水の風土記
水の文化 人ネットワーク

千年持続社会研究プロジェクトとは 
〜持続可能性をどのように語れるのか〜

日本学術振興会の研究プロジェクトに「千年持続学の確立」プロジェクトと呼ばれているものがあります。名前もおもしろいし、メンバーにも工学系・人文系の人が含まれ、何かを突き破ってくれる期待感があります。でも、よくわからないのは「千年持続学って何」ということ。 そこで、今回は、このプロジェクトの中で「心性の持続性」というテーマに取り組んでいる、宗教学が専門の木村武史さんに話をうかがいました。

木村 武史

筑波大学哲学・思想学系助教授
木村 武史 きむら たけし

1962年生まれ。1988年筑波大学大学院哲学・思想研究科修士号(文学修士号)取得。1991年シカゴ大学大学院神学校宗教学専攻修士号(M.A.)取得。1998年シカゴ大学大学院神学校宗教学専攻博士号(Ph.D.)取得。
主な著書に 『北米先住民ホティノンション−ニ(イロクォイ)神話の研究』(大学教育出版、2000)他。

千年持続学とは何か

 独立行政法人日本学術振興会は、2003年度から「人文・社会科学振興のためのプロジェクト研究事業」を実施しています。この事業は社会とのつながりの中で研究課題を設定し、社会提言を目指して、プロジェクト研究を行っています。プロジェクト形式の研究は理系では一般的ですが、人文社会系の研究とは随分と異なっています。それでも人文社会科学を振興する方向を模索しているといっても良いと思います。この事業ではいくつもの研究が行われているわけですが、その研究領域の第四に「過去から現代にわたる社会システムに学び、将来に向けた社会の持続的発展の確保について研究する領域」という長い名前ですが、なかなか興味深いプロジェクトがあります。これは、「千年持続学の確立」「豊かな人間像の獲得 ―グローバリズムの超克―」「資源配分メカニズムと公正」という3つのテーマから成っています。

 私たちが取り組んでいるのは、この一つ「千年持続学の確立」です。当初のプロジェクト・リーダーは、千年持続学を言い始めた張本人の東京大学生産技術研究所の沖大幹さん。その中で、私は「心性の持続性に関する学融合的研究」を、同じくメンバーである村松伸さん(東京大学生産技術研究所助教授)は「都市の持続性に関する学融合的研究」、加藤雄三さん(総合地球環境学研究所助手)は「社会制度の持続性に関する学融合的研究」というテーマでそれぞれ研究を行っています。(2005年度以降は、沖さんが多忙なため、私が連絡役としてプロジェクト・リーダーをしています。)

 どれも「千年持続」と「学融合的研究」という言葉が共通しています。

 最初に、「学融合的」という言葉を説明しますと、「学際的に研究する」という言葉はあります。しかし、今まで「学際」という合い言葉で共同研究を進めてきたが、かけことばだけで終わってしまったのではという危惧があります。その反省から一歩進んで、「学融合」という言葉で目指そうとしているのは、それが実現できるかどうかは別にして、新しい知の開拓であるといえます。このようなまなざしの中で「持続可能な社会論」について考えようとする時、協働と学融合を目指すには、各研究者が単に自分の研究領域は何であるかだけを考えるのではなく、「自分の分野では何ができないのか」を強く意識して、プロジェクト遂行のために既成の学問分野の境界をなくして「千年持続学」を打ち立てようというものです。

 そこで、「千年持続」とはどういう意味なのか。

 沖さんは次のように述べています。「『千年持続性』とは何か。それは日本国民、そして人類全体が千年後も健康で文化的な生活を送れるように、と願い、そのためにできることを今やろう、という未来への強い意思を持ち続けることである。人の一生よりも遥かに長く、全く見通しの立たない千年先を考えるよりは30年後、あるいはせいぜい100年後を目標とする方が現実的だという意見があるかもしれない。しかしながら、近未来の展望を考える時、人は現在の知識から敷衍して、実現可能であると期待される将来像を描いてしまいがちであり、「100年後はこうなっているであろう」という自らの予測の精度を高めたり、あるいはそれがどの程度現実化しそうであるかに心を奪われてしまう。これに対して千年後に思いを馳せた時、人はその実現可能性を超えて「こうであって欲しい」という未来への強い意志を持つことになるはずである。」

 このような千年持続性を作り上げるには、何らかの新しい価値観の構築や心的態度の方向転換ということも必要になってくるのではと、心性の持続性グループで取り組んでいる私たちは考えています。そのためには自分の研究分野のテーマだけではなく、文系・理系の枠を越えて他の研究分野の研究へも開かれてくるような姿勢が必要になってくると思います。我々のグループでは、公共政策学・言語人類学・経済学・政治学・人類学・植物遺伝資源学・哲学・歴史学等の様々な分野の研究者と協力して「持続可能性」を合い言葉に共同研究を進めています。それぞれの分野から持続可能性というテーマのもとどのような問題提議ができるのか、という点を共有することから始めました。

なぜ千年なのか

 今まで一年あまり「千年持続学」プロジェクトを行ってきて明らかになったのは、人文社会科学が「過去」「現在」を取り上げる学であるのに対して、「千年持続学」は未来についての学である、ということです。

 「未来についての学」といっても、それは未来に何が起きるかを「予測」する学ではなく、「未来」にどのような社会・文化(科学技術を含む)を創造したいのか、ということを、過去の文化の盛衰を研究し、現在のグローバル社会の状況を検証するなかから、考えようとする学問であるということです。その際に重要なのが、人間の価値観や、現代のわれわれは何に意味を見出していくのか、という極めて「普遍的」で「根源的」な問題を、改めて考え直そうという姿勢です。

 なぜ、「千年持続学」というようなプロジェクトが現代日本社会で求められているのかというと、沖さんが言っているように、人類社会あるいは人間社会はこのままではこれ以上存続し得ないのではないか、せいぜい存続しても二,三百年ぐらいなのでは、という漠然とした不安感や恐怖感が広まっているからではないでしょうか。ならば、先行して政策学や経済学で論じられているように「持続学」だけでよいのではないか、「千年」という時間単位は不必要ものではないか、という疑問がわきます。しかし、千年という時間単位は工学畑の沖さんの発想に由来するのですが、実は人文学の視点からも非常に有効な枠組みなわけです。

 普通、技術者は五十年、百年というタイムスパンの延長線上で未来を考えてしまうもので、千年先のことを考えようとすると強い意志が必要となります。ところで、過去を振り返ってみれば、千年前に作られて今日まだ利用されているような技術をわれわれは知らないで使い恩恵を受けていることもある。そういうことを考えると、実は千年間利用可能な技術を開発することはできるのではないでしょうか。また、古代学の研究者は千年単位で古代文化の変遷を捉えているので、人類文化の歴史的発展を考える上では、千年という時間の単位はとても有効でもあるのです。「持続可能な開発」とよく言われますが、現在の日本社会では持続可能なという言葉が使われ過ぎ本来の意図とは別の意味で使われたりしてしまっています。たとえば、ある企業の経済活動が持続可能できるようなという意味で使われる例が多いです。しかしながら、そもそも「持続性」とは何か、「持続性の構築」にはどうすればよいかを検討しなくてはなりません。何を持続させたいのでしょうか。ある企業の活動でしょうか。そうではないと思います。さらに、持続には継承も含むし、常に変容するということも含む。そのような対象を検討するためのタイムスパンとしては、百年ではなく、やはり千年です。

 千年後の人類社会が存続するために今何を作り出すべきか、いかなる新しい考え方を生み出すべきか、という問題は世界的に共有できる新しい問いであり、世界から日本に期待されるような問いでもあります。これは今まで海外の研究者に「Millennial Sustainability Studies」の内容を説明をするたびに、返ってきた感想からも伺い知ることができます。

 たとえば、千年前の日本のことを想像してみてください。今日、私たちは京都の文化を大切に思うのではないでしょうか。そして、千年前にそのような文化を京都に築いた人たちのことを誇りに思うでしょう。では、千年後の日本のことを想像してみてください。千年後の人たちは私たちが今作り出しているものを誇りをもって見てくれるでしょうか。千年後の人たちが、千年前の私たちが作り出しているもの(温暖化を含めても良いでしょう)を見て、余計なものを作って残してくれたとは思わないでしょうか。

 これまで、産業界や科学技術分野、公共政策学がリードしてきたかに見える「持続可能な[開発]」の議論を、人文社会科学の枠組みの中で改めて捉えなおし、「持続可能な社会」とは何か、どのように人間は生きていきたいのか、という本来学的な問題から社会技術論的な議論を問い直していくという段階に来ているのではと思います。マスコミでは、環境問題のニュースは売れないというような言い方もされているようです。環境問題の解決には政策を作るだけでは不十分であるということが分かってきました。技術者の人たちが持続可能な技術を開発してくれるのを待ちながら、生活スタイル等を変えないでいると、取り返しのつかないところまで行ってしまうのではないのか、という不安もあると思います。このような議論の背後にある、「現代のような社会は、そのまま続けても良いのか、続けたくはない」という気持ちを直視する必要があると考えています。

 私のような宗教学の立場からは、千年持続学の確立のためには、世俗化し自然科学化した(日本の)現代社会の知的な言説に宗教に関わる言説、それは言い換えれば、「神聖性」や「超越性」に関わることがらをどのように融合させていけるのか、という問題を考えることも不可欠であると考えています。世界を見れば状況は違っていますが。

持続性と心のありかた

 このように千年持続研究のプログラムの中で、人間の価値、思い、感性、いろいろなものを含む「心性」「心のありかた」は、大きなテーマです。

 心性のことを考えると、どうしてもそれに影響を与える宗教のありかたを問題にせざるをえません。世界を見まわしますと、社会の基層をなす中核的な文化の型があるわけですが、その多くは宗教的な伝統に依って立っていると言ってもよいのではないでしょうか。

 日本人のわれわれは「宗教とは関係ない」と日々過ごしているわけですが、そうではありません。心の中の意識していない所では、つくりあげてきたものがあるんですね。人類の歴史を振り返ってみても、最も長く存続してきている制度が宗教とも言えるでしょう。仏教、キリスト教、イスラーム教、ゾロアスター教、等々、いろいろな宗教が千年以上続いています。全世界のキリスト教、イスラーム教、仏教等の世界宗教の総人口を合計すれば、全世界の総人口の九〇パーセント近くにはなるのではないでしょうか。グローバルなスケールで持続可能な社会、千年持続学を考えようとすれば、宗教が果たしている意義、役割を無視しては、それは無理だと思います。

 日本でも仏教を受容して千五百年以上続いています。その間、社会は変化しますが、仏教やいくつもの宗教も形を変えながら続こうとしています。神や仏、超越、人間社会の場所というテーマを、宗教は教えようとしているわけです。それがない文化や社会は、世界中を見回しても無いですし、それが無いと社会は存続しなくなる可能性もある。自然科学はそれ以前に宗教が果たしていた役割の一部を担っていますが、全ては担うことはできないでしょう。

 今年は石油の値段が沸騰したために化石燃料の枯渇ということが話題にのぼりました。千年持続学との関係で言えば、化石燃料は千年は続かないでしょう。天然ガスもどの程度続くのでしょうか。海底に蓄積されているメタンハイドレートなども注目されているようです。しかし、メタンハイドレートに手を出すことに警告を与えている研究者もいます。技術者の立場からは環境問題を引き起こさず、「エネルギーをいかに効率的に使うか」等という課題が技術者の課題であると考えるかもしれませんが、自分の研究の範囲を超えたところで後々予期せぬ出来事が起きるということも考えて科学技術の開発を進める必要性が出てくるのではないでしょうか。科学技術は社会を築き上げる重要なファクターです。ですから科学技術者も「現在と未来の人間の心や価値を、どのように築き上げていくのか」という問題とは無関係ではないと思うのです。

 人というのは、知らない間に教えられてきた価値の中で生きています。その価値の枠組みを問い直し、千年持続できるような社会の価値とはどういうものなのかを考えることが必要なのではないでしょうか。つまり、人間の生き方や、社会のありかたを規定するような、どういう価値を選択すると、千年持続する可能性のある社会をつくれるのかという問題につながってくると思います。

その人が住む世界の価値観が重要だ

 インドネシアの研究者が、宗教の重要性を説明するのに、こんな話をされたことがあります。

 「例えば、水が汚染されていて、それをきれいにしなくてはならない。飲み水をきれいにしよう、木を植えよう、と言っても、人々はあまり動こうとは思わない。しかし、イスラーム世界では礼拝する前に、体を水で洗う。お祈りをするなら、きれいな水の方がいい、きれいな水をつくるには上流に木を植えれば良いという言い方をすると、人々は納得し、木を植えるようになるだろう」と。

 納得してもらう説明は、その人が住む世界の価値観に基づいていることが必要なのです。

 その価値観を、当該社会の宗教がかなりの部分体現しているのではないでしょうか。

 全世界の宗教総人口のうち最大の信者数を誇るのはキリスト教ですが、日本人にとって、キリスト教やイスラーム教のような一神教は、どうもわかりにくく映ります。でも、このキリスト教徒とイスラーム教徒で、世界人口の三分の二以上を占めている。これらの宗教は、死後の救済を説いていますが、それが現代の日本人にはわかりにくいのです。日本の宗教的世界でも浄土信仰がありますが、世界の創造神である神が救済の神でもあるということが、日本人にはわかりにくい。また、多くの日本人は死後の救済ということを聞くと本当かなと思ってしまいますが、例えば、ブッシュ大統領も信仰している現代のキリスト教福音派の人々は、キリストが再臨した時に、肉体のまま救済されると信じているわけです。要は、そういう信仰にもとづいて生活している人々が世界には大勢いるということを、やはり知っておくことが大事だと思います。

自然災害の宗教的風景・自然環境の宗教的風景

 そのような宗教的世界に住んでいる人々にとって、自然災害はどのように映るのか。

 今年は、アメリカでハリケーン・カトリーナの被害がありましたが、テレビを見ていると、あるシーンを放映していました。まちの人々がカメラマンを呼び寄せ、大木が倒れている所を撮影させているんですね。なぜだろうとよく見ると、実は木が倒れた被害を見せたいのではなく、その横に無傷で残っていたイエスの像を見せたかったのです。それを町の人々がレポーターに「見ろ!見ろ!」と。住民は、無傷で残ったイエス像に信仰の意味を見いだしていたわけです。これは、人々は宗教的な価値観の中で生きているという象徴的なシーンでしたね。

 世界には、宗教的な価値観の中で強く生きている人々もいて、そういう人々は、経済的価値や科学技術の世界だけが決める社会とは別世界に生きているようにも思われるかもしれません。でも、社会はそういう人も含めて成り立っているわけで、持続可能な社会はそういう人も含めて成り立つものなのです。そのような人々が、自然や環境の問題を日本人と同じように解釈しないのは、ある意味当然かもしれません。

 また、これは別の話になりますが、生物多様性の危機ということが叫ばれるようになってきました。生物多様性は実は文化の多様性の基礎でもあり、在来の土着の文化が多様な生物(植物・動物等)についての伝統的知識の礎でもあるのです。我々は文化と自然に関する知識は別の事柄と思う傾向がありますが、文化(特に宗教伝統)と自然に関する知識が密接に関連している社会も数多くあるのです。そして、個々の社会には固有の言語があり、その固有の言語が把握してきた自然世界の多様性も、グローバルスケールでの持続可能な社会について考えようとする時には重要なファクターだと思っています。しかし、危機言語と呼ばれる絶滅の危機に瀕している少数言語があり、それは生物多様性の危機とも関係があると思っています。

未来を考える時間意識という問題

 同じ事は時間意識についても言えることです。未来に向けての持続可能な社会を考えるといっても、持続の基盤となる「時間意識」が、人々の間では異なるのではないでしょうか。宗教的な救済観と、未来を捉える時間軸を、どのように関連づけて考えていくのか、大きな問題だと思います。

 例えばイスラーム世界ですと未来には「死後の救済としての未来」という意味もありますが、イスラームの伝統的教えの中にはこれからの百年間のことを考えなさいという教えもあると聞きました。我々日本人は「未来」をどのように受け止めるのでしょうか。我々が未来とは「現代の延長」と漠然と考えているのではないでしょうか。また、日本宗教の場合は、どちらかというと未来よりも祖先の方に向かって考える印象があるのではないでしょうか。過去に目が向いている。それゆえ、イスラーム世界の一般の人々は、持続可能な社会という議論を、わたしたちと同じような意味では考えてはいないのではないでしょうか。このような観点も考えることができるのではないでしょうか。千年持続学の確立プロジェクトでは、このような問題も含めて、平成一七年一二月には、カイロでカイロ大学・アインシャムス大学の研究者と共同で国際会議を開く予定です。

 また、別の例を取り上げると、ペルー、コロンビアの少数民族を研究した研究者は、「これらの地域の少数民族は過去からの伝統の延長として未来を思考することはしない。現在のことに焦点を当てる生き方をしている。それゆえ、未来に向けての思考ということはあまりできない。そのようなところでは持続可能性とは一体何を意味することができるのであろうか。」と報告をしてくれました。

 また、この例とはある意味では正反対かもしれませんが、北アメリカのホデノショニ(イロクォイ)の人々の間には「7世代先のことを考えて決めなさい」という教えがあります。「今我々が行う決断は7世代先の子孫にも影響を与えるのだから、よくよく考えて決めなさい」という意味です。

 過去、現在、未来という時間意識を考えることは、「生きている今」をどう捉えるかということでもあります。その今を生きていく時には、「労働の意味」も考えることに迫られます。環境教育などでは子供への教育に焦点が当てられますが、千年持続学の観点からするならば、現時点での社会の主要な担い手である働き手にどのような働きかけをすることができるのか、ということが重要な課題でもあると思われます。なぜならば、今の社会を作り上げ、変えることができるのは、次ぎの世代ではなく、現在の世代だからです。そして、この世代は働いているのです。その労働が持続可能な社会の構築とどのように関わってくるのか、ということが考えられないといけないと思います。働くからには何らかの報酬が期待されます。賃金ですが。では賃金をもらって何をするのでしょうか。家族を養うというのが主な目的だと思います。でも、「こんなに一生懸命働いてきたのだから、ちょっとは贅沢をしたい」という思いもあるでしょう。それは否定することはできないと思います。しかしながら、未来の時間を考える時に、労働の価値観と労働の結果何を得たいのかということも考えないといけないと思います。このあたりになると、まだ模索中でして、考えれば考えるほど問題が広がります。というのも、世の中にはいろいろな人がいますから、いろいろな理由で様々な経済活動をするわけです。持続可能な社会の構築という観点からすると、あまり貢献の期待できない経済活動がもてはやされているという気もなきにしもあらずですが。

 私の担当の「心性の持続性」研究も含めて、千年持続学の確立プロジェクトでは、実験的な試みを行ってきています。村松さんのグループでは「ぼくらは街の探検隊」という企画をし、小学生に地元にある建築を再発見してもらい、自分たちの生活の場のリアリティを取り戻してもらおうという試みをしました。また、若い建築家に沖さんの千年持続学宣言に基づいたコンペをしてもらったりもしています。私のところでは、この夏から秋にかけて「未来との対話」というテーマで一般の人から原稿を募集しました。内容的に良いものは出版するということで。三〇名弱の人から原稿を送ってもらいました。これらのうちもどれだけ本の形で出版するに価するかはこれから検討しますが、いろいろな観点から書いてくれたものがあり、興味深いものがありました。

 千年持続学プロジェクトそのものが実験的なプロジェクトですが、その中でもいろいろな実験的試みを試行錯誤で行い、もっと社会に貢献できるような研究を進めていこうとしています。

 (2005年9月6日)



この記事のキーワード

    水の文化 人ネットワーク,木村 武史,沖 大幹,水と生活,民俗,プロジェクト,環境,宗教

関連する記事はこちら

ページトップへ