水の風土記
水の文化 人ネットワーク

里海を取り戻すには干潟と藻場の復活を 
〜クラゲ大発生が意味すること〜

水の文化センターでは、里山という概念を川に応用できないかと、「里川」という概念の構築を進めています。海の分野でも「里海」という言葉で、海の持続的な食料生産力を維持する考え方を提唱しているのが上真一さんです。 上さんは、近年ミズクラゲやエチゼンクラゲが大発生するのは、瀬戸内海や東アジアの海が里海としての姿から遠くなっていることが原因だと警告します。クラゲと里海の意外な関係をうかがいました。

上 真一

広島大学生物生産学部教授・「里海」創生プロジェクト研究センター長
上 真一 うえ しんいち

1950年生。東北大学大学院農学研究科博士課程中退。広島大学生物生産学部助教授を経て、1994年より現職。

里海とは?

 私の主な研究フィールドは身近な瀬戸内海です。瀬戸内海は高度成長期の工業発展のために、かなりの犠牲を強いられた海と言えます。つまり、本来海が持っているはずの「生物生産持続性」を失っているんですね。

 そのことを端的に示しているのが、赤潮の発生です。1970年代前半をピークに、大きな被害を出しました。そこで、1973年には瀬戸内海環境保全臨時処置法が施行される等、陸からの負荷を制限することで水質を取り戻そうという動きが官民一体で進められました。企業も汚染防止義務を負い、都市も浄水設備を整備し、排水の水質が改善されました。海の透明度も高くなってきました。

 しかし、昔の海が戻ってこないのです。われわれが持続性の指標の一つとする漁獲量がまったく回復してこないのです。

 なぜか。

 水質だけをコントロールすることで、海の生態系を取り戻そうとするこれまでの施策では、何か足りないものがあるのではないか。海が元気を取り戻すには、水質だけではなく、生態系のトータルな管理が必要ではないか。そのためには、考える枠組となる海に対する新しいイメージが必要ではないか。

 このような考えを持った時に、「里山」という概念に出会いました。里山は、人間が定期的に手入れをすることによって、土地の生産が持続的で、生物多様性も高い身近な山林です。その考え方を海に取り入れ、「里海」という言葉で表現したのです。

 里海とは、「適度な手入れ、つまり人の力が加わることによって生物の生産力と多様性が高く、生態系として持続的で、身近な生活圏内の海」のことです。

 何も手を施さなければ緩慢な死を迎えつつあるような瀬戸内海を、里海の概念でもってトータルに手入れし、もういちど瀬戸内海本来の姿を取り戻したいのです。

干潟と藻場の大事な役目

 では、里海をつくるためには、何をしなければならないのか。

 いろいろ考え方はあるのですが、昔の海が戻ってこない原因の一つは、埋立による干潟や藻場と呼ばれる「浅場」の喪失です。埋立によって、多くの海岸線はコンクリートで被われ、浅場が存在せずに、すぐに10メートルほどの深さの海になってしまいました。

 なぜ、浅場が大事なのでしょうか。

 まず干潟のもつ浄化力です。干潟は大量の有機物が負荷されても、一日二回の潮の干満によって酸素をたっぷり含んだ場となります。そして、有機物を無機物に分解するのです。

 その干潟には必ず生物が棲んでいます。中でも大事なのは貝、特にアサリです。アサリは1個体で一日数リットルの水を濾す能力を持っている。その数リットルの中に入っている植物プランクトンや海草等が分解した懸濁物(デトライタスと呼びます)などを濾して餌にし、アサリは大きくなる。それを人間が定期的に潮干狩に行って間引く。

 つまり、陸から栄養塩や有機物が流れてきても、干潟はそれらの物理的な受け皿となるし、そしてそこに棲息するアサリ等の生物がそれを餌として利用し、海の幸として漁獲され、再び陸に戻されるという循環系が機能していたんですね。その干潟が失われたために、海の浄化力が弱っているのです。

 干潟の沖合には藻場があります。瀬戸内海ではアマモ場が重要です。藻場の中では水の流れが緩やかとなって、懸濁している有機物は沈みます。しかし、藻は光合成して酸素を出しますので、それらの有機物を分解して水質を良くする働きをしています。

 また、藻場には小型甲殻類などの多くの生物が棲みついています。それらはマダイやメバル等の稚魚の餌ですから、藻場は餌場になります。と同時に、魚食性の大きいな魚に襲われないようにする隠れ場にもなっていて、仔稚魚にとって大事な棲息場所なのです。

 昔の瀬戸内海の姿はこのようにイメージできます。つまり、海と陸との境には干潟があり、それが海岸線に沿って瀬戸内海をぐるりと取り巻いていた。そしてその沖の内側を藻場が取り巻いていた。そして藻場の沖に瀬戸内海の本体が存在していたのです。

 陸の人間活動が盛んになっても、干潟や藻場が昔のように健全であれば、沖の瀬戸内海本体にまでその影響は及ばなかったかもしれない。しかし、そこをごっそりとなくしてしまい、陸と海が断絶して、循環するスタイルがなくなってしまった。

 これでは、里海とは言えません。

里海における川の役割

 干潟は、川からの土砂の供給で沖に広がるのが自然の姿です。けれども、現在多くの川は途中で堰き止めてられて土砂が海まで届かないので、新たな干潟が育たない。人間が干潟を埋立てた上に、川からの土砂の供給もなくしてしまったので、瀬戸内海の干潟はやせ細っている。

 したがって、「里海に対する川の役割は何か」と訊かれれば、私は、海に砂を供給する役割を第一に挙げたいですね。

 よく「森は海の恋人」と言われますが、森から出てくるどんな物質が海の生産力に効くのかよくわかっていません。川の水質がどうであれば海の生産に有効なのか、まだよくわからない所があります。勿論、河川の水量が多いということが、川にも海にも重要であることは言うまでもありません。

 川と里海との関連で一つ指摘しておきたいことは、今後は川の地下を流れる伏流水や地下水が、沿岸の海に大事な働きを果たしている可能性です。特に山が迫っている海では、海底に泉のように地下水が湧き出ている場所があります。海と陸のつなぎ目の下を流れる水があるわけです。でも、このつなぎ目をコンクリートの壁で遮断してしまうことで水脈が断たれている可能性がある。海の生態系にとって地下水はどのような役割を果たしているのか、今後の重要研究課題だと思いますね。

長江の水が日本にやって来る

 里海の概念の中には、「海を多面的に見た上で、人間の福祉や幸福のために海をいかに利用すべきか」という観点が入っています。そうなると里海の概念を、広大な海洋に対しても持って欲しいと思います。「沖合や外洋の海は遠いから知らないよ」という態度ではすまされません。人間の活動範囲がどんどん沖合にまで拡大しているからです。

 「里海づくり」とは、海を見るための、一つの思想でもあるのです。このような考え方を持って、私は瀬戸内海の枠を超えて、東アジアの海、つまり渤海、黄海、東シナ海、日本海、をみています。

 ここで現在問題となっているのが、エチゼンクラゲの大発生です。瀬戸内海ではミズクラゲの大発生は10年以上も前から問題になっています。クラゲが増えれば、魚は必ず減る運命にあります。ですからクラゲの大発生する海は、里海と逆の荒れた海を象徴する姿と言ってよいでしょう。魚溢れる海が人間にとって理想の海であり、クラゲだらけの海はまったく逆の姿なんです。それが瀬戸内海や東アジアの海で起こりつつある。

 東アジアの海を見ていると、瀬戸内海がかつて歩んできた道のりを、いま遅れて歩みつつある気がします。かつての日本の高度経済成長期のように、中国は現在経済優先の政策を進めています。環境整備への投資は後回しになり、都市の生活排水、工業廃水などがほとんど未処理のまま河川に垂れ流しになっています。このため、長江の河口付近では赤潮の発生が拡大し、海底の酸素が減っている。

 広い東アジアの海を管理するのに、瀬戸内海でかつて実施したような水質規制を行おうとしても多国間では通用しません。そこで、漁業資源管理の思想として、里海の概念を取り入れれば、「私達が共有すべき大事な海だから、漁業資源を持続的に管理しよう」と、共通の議論の場がつくられるのではないでしょうか。

 東アジアの海は世界でもトップレベルの高い漁業生産を誇る場所です。大陸棚が広がり、長江という大河があることが大きな要因です。この海の物質循環過程や食物連鎖構造はどのようになっているのかなどを明らかにする必要があります。その上で、なぜ漁獲が減り、クラゲが大発生する海になっているのか、漁業生産の向上にはどのような手入れを施すべきかを考えなければなりません。

 中国では水産物に対する需要が高まっています。中国国民の食料を確保するためにも、この海の持続性を守ることは必要なんです。

 長江河口域などで発生したエチゼンクラゲが日本にまで輸送されて来るということは、長江の水が日本にもやって来ているということです。東アジアの海で起こることは多国間で解決しなければなりません。対岸の火事ではないのです。

海の管理は漁業者がよく知っている

 地球規模の温暖化が瀬戸内海にも及んでいます。海水温が少しずつ上がり、熱帯・亜熱帯の海が徐々に北上しているような状態です。瀬戸内海の代表的な魚であるメバルはどちらかというと冷水性の魚ですが、これがだんだん少なくなり、今までほとんど見かけることのなかったメジナ、アイゴ、スズメダイのような魚種が増えてきている。

 ミズクラゲもこれまで瀬戸内海では越冬できなかった。しかし、冬の水温がこの20年間に約1.5度高くなったので、寒さで死ぬことなく越冬可能となった。

 こうした海の変化は、毎日海と接している漁業者が一番良く知っています。彼らの中には違反操業を犯す人も稀にはいますが、「こうすれば海を守れる」というノウハウは彼らが一番持っている。漁業者の経験と学問的知識がぴったり一致したときが、因果関係の解明では一番確かではないかと思います。

 ミズクラゲの大発生の原因を考えている時に、漁業者から「冬の温度が高いと、翌年クラゲの数が多い」という言葉を聞き、温暖化とクラゲの増加は相関していると確信しました。

 さらに、彼らが言うには、「クラゲも適当な数だと役に立つ」と言うんです。「魚がクラゲと一緒に付いて来る」とか、「クラゲも魚の栄養だ」とか、「クラゲは昔から海の肥やしになっている。出現量の程度問題だ」と言っていました。里海づくりのために、漁業者の経験、視点をうまく使いこなしたいですね。その意味で、私たち大学の人間は研究室に閉じこもっているのではなく、漁業者と話すことが重要だと思っています。

 直接目で見える陸上の現象と異なり、海の中の現象や変化はよく見えません。海の生物と環境がどのような連鎖で関係しあっているかなど、科学的にはまだわからないことがたくさんあります。

 安全でしかも美味しい水産物を持続的に生産する海づくりが、「里海づくり」です。里海づくりのためにどのような手入れを施すことが有効なのか、その戦略を確立するには、まだまだ解明しなければならないことが多いですね。

(2006年3月23日)



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