、と考えました。熊本城、江戸城、名古屋城、駿府城など、いろいろな所の城づくりに携わりながら、最終的には佐賀藩の治水・利水事業をすべて行なった人です。
読者の方に成富兵庫茂安を少しでも知っていただけると、うれしいと思います。
佐賀の伝統的水利事業のポイントをまとめてみると、以下のようになります。
元・福岡大学教授の宮地米蔵先生は、水利事業のことを治水と利水が一体化された技術のことだと言っています。水を利する事業、ということです。
甲州と佐賀を比べたら、潮水が入ってこない分、甲州のほうが単純です。有明海というのは、最大で1日6mというものすごい干満の差があります。例えば筑後川には、満潮時に毎秒2000tもの水が、洪水のような勢いで上がってきます。
それに、砂に対する対策も考えなくてはなりません。上流部の山地が花崗岩でできているという特徴があるため、マサ(風化した花崗岩)対策が大変なんです。
扇状地河川は水がすごく速く流れていくから、甲州は佐賀に比べて、砂が溜まることはあまり考えなくてよかったんじゃないかな。その代わり、釜無川みたいな甲州の川はエネルギーが強いので、強固に守っていかなくちゃならない。
霞堤も、扇状地霞堤と下流霞堤とでは機能が違います。
扇状地霞堤というのは基本的に氾濫水戻しなんですね。ものすごい勢いで水があふれるんで、霞堤をつくって幾重にも守って、氾濫した水を霞堤で再び受け止め、もとの河川に戻す役割をさせているんです。
しかし、佐賀のような下流霞堤は、上流から来る氾濫を防いで、下流から水田に水を入れるためにつくられている。下流からの水を受け入れて肥沃な土をそこに沈殿させ、新田開発をする。だから扇状地霞堤と下流霞堤とは、機能が違うんです。このことは、あまり理解されていません。
基本的な考え方は同じなのですが、個々の自然条件に合わせて最適な仕組みを採用していたということです。
武将から民政家に転身した成富兵庫が行なった水利事業で、一番大掛かりなもの、成富兵庫最高の傑作と言われているのは、嘉瀬川にある石井樋(いしいび)という構造物です。
嘉瀬川と多布施川は、佐賀城下に水を運ぶためのシステムです。洪水は右岸(嘉瀬川=洪水を流すための本川)、利水と治水は左岸(多布施川=都市用水として利用)。リスクと恵みの分岐システムが、石井樋なんです。
甲州の万力林も信玄堤も、基本的には同じ。リスク(治水)と恵み(利水)を分離させるための装置です。
嘉瀬川の本川は、石井樋によって大きく西に曲げられており、多布施川は嘉瀬川の旧河川と思われます。基本的に水供給河川で、海岸砂州である佐賀城下町に水を配っています。天井川になっていますが、それは悪水が入らないためには好都合なんです。
扇状地では平らな土地を川が河道を定めずに流れていたものを、徐々に狭めていって、その結果天井川化していく。そして旧河道を用水路として利用するんです。多くの用水路が旧河川を利用してつくられていく。このようなことは、黒部川扇状地などにも見られ、扇状地河川処理の基本的な仕組みなんです。佐賀城下に水を配った、多布施川もその好例です。
佐賀では取水堰のことを井樋(いび)と言い、そこから流れる用水路のことも井樋と言います。
多布施川を見ると、やはり旧河道と思われる微高地があって、それを利用しながら用水路を整備しています。多布施川沿いには26もの井樋が右左に毛細血管のように広がっています。
石井樋がある地点には、象の鼻、天狗の鼻という構造物がつくられ、遷宮荒籠(あらこ)、兵庫荒籠を築いて、亀石を置き、砂が多布施川に入らないような仕組みをつくりました。本土居(本堤防の内側に内土居という越流堤を設け、その間を遊水地にすることで本土居を守るという複雑な構造を持っています。
上流に川上川があって、昔は川上川が合流した地点より下流を嘉瀬川と呼んでいました。1960年(昭和35)、農業用水が不足していた佐賀平野へ水を送るため、川上頭首工(とうしゅこう)が築造されます。頭首工とは、川の水を農業用水として水路に引き込むために設ける堰のことです。
川上頭首工ができてから、石井樋、大井手堰はいったん役目を終えます。水が涸れ、川底には草が繁茂している状態でした。しかし、歴史的な水利遺構を残したいと復元が検討され、調査が始まりました。1630年(寛永7)ごろ、壊れた石井樋の修理が行なわれた、という記述が残っていて、以来約400年間にわたって使われてきたことがわかっています。
ここの特徴は、石井樋の上流に遊水地を持っていることです。多分、大きな構造物を守るために上流でいったんあふれさせるのではないか、と思っていますが詳細はよくわかりません。
ちなみに、復元された大井手堰は、国交省がつくった初めての固定堰でもあります。
象の鼻にぶつかった嘉瀬川の流れは、川の中央に寄って大井手堰にぶつかります。そこで逆流して勢いが緩やかになり、象の鼻と天狗の鼻の間を通って、石井樋から多布施川に引き込まれていきます。
これは多布施川に砂が入っていくのを防ぐために、流路延長を長くして流れを遅くし、砂を落とす手だてになっています。
当時、洪水時には石井樋を閉じたんじゃないか、と推測されていて、戸立ての痕もありますから、僕も必要なときは閉じることができたんだろうと思っています。
面白いのは象の鼻の根本が低くなっていて、野越(のこ)しという構造になっていることです。
洪水のときは、どうしても砂が巻き上がって濁った水が入り込んでしまう。そこで野越しという仕組みをつくって逆流水とぶつけることによって、水の動きを止め、土砂の濃度が低い「うわみず」だけが入ってくるという工夫をしているのです。
最初は、なぜ野越しがあるんだろう、と疑問だったんですが、模型実験をしてみたら水がピタッと止まったので、多分そういうことだろうと思います。
福岡に那珂川という川が流れています。志賀島から出土した金印に刻まれた「漢委奴国王」の、漢の倭の奴の国を流れる川という意味、「な」か川ですね。
成富兵庫は田手川の水量が不足するため、元和年間(1615〜1624年)蛤(はまぐり)岳(標高863m)に溜池をつくり、那珂川の支流大野川から筑前に流れる水を横取りする全長1260mの蛤(はまぐり)水道をつくりました。今で言う、流況調整河川です。
上流に佐賀の人を住まわせて土地を横取りして、水を得たのです。
そのため大野川が涸れてしまい、水が五箇山(現・五ヶ山)村にいかなくなりました。溜池を壊そうとして亡くなった女性と稚児の悲しい伝説も残っています。
水路は、山の等高線に沿ってつくられました。水争いを緩和するために、あまり取り過ぎないように、所々に野越しをつくって、那珂川に水を戻す配慮をしています。
成富兵庫への感謝の気持ちを忘れないように、毎年「兵庫祭り」が執り行なわれています。
この村も、「五ヶ山ダム」が計画されていて、間もなく水没する運命にあります。
西芦刈水路は、川上神社の下から牛津川まで水を引いている用水路で、これも成富兵庫がつくった傑作です。
西芦刈水路には西山田川、真手川、大願寺川、神水川、山王川、西平川といったたくさんの川が流れ込んでいるのですが、下(しも)には川がありません。川の水は全部、この用水路に入っています。つまり、この用水路は山から流れ出した水をすべて受け入れるようにできているんですね。つまり、用水路でありながら、治水施設でもある。
大水が出たときのために、片側堤防がつくられています。ここの片側堤防は、用水路が等高線に沿っていて、山側の堤防はなく、谷側にだけ堤防がつくられたものです。上流斜面に、まずあふれさせる。地域ごとにあふれさせることで、大水を受け止めていたんですね。
斜面につくった小さな用水路だけではなく、川も片側にしか堤防がないところが多くあります。こういうのを受け堤といいます。片側だけに氾濫させる。はじめからあふれる所を決めていて、遊水地にしておいたんです。
その代わり、家の中のある一定の所まで水がきたら堤を切ってもいい、という地域ルールが個々にありました。
堤を切っても、次の堤防でまた受け止める。そういう小さい仕組みをたくさんつくりました。
ものすごくあふれる場所は無税にするとか、租税負担を調整することで合意形成を図っています。
あふれる所というのは土地が肥沃なので、あふれない年は農業生産に有利なんです。
潮受け堤といって、潮が上がってきたときに、潮水をあふれさせる遊水地も設けられました。海沿いで干満差が大きい地域で、しばしば用いられる仕組みです。現場に行くと、まだ見ることができますが、今の日本では、そういう技術があったことはほとんど忘れられていますね。
また、増水したときにだけ水を流して逃がす川もつくられていました。川底に穴が開いていたり、複雑な仕組みをつくっていたようですが、今は残っていないので、よくはわかりません。
佐賀平野は、一見水が豊かそうに見えるけれど、実は水が少ない。干拓地というのは水源を持たないから、そこでどうやって水を確保するか。それでクリーク(溜め堀)というものが発達するんです。
山から出た水がつくった扇状地があって、すぐにデルタがあって、という佐賀のような所では、微妙な地形の変化に対応しなくてはならない。成富兵庫が構築した、実にきめ細やかなシステムには、本当に驚かされます。
佐賀には江という字のつく川がたくさんあるんですが、潮水が入る川という意味です。ここに水が落ちてしまうと、アオ取水(満潮時に潮水の上に比重が軽い真水が載ることを利用して、真水を取る方法)を利用すれば別ですが、基本的にはもう使えません。
ですから「江という名前がつく川」に落ちると、水の役目はおしまい。ですから、江までどうやって水を運ぶかというのが勝負です。
石井樋から取水した水は多布施川を通って佐賀城下町を通りながら、八田江(はったえ)までいきます。
天井川で高い所を通っている多布施川は、右に左に用水路を配していくには都合がいいんですね。排水路で水を受けて、最終的には感潮河川(多布施川の場合は佐賀江川)である「江」に水を落とします。
今は都市化して残っていないので実証はできませんが、おそらくこの排水路が片側堤防であった可能性が高い。
多布施川は26もの用水路を持っていてそれぞれが水門を持っていますが、洪水時しか管理しません。洪水のときだけ水門を閉める。普段は、一切手をつけていません。
ですから上流から水が流れると、あまねくすべての所に水が配られる。まるで神の手のように!隅々まで、毛細血管のように行き渡るのです。
多布施川から発した用・排水路のフローマップ(下図参照)ですが、ここに青い線で示したのが、きれいな水、赤い線で示したのが悪水です。これらの悪水は十間堀川に落とされ、最終的には「江がつく川」まで落とされていきます。
城下町の中も、ものすごく屈曲しているんですが、多布施川を背骨として、左右に水を分配する基本的なシステムは同じです。ただお堀にも水が越流するような場所があって、お堀を遊水地として機能させようという意図がかなりあったのではないかと思います。
成富兵庫は、この広い土地に人間が一切コントロールしなくても水が行き渡るシステムをつくった。堰高や井樋の幅、底高により、流量配分が決まっているために、地域に適正に分配するシステムが構築されているんです。
多分彼らは同じような高さの所に同じような堰をつくると、幅によって流量が変わるということはわかっていたと思います。水田の面積によって水路の幅を変えるというぐらいの技術は持っていたと思う。
土木屋的に考えると、ちょこっとずつ直していったんだと思います。そうやっていくと、最適化されるじゃないですか。今のコンピュータープログラミングでも5回ぐらい近似計算を繰り返すと真値にかなり近づきますから。
100年も経てば、これぐらいの完成度には達するかな、と。ただ、そうじゃないかなと思っているだけで、本当はもっと賢くて、すぐに完成できたのかもしれない。成富兵庫が生きている間には、おそらく数回の調整でかなりのシステムができていたんじゃないかと思います。
この水路は、佐賀の城下町に水を持っていくためにつくられた水路なのに、明治時代以降の水利権の流れを見てみると、慣行水利権として認められたのは農業用水路だけなんですよ。
成富兵庫は佐賀城下町に水を引くためにこうしたシステムをつくったのに、都市用水に慣行水利権が認められていないから、都市用水が減るということが起こっていて、その水利権が環境水利権というような名前で位置づけられようとしています。水利権行政としての問題点が、こんなところにあります。
もう一つ、三法潟(さんぽうがた)の開発を見てみましょう。これも成富兵庫の傑作です。
これはもっと複雑です。三法潟は、低地蛇行河川である六角川にあります。
そこに潮見という場所があります。良い平野があるんだけれど、潮が上がってくるために開発ができなかった。治水と利水と潮水の処理をいかに立体的にやるかというのが、ここにおける成富兵庫のミッションだった。この広い平野を潤すことができれば、素晴らしい新田開発ができる。成富兵庫はそれに挑戦しました。
そのミッションがわからないと、ここをいくら見ても理解できない。
まず「大日堰」という堰をつくりました。これで潮を止めるわけです。ここから上は真水になりました。この真水を、どう使うか。
右岸側の処理としては、生見川(いきみがわ)という横堤をつくって、水を供給するための用水路と洪水時の放水路を兼ねさせました。洪水時には、六角川に並行する骨になる用水路の所につくった「生見の石井樋」を閉めて、余分な水をあふれさせました。上流からの洪水も、横堤である生見川で受けてあふれさせます。
左岸側の処理としては、大日川(だいにちがわ)をつくって、生見川と同じ役割をさせています。ただ、大日川には石井樋をつくらないで、穴だけが開いた「大日井手」という堰をつくりました。通常のときも洪水のときも、穴が開いたままで水がちょろちょろとあふれます。そして洪水のときにオーバーフローした水が返るバイパスを、その穴の上流につくったんです。今は真っすぐになっていますが、成富兵庫はここを蛇行させたといわれています。
野越しから水があふれることを想定しているのと、水流を弱めることを目的として、ここは広い空間を遊水地として確保し、流水抑制効果の高い竹林を繁らせました。
大日堰は、今は立派な水門になっていて、横堤もちゃんと残っています。
放水路である大日川の下流は堤防がなく、小さな河川になる。竹林がある所には、昔、象の鼻という構造物があったといわれています。それは、僕が武雄に赴任する前に、平成に入ってから、壊されています。もったいなかった。そのころは、こういう歴史的構造物をもったいないと思うような考え方は、残念なことになかったんです。
今の遊水地の発想は、川のそばにつくる、ということだけ。しかし成富兵庫は、川の水を離れた所にまで持っていってあふれさせた。離れ遊水地ですね。
牛津川までは、西芦刈水路で水を引いています。牛津川より西側は波佐間用水路で水を引いています。波佐間用水路と牛津川の間に洪水防御用の横堤があります。横堤は、1995年(平成7)に壊されて、今は一部が史跡として残されています。牛津川にも潮が上がるので、波佐間用水堰で潮を止めて、潮水と真水を分離しています。
宮地先生は、「横堤は必ずしも下流に対する洪水を防ぐだけのものではない。1回小さい洪水を起こして泥を溜めて、肥沃にするための装置だ」と、いつもおっしゃいます。これも多目的な施設ですね。
石井樋のモデルとなったと考えられるのが、裂田(さくた)の溝(うなで)です。これは日本最古の用水路で、『日本書紀』には神功皇后紀につくられたという記述があります。佐賀の水システムとの類似性が高い、水利システムです。
裂田神社の外周を迂回するようにして溝が流れています。『日本書紀』は、神功皇后が新羅に遠征する際に神田を灌漑するため溝を掘ったところ、大岩に突き当たりそれ以上掘り進めなくなった。そこで神に祈ったところ、雷が落ちてその大岩が裂け、水路が拓かれた、と記しています。阿蘇火砕流台地を人間が開鑿したと思われる用水です。
嘉瀬川の裏側にあり、福岡に水を配っている那珂川に一ノ井堰を設けて取水し、溝によって、現在も山田から今光までの6つの集落の水田を潤しています。
氾濫水を用水路から分離し、那珂川に戻すための亀岩という岩があります。石井樋には亀石というのがあり、仕組みがよく似ています。蛇行しているし、出鼻もある。
この下流に現人(あらひと)神社があって、この神社の水田に配水したと考えられています。現人神社は、住吉神社の元だといわれています。『筑前の国風土記』に江戸時代の絵図が載っていますが、大きな岩があって神社があって水路が蛇行しています。
石井樋のちょっと上にも川上神社というのがあって、与止姫(よどひめ)を祀っています。淀川もこの与止姫と関連があるといわれている、非常に由緒のある神社です。淀は澱むという意味もあるけれど、「与える」と「止める」。利水と治水のことですね。
嘉瀬川の人たちはナマズを食べないんですが、裂田の溝の取水口のそばにある伏見神社にも与止姫が勧進してあって、ここの人たちもナマズを食べません。
特徴的に見られる蛇行について、今、一生懸命考えているところです。
蛇行させるということは、用排水の基本的なシステムだったのではないか。それは、ゆっくり流すためではないか。神様がくれた水を、直線にして早く流すなんていう馬鹿なことはない、と。それに掘れる所が水を取り易い所なんで、取水口を湾曲した外側に持っていったんではないか、という仮説を立てています。
「自然の地形を利用しているから、等高線に沿って蛇行させたのか?」と言う人もいますが、私は人工的に蛇行させていると思います。
舟を通すことを考えても、すぐに流れてしまって水深が浅いよりも、たっぷり水があって、ゆっくり流れるほうがいい。
蛇行しているほうが潮がゆっくり上がると地元の人も言うんだけれど、よくわかりません。
また、砂を溜めるために蛇行させているんだ、と言う人もいる。砂は湾曲部の内側に溜まるじゃないですか。真っすぐだと、すべての箇所に溜まる。曲げていると溜まるところが特定されるから、浚渫するにも半分でいい。
洪水だって、あふれる所を決めているから、被害はあるけれど、人的被害とか予測していない被害は最小限に抑えることができた。
だけど、それだって何回もやられてしまうから、神様を祀ったりして祈るわけです。
水田でも、同じ人が同じ地域だけに田んぼを持つのではなく、あちこちに持っていた。リスク分散です。五穀が注目されているけれど、それはいろいろな作物をつくっておけば、何かが起きてある作物がダメになっても、補う食料が確保できるからといわれています。
危機管理をするときに、予測可能性というのは非常に重要なんです。今の河川管理は、どこで切れるかわからないロシアンルーレットになっていないでしょうか。
武田信玄や成富兵庫が治水事業を行なった背景には、荒廃した領地を立て直す目的があった。
同時に幕藩体制の確立です。幕藩体制をしっかりさせるためには、まず農業生産を上げて、人民を管理する。水の管理、治水と利水を一体化した水の管理をしながら、人民管理をする。用水管理をする中で、そこにいるグループの掌握ができてくる。
釜無川の流れを高岩にぶつける仕組みをつくった信玄もすごい。堤防より岩のほうが強いんだから、岩を動かすより、川を動かしたほうが簡単、と思ったんだろうけれど、やってしまうところがすごい。あれだけの事業になると人手がものすごくかかりますから、人心を掌握しないと実行できません。
戦国時代になって技術が急速に高まったといわれていますが、本当かいな、とも思う。裂田の溝なんかを見ると4世紀に既にそれだけの技術があったんです。
先日、対馬の金田の城(かねたのき)(注1)に行ってきたんですが、すごい石積みですよね。戦国時代を待つまでもなく、7世紀ぐらいにこれだけの技術があったんですよ。
こういう歴史を、きちんと見直す必要がありますね。
(注1)金田の城
663年(天智天皇2)の白村江(はくすきのえ)の戦いで、百済再興のために大和朝廷が送った援軍が大敗。そのため大和朝廷は、朝鮮半島からの撤退を余儀なくされた。防衛のためにのろし台や防人(さきもり)を配置し、667年(天智天皇6)に美津島町箕形の金田の城が築かれた。朝鮮式山城の遺構がよく残っていて、国の特別史跡に指定されている。
『成富兵庫茂安事蹟集』によると、成富兵庫は、まず千栗堤(ちりくてい)という堤防を築きました。千栗堤は、筑後川の水を防ぐために湾曲した箇所につくられました。千栗堤によって佐賀の水害は減りましたが、福岡側はかえってひどくなったそうです。
千栗と書いてなんで「ちりく」というのかよくわからないのですが、川裏に杉を植えて、川表に竹を植え、堤の真ん中に粘土状の「ハガネ」を入れました。
つくられてから一度も壊れていません。明治になってから堤防の一部を道路にするために切ったのですが、それ以降、切れるようになりました。
杉を植えたのは、大きく育ってから地域の人が使えばいい、という発想です。馬の頭という施設でサイフォン導水のための樋にする桶をつくるのに、入会いで使いなさいと言って山を1個あげたりしている。また、農閑期にしか工事をしなかった。工事が終わったときには祭りをするとか、非常に地域の人に配慮をしながら普請を行なった、と言われています。
町の名に茂安町というのがあることからもわかる通り、佐賀では今でも大変、慕われています。
僕らが知っている遊水地というのは、水を溜める遊水地。しかし、成富兵庫がやった城原川の遊水地は流れ遊水地なんですよ。そんな発想、今は誰も持っていない。だから、城原川という氾濫河川の処理についても、現代人はなかなか理解できない。
堪水をポンプで汲み上げたり、本川の水位が下がったときに返す遊水地はあるんだけれど、排水路を準備することで長時間堪水しないようにして、下流にどんどん流しながら一時貯留するなんていう、放水路と遊水地の両方の機能を持ったものは、現代ではありません。
堤防なんかつくらないから、用地買収も不要で、コストも安くできる。地役権を設定して流れ型の遊水地にして、都市化だけ起きないようにすれば、今でもできる仕組みなんだけど、社会システムがそれに追いついていない。
実際にやるかやらないかはともかく、こういう技術システムがあることを知らないと、技術発想が乏しくなるでしょう。河川工学の教科書にも、このような技術は載っていません。
成富兵庫は、大変なときは必ず現場に行って泊まっています。何回も話し合いを持っているし。もう、合意形成の親分。日本の封建時代には、何でもかんでも強引にやっていたと思われているんだけれど、けっしてそんなことはなくて、きちんと積み上げ型で事を進めている。
単に治水だけをやっていたわけではない。租税の問題もやっているし。土地利用、財政、コミュニティ政策、治水と利水の水利事業。全部一体化してやっている。
だから、ある意味、総合行政をやっているわけですよ。成富兵庫って、副知事みたいな人だよね。もちろん、一人で全部やったのではなく、相当優秀な部下が100人規模で働いていたのでしょうが。
成富兵庫の視点には、江戸時代が持っていた非常に多面的で多層的で複雑な仕組みがある。
だから治水のことも、単に堤防といった単純なシステムではなく、複雑な装置を持っているわけですよ。
装置があるから、それにつけられた名前や言葉も生きていた。装置を壊してなくしてしまうということは、言葉自体もなくしてしまうことなんです。
太宰府でもかなり標高の高い所にある集落で聞き取りをしたんだけれど、水に関する言葉に水道(みずみち)というのがある。これは水の通る道のことではなく、茶道や華道と一緒で水の使い方の作法のこと。「あの人は水道に外れている」といった使い方をするらしい。感動しました。
ここにも洪水を受ける仕組みがある。洪水になると、たくさんの水が用水路に流れ込まないように、所々に「水跳ね」といって大きな石を入れた、と婆ちゃんが言う。そうするだけで、町の中に洪水が入ってこないそうです。
僕が武雄に行って取り組んだ大きな仕事の一つにアザメの瀬があります。アザメの瀬は、昔の遊水地とまったく同じ仕組みなんです。
氾濫があれば、生き物が還ってくる。カエルだって、たくさん卵を産むし、植物の種だって上流から流れてくるんだから、わざわざ植えなくても自然にいろいろ生えてくる。コミュニティだって還ってくる。
僕は成富兵庫のことを勉強して、こういう形に反映させています。
近代化というのは、機能を分化させることだった。だから、治水と利水を分けた。その上、細分化して上水道は厚労省、農業用水は農水省、工業用水は経産省、下水道は下水道部に。
今、必要とされているのは、明治になって近代化が進んで分離してしまった機能を、「市民」がつないで多面的にすることなんです。
じゃあ、どうするのか。行政に依存してやってくれるのを待っていたって、なかなか進まない。みんなの力でなんとかしよう、と。そういう時代に入りつつある。
ただ、お金がどうだとか、経済がどうだとかだけじゃなくて、地に足がついた国土管理をやらなくちゃいけないと思います。
新しい時代に入りました。低炭素型の社会にしなくちゃいけない、と僕は思っている。そのためには、国土再編が必須なんです。
みんなの中に入っていって、地域をまとめて、住民を主体にした合意形成を取りまとめられるような成富兵庫茂安みたいな人材。今、求められるのはそういう人材ですよ。