東京都杉並区、中野区などの雨水を一時的に溜めて浸水被害を軽減する「和田弥生幹線」。地下にある貯留管、そして集水管と合わせて約15万m3の貯留が可能 提供:東京都下水道局
私たちの暮らしや経済を陰で支える「下水道」。共有の財産である下水道を未来へ引き継ぐため、国民一人ひとりに理解を深めてもらいたい、と発足したのが「下水道広報プラットホーム」だ。年に一度の「マンホールサミット」の開催、下水道の仕事に携わる女性たちによる情報発信など多彩な活動を繰り広げている。
下水道料金を1日いくら支払っているか、ご存じだろうか?
国土交通省の試算によれば4人世帯で月に20m3使う標準的な家庭の全国平均値が1人1日約22円(ちなみに東京都では約17円)。下水道料金は水道料金と一緒に徴収されているから普段あまり気に留めない。下水道を意識するのは、大地震で水洗トイレが使えなくなったときくらいかもしれない。
それは「ボットントイレ」経験のない世代が増えているから。下水道普及率が9割に及び、トイレがすっかり水洗化された現在、汚水や雑排水が視界から消え、臭いもなくなり、快適で清潔な生活が当たり前になった。ともすれば私たちは、下水道と聞くと家庭の水洗トイレや生活排水のことだけを思い浮かべがちだ。
「下水道の機能はそれだけではありません」。下水道広報プラットホーム(略称 GKP)企画運営副委員長の栗原秀人さんが言う。
「降雨を川や海へ排除する。オフィスビルや商業施設の排水を受け止める。下水の高度処理による河川・湖・湾の水質改善、水の再生利用や、残渣・微生物の肥料化、温下水の熱源利用など、地域の生活と経済を支え、水環境を守り、循環型社会をつくるのが下水道の役割です。しかし今まで、こうした多面的な価値が受益者である多くの人たちに伝わっていませんでした」
例えば、薬剤ではなく多種類の微生物を大量に「飼って」下水処理していること。有機物を餌にして分解する微生物の食物連鎖による生態系のおかげで下水の水はきれいになる。この基本さえ、どれだけの人が知っているだろうか。「食物連鎖の頂上に君臨する後生動物のクマムシが多いと処理の調子がよい証しです」。
昭和50年代まで「下水道整備」は住民が行政に望む項目の上位に位置していた。しかし、下水道が普及するとともに、そのニーズは急速に下がっていく。それは下水道が「あってあたりまえ」の存在になったからだ。
したがって、私たちは有事の際にようやく下水道のありがたさに気づく。例えば、2011年の東日本大震災によって、千葉県浦安市では広い範囲で液状化が起こり、上下水道ともに使用できなくなった。約7万1400世帯の46%にあたる3万3000戸で上水道が断水し、下水道は最大時1万2000戸が使えなくなったのだ(注)。
下水道が使えないということは流した水の行き場がないということ。無理やり流せば、どこかで必ずあふれる。だから、たとえ上水道が先に復旧しても水は流せない。家のなかの配管から下水処理場にたどりつくまで、詰まりやズレがないかが確認できて、初めて安心して水を使うことができる。そんなことも大部分の人は知らないはずだ。
見えにくい下水道の社会インフラとしての多面的な価値。それを産官学の大連合で多様な機会を通じ広く発信しようと、2013年に発足したのがGKPにほかならない。下水道施設関連の企業を中心とする140団体会員、623名の個人会員で構成されている。
(注)浦安市の液状化被害
詳細は当センターHPより「第8回里川文化塾 浦安市の震災と上下水道」実施報告を参照。
GKPが発足してから変わったのが「下水道展」の様相だ。もともと、クライアントの公共団体に向けた下水道関連企業の見本市だったのが、今では「スイスイ下水道研究所」と称して、出展自治体と企業が連携し親子で下水道の価値を楽しめる体験型の展示も。ゴールすると土産物をもらえるクイズラリーを実施したり、夏休みの自由研究をサポートするノートを子どもたちに配ったりしている。
オール下水道界によるリクルート活動も成果を上げつつある。大学や高専で「下水道を未来につなげる会」(以下、未来会)が説明会を開催。「今まで単独の企業だと知名度が足らず注目を集められませんでしたが、自動車メーカーと並ぶ大きなブースと時間を提供いただけるようになりました」。2017年は延べ238人の学生を集め、未来会のイベント参加を機に5名が下水道業界に就職した。
2014年から始まったGKPの目玉イベントが「マンホールサミット」だ。地下にあって見えない下水道のなかで唯一目立つのが市町ごとに違うデザインのマンホールの蓋(ふた)。各地ゆかりの名所、名物、スポーツ、キャラクターなどが描かれている。そのバラエティ豊かな絵柄に魅かれるマニア、人呼んで「マンホーラー」たちが以前から集まっていた。「せっかくなら一緒に盛り上がりましょう」とGKPが誘って始まったのがマンホールサミット。その初回で提案された「マンホールカード」が大ブレイク中だ。
2018年8月には第8弾として76種76自治体のマンホールカードが発行され、シリーズ累計では418種364自治体に及ぶ。各自治体の下水道関連施設や観光案内所などで無料配布している。
日本独自の「路上文化」ともいえるマンホール蓋のデザインがこれだけ多様になったきっかけは「下水道の整備拡大が軌道に乗りはじめた昭和50年代後半に遡ります」と元国土交通省勤務の栗原さんは明かす。「旧建設省下水道部の先輩が、完成後も下水道を多くの人に意識してもらえるように、市町特有の蓋を設置しようと提案しました」。
マンホールカードは下水道への関心喚起や観光振興に役立っているといえるだろう。
もともと土木・建築分野に女性は少ない。国土交通省水管理・国土保全局下水道部の阿部千雅(ちか)さんは、旧建設省で下水道の部署に配属された最初の女性である。
「下水道界にも最近は若い女性が増えてきましたが、気軽に話せる同性がまだ少ないことに変わりありません。GKPが発足したとき、『女子会もつくったら?』と何人かの先輩男性がおっしゃったので、よいきっかけをいただいたと始めたのです」
それが下水道関連部署で働く女性間のつながりの場「GJリンク」。GJとは「下水道女子」の略称だ。年1回、ワークショップを開催し交流の機会を設けている。北九州で実施した2018年は「女性の目線で見た効果的なイベント等の広報について」というテーマを設定。「女性同士だと『そうだよね』と共感できる話でも男性が大半の職場では言いにくいもの。でも下水道ユーザーの半分は女性です。生活者の視点でライフスタイルを提案するような広報のしかたもあるはずです」と阿部さん。ワークショップには官民問わず40~50名の女性が参加する。2016年からはWeb媒体『GJジャーナル』を各地のGJも参加して編集し、公開している。
GJとは直接関係ないが、阿部さんが参加した女性同士の勉強会での提案がきっかけで、国交省が検討を始めた取り組みがある。「使用済み紙おむつを下水道で受け入れる」というアイディアの実現に向けた検討だ。高齢化が急速に進むなか、働きながら介護や子育ての負担軽減を目指す女性ならではの発想。下水道以外の幅広い分野と連携し、優れた技術を結集していく必要があり、有識者会議を通じて構想をまとめている。
下水道の耐震化は重要幹線から優先的に進めているが、その耐震化率は48%に留まる。また、災害時にトイレへ行くのを我慢するとさまざまな健康被害があるため、マンホールの上に直接簡易トイレを設置する「マンホールトイレ」の普及が急がれているが、そもそもマンホール蓋はどうやって開けるのか……。例えばそうした地震防災をきっかけに下水道のことが気になりだす人もいるだろう。たんなる興味・関心の一歩先へ。GKPはそこを見据える。
栗原さんは「GJのような新しいメニューの提案で幅を広げ、地域活動を盛んにして、下水道のシステム全体を『自分事化』していただけるようにしたい」と話す。阿部さんも「下水道界は市民のニーズに寄り添い、市民は『自分たちの下水道』と気づく。せっかく時間とお金をかけてつくったすごい地下システムなのだから、お互いにもっと歩み寄れるように、男女問わずいろんな声を拾い上げ発信する場にしていきたい」と展望する。
子どもたちは、うんちとおしっこの話が大好き。大人は顔をしかめるけれど、生きるために大事なことだと本能的にわかっているからにちがいない。水洗トイレが使えなくなるといかに悲惨かは過去の大地震の教訓としてある。首都近郊を流れる多摩川の水がきれいになったのも、下水道が普及したおかげだ。
この機会に、見えないけれど大切な「水を守るインフラ」の価値に、改めて目を向けたい。
(2018年8月8日取材)