機関誌『水の文化』57号
江戸が意気づくイースト・トーキョー

特集 概論
|浅草|研究

知られざる遊女たちの実像
―― 新吉原遊郭最新研究

「花廓新宅細見図(はなくるわしんたくさいけんず)」廓雀堂主人

「花廓新宅細見図(はなくるわしんたくさいけんず)」廓雀堂主人
1855年(安政2)の安政大地震の2年後、復興した新吉原遊郭の案内図。中央下の「大門」から真っすぐ延びる「仲ノ町通り」の両脇には、客を遊女屋に紹介する「引手茶屋」が並ぶ。大門に近い大きな区画が「大見世」と呼ばれる老舗のエリア(東北大学附属図書館蔵)

かつて色街や遊郭は、川や海、橋といった水辺に多く存在していた。こうした場所について民俗学の分野では数多(あまた)の研究がなされている。浅草の外れにあった江戸唯一の公認遊郭、新吉原も四方を堀で囲まれた場所だったが、浮世絵などで伝わるきらびやかなイメージとは裏腹に、遊女たちの実態はあまり知られていないのではないか。そこで幕末維新期の都市社会とジェンダーを研究する国立歴史民俗博物館教授の横山百合子さんに、新吉原遊郭の社会的位置づけや遊女たちの抗議運動など、知られざる実像を語っていただいた。

横山百合子さん

インタビュー
国立歴史民俗博物館 教授
横山百合子(よこやま ゆりこ)さん

東京大学文学部卒業。東京大学大学院人文社会系研究科博士課程単位取得退学。博士(文学)。千葉経済大学経済学部教授、帝京大学文学部教授を経て、2014年国立歴史民俗博物館教授に就任。専門分野は日本近世史、ジェンダー史。

吉原遊郭に与えられた「役と特権」

1617年(元和3)、庄司仁右衛門(しょうじじんえもん)という遊女屋の主人が幕府から認可を得て、今の日本橋近くに幕府公認の遊郭が開設されました。それが吉原の始まりです。その後、吉原遊郭は、1657年(明暦3)の明暦の大火を機に浅草の外れに移転し、「新吉原」と呼ばれ幕末まで繁栄を続けます。

幕府公認とは、役と特権が与えられることを意味します。当時の江戸は、男女比がおよそ2対1と男性が圧倒的に多く、売春が横行して混沌としていました。武家政権の幕府にとっては、特に武士という男性主体の集団の統制を図るためにも、性産業の掌握と管理は重要な課題でした。そこで吉原のみに売春業を営む特権を与え、江戸市内の性的秩序を維持するという役割を担わせたのです。このように江戸幕府は、特定の町や集団にさまざまな役割を与え、特権を認めることで、社会全体を統治していました。

公的に位置づけられた吉原遊郭は、経済面でも社会のシステムにしっかり組み込まれていました。遊女屋は寺社名目金貸付という、幕府の後ろ盾がある金貸しから多額の融資を受け、また、収益の一部を上納金として幕府に納めていたのです。1868年(明治元)に東京府が江戸町奉行所機構を引き継いだ時期の史料を見ると、旧町奉行所や東京府の金銭収入の12%を遊女屋上納金が占めています。売春業は、非常に重要な資金源でもあったのです。

「古今名婦伝 万治高尾」歌川豊国(3世)

「古今名婦伝 万治高尾」 歌川豊国(3世)
万治高尾は二代目高尾太夫とされる。太夫とは美貌と教養を兼ね備えた最高位の遊女に与えられる称号。傍らの童女は遊女の身の回りの世話をする禿(かむろ)(国立国会図書館蔵)

凄惨を極めた遊女たちの境遇

役と特権によって守られていたのは遊女屋であって、遊女ではありません。遊女たちは、農村の口減らしや、親の借金のカタなどとして、牛や馬のように売買され、一方的に性的搾取をされる存在でした。新吉原には、時代によって3000人から5000人の遊女がいましたが、大夫(たゆう)とか呼出(よびだし)などといわれる高級遊女はごくわずかでした。

18世紀終わりごろになると、新吉原はさらに下層化、大衆化していきます。遊女屋の経営は次第に厳しくなり、「遊女大安売り」を打ち出すなど、遊女たちの置かれている環境はより劣悪になっていきました。高級遊女を目指して生き抜こうとする遊女もいましたが、19世紀以降、吉原では反抗する遊女による放火が頻発します。

1849年(嘉永2)に、梅本屋の遊女16人が共謀した放火未遂事件が起きました。彼女たちは付け火をし、鎮火の騒ぎに紛れて名主役宅に駆け込んで経営者の非道を訴え、自らの正当性を主張して裁きを受けようとしたのです。このときの調書のなかに、遊女が書いた覚え帳という日記が残されています。そこには、腐ったご飯しか食べさせてもらえないとか、瀕死になるほどの折檻(せっかん)を受けたといった凄惨な日常が、遊女自身の話し言葉で赤裸々に綴られています。吉原では、仕置きは必要なものというのが基本的な考えであり、遊女たちは時に暴力によって支配されていたのです。

  • 「東都三十六景 吉原仲之町」歌川広重(2代)

    「東都三十六景 吉原仲之町」歌川広重(2代)
    大門から遊郭の中央を貫く「仲ノ町通り」の桜。満開の桜は移植したもので、盛りを過ぎると撤収されたという
    (国立国会図書館蔵)

  • 「東都新吉原一覧」歌川広重(2代)

    「東都新吉原一覧」歌川広重(2代)
    新吉原遊郭の周囲には「御歯黒溝(おはぐろどぶ)」という堀がめぐらされ、出入り口は大門1カ所のみとして遊女の脱走を防いだ(東京都立中央図書館特別文庫室蔵)

  • 「東都三十六景 吉原仲之町」歌川広重(2代)
  • 「東都新吉原一覧」歌川広重(2代)

芸娼妓解放令がもたらしたもの

吉原遊郭の状況を大きく変えたのが、1872年(明治5)10月に発令された芸娼妓(げいしょうぎ)解放令です。この年に起きたマリア・ルス号事件(注)に関する国際裁判で、日本の芸妓、娼妓が人身売買にあたると指摘を受けた明治政府が、国際世論を考慮して急きょ講じた対策で、人身売買を禁止し、遊女を解放することをうたっています。新政府は、近代国家をつくろうという時期でもあり、役と特権に守られた古い体制を壊したいとの意向も働いたのではないでしょうか。

突然の解放令によって、3000人以上の遊女が一気に解放され、吉原は大混乱に陥りました。しかし、明治政府は、売春自体をなくすつもりなどまったくありませんでした。「遊女とは売春を強いられる者ではなく、自らの意思で性を売る主体である」と定義し直すことで、売春が人身売買ではないという体裁を整えたにすぎなかったのです。結局、吉原を出たほとんどの遊女たちは、〈本人の意思によって〉という建前で再び吉原に売り戻され、売春を続けるしかありませんでした。

ただし、形だけでも主体性を認められたことで、自分の意思をもって行動する遊女はたしかに増えました。「かしく」という遊女は、解放令を機になじみの若者と結婚するから解放してほしいと身元引受人に願い出て拒絶され、じかに役所に嘆願し、はっきりと「かしく、遊女いやだ申候」と訴えた記録が残っています。しかし、東京府はこれを却下。困ったかしくは、今度は深川の髪結いの弟子、菊次郎のもとへ身を寄せ、かしくと菊次郎の連名で再び府に自訴しますが、その後の記録が見つからないため、かしくがどうなったかは残念ながらわかりません。

芸娼妓解放令によって一瞬、希望の光が当たったように見えた遊女たち。しかし皮肉なことに、それまでは性を搾取される存在だった彼女たちは、解放令を境に、自ら性を売る淫らでいかがわしい女として、社会のより裏側へと追い込まれていくのです。

(注)マリア・ルス号事件
1872年(明治5)、修理のため横浜港に寄港したペルー国船「マリア・ルス号」から奴隷状態に置かれていた清国人苦力(クーリー)が逃げ出して助けを求め、裁判となる。苦力は解放されたが、裁判では日本国内の奴隷売買として遊女・娼妓の例が指摘された。

(2017年8月25日取材)

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