かつてはスイミングスクールのプールだった温泉とらふぐの養殖場。地下170mから温泉水を汲み上げている
中国のコイが起源といわれているように、養殖は沿岸部にかぎった話ではない。さまざまな陸上養殖が行なわれているが、塩分濃度が生理食塩水に近い温泉の水でとらふぐを育て、年間2万5000尾を出荷している会社がある。栃木県那須郡那珂川町の株式会社夢創造だ。出荷直前のとらふぐを塩分濃度の濃い人工海水で泳がせて味を高める方法を大学との共同研究で編み出し、さらにそのメソッドを他の地域にまで広めようとしている。温泉という水資源に着目し、新たな養殖法を生んだ夢創造の取り組みとは?
株式会社夢創造
かつてスイミングスクールだった25mの室内プールでは、少し頭でっかちな魚が群れをなして泳いでいた。ここは温泉水を用いてとらふぐを育て、年間2万5000尾を出荷している株式会社夢創造の那珂川海産魚種養殖研究センター。「このプールにいるものは6カ月ほど飼育しています。平均サイズは600g ぐらい」と説明するのは栽培漁業事業部リーダー技師の杉浦隆博さん。あと4〜5カ月で出荷サイズになるそうだ。
プールサイドの水槽には出荷を待つ1kg 級のとらふぐが6〜7尾ほど悠々と泳いでいた。杉浦さんが1尾手でつかんで取り出すと膨らんで威嚇する。反対側のプールサイドでは、試験中の小さなとらふぐたちがいた。特殊な配合のエサを与え、体内の脂肪量や筋肉中のアミノ酸量を比較し、より効率的な養殖法を模索している。
本来は海に棲むはずのとらふぐが、なぜ山の中の温泉プールで育つのか。
「温泉とらふぐ」の生みの親である夢創造代表取締役の野口勝明さんは、栃木県那須郡那珂川町で生まれ育った。大学進学で東京に出て就職したあと27歳で故郷に戻り、前職の経験を活かして1984年(昭和59)に株式会社環境生物化学研究所を立ち上げた。公害対策基本法(現・環境基本法)に対応し、重金属やアスベストなどの高精度分析事業やダイオキシン類の分析を行なっている。
野口さんが温泉水に目をつけたのはビジネスではない。地域の活性化、まちおこしのためだった。
「この十数年、那珂川町の人口は毎年およそ250人ずつ減っています。高校を卒業するとこのまちを出ていって戻ってこないので、20代から40代の働き盛りが少ないのです」
このままでは限界集落になってしまう、地元に働く場があれば歯止めがかかるのではないか――。そう考えた野口さんは地域の資源に目を向ける。栃木と茨城の県境から北西部には塩原温泉や塩谷町など「塩」がつく地名が多い。これはかつて山塩(やまじお)が産出されていた名残である。環境生物化学研究所は水質の分析も行なっているが、この地域にある24の源泉のうち、14が塩化物泉(えんかぶつせん)。いわゆる「しょっぱい温泉水」である。
「一級河川の那珂川から西のこの地域は、塩化物泉が多いのです。太古に海水を溜めたまま陸が隆起したため、地下に海水がある状態です」
塩化物泉14のうち、飲んでも害のない物質を含む源泉は12で、那珂川町内には2つある。「塩水が出るのだったら、海の生物が飼えるんじゃないか?」と野口さんは目をつけた。
野口さんが町内の塩化物泉の塩分濃度や成分を分析すると、ナトリウムやマグネシウム、カリウムなどが0.9%〜1.3%だった。これは海水濃度の3分の1から4分の1。生理食塩水にきわめて近いため、淡水魚も海水魚も飼育できる水だ。
そもそも、海水の塩分濃度は3.5%なのになぜ海水魚が耐えられるのか。塩をかけられたナメクジのように魚が縮まないのは、体内の塩分や水を調整するしくみ「浸透圧調整」を備えているからだ。
「赤血球が丸い状態で活動できるのは、体外と体内の浸透圧が同じだからです。仮に塩分濃度が高くなると赤血球は縮んでしまうし、低くなると赤血球の膜が破けてしまいます」
だからこそ生物にはいろんなメカニズムがある。人間は腎臓で塩分を調整しているが、海水魚の場合は主に「えら」。3.5%の海水を取り入れたあと、えらの塩類細胞から体外に捨てて塩分を調整している。
重要なのは、塩分調整のためにカロリーを消費している点。塩分を調整しなくて済むならば、その分のカロリーが成長に使われる。これこそが温泉水で育てる最大の利点だ。
養殖業で最大のネックはエサ代。早く出荷できれば、その分生産コストが下げられる。実際に、海では出荷まで1年半かかるが、温泉とらふぐは約1年で出荷サイズに育つ。
2008年(平成20)6月、野口さんは①人工海水(塩分濃度0.9%)②温泉水(同0.9%)③人工海水(同3.5%)と異なる3つの水槽を社長室に設け、とらふぐ100尾を1年間飼育。塩分濃度0.9%の人工海水と温泉水は著しく成長が早いことを確かめた。
とらふぐが成長して水槽を社屋1階のガレージに移したが、噂を聞きつけた新聞記者がやってきて、温泉水でとらふぐを飼っていることが広まった。周囲の目は冷ややかだった。「『できるわけないだろう』と変人扱いでした」と野口さん。しかし、友人に声をかけ「温泉とらふぐ研究会」を立ち上げた。
2009年(平成21)6月、町民50人を招いて試食会を開く。大部分の人は「おいしい」と食べたが、一部の食通からは「身がやわらかい」「味が薄い」という意見が寄せられた。
おいしくなければ商品にならない、まちおこしにもつながらない。野口さんは東京大学大学院農学生命科学研究科の金子豊二(かねことよじ)教授に相談する。
「『おもしろいじゃないですか。協力しますよ』と二つ返事でした」
金子教授の専門は魚類生理学。魚の浸透圧調整の研究と水産学的な応用を目指している。2009年に修士課程の学生が1人送り込まれ、味の改善に向けた共同研究が始まった。
こうして生まれたのが出荷直前に行なう「味上げ」だ(図)。出荷12時間前に塩分濃度3.5%、つまり海水と同じ塩分の水に入れる。塩分濃度0.9%の環境に慣れたとらふぐは浸透圧調整ができず、肝臓に蓄えたアミノ酸を血液から筋肉組織に流し込む。それがうまみ成分となり、味がよくなる。12時間経つと塩分調整機能が働き出すので味が落ちる。
「天然のとらふぐよりも甘みが強くておいしい、と評価されています」 実は、冒頭に紹介した1kg級のとらふぐはまさに「味上げ」の真っ最中で、その日の夕方に出荷された。
今は栃木県全域と東京都のホテルや旅館、レストランなど136店に直接出荷している。気になる価格だが、身欠きふぐ(注)の場合は市場よりも安い。活魚は若干高値だが「流通段階で発生するマージンを勘案すれば仕入れ値はほぼ同じ」と野口さんは言う。
(注)身欠きふぐ
皮や肝など毒のある部分を除去したあとのふぐを指す。ふぐ調理師の免許取得者がさばくことが義務づけられている。
とらふぐは単価が高いうえ、噛み合いさえ気をつければ基本的に丈夫な魚種なので、育てやすい。養殖を希望する温泉地から引き合いが多く、今でも毎日のように問い合わせがある。そこで夢創造は養殖事業のコンサルも行なっている。
一次スクリーン試験では塩分濃度が低かったり、有害物質が含まれていたりで約8割が養殖に適さない。二次試験は、送ってもらった温泉水で1カ月間とらふぐを飼育試験するが半数は失格になる。クリアすると養殖施設や経営のプランを練り、飼育員の研修も行なう。北海道、山形、福島、静岡、長野、新潟など計8カ所で温泉とらふぐの養殖が始まっており、さらに2カ所増える予定だ。
しかし、苦労して那珂川町のために立ち上げた温泉とらふぐを、他の地域にあっさり手渡してよいのか。野口さんは笑いながらこう言った。
「『○○温泉とらふぐ』としてくださればいいです。新潟県十日町市では『とおかまち雪国温泉とらふぐ』とネーミングしましたよ」
東日本大震災で仕事を失った人のために、被災地にも広めていきたいと語る。漁船を失った漁師や加工場が閉鎖になった従業員も、魚関係ならば仕事がしやすいだろうと思うからだ。また、ガレキを燃やして出る熱を活かして、とらふぐの養殖場と植物工場をセットで展開できないかと沿岸部の自治体に提案している。
私利私欲に走らないのは、出発点が「生まれ育ったまちのため」だからだろう。温泉とらふぐを毎日世話しているスタッフは皆、地元からの雇用。つまり那珂川町の未来をつくる貴重な人材だ。高齢化と人口減による中山間地域の衰退が問題視されるなか、温泉という地域の水資源に着目したこの試みは、陸上養殖の新たな道を指し示している。
(2014年10月22日取材)