東川町は、先にふれた「写真の町」以外にも、町内で生まれた赤ちゃんが生後100日を過ぎると、町内の家具職人による手づくりの椅子をプレゼントする「君の椅子」事業、小学校を移転・新築する際に敷地内に水田を1haつくり、農業体験としてコンバインに小学生を乗せるなど、よそではあまり聞いたことがない事業を多数行なっている。「合併せず自立する道を選んだからには、新しいことに挑戦しなければ」と言う町長の松岡市郎さんに話を聞いた。
東川町長
松岡市郎(まつおか いちろう)さん
1951年生まれ。1972年東川町奉職。農林課長補佐、社会教育課長、税務住民課長を経て、2003年に退職。同年、東川町長に就任。現在5期目。
「開拓以来ずっと、われわれはこうして暮らしています」と、東川町長の松岡市郎さんは手押しポンプのしぐさをした。大雪山の雪解け水が長い歳月をかけて地中に染み込み、まちを巡って水田を潤し、生活用水となる。手押しポンプは電動ポンプに置き換わったが、地下水で暮らしていることは変わらない。
実は、町全域に上水道を敷設する議論も昭和の時代からあった。東川の南端を流れる石狩川水系の忠別川で多目的ダムの工事が進んでいるときに町民アンケートをとった。
「半数以上が『上水道は必要ない』と答え、『今は必要ない』も23%で、両方合わせると約8割が『今、上水道は不要』という結果になりました。水質検査でもまったく異常がない。あえて必要ないのでやめたのです」
この前後から東川町は地下水で暮らす希少価値を再発見し、広く訴求するようになった。2004年(平成16)に水源を「大雪旭岳源水公園」として整備し、2008年(平成20)には環境省の「平成の名水百選」に。2009年(平成21)からは地下水を利用する全国の市町村に呼びかけ、持ち回りで「安全・安心でおいしい地下水サミット」を開催している。
「当たり前のように暮らしていると、そのよさに気づかない最たるものが水と空気です。しかし、天から贈られた美しい結晶をもつ雪が『神々の遊ぶ庭(大雪山のアイヌ名、カムイミンタラ)』に地下浸透した水で暮らす文化は、かけがえのないもの。大雪旭岳源水のカルシウムとマグネシウムの2対1の割合は、望ましい飲料水の硬度の比率にきわめて近いという研究者の指摘もあります」
東日本大震災は災害時の水の確保と供給の課題を浮き彫りにした。そこで2013年(平成25)に操業開始したのが、株式会社大雪水資源保全センターだ。同社はコープさっぽろ、東川町、JAひがしかわにより設立され、大雪旭岳源水を加熱殺菌処理せず無菌充填したナチュラルミネラルウォーターのペットボトルを製造販売。売り上げの一部を東川町では水源涵養につながる森林整備、すなわち植林などの費用にあてている。
東川町は木工の町でもあり、家具やクラフトの工房が多い。ここで生まれた子どもたちには、手づくりの「君の椅子」が贈られる。子どもを迎える喜びを地域の人々で分かち合えたら──旭川大学大学院ゼミからそう提案されたプロジェクトに松岡町長はいち早く共鳴し、他市町村の先頭を切り2006年(平成18)から実施している。
このことが象徴するように、若い移住者が目立つ要因の一つが充実した子育て・教育環境だ。1987年(昭和62)を最後に廃校がなく、4つの小学校と1つの中学校を維持している。2014年(平成26)に新築移転された東川小学校は、16haの広大な敷地に体験農園や地域交流センターを併設。幼保一元化と子育て支援センターの合築施設があり、15歳までの医療費の全額助成など数々の子育て支援制度も早くから導入してきた。
「教育力は大都市にひけをとりません。目指すのは『Teach less,learn more』。つまり先生が一方的に教えるのではなく、子どもたちが自らの意思で学ぶ姿勢を育むことです。さまざまな出会いを通じてなぜ?と問いを立てながら成長していく子どもたちを育てたい」
出会いといえば、東川町の子どもたちは外国人とふれあう機会が多い。町では総務省などのJETプログラム(語学指導等を行なう海外青年招致事業)を活用し、外国語指導助手、国際交流員、スポーツ国際交流員として20名近い外国人職員を配置。町主催の短期日本語・日本文化研修事業では東アジア諸国を中心に10年間で延べ3000人を超える研修生を招いた。また、町内の福祉専門学校の日本語学科に加え、日本初の町立日本語学校が留学生を受け入れている。在住の外国人は380人と人口の5%(2018年12月時点)を占める。
「小さなまちにこれだけ国際教育の機会があるのは珍しいと思います。次代を担う子どもたちには、外国の人と違和感なくコミュニケーションできる人になってほしい」
移住者に聞くと皆さん共通して話すことがある。よそ者でも分け隔てなく受け入れてくれる、と。
「小さいまちのよさは3つの『間(ま)』を共有しやすいことです。仲間、空間、時間。気心の知れた人といつもの場所で同じ時を過ごすのがいちばん楽しい。ここでは壁なくすぐ親しくなり、それができます」
とはいえ、小さなまちがすべてそうとは限らない。東川町の何がそんな風土をつくっているのか。
「役場の職員と住民の距離が近いことも要素の1つではないか、と。役場に電話したら『土日でも構いませんからいつでも来てくださいと親身に案内をしてくれた、それで移住することにしました』という方が結構いらっしゃいます」
たしかに東川町の職員と接していると、堅苦しい雰囲気をまったく感じない。「イベントなどで外の人との交流が多く、自然と役場の体質も外に開かれていったのでは」と松岡さんは推測する。
東川町国際写真フェスティバルや写真甲子園(今日の東川町をつくった「写真の町」宣言)などの事業を委託していた札幌の企画会社が2005年(平成17)に倒産。関連業務を町の職員が直接手がけるようになった。これが結果的に、民間企業や内外の写真家、デザイナーなどとの人脈を広げ、外に開かれた役場を生んだ。
「公務員はよく『断り上手』と言われます。前例がない、他でやっていない、予算がない。しかし、前にも他でもしていないことだから挑戦しがいがあり、よい事業なら補正予算を組めばいい。失敗したらやり直せばいいんです。大切なのは『SOS(Speed,Open,Service)』。スピード感をもって情報を公開しサービスを向上させることです」
独立独歩の気風を醸した転機として特筆すべきは、市町村合併しない決断。2003年(平成15)、その公約を掲げて町民に選ばれた町長が松岡さんだ。
市町村別の集計は未公表だが、東川町に交付された地方創生推進交付金は、全道でも札幌市に次ぐトップクラスといわれている。
「過疎地では、例えば10億円の公共施設を建設するには過疎債(かそさい)(注1)の起債により3億円の負担で済みますが、東川町は過疎地の要件からわずかに外れており、6億円を負担しなければなりません。財源は当然、税収になります。住民の負担を軽減するために、少しでも有利な辺地債(へんちさい)(注2)などの起債や、新しく制定される交付金や補助金を活用せざるを得ません。それがたまたま多かっただけの話です」
だが見方を変えれば、他の自治体と横並びではない独自の事業が多く、大都市から地方への移住促進や外国人材の活用など国の施策の方向性とも合致するからこそ、交付金を引き出せたともいえる。
「財政規模は拡大し、以前より借金総額はたしかに多くなりました。しかし民間と違い、5~8割がたの元利を国が肩代わりする借金なので返済金額は変わりませんし、逆にそれで学校施設や公園用地や山林などの資産が増えました。将来のために必要な事業には投資すべきだと思います」
地方創生に取り組む自治体へ寄付した企業が税制上の優遇措置を受けられる「企業版ふるさと納税」と、「ひがしかわ株主制度(寄付を投資と位置づけ、個人のふるさと納税をこう呼び換えている)」も貴重な財源の一つだ。
2019年(令和元)、企業版ふるさと納税による寄付は7社から約1億5000万円、ひがしかわ株主制度は投資株主総数約5万人、投資額約5億円になった。資金は人材育成や奨学助成、「写真の町」推進などに活用されている。ひがしかわ株主は投資したい事業を選べ、株主優待は宿泊施設の無料利用、水や米など東川ならではの地産品。株主総数は直近5年間で約6倍になり、東川町のファンは着実に増えてきた。
(注1)過疎債
過疎地域に認定された市町村が発行する地方債。正式には過疎対策事業債。過疎法による財政上の優遇措置の一つで、学校や地場産業の振興施設、観光施設など、公共施設の整備費として起債が認められている。
(注2)辺地債
地方債の一種。正式には辺地対策事業債。辺地とその他の地域との間における住民の生活文化水準の格差の是正を図ることを目的とする公共施設の整備や情報通信基盤整備等に対して充当される。
東川町の人口は1994年(平成6)に7000人を切って底を打ち、移住者の増加で2014年(平成26)に目標値の8000人に回復した。しかし、基幹産業である農業とのバランスをとるため、農地の宅地転用を伴う定住人口の無制限な増加は求めていない。あくまでも8000人規模を維持し、留学生事業やひがしかわ株主制度などによってなんらかのかたちでまちに関与し、人を呼び込む「関係人口」の拡大を目指す。
この考え方を東川町では「適疎(てきそ)」と称している。
「互いに顔が見えて名前を呼び合い、3つの『間』を共有でき、なおかつ一定の行政サービスの水準を保てる人口規模が適疎です。今回のコロナ禍で人々の意識も過密から適疎へと移りゆくはず。都市と地方が共生するうえで未来性のある考え方ではないでしょうか。互いに補完するのは『つなぐ』ことの繰り返しです。木も切ったら植えるのだし、水が自然界を循環するように人も巡り減っては増える。つなぎつづけ循環できる社会にしていくことが重要だと思います」
コロナ禍で東川町も製造業や観光サービス業が被害を受けた。ポストコロナに向け、建築家の隈研吾氏とコラボした家具デザインコンペを今年からスタートする。第1回のテーマは、生まれた子どもをようこそと迎え入れる「君の椅子」にちなんで「木の椅子」だ。
さらに「アイヌ文化をテーマとした映画を近隣の自治体と連携して製作・発信し観光振興につなげたい」との構想も松岡さんは熱く語った。2020年(令和2)11月には、これも日本では数少ない公設民営となる酒蔵(岐阜の杜氏が惚れた東川原の「水」と「人」)が竣工している。他の地域がやらないことに挑みなさいと職員に発破を掛け、責任は自分が負えばよいと覚悟を決めてまちづくりの足元を固めてきたその目は、はるか先を見据えている。
(2020年11月20日取材)