新しいツーリズム・地域活性策として有望視される「アクアツーリズム」。 実際にアクアツーリズムと謳っている例はまだないが、これに先行するグリーンツーリズムは、農林水産省や環境省にも推奨され、各地で行なわれている。 教育旅行に代表される受注型企画旅行で、ある程度の収益を上げないと成立しないといわれるグリーンツーリズムだが、観光産業の側面からではなく、「公益的機能に金を払う」という世論形成活動として位置づけるとしたら、話は別だ。 実際に、世論形成のためにグリーンツーリズムを実践し、観光の光の部分だけでなく影も見せる「ブラックツーリズム」を提唱している、熊本県の水俣市久木野(くぎの)ふるさとセンター 愛林館(以下、愛林館)の活動を紹介しよう。 まずは、編集部のグリーンツーリズム体験から。
水俣市久木野ふるさとセンター 愛林館館長
沢畑 亨 (さわはた とおる)さん
1961年熊本県生まれ。東京大学農学系大学院林学専攻修士課程を修了。農学修士。修士論文「80年代後半のむらおこし運動の考察」 卒業後、西武百貨店に入社。1988年に退社、今井俊博さんと「熱帯文化研究開発機構」を創設し、コンサルテーション・執筆・編集などを行なう。1994年、愛林館の館長に全国公募で選ばれ現在に至る。水俣市環境審議委員、熊本県地域づくりコーディネーター、熊本大学講師など。 主な著書に『森と棚田で考えたー水俣発 山里のエコロジー』(不知火書房 2005)
昼近く、愛林館に到着。この日は月に2回の食堂営業日。地元の女性たちが、地場の野菜や米を使っておいしい定食をつくっている。タイカレーなどのエスニック料理の日もあるが、この日は棚田でとれた餅米とあずきで炊いた赤飯、九州産の小麦粉でつくった団子汁に地域で採れた柚子でつくった柚子胡椒といった、100%国産どころか100%地場産の和定食だった。
館長は、愛林館ができたときに公募で選ばれた沢畑亨さん。
「この割り箸も熊本産の間伐材でできていますから、どんどん使ってください。杉の良い香りがしますね。白い割り箸は、ポプラや柳、シラカバなどが材料で、防カビ材を使っているから要注意ですよ」
と、食事にかかわる話にも、環境を学ぶ要素はたくさんある。
赤飯に使ったあずきは、研修生の村田佐代子さんが手塩にかけて育てたもの。
「あずきの花は、バラバラと咲きます。 そこで、実もいっせいには完熟せず、収穫時期がバラバラなので、ものすごく手間がかかりました。サヤの中のあずきを取り出す作業もひと苦労。あずきの国内生産が減った理由が、栽培してみてわかりました」
と村田さん。
餅米は万石(まんごく)という品種の香り米だ。久木野地区の棚田では、昔からうるち米と餅米の2種の香り米がつくられてきた。うるち種の香り米は草丈が2mと高く、長い藁(わら)が取れるため、細工用としても栽培されていたが、背が高いということは倒れやすく、栽培が難しい。
どちらも収穫量が少ない、高価な稀少品。普通の米に1割ほど混ぜて炊いて食べる。
香り米は付加価値をつけられるので、愛林館では、つくり手のいない水田を預かって香り米を栽培し、物産館や道の駅で販売したり、ホームページでのPRなどに取り組んでいる。
まずは両側に棚田を見ながら、寒川(さむかわ)水源へ。水俣市民の水道の水源でもある。
「寒川を抱く、大関山は標高901m。寒川水源は、標高300mほどの所にあります。ここには、よほどうまい具合に水が集まってきているようで、じゃんじゃん湧いています。1日あたりの湧水量は、3000tといわれています。
しかし山が深くないので、ほかの所はすぐに涸れます。川は頼りにならないのですが、湧き水は涸れないので、ここから下は安定した水量が豊富にあります。
この湧き水のお蔭で、あれだけの棚田ができるわけです。下に18軒の集落がありますが、飲料水をここから取っています。水洗便所も風呂も、全部この湧き水。贅沢ですよね。ニジマスの養殖もやっています。
今上がってきた谷間には、両側に約30ha、約600枚の棚田が広がっています。30haの棚田というと、九州では上から3番目ぐらいの規模です。『棚田100選の中で日本一私の家から近い棚田』です。略して、日本一の棚田」
久木野を過ぎて山越えすると、すぐに鹿児島県だ。
この急な峠越えには、以前、国鉄山野線が走っていた。水俣〜久木野間は1934年(昭和9)に、久木野〜薩摩布計(ふけ)間は1937年(昭和12)に開通した。1988年(昭和63)に廃線になるまで、わずか50年ほどの間、地元の貴重な足として利用された。
水俣〜久木野間の廃線跡は、廃止後早々に撤去工事が進み、水俣駅起点で14kmの日本一の長さを誇る運動場となった。愛林館ではここで毎年、久木野しし鍋マラソン大会を開催している。
傾斜地のままでは耕作地がつくれないから、一部を削ってその土を谷側に落とすことで平らな土地をつくる。棚田は、そこから出てきた石を山側の矩(の)り面に積んで崩れてこないように固めることでつくられる。
「こんな狭い土地にこれだけの石が埋まっている、石しかないような土地だったんです」
よく千枚田という言葉を聞くが、比喩ではなく、本当に1000枚以上の小さい田んぼが連なる地域もある。傾斜が急で1枚あたりの耕作田を広くできないために、小さな田んぼをいくつもつくることで千枚田はでき上がる。景観として美しいと感じることはたやすいが、その背後にある苦労にも思いを至らせたいものだ。
久木野の棚田は、1枚あたりの面積が2a、約60坪。畳でいうと120枚ほどの広さである。農作業には、田んぼから田んぼへと耕うん機を出し入れしなくてはならないが、その手間と危険性は、耕作断念地に拍車をかけている。
「耕作放棄地という人がいますが、放棄しているのではなく断念しているんです。耕作が続けられている田んぼも、ほとんどはほかに勤めを持った棚田サラリーマンの時間とサラリーを注ぎ込んで維持されています。実際、米は棚田でつくるより買ってきたほうが安くて楽なので、『先祖からの田畑を荒らしたらいかん』という棚田サラリーマンの善意に頼るのも、そろそろ限界だと思います。
棚田は牛馬と人間が作業する時代につくられたものだから、作業道は狭く、田の段差が大きい。機械を使うには不向きなんです。
石垣の段差の近くでは、牛馬も人間も危険を感じて慎重になりますが、機械である耕うん機にはそんな芸当はできません。上下の棚田をつなぐアルミ板の上を、耕うん機で後ろ向きに降りていくのは、命が縮む思いです。
そもそも耕うん機は平坦地で馬鹿力を発揮する機械。うっかりすると畦を破壊して下の田んぼに転落してしまう危険があるんです」
棚田に石垣積みの技術は不可欠。石垣は一度つくったらおしまいではなく、水路からの水漏れなどで崩れるものだから、手入れが必要だ。だから今でも、70歳代の男性はみんな石垣積みの技術を持っているという。
その中のお一人、寒川敦さんに指導をお願いして、石垣積み教室を行なって、幅13mの石垣を新たに積んだ。
「完成したときには表面しか見えませんが、立体で考えたときに、それぞれの石が必ず3点で支えられるようにして置いていきます。その際に、なるべく平らな面を表の面(つら)にそろえるようにします。2点は何とかなるけれど、3点目を見つけるのがちょっと大変。奥のほうに石をかませたりして、支えをつくることもあります。
大きな石は、ユンボを使ってワイヤーで吊って下ろしますが、機械がない時代には、本当に大変な作業だったと思います。結構大きな石もバールを差し込めば動くので、微調整できます。てこの原理を使うと、大きな力が出るんですね。
これだけのものをつくると、達成感があります。これなら、100年はもつ。なかなか100年もつ仕事ってできないですよね。だから、すごいんです」
沢畑さんが久木野に来て一番実感しているのは、このように100年でも残るであろう仕事に従事できる喜びと充足感だ。それは石垣にも造林にもいえることだ。
石工集団近江穴太衆(あのうしゅう)は、戦国時代に織田信長や豊臣秀吉の城の石垣をつくったことで能力が高く評価された。それ以降、全国の藩主に召し抱えられたという。
「熊本では、はじめは加藤清正の召し抱えた穴太衆が熊本城の築城に協力したのですが、その後、細川時代になると細川さんも自前の穴太衆を召し抱えていたので加藤家の穴太衆は地位を追われます。その人たちが各地に散らばっていったことで、熊本県内には石垣が広く普及した、といわれています」
久木野には高さが3m20cmもある石垣があって、特別な風格を持っている。
「ここは、1924年(大正13)生まれのじっさまが、『天草から指導者が来てつくられた石垣だと、うちのじいさんが言っていた』ということなので、多分江戸時代につくられたと推測できます。これだけの高さを積んだお蔭で、この上には相当広い面積の田んぼをつくることができました。
コンクリートも重機もない時代に、人力で、身体と頭を使ってつくったのが棚田の石垣です。下手にコンクリートを使うと、コンクリートの寿命がきたらおしまいですから」
樹齢5年ほどの杉の人工林に案内してもらう。
「杉は日本で一番成長の早い樹木です。ここに植林されている杉は、材木にするので、上から下までなるべく同じ太さであることが望ましい。そういう理想的な杉を目指すために、なるべく光を当ててやります。
杉を植えるときには、1haに3000本。野球場はだいたい1haから1.3haですから、野球場ぐらいの広さの所に3000本の杉を植えると考えてください。
1haが何m2だかわかりますか? 1万m2ですね。ですから1坪、畳2枚分に1本ぐらいの割合で植えていくんです。
時間が経過すると枝が伸びて葉が茂り、鬱閉(うっぺい)します。そうなったら間引くんですが、そのタイミングは気象条件などに左右され、地域によって違います。この辺りですと、だいたい15〜16年ですね。林齢15年の小径木は、昔は足場丸太などに活用されていたんですが、今は需要がありません。コストが合わないために、間伐を行なわないか、行なっても切り捨てになって、林内に放置される場合が多いのです。
それで私は『巻き枯らし間伐』という方法を広めています。
根から吸い上げた水や養分は、樹皮と木部の間の部分によって運ばれるので、樹皮をはがすと木が死んで立ち枯れします。その性質を利用して、腹巻き状に樹皮をはがし、立ち枯れさせる間伐方法です。
伐採は危険を伴うし、結構、労力がかかる作業。樹皮をはぐだけなら、半日で100本ぐらいに施せるから、軽減になります」
強間伐した(一時にたくさんの木を間引く)場合に、風通しが良くなりすぎて、木が倒れることがある。巻き枯らし間伐なら、しばらくは間伐した木が立っているので、風で倒れることを予防してくれるという利点もある。
しかし、沢畑さんによればせっかく巻き枯らし間伐をしているのに、わざわざ伐採して切り捨てている例が多いのだという。
「立ち枯れしている状態を『見た目が悪い』と感じるようです。伐採するなら、巻き枯らしでやる必然性がないんですが。
最初は1haに3000本植えて、最終的には700から800本までに減らします。ここまで減らしたら、あとはもうずっと置いておいてもいい。杉は成長が早いけれど、寿命も長い木なので、そのまま置いておいてもよく育ちます」
次に連れて行ってもらったのは、皆伐した森林を放っておいて回復させた自然林。
「皆伐や山火事、火山噴火といった撹乱によって、いったん森林がなくなって、そのあとにできた自然林を二次林といいます。原生林というのは、一度もなくならずに続いてきた森林のことをいいます。二次林も何百年もすれば原生林に近づいていきます。
この辺りの二次林で最後に優勢になるのはシイ、カシ、タブの類いの常緑広葉樹。これらは暗闇に強い種ですので、落ちた実(ドングリ)が育っていき後継者になります。
空を見上げると、樹冠が鬱閉していますね。空いている所がありますが、それは台風で大木が倒れたためにできた空間です。そういう隙間を『ギャップ』といいます。
ギャップができると、地表まで光が入ります。そうすると今度は光を必要とする樹種が大きくなれる可能性ができてくる、というわけです。あそこの光が当たっている所に、山桜とか針葉樹とか赤松なんかの種がもしもあったら、大きくなるチャンスができてきたのです。台風のお蔭でね。
ドングリなんかは早めに腐りますが、それ以外の植物の種は結構長くもちます。弥生時代の遺跡から出てきた蓮の種を植えたら、芽が出て花が咲いたとか、ツタンカーメンの墓から出てきたエンドウ豆の種が発芽したとか、場合によっては何千年も生きるのです。
この辺の地面にも種はいっぱいあって、それらが今か今かとチャンスを狙っていて、ギャップができて光が射すと、地面の温度が上がって発芽します。いったんギャップに枝を伸ばして葉を茂らせると、光をたくさん浴びて大きく生長するから、ますます優位になるのです。
下から伸びるだけではなく、横からもギャップを取ろうと枝を伸ばしています。ですから、静寂の中で結構激しい競争が行なわれているというわけです。
今度は足下を見てください。これは、ギンリョウ草という植物です。白っぽいですね。葉緑素を少ししか持っていないので、栄養はもっぱら根から吸い上げる養分だけでまかなっています。だから光はあまり必要ない。鱗のような模様があるから銀竜草。このように、自然の条件の中で適応できるものだけが生き残ります」
この日は、数日間、雨が降り続いたあとの久しぶりの晴れ間。沢畑さんは森の中の地面を掘って見せた。
「結構雨が降り続いたあとなのに、あまり地中は湿っていませんね。湿っていないということは、水が浸透していないということです。照葉樹の葉っぱが地表をマルチ(覆い)してしまっているからです。水源涵養力だけを考えた場合、この森にはあまり力がない。
落葉広葉樹の森には、下草がたくさん生えていますね。なぜなら、秋に落葉すると光が地表に届くからです。下草が生える森では、草の根が開けた穴を伝って、雨水が地中に浸透していきます。
ただ、森林は水源涵養のために存在するわけではありません。人間が勝手に機能を分けて考えているだけなんですよ」
愛林館で管理している森林は、現在21ha。その内の3.2haの地区にやってきた。
「ここも、もともとは照葉樹の森でした。国はこの照葉樹林を皆伐して、杉や檜を2回植えました。2回目の伐採を終えたのが14年前です。13年前に国有林と愛林館が分収林(他人の所有地を借りて、森を育てる)契約をして、植林しました。ある程度年数が経ったら皆伐して売り上げを分けます。貸与年数と分配率は契約時に決めます。この場合は、80年で30%です」
普通、分収造林といえば、用材になる樹種を植える。しかし、沢畑さんは奥山まで杉や檜を植えすぎたから、そうでない森をつくりたい、と考えた。
ここ九州は照葉樹林帯に属しているので、照葉樹は風土に合っている。ただ、全部照葉樹だと色気がないので、落葉広葉樹も植えているという。そのままでも森になる樹種を植えているから、別に放っておいてもいいのだが、草刈りとツル切りをした。これは、人間が手を入れることで、森林が生長する時間を短縮する作業である。
今年は、25m四方の区画にどのような生物がいるか生態系調査を実施するそうだ。
「どれぐらいの広さを調査するかは、その地方で一番大きくなる木の高さに応じます。この辺だと、イチイガシが25mぐらいになるのです。本当は10m四方でやれば楽なんだけれど、律儀に25mでやります」
13年前はまったくの禿げ山で、木は1本もなかったという。
「広葉樹は落葉して枯れ木みたいな状態のものを植えるので、植林したばかりのころは、とても森とは呼べない様子でした。ここまで育って、大変うれしいですよ」
まさに、100年残るであろう仕事である。
今日は取材なので駆け足でフィールドを回ったが、参加する人の興味に応じてテーマを選んで案内してくれる。企業研修で参加した人の中には意識が高い人も多く、沢畑さんが感心することも多いという。
愛林館は、『水俣市振興会』という地元団体が、市から委託を受ける形で運営されている。年間の運営費は、市から委託費として受け取る基本的な運営費(館長やパート職員の給料や光熱費などの固定費。年間約600万円)と事業収益約1500万円とを合わせた2100万円。
館長は、1994年(平成6)の創立時に公募で選ばれた。愛林館は市の施設だが、沢畑さんは市の職員としてではなく、1年契約の団体職員という立場である。
観光産業として儲かったり、目減りしていく生業の代わりになることが、グリーンツーリズムの目的のすべてではない。愛林館も沢畑さんの館長としての立ち位置も、沢畑さんが描く目標を実践する場として、とても都合がいいのである。
沢畑さんが愛林館の館長に応募したのは、実践の場が欲しかったからだという。経歴を見ても、そのために歩んできた人生のようだ。小説や漫画だったら「設定が完璧すぎて不自然」と言われてしまうところだろう。
しかし、これらすべての経験が、今の愛林館運営にフルに生かされている。
沢畑さんが目指していることはいろいろあるが、近い将来不足するであろう食料や木材や水といった「生きるために不可欠なもの」を今から手当てしておくことが、一番大きな目的である。そのために、現存する棚田や森林の手入れを行なって、放置される土地を少しでも減らそうとしている。
「食料や木材や水が将来不足すると考えるのは、人口爆発、地球温暖化による気候変動、円安による貨幣価値の目減りで輸入が難しくなる、という3つが大きな理由です。私が久木野で保全しているのは、棚田や森林ではなく、実は『生きるために不可欠なものを確保する』という安心感なのです」
現代流ノアの方舟のようなこの考えは、沢畑流エコロジーの原則、「風土に合う」「循環させる」「自律する」「集中より分散」「分析より統合」、にもはっきり表れている。
新米館長が就任して最初の年は、檜林の下草刈りと除伐をして川で泳ぐという企画を立てた。ところが募集活動に出遅れて、テレビ局まで取材にきたのに、参加したのはわずか2名。
「しかし、久木野の人たちが『わざわざ福岡から交通費ば使(つこ)うてまで下払いばしに来(こ)らした』と驚いたのは収穫でした。山仕事はきつい、と骨身に沁みているムラの人にとって、マチの人がお金を払って体験しにくるんだ、と気づくだけでも意味があったのです」
〈働くアウトドア〉と名づけられた労働合宿は、その後も毎年続いている。翌年からは〈水源の森づくり〉の下草刈りと豆腐づくりを、その後も炭焼きやしし鍋マラソン大会といった「金をかけずに頭を使った」アイディア満載の山村体験を、次々と繰り出している。
「中途半端な遊びではなく、本気で働いてもらいます。思い切り働いて、うまいビールを飲む。そのことでムラの仕事の大変さと楽しさの両方を知る、山村の味方を増やしているんです」
沢畑さんが今、提唱しているのはグリーンではなく「ブラックツーリズム」。山村の暮らしを礼賛するだけでなく、影の部分も見せていこうというのだ。例えば、効率優先で増えてきた森林の皆伐。
最近、増えすぎが問題になっている鹿も皆伐が関係している。
「皆伐後に放置されると、多様な木が育ってきます。その新芽は、鹿にとってのご馳走です。鹿は栄養状態が良くなり、双子を生みます。温暖化して雪が少なくなりましたから、冬でも食べものに困らずに生き延びる。それで、鹿が増えています」
「人工林は伐るために植えました。しかし、その伐り方に問題がある。
林業の効率化のために、森林作業に機械導入を勧める政策も裏目に出ています。集材の機械を入れるために無計画につけた作業道が、土砂崩れを誘引しているからです」
数千万円の相続税のために、森林を皆伐したために崩落が起き、その復旧に億単位の税金が投入される例もあるという。要は、前述の沢畑流エコロジーの原則に則っていれば、起きずに済んだ過ちだ。
「農業にしても林業にしても、市場経済の中での活動です。ですから、今の日本の現状を考えると『儲からないことはしない』という経済行動の当然の結果として、廃れていくのは止められません。
しかし今まで、山村の住民は主に農業と林業で、水源涵養とか二酸化炭素吸収とかいった公益的機能をタダで川下に提供してきました。
農業も林業も経済的に成立しなくなった今、山村の住民が『損することはやめます』とやめてしまったら、その後始末、例えば、洪水の後片付けや山崩れのあとの治山工事、食料危機に陥って高い食料を輸入するといったことに、莫大な費用がかかります。税金の額のみならず、人命が奪われるような事態になったら、取り返しがつかない悲劇です。
ちょっと考えてみればわかる、こんな簡単なことに誰も気づかない。いえ、気づいているかもしれませんが、気づかぬ振りをして解決を先送りにしている。それを見せていくのがブラックツーリズムなんです」
久木野のような地域は、日本全国どこにでもある。しかし、愛林館のような働きをしている市の施設は稀有ではないか。それは、稀有な存在である沢畑館長の素質に依るところが大きい。こうしたアイディアをどんどん真似して、マチに発信していくのもツーリズムの働きの一つだ。
水源から発し、広く流域を視野に入れたアクアツーリズムは、グリーンツーリズムの枠を超える可能性を秘めているのではないだろうか。