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和船の技術と鎖国の常識 
〜モノの感覚から見る技術の歴史〜

日本は海洋国と言われる割には、和船の歴史について調べている方が少ないのが現状です。今回は、造船技術を歴史の側面から研究している安達裕之さんに和船についていくつかのエピソードをうかがいました。

安達 裕之

東京大学大学院総合文化研究科教授
安達 裕之 あだち ひろゆき

1947年生まれ。東京大学工学部船舶工学科卒業。専攻、日本造船史。
主な著書に『日本の船〜和船編〜』(財団法人日本海事科学振興財団、1998)『異様の船〜洋式船導入と鎖国体制〜』(平凡社、1995)がある。

唯一残る江戸時代の和船:千山丸の調査

 まず、現在、唯一残る江戸時代の和船である千山丸について紹介しましょう。

 千山丸というのは阿波藩の御召鯨船です。鯨船といっても鯨漁に用いられたわけではありません。大名の鯨船は捕鯨用の猟船に倣って造られた船で、快速を生かして船を曳航したり、使者船として使われました。

 ちなみに、江戸時代の大名は参勤交代が義務づけられていましたが、海路をとる西国大名は、御座船をはじめとして多数の船を有し、大藩ともなれば100艘〜200艘に達することも珍しくありませんでした。しかし、明治維新後、これらの船は千山丸を除いてすべて破脚されました。

 千山丸が建造されたのは1857年(安政4)です。維新後、千山丸は蜂須賀家の船倉に収められていたのですが、戦争中に軍用道路が建設されることになり、船蔵が計画にひっかかったため、1943年(昭和18)に蜂須賀家から徳島市に寄贈され、長らく徳島城公園の片隅で保管されてきました。1992年(平成4)に徳島城博物館が開館すると、千山丸は同館で常設展示され、1996年には国の重要文化財に指定されました。しかし、千山丸の重要性は認識されながらも、諸般の事情で図面も調査報告書も作られていなかったためため、私が所属する和船技術・文化研究会が調査し、図面と報告書を作成して出版しました。

補修前の千山丸


補修前の千山丸(和船文化・技術研究会編『千山丸』船の科学館、2004)

釘一つとっても建築物とは違う

昔も、船大工は図面をおこしました。何人もの大工で一艘の船を造りますから、やはり図面無しにすますわけにはいきませんでした。造船に必要な図面は側面図で、それに寸法などの必要事項や断面図を書きこんでいました。

 調査のためには、千山丸のきちんとした図面をつくらねばなりません。しかし、船の図面をつくるのは、建築物と比べると格段に難しい作業です。建築物はだいたい水平と垂直で成り立っていますが、船はそうではなく、船体が曲面をなしているばかりでなく、基準面の設定も難しいからです。そこで、今回の調査では、測量に用いるトータルステイションで船の外側を計測しました。ただ、右舷間近に壁があるため、外側の計測は左舷だけで、内部は全部手で測り、各種の図面をおこしましたので、なかなか大変な仕事でした。

 千山丸の側面には団扇や羽団扇、軍配団扇等が色鮮やかに描かれていましたが、長年、徳島城公園内の小屋の中で保管されてきたため、退色や剥落がひどく、昔の面影がありません。そこで、残った下絵をもとに千山丸の建造当初の姿を復原しました。

 船と建築では、釘をとっても全然違います。例えば、造船では何枚もの板をはぎ合わせて大きな板を作りますが、このはぎ合わせに使う釘を縫釘(ぬいくぎ)といいます。縫釘は板の平を掘って板中より打つので、釘頭には必ず埋木をします。また、棚板と棚板の結合には通釘(とおりくぎ)を用います。通釘は釘の胴を打ち抜いて、尾つまり先端を曲げて打ち込むのを原則とします。これを尾を取るとか、尾を返すといいます。

 ちなみに千山丸では銅釘が使われています。「鉄釘と銅釘のどちらがよいか?」と聞くと、誰でも鉄釘と答えるでしょう。確かに、強度的には鉄釘の方が優れています。しかし、銅釘は、鉄釘のように錆びて周りの材木を腐食させることがありません。千山丸も、鉄釘を使っていたなら、こんなにいい状態で残ったかどうかわかりません。

船釘の種類


船釘の種類(和船文化・技術研究会編『千山丸』船の科学館、2004)

和船は弱かったという常識

 今は江戸時代の和船は1艘しか残っていませんが、江戸時代は当然ながら和船の黄金時代でした。この和船と西洋船のどちらがより強いかという議論が昔からあります。

 江戸幕府は海難に遭った船に浦証文つまり海難証明書の発行を義務づけていましたから、幕府が海難統計をとろうと思えばできたのですが、そうしませんでした。ただ、各地に残されたおびただしい数の浦証文から多くの和船が遭難したことは、容易に想像がつきます。そのため「和船は脆弱だったのだ」という話になりやすいのです。

 明治時代になると、きちんとした統計が残っています。そこで西洋形帆船が600艘を超える1886年(明治19)から10年間の海難統計を調べてみると、確かに西洋形帆船の年平均の海難数は日本形船の495艘に対して30艘とはるかに少ないのに、海難発生率は日本形船の3パーセントに対して4パーセントと概して高いことがわかります。もっとも、この統計には50石積未満の日本形船は含まれていませんので、それを算入すると、全体の遭難数は数倍にも達するはずです。しかし、50石積未満の船は桁外れに多いため、その海難数を加えたところで、海難発生率がはね上がることはまずありません。したがって、日本形船に海難が多いのは、海難発生率が西洋形帆船に比べてとくに高いからではなく、就航船隻が多いからです。ですから海難が多いからといって、日本の船が弱いということにはなりません。

 20年を標準的な耐用年数とし、30年程度の使用も珍しくなかったことを考えれば、和船に強度が不足していたとは言えません。ただ、18世紀後期以降の日本人は「西洋船の方が良い」と思いこんでいました。これは身近で多数難破する和船と万里の波濤をこえて長崎にやってくるオランダ船を対比させた結果でしょう。和船のような内航船と長崎に来るオランダ船のような外航船を比較すれば、和船の評価が低くなるのは火をみるよりも明らかです。

 最近では、和船が水密甲板で覆われていなかったために弱いという説もあります。しかし、水密甲板で完全に覆われた船などありません。人や荷物の出入り口や通気のための開口部が船には必要だからです。

 さらに、和船に使う日本の釘は「打ち込み式」だから弱いという話もあります。でも、西洋船も昔はボルト(リベットと同類)を使っていました。

 また、和船は風上に切りあがれないということもよく言われますが、それも事実ではありません。

三国丸という折衷船

 18世紀後期のいわゆる田沼時代に和船・西洋船・中国船の長所を折衷した船が造られます。松前と長崎を結んだ1500石積の俵物廻船「三国丸(さんごくまる)」がそれです。俵物は干鮑(ほしあわび)や鱶鰭(ふかひれ)などを詰めた俵のことで、対中国貿易で輸出品として重要でした。

 この俵物を松前から長崎に廻送する船として、当初、幕府は西洋船を建造しようとして長崎奉行に取調べを命じたのですが、話を聞きつけた長崎奉行所の遠見番原三郎右衛門は次のように建議しました。オランダ船は便利であるが、帆柱や帆桁の上での操帆はそれを船上で行うのに慣れた日本人には不向きである。また、大波や大雨をものともしない堅固な中国船も、艤装がよくないため追い風でしか走れない。日本の大船は、起倒式の帆柱などは便利で、逆風帆走性能もよいが、大きな本帆1枚のために、にわかの強風で帆を吹き破られたり、帆柱を切る羽目に陥って破船が多いうえ、胴の間が水密でないため高波や大雨の節には滞船して苫囲いで対処するより致し方がない。このように異国船・日本船とも長所もあれば、短所もあるので、三者の長所を折衷した船を造った方がよい、と。

 原は遠見番として野母崎から長崎に入港する船を見張っていましたから、和船、西洋船、中国船を比較する機会に事欠かなかったのです。結局、原の建議がいれられて、大坂で唐船造りの船体に和式の総矢倉を設け、和式の本帆の他に船首尾に洋式の補助帆を張る三国丸が造られ、1786年(天明6)に就航します。

 では三国丸はどのような船だったのでしょうか。意外なところから、それがわかります。

 ルイ16世から太平洋の探査を命じられフランス海軍大佐ラ・ペルーズ率いる艦隊は、日本海を北上中の1787年、隠岐の北東海上で日本船2艘に遭遇しました。ブロンドラ海軍中尉が目と鼻の先を通過した1艘の絵を残しています。特異な船首の洋式の補助帆と船尾廻りの形状からして、この船に該当するのは三国丸以外にはありえません。画家の観察眼は鋭く、一瞬すれ違っただけなのに三国丸の特徴が見事にとらえられています。

 三国丸は完成から3年目の1788年(天明8)に能登沖を航行中に暴風に遭い、乗組員は伝馬船で飛島に逃れ、船は出羽国赤石浜に漂着して破船しました。

 三国丸は和洋中の技術を折衷しただけに、同じ大きさの弁才船(千石船)よりも多額の建造費を要しましたが、年に2航海すれば、弁才船2艘を雇うよりも安くつくので、建造費の差額はわずか数年で埋められるはずでした。しかし、後継船は造られませんでした。輸送の安全化と能率化をはかって導入した三国丸が期待はずれに終わり、海難によって大きな損失をこうむったため、傭船ですますほうが得策と判断したからでしょう。

 その後、幕府が大船建造禁止令を解き、国内で洋式船が作られるようになると、すぐに和洋の技術を折衷した船が出現します。

ラ・ペルーズ艦隊と遭遇した三国丸


ラ・ペルーズ艦隊と遭遇した三国丸 (ラ・ペルーズ『世界周航記』より)

「鎖国」と幕府の造船制限政策との関連

 よく幕府は鎖国のために造船を制限したといわれますが、果たして本当でしょうか。最後に幕府が造船にどのような制限を課したかについてお話しします。

 17世紀前期に幕府が500石積以上の船を禁じたのは大名の水軍力を抑止するためです。まず1609年(慶長14)に幕府は西国に禁令を発し、ついで1635年(寛永12)には1609年令の全国化をはかって武家諸法度に大船建造禁止令を制定します。禁止の対象は在来形の軍船・商船で、朱印船のような水軍では無用の航洋船は対象外でした。ところが、商人の迷惑が上聞に達したため、1638年に幕府は商船に対する制限を撤廃します。

 以後、禁令の改廃に係わるような内政問題は生じず、軍船不要の平和な時代が長く続くなかで大船建造禁令はいつしか死文と化し、対外的な危機の時代を迎えて海防論が流行する18世紀末期から19世紀前期に禁令は鎖国のために航洋船なかんずく洋式船を禁じる法として復活します。なぜ別の解釈が可能かというと、禁令に立法趣旨が明記されていないうえ、時代に応じたさまざまな解釈を許す条文であったからです。

 大船建造禁止令は、1853年(嘉永6)のペリー艦隊の来航後に解かれ、以後、洋式船の建造のみならず西洋の文物の導入が本格的に行われることになります。

 大船建造禁止令の変容と関連するのが鎖国の祖法化です。鎖国の対外的な側面は外国との外交・貿易関係の限定であり、対内的な側面は日本人の海外渡航の禁止です。寛永鎖国時に幕府が来航を禁じたのはポルトガル一国でしたが、1804年(文化元)にロシア使節レザノフの通商要求に接すると幕府は朝鮮・琉球・中国・オランダ以外の国とは新たに外交・貿易関係を持たないのが祖法と主張して要求を拒絶しました。対外関係を現状で凍結して、それを祖法と位置付けたわけ、ここに鎖国祖法観の淵源があります。こうして西欧諸国の接近につれ、鎖国祖法観が浸透してゆけばゆくほど、日本人の海外渡航の禁止が強く意識され、日本人の海外渡航の禁止を保証する造船制限令の存在が真実味を増して広く受容されるのは当然の帰結です。

 幕府は鎖国のために二本以上の帆柱と竜骨(中国船や西欧船の船底材をいう)を禁じたと説かれることが珍しくありません。この説は、海防論が広めた帆装制限説に明治に入って竜骨禁止説がつけ加わって、学説としての地位を確立したのですが、史実の裏付けなぞあろうはずはありません。けれども、鎖国以前に大洋を自在に航行していた竜骨を有する三本帆柱の堅牢な大船が、鎖国下で沿岸しか航海できない平底で一本帆柱の脆弱な小船に変じたのは、鎖国にあたって幕府が大船を禁じ、二本以上の帆柱と竜骨を禁止したからであると大船と鎖国下の和船の対比から造船制限令の存在を証明してみせたため、この説は強い説得力を発揮してきました。こうした造船制限説は、鎖国下の和船と対照すべき航洋船の存在を前提とするため、必然的に和船の低い評価をともないます。弁才船(千石船)のような内航船と航洋船を比べれば、内航船の評価が低くなるのは当然だからです。幕末の海防論に端を発する和船の低い評価は、和船から洋式船への転換を図った明治政府の船舶の欧化政策を背景として自明の理として定着し、今日に至っています。

技術史の研究法

 簡単に、和船の技術史と鎖国のための造船制限について話をしました。

 技術史が普通の歴史と違う所は、常にモノがかかわってくることです。モノに対する感覚がないと、技術史は語れません。

 造船史の研究には実船があるにこしたことはありません。けれども、17世紀から19世紀まで国内海運で主力商船として活躍した弁才船(千石船)ですら1艘の実船も残っていないのが実情です。これは研究の上の大きな障害です。

 では、どのようにして実船のない弁才船を研究するかといえば、木割書、寸法書、建造記録、図面、雛形(模型)、船絵馬などの絵画資料によって研究します。なかでも船を視覚的にとらえることのできる図面、雛形、絵画資料は重要です。とりわけ船を立体として把握できる雛形は研究に不可欠です。

 もっとも、図面、雛形、絵画資料があれば十分かというと、そうではありません。視覚的な資料と文献は相補的な関係にあります。たとえば、雛形が正確に縮尺されているかどうかは、木割、つまり各部の寸法の比率が正しいかどうかで判断します。この判断のもとになっているのが木割書・寸法書の研究であることはいうまでもありません。逆に木割書・寸法書の研究だけでは、弁才船の実態はわからず、視覚的な資料による肉付けが必要です。

 このように歴史学的な方法で研究を積み重ねて、はじめて弁才船に対する感覚が養えるのです。

 (2004年12月28日)



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