機関誌『水の文化』32号
治水家の統(すべ)

海と川と土をつなぐクリーク
佐賀平野を養う水利用

降れば洪水、照れば旱魃(かんばつ)。 佐賀平野の厳しい自然条件は水を使う智恵を高度に磨いていきました。江湖(えご)やアオ取水、激しい干満の差、ガタ土など、この地ならではの事柄を抜きにして、佐賀平野の水利は理解できません。 徹底的に現場を歩いてきた宮治米蔵さんに風土と一体となった、幕藩体制下の水利事業を語っていただきました。

宮地 米蔵さん

元福岡大学教授
宮地 米蔵 (みやじ よねぞう)さん

1919年佐賀県生まれ。九州帝国大学法学部卒業。福岡大学法学部教授を経て、久留米大学教授。1996年退職。専門は行政法。研究の基礎は、フランス革命以来の課題である「自由と平等」及び「共同体Community」においている。
主な著書に『佐賀平野の水利慣行調査-佐賀平野の水利秩序とその調整』(九州農政局筑後川水系農業水利調査事務所1976)、『水の博物誌』(福岡県自治体問題研究所編合同出版1979)、『佐賀平野の水と土』(監修新評社1977)ほか。

下は午後2時、上は6時。撮影ポジションが少し違うが、同じ場所の写真。

上は午後2時、下は6時。撮影ポジションが少し違うが、同じ場所の写真。手前が筑後川との水門。たった4時間で、干満の影響を大きく受けている。江湖なのか河川なのかは、初めて見るものにはわからない。

筑後川

佐賀平野の水利は、筑後川と、嘉瀬川を代表とした天井川と、江湖をクリークでつないだ広大な仕組みです。その背景には、有明海の大きな干満の差、水源山地の性質といった風土がありました。

筑後川は、利根川の「坂東太郎」、吉野川の「四国三郎」とともに、「筑紫次郎」と並び称される川です。阿蘇外輪山を水源として、九州中部を、東から西に流れ、有明海に注いでいます。

上流は肥後(熊本県小国)、豊後(大分県日田、玖珠、九重)、中流は筑前(福岡県甘木、朝倉)、筑後(福岡県浮羽、三井、小郡、久留米)、下流は肥前(佐賀県基山、田代、鳥栖、三養基、神埼、佐賀市)です。中・下流でいうと、右岸は筑前、筑後、肥前、左岸は筑後、柳川で筑後川は国境(くにざかい)となっています。

封建時代の常として各藩とも自国中心の護岸、水制、堤防を設け、中流では洪水を対岸に追いやる刎(は)ね(注1)を、下流では自領に水を持ち込む荒籠(あらこ)(注1)を設け自国の津(みなと)の水深を確保することに努めました。濫設された護岸、水制はかえって筑後川の正常な流れを阻害するものとなりました。

筑後川は蛇行の著しい川です。蛇行をショートカットし護岸(刎ね、荒籠)を除去することは、明治以降の筑後川治水の眼目となりました。また、洪水被害を抑えるために、明治政府は大きく蛇行した流路をショートカットしました。これを捷水路(しょうすいろ)といいます。

現在、筑後川の北西側であっても福岡県であったり、逆に南東側であっても佐賀県であったりするのは、この流路変更に因るもので、もともとはお境川だったのです。

新しく掘った捷水路は、水流に堪えるように河床に石を張って強固にしました。「床固め」といって、今でも小森野と坂口に見られます。(地図「成富兵庫茂安の足跡」ページ、および下写真参照)

有明海というのは干満の差が非常に大きく、高潮の被害も大きい所です。だいたいどこの川でも、満潮時には潮が25kmぐらいまで遡ります。筑後川で25kmというと久留米までいきますが、今は筑後大堰ができて潮を閉め切っていますから、そこより5km下流で止められています。

普通、その川がどこの海に流れるかなんていうことを、みなさん、ほとんど問題にされないでしょう。ここではね、玄界灘に流れるか、有明海に流れるかで、川の性質が全然違います。

有明海は干潮時には干潟になりますから、海岸には港がないんです。それで川湊が発達した。津というのは、湊です。諸富津(もろどみつ)、寺井津、早津江(はやつえ)。津という地名がやたらと多い。津とか、島とか。

全国的に見たら、浦というのが多いでしょ。有明海には、浦というのはないんです。わずかに大浦なんていう名前が出てきますけど。

津ができたのは、だいたい海抜4mの所で、有明海の潮汐の限界点下流に集中しています。面白いことに、津を結ぶと、主要街道になるんですね。国道34号線の長崎街道、国道264号の江見線などがそれです。これは、貝塚線ともほぼ一致しています。近世になると津は埋まり、下流に新津ができます。そうすると、旧津は農村に退化していきます。

川沿いにある食品会社の工場には、10日に1遍くらい、油を積んだ船がやってきて、専用堤防に横付けします。ここには、1898年(明治31)日清戦争の後、セメントの工場がありました。川湊としての利便性を利用したのと、上流の日田から筏によって材木を得て、家具産地の大川でセメントを入れる樽をつくっていたんです。

明治も末になって、千石積みの木造船に代わって、鋼鉄製の汽船が入ってくるようになりました。うまく澪筋を読まなければ、満潮時でも潟につかえてしまいます。諸富には、そのためのパイロット(水先案内人)が何人もいました。

船が通るので、JRの筑後川鉄橋は昇開橋としました。物流や交通手段が舟運から自動車に変わるにつれ、渡しは廃止されていき、1994年(平成6)に下田の渡しを最後に廃止されました。

今、橋が架かっているのは、おおよそ渡しがあった所です。

(注1)荒籠 刎ね
岸に対して直角もしくは下流に向かって、川の中につくられた水制工。刎ねは洪水を刎ね返す構造物。荒籠は筑後川のような感潮河川特有のもので水刎ね機能だけではなく、沈砂作用を調整し、舟運に利するためにも用いられる。水制工に当たった水が対岸に不具合を引き起こしたので、しばしば争いの元となった。

  • 上段:坂口の「床固め」下段:同じ坂口の満潮時の様子。

    上段右側3枚:午後2時すぎの坂口の「床固め」、左が上流で右が下流。筑後川本来の流れが見える。広大な流域を持つ川なのだが、取水量が多いのか、意外にも流れは小さい。一番左はそのときに釣れたスズキの幼魚、セイゴ。
    下段右側3枚:同じ坂口の満潮時の様子。右の下流から左の上流に向かって流れている。その少し前の時間を狙ってウナギを釣っている人がいた(下段一番左)。この日の満潮には、撮影ポイントの土手の上まで水があふれてきた。

  • 右上:普通、船の舳先は流れの上(かみ)を向くのだが、真横を向いている不思議な風景。 右下:筑後川河口近く。

    普通、船の舳先は流れの上(かみ)を向くのだが、真横を向いている不思議な風景。筑後川本来の流れと潮の満ちてくる流れが均衡して、流れが停まっているからだ。(花宗川逆流止水門)

  • 右上:普通、船の舳先は流れの上(かみ)を向くのだが、真横を向いている不思議な風景。 右下:筑後川河口近く。

    筑後川河口近く。大川市と大野島を結ぶ新田大橋から上流を望む。川の中央にデレーケのつくった導流堤が見えている。潮が満ちてくるときには水没してしまうものだ。

  • 上段:坂口の「床固め」下段:同じ坂口の満潮時の様子。
  • 右上:普通、船の舳先は流れの上(かみ)を向くのだが、真横を向いている不思議な風景。 右下:筑後川河口近く。
  • 右上:普通、船の舳先は流れの上(かみ)を向くのだが、真横を向いている不思議な風景。 右下:筑後川河口近く。

佐賀藩 鍋島家の事情

肥前の領主は、戦国時代に入って一気に勢力を伸ばした龍造寺氏でした。病弱であった龍造寺政家は早くに隠居し、長男の高房が幼少であるにもかかわらず家督を継ぎます。そのため、のちに佐賀藩の祖となる鍋島直茂が、筆頭重臣として国政を行なっていました。

1607年(慶長12)に高房、政家が亡くなると直茂の嫡子勝茂は幕府公認で佐賀藩の初代藩主となり、直茂の後見下で藩政を行ないます。

龍造寺家から鍋島家への政権移行はスムーズになされましたが、鍋島の化け猫騒動の話が誕生したのは、両一族の確執から、ともいわれています。

龍造寺家臣団をほぼそのまま引き継いだために、石高のほとんどは龍造寺と鍋島譜代の家臣団への知行分となってしまい、直轄領が6万石程度しか残らず、藩政当初から財政面において苦しむこととなりました。

1600年(慶長5)の関ヶ原の戦いで、佐賀藩の鍋島勝茂は、どちらに味方するか決めあぐね、たまたま上方にいたことから西軍に与します。しかし、直茂の急使により、すぐに東軍に寝返り、関ヶ原本戦には参加せず、筑後・柳河藩の立花宗茂、同・久留米藩の小早川秀包らを攻撃しました。

西軍に与した柳河藩の立花宗茂は、陸奥棚倉3万石に転封され、田中吉政が三河岡崎10万石から、筑後一国32万5千石を与えられ、柳川に城を構えました。関ヶ原で戦功があった豊臣大名たちは、大加増を受けつつも、東海地方から西軍の没収地である中国、四国、九州へと遠ざけられたのです。

吉政はこのとき、先程の筑後川捷水路開鑿や柳川の掘割の基盤を整えています。

鍋島勝茂は、黒田長政の仲裁で徳川家康に謝罪、先の戦功により本領安堵を認められますが、こういう事情があるために、水利事業の面でも、黒田氏の福岡藩や田中氏の柳河藩、有馬氏の久留米藩に一歩遅れをとるのです。

ですから、川の三角州を開墾した、道海島(どうかいじま)も浮島も、筑後の柳河藩、久留米藩に先を越されてしまいます。

また、久留米藩に百間荒籠(ひゃっけんあらこ)というとんでもないものをつくられて、若津という川湊に水を呼び込むようにされたため、諸富川のほうに水がこなくなり舟運に支障が生じました。

藩政時代は対岸で領地が異なるために協力することはなく、自領に得になる治水、利水を競い合ったために、洪水被害を倍加するということも起きていたのです。

江湖(えご)

農業水利がわからなければ、佐賀の水について理解することはできません。

有明海の潮を、どこで防ぐかというのは大変な問題なんです。それで逆流止め水門がつくられました。今では逆流止め水門を置けば、ポンプを置かなきゃいけませんから、蒲田津には毎秒30tのポンプが2つあります。ここは、九州では一番大きなポンプ場です。

江湖は、川ではありません。干潟の澪が、潮の上下流によって深く、広く堀り崩されていって川のようになった所です。

ですから、一見、江湖と川とは区別がつきませんが、江湖は上流からの水源を持ちませんし、その流路は極めて短いのです。

江湖の水位は、普段は水田より低いんですが、満潮になると堤防いっぱいまで上ってくるんですよ。

佐賀っていうのはね、水がないんですよ。城原川(じょうばるがわ)だってね、「なんだ、このションベン川は」というぐらい、しょぼしょぼしか水が流れていない。それで広大な土地を灌漑しなくちゃならない。そのために生み出された仕組みが、筑後川や天井川といった河川と江湖、そして有明海を結びつけるクリークなんです。

徳川時代の農地開発というのは、水源を伴わなくても進められました。それは耕地に対する水利開発のバランスが崩れるほどのものでした。そうした新田開発を助けたのが、江湖の利用です。

では、どのようにして江湖を利用したのか。それは有明海の大きな干満の差を利用したアオ取水によってです。

アオ取水

満潮時には潮が河川を25kmぐらいまで遡りますから、一度は有明海に流れ下った水が、比重の重い潮水の上に乗って筑後川を遡り、さらに江湖を伝わって、クリークの隅々にまで運ばれます。

満潮時に樋門を開けることで、アオ(淡水)取水を行ないます。樋門には上樋と底樋があって、アオを取るときには上樋を開けます。樋門の開閉は井樋番が行ない、水の泡立ちを見ながら塩分を推し量ります。田んぼに潮が入ってはいけませんからね。

今は塩分検定器を使いますが、昔は耳で音を聞き、目で泡を見て、舌で塩を味わって、樋門を閉めるタイミングを計っていました。

満潮時に潮が上がるときは、ものすごい音がしますが、お聞きになったことはあるでしょうか。ゴォゴォと地響きを立てて、川の水が上流に向かって流れる様子は、初めて見た人には大変不思議な光景でしょう。

上流からの川水だけに頼れない、水が少ない佐賀平野を潤すのに、江湖は上げ潮に乗ってくるアオを取るという、特殊な役割を果たしているのです。

佐賀平野の川は、上下流2つの水源があるというわけです。

舟運路、排水路として

江湖は舟運のためにも非常に重要でした。

佐賀江につけられた大曲、小曲、本庄江につけられた相応津の曲という大きな蛇行部は、潮を上り易く、かつ潮待ち時間を長くし、舟航に必要な水量を確保するために、成富兵庫によってつくられたものです。

排水路機能として、例えば佐賀江は、多布施川(佐賀市材木町で開渠と暗渠によって)の水を、十間川(巨勢町下新村で大井樋の戸立てによって)の水を、巨勢川、焼原川、犬童川、中地江などが多布施川及び城原川に持ち込んだ(各々の井樋によって)水を受け止めています。

つまり佐賀江は、多布施川以東、佐賀江以北、城原川以西の悪水排除の受け皿になって、本来の流域以外の多くの排水に当たらなくてはならないのです。水流が涸れることはありませんが、排水能力は限度を超えています。そこで成富兵庫は、佐賀江の洪水をショートカットする水路をつくりました。

それが新川の開鑿です。

ただし、佐賀江も新川もともに筑後川につながる水路ですから、潮が満ちていて佐賀江が排水できないときは新川も排水できません。

佐賀江に加えられた極端な蛇行、大曲、小曲は、こうした条件を補うために、佐賀江の貯水力を高めて、これ自体を遊水地にしてしまうという発想でつくられました。

クリーク

この地方では水害が頻繁に起こります。また、クリークで辺り一帯が覆われているため、水が多い地域だと思われがちです。しかし実際には「降れば洪水、照れば旱魃」という非常に厳しい自然条件の所なのです。

水害と旱魃は、佐賀平野の宿命でした。北側に屏風のように東西に連なった背振(せふり)山地は北山とも呼ばれ、分水嶺は佐賀と福岡の県境となっています。

佐賀平野は山が浅く平野が広い充分な集水面積を持つ川がありません。

また、ここの山々は花崗岩でできていて、蛤水道で見てこられたと思いますが、マサと呼ばれる風化した土砂を多く排出します。ですから、保水力もない。

しかも、有明海はどんどん南に退き、沖積平野は沖へ沖へと広がっていきますから、山から出て平野を潤す河川は、その能力以上の水供給を要求されることになります。

佐賀平野では、こうした厳しい条件を解消するために、流水を繰り返し利用する必要がありました。そして水が不足する平野に水を持ち込み、それをなるべく「もたせ」て抱える容器が求められました。

それがクリークです。

人工的につくられた水路をクリークと呼ぶのは、これがもとは自然発生的な水路だからです。

この地方では、二千数百年前に既に水稲栽培が行なわれていました。旧河道沿いの自然堤防の上には、弥生式村落の遺跡が発見されています。

当時も、この地域の農業用水は筑後川のアオ取水に頼っていました。しかし、干満の差は1日、15日(旧暦)を中心として前後1週間は大きいものの、その後は次第に小さくなりますから、アオの量も少なくなります。

これに対応するために、流入したアオを貯水する必要が生じました。そのために生まれたのが溝や畦で、原始的クリークの誕生です。

溜池機能を持つクリークが、溜池ではなく水路となったのには、理由があります。それは排水路としての役割です。

つまりクリークは導水路であり、貯水路であり、排水路なのです。南下するに従い(低地になるに従い)、貯水路としての役割はいっそう増大します。それは、満潮時に特に求められます。

原始的クリークは、古墳築造技術の応用、645年(大化元)の大化改新で行なわれた条里制、中世荘園制下での変形(環濠集落に見られる、外敵からの防御としての濠など)を経て、近世佐賀藩によって非常に高度なシステムへと発展を遂げるのです。

先程も述べた鍋島勝茂は、1608年(慶長13)から、現在の位置に佐賀城を築城し、城下町を経営しました。幅40間(72m)の城濠を四角形にめぐらし城下町の防御とします。

そして、城濠の用水、生活用水、穀倉地帯への灌漑用水の手当が、領国経営にとって急務となったのです。当時の水利土工は、軍法の一部として行なわれます。これを整えていったのが、成富兵庫です。

鍋島は土着の大名でした。地付の大名だから、水利事業や農村経営に際して、地侍の反抗に考慮する必要がなかったことは幸いでした。

成富兵庫は、長い間の耕地開発によって勝手に使われていたクリークを、整然とした水利体系の中に織り込んでいきました。

  • 上:佐賀県千代田町の環濠集落。手前の川は城原川。下:城原川は天井川。

    上:佐賀県千代田町の環濠集落。天然の堀で外敵から守った名残が見られる直鳥城集落。手前の川は城原川。
    下:城原川は天井川。

  • 右:中地江川の高田堰。左:蒲田津の逆流止め水門。

    左:蒲田津の逆流止め水門。 右:中地江川の高田堰。左の水路がクリークで右の水路が江湖。左側には水位が上がったときに水を送る「野越し」が見える。

  • 江湖の水位は、満潮になると水田より高くなるが、訪れた午前中(干潮時)には低くなっていた。 左:右手に広がるのは麦田。

    左:右手に広がるのは麦田。二毛作でつくられた麦はビールの原料になるそうだ。
    右3枚:江湖の水位は、満潮になると水田より高くなるが、訪れた午前中(干潮時)には低くなっていた。

  • 上:佐賀県千代田町の環濠集落。手前の川は城原川。下:城原川は天井川。
  • 右:中地江川の高田堰。左:蒲田津の逆流止め水門。
  • 江湖の水位は、満潮になると水田より高くなるが、訪れた午前中(干潮時)には低くなっていた。 左:右手に広がるのは麦田。

嘉瀬川

実は、佐賀平野で独立河川とよべる川は、嘉瀬川しかありません。嘉瀬川も厳密にいえば、筑後川の勢力圏に持ち込まれています。それは、佐賀江が東西方向に流れて両川をつないでいるためです。

嘉瀬川の石井樋については、島谷幸宏さんが詳しく説明されているようなので、ここでは申し上げません(「成富兵庫茂安の足跡」ページ参照)。

ただ、嘉瀬川を例に、域内中小河川の役割を申し上げましょう。これらの河川は、扇状地を流れるうちに天井川になっていきます。洪水を防ぐという点では具合が悪いのですが、平野に水を引くことに関しては、非常に好都合です。

筑後川は一番低い所を流れるので、ここから水を引こうと思ったら、大変なエネルギーを使わなくてはなりません。しかし、天井川からは自然流下で楽に水が引ける上、悪水も入らないのです。

逆に、排水のことを考えたら、天井川だけであったら困ります。こういうわけで、利水は、天井川を利用して上流の川水と江湖を通じて下流からくるアオを取る。排水は、干潮を利用して江湖、もしくは筑後川に落とす、ということをやっていました。

これを細かく整備して、毛細血管のように隅々まで行き渡るように工夫したのが成富兵庫です。

アオは欲しいが潮は止めたい。いったん流入したアオを貯水したい。また、水害被害を防ぎたい。成富兵庫はこうした条件に対応するために、堰や樋門を利用して、そこを管理するクリーク共同体をもつくり上げています。

千栗(ちりく)土居

成富兵庫の行なった水利事業は、佐賀平野が置かれた状況をつぶさに観察して、解決すべき課題に個々に対応しながら、それらが相互に生み出す連携をプラスの方向に導くものでした。彼のやったことを、この誌面ですべて紹介することはできません。

しかし、この時代ならではの象徴的な事例として、千栗土居を見ていきましょう。

佐賀では堤防を土居と呼びます。千栗と書いてちりく、と読みます。

筑後川は一番低い所を流れていますから、あふれた水は、筑後川に戻すよりほかないのです。また、排水の点で見たら、これもすべて筑後川に出すよりないのです。

このため、本川である筑後川の水害を治めることは、佐賀領内の支川利用のために不可欠な課題でした。こうして築かれたのが千栗土居です。

寛永年間(1624〜1643)に12年かけて、筑後川の右岸、旧・三養基(みやき)郡北茂安(きたしげやす)町千栗(ちりく)から三根町坂口に至る12kmの区間に築かれました。高さ4間、馬踏(堤防の上の平らな部分)2間、川表犬走9間、堤敷30間で、川表には竹を植え、川裏には杉を植えた、と『明治以前日本土木史』(日本土木学会岩波書店1931)にあります。

個々の村落を守る小規模な工事なら、村の力でなんとかできます。しかし、河道を固定し、堤防をつくり、堤防を守るための水制工、護岸などの川除を行なって、広大な沖積平野を守るには、体系的な河川工事が求められます。

高度な土木技術と多数の労働力はもちろんですが、個々の利害を押し切る統一権力がなければ、これらは実現できないのです。

しかしながら、幕藩体制下の枠の中で行なわれた工事ゆえに、佐賀側の利益を優先した工事に留まったため、対岸の有馬藩は被害を一身に受けることになりました。そうして左岸側につくられたのが安武(やすたけ)堤防です。

安武堤防は千栗土居と同規模なものとしてつくられましたが、強度的に対抗できなかったために、成富兵庫に匹敵する土木技術者である丹羽頼母重次(にわたのもしげつぐ)を招いて、河岸保護を目的とした荒籠を築造しました。それが、先程も述べたたくさんの荒籠です。

このように、自国の経営を重視した水利事業は、他領の利益を損なうこともあり、たびたび争いになりました。

対馬領の飛び地で田代(たじろ、現・鳥栖市)という所に米蔵がありました。成富兵庫が安良川で行なった治水工事によって、洪水が田代に押しやられたため、ここでは「成富悪兵庫」だと言われています。

余談ですが、田代は対馬から「薬をやるから行商をしなさい」といわれ、九州では有名な薬の行商基地になりました。対馬には朝鮮半島から朝鮮人参などが入ってきていたからです。貼り膏薬で有名になった久光兄弟合名会社も、ここの創業です。

近世大名の領国経営

天下統一後は、領国経営のやり方が、戦国時代とは変わっていきました。

鍋島は、当初西軍に与して伏見攻めをしていることから、江戸幕府に積極的に協力して忠誠を表わします。成富兵庫も江戸城、名古屋城の築城に駆り出されます。江戸城築城のために資金を使い果たしてしまった佐賀藩は、大坂冬の陣に出陣できないといって、家康から借金をしているほどです。

また、肥前の名護屋城が本営とされたため、朝鮮出兵の軍役の負担が重くのしかかりました。

このように、戦国時代には領国全体に非常な負担がかかり、農村は荒廃していきました。佐賀藩が、一貫して川除整備や干拓などを行ない、増収政策に取り組むこととなった背景には、こういう事情があったのです。

1611年(慶長16)、佐賀藩は困窮した財政立て直しのために、隠田の摘発を目的とした検地を行ないますが、予想に反して石高の増加は出なかったんですね。

基盤整備と新開地の開発は、このような消極的手段ではなく、土地生産力を上げるという積極的手段と位置づけられます。成富兵庫が水利事業に当たりたいと申し出たときに、直茂は「領分の儀、兵庫に相任す」、つまり単なる土木事業の許可ではなく、地域的利害の調整役を任せるよ、と言いました。

条里制は大化改新の法整備(公地公民制や班田収授の法)と、成富兵庫の水利事業は幕藩体制確立期の新田開発と結びつくものでした。

成富兵庫の水利事業は、藩の権力機構、財政機構を確立し農村の共同体を育成することでした。

用水とは田畑だけでなく人や家畜まで養う「田畑人畜養水」、すなわち命の水でした。

城下町も村落もクリークに取り囲まれていますが、クリークは水、すなわち「田畑人畜養水」のネットを形成し、命の恵みをもたらすものです。

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