住宅史、建築史、土木史など、都市のハードの歴史はよく目にします。しかし、日頃なかなか目にしないのが都市のソフトの歴史です。コミュニティを機能させるためにどのようなしくみがあったのか、都市で暮らす上でどのようなルールがあったのか、等々。このような都市史を膨大な史料から明らかにしてきたのが鈴木理生さんです。特に、江戸の川についての研究も多い鈴木さんに、「都市における里川」の「里」(居住地)と「川」についてお話をうかがいました。
都市史研究家
鈴木 理生 すずき まさお
1926年生まれ。江戸を始めとする都市の形成と変遷、流通、交通体系などに詳しい。
主な著書に『江戸・東京の川と水辺の事典』(柏書房、2002)、『江戸の川 東京の川』(井上書院、1989)、『江戸はこうしてつくられた』(筑摩書房、2000)等、他多数。
『水の文化15号 里川の構想』の「里」というテーマはおもしろいですね。「春が来た」という歌がありますが、里とは「山に来た、里に来た、野(耕地)にも来た」という、そのような「里」なのでしょうね。私のような年輩の人間にとって、里は「いなか」のことで、郷里の「里」です。漢字の意味とすれば、村です。「里正」(りしょう)と書くと、庄屋さんの意味です。農村の生活共同体空間=場が里山や里川ですね。
ですから里川とは、結局、村の最も基本的な「側」(環境)を意味するものといえます。
流域の暮らし方によっては、川はワジになることもあり、流域の下水が流れる水路の名前になっていることもあります。自然現象として水が流れる川の方が当然先にあるわけですが、流域の暮らし方を実現し維持させているのは人間社会です。ですから、「里」という言葉を使う時に、現在のような電子化が著しい主体の環境としての「側」とはどのようなものなのか、気になるところです。
都市史の立場から見れば、景観だけで川を語るわけにはいきません。どのような暮らしをするかが先にある。例えば、『中央区沿革図集』(東京都中央区立京橋図書館編、1994〜96)に収録されている1744年(寛保4年)頃の沽券図(こけんず)を見てみましょう。これは今の登記簿と地籍図と固定資産税課税台帳と路線価格図を兼ねたものです。「この人の所有土地の坪数は200坪。沽券は千両(「沽券」は売買證券のこと)」と全部書かれています。このようなものが江戸や大坂でもつくられていました。
その沽券図の中に、実に多くの川(上・下水道)が流れていたことが書かれています。玉川上水が水道水を供給していますので、使った排水が、道に沿った下水路を通って流れていく。上・下水は一体となった川そのものであると同時に、それに沿った町の「側」だと、私は考えています。この側は、町が工業作業を行えば濁ったりしますし、農村の田んぼならば、良水を受けて悪水に変わる灌漑用水路と同じように流れました。
【川(かは)と側(がは)】
「かは」とは、あくまでも流れる水の状態を示す言葉であって、一方、「がは」という言葉は、その水の流れの「いれもの」を意味する。英語の場合のリバーに当たるといえる。同時に「がは」は、「側」(がは)=「皮(包みこむもの)」でもある(鈴木理生『川を知る事典』日本実業出版社、2003)。ここで、鈴木氏は「側」という言葉を、人間社会の「環境」の意味を越えて、人の手の入った川と、人の暮らしが反映された川という広い意味でも用いている。
【ワジ】
水流が姿を消してしまう川を「ワジ」(wadi、またはwady)といい、漢字では涸河(こが)、涸谷(ここく)とも書く。ワジには、水源側の事情で断流する場合と、流下中に地層の隙間に吸い込まれたり、激しく蒸発を重ねたりして断流する場合がある。
(鈴木理生『川を知る事典』日本実業出版社、2003)
江戸の町には必ず道の両側に水路がありました。これは下水の「側」ですが、この水路があるために、山車が引っ張れなかったという話が方々の地方都市でありました。地方都市の道路や街道の中央には必ず水路がつくられていたのです。江戸の祭りに使われた山車の中古品を地方の町が引き取る。それを買った街道の宿場町の道路の中央には、実は上水が流れているのですが、それを山車はまたげなかったというわけです。明治になってからもそのような話はありました。
東京では道の両側に下水が流れていますが、大坂は町の背中合わせに下水路が造られており、「太閤の背割り下水」と呼ばれています。まちのブロックの後ろに造ったのです。
この江戸と大坂の違いは、地形の差によります。大坂のような江戸より後の埋め立て地だと勾配が少ない。ですから、勾配をつける工夫をして、埋め立ての時に地面を真っ平らにしないで、わざと凸凹を町境につくる。その違いがあり、これは第1には勾配の違いによるものです。
それと道をどう使うか。これは東西で違います。八百八橋と八百八町の違いです。江戸時代を通じて、人は陸、モノは船というのが輸送の原則ですが、大坂の場合は決定的に舟運優先です。一方、江戸の場合は人を通るのを優先させています。
江戸の町割をする時に、町地、つまり町人居住地を江戸前島に集中させました。そこが半島状になっており、町割りできる場所はそこしかなかった。そこに割り付ける時に、幹線道路に上水路を通し、下水路は高い低いを測量しながら、水路を葉っぱの葉脈のように造っていった。その方が合理的だったのです。
江戸は、日本人が初めて意識的に臨海の低地に都市を造った場所と言えます。それも、沖合への埋め立ても含めてです。
これも、江戸が狭すぎたためにやむをえなかったからです。例えば、江戸の原地形がわかる場所として、皇居の東御苑の本丸台地の上から、白鳥堀という濠の上にでるビューポイントがあり、そこから一望すればわかりますが、陸地は丸の内とその東のJRの線路のちょっと向こうまでで、あとは入海と外海でした。京都や大坂と比べると非常に狭い。だから埋め立てをするより仕方がなかった。
武蔵野台地の縁辺に沿って低い所を埋めていったので、土は駿河台とか本郷あたりから持ってきます。その時、神田上水の給水量の範囲しか埋め立てていません。現在の都市計画家は、はじめから必要給水量が供給されると思って都市を計画していますが、当時は当然のことですが、都市の水資源の有限性をきちんと意識していました。
流れといえば、いま60階建てのビルなど建てると、ポンプアップされた最上階からの排水は、大変な量となり下水量が増えてしまいます。延床面積あたりの消費水量が一気に増えるので、そのビルのある土地の排水量は集中豪雨と同じような状態なります。
上水と下水のバランスが、その場所で崩れてしまうわけです。
一方、私は、昭和33年に小金井に引っ越してきました。当時は水が流れ、あひるが泳いでいた川が、今は全く涸れてしまっているという例がたくさんあります。こういう例もまさに里川の変化のあり方です。
さらには日頃は目に見えない地下水も重要です。東京都心には不忍池から、元の石神井川の流路で流れて都心にくるわけですが、それにクロスして地下鉄が走っています。これが地下のダムになってしまい、地下鉄の北側は井戸の水位が上がり、南側は下がり、やがて地盤沈下になる。
結局、都市をつくるにしても、対象を全部腑分けしてしまい、まとめて有機体として見るということを、現代人は忘れてしまっている。例えば橋梁にしても、「ラーメン構造だ、アーチだ」などと構造やデザインについては考えますが、「どのような地盤に造り、橋のとりつけにより両側でどのような交流が生まれるか」などという「ソフト」のことは考えません。水のように切っても切れないものを扱う場合には、それではいけません。
―― 江戸の最初の町割の時には、そのような常識は健在だったわけですね。当時は都市の水を、どのように取り扱おうとしていたのでしょうか。
取り扱うというよりも、こわごわとやっていたのではないでしょうか。試行錯誤です。完全なる都市計画があるとすれば、逆説的ですが、完全であればあるほど実施したとたんに不完全になる。計画は完成度が高いほど、実施段階ですぐに破綻する。道路一本つけるのにも、細心の注意が払われていたことがわかります。
また技術の地方差を苦労しながら統一していった状況もありました。例えば、石垣も、禄高によってa区間、b区間と分割して請け負わせて積ませます。すると、積む技術が違うために、接続の問題が出てきますし、期日の調整問題も出るし、人足を集めるという問題もある。これを束ねていたのが、近江の坂本にある「穴太(あのう)の石工」と呼ばれる専門家集団です。当時はこのような集団が、異質な技術をつなぎあわせたのです。
都市の最小のコミュニティの規模は、向こう三軒両隣、これが五人組です。隣にずれていくと五人組のチェーンができますが、無限に広げるわけにもいかないので、これを間口60間(約110メートル)にします。この60間の範囲が一つの町です。大坂も、京都も同様です。入り口には木戸がつき、そこに住む人はすべての面で全部連帯責任を負います。町というのはオープンなものでもないし、巨大なものでもありません。このようなユニットの集合体が、江戸であり、江戸時代の都市です。この向こう三軒両隣の「五人組」、これを連鎖させて広域行政の仕組みである名主と、差配人を決める制度のソフトを確立したのが家康以降です。これは家康とそのブレーンたちの独創でしょうね。
さらに、前に述べたように、道の両側に木戸が付けられていたわけで、いわば流れの両端を一つのユニットとして考えていたわけです。『江戸のみちはアーケード』(青蛙房、1997)にも書きましたが、道の両脇に「さしかけ」られた庇(ひさし)が張り出され、その先端から下に雨が垂れる。垂れた所が、下水の側です。町の特色は公道とその両側の庇下(公私共有空間)が必ず備えられていたことです。そして、道路に面した所だけが「町」なのです。それ以外は町とは呼びません。
1962年(昭和37)に住居表示が大きく変わり、道路が町の境界線になり、町は中心から割られてしまいました。このため、お祭りや町内活動ができなくなり、現在の中心市街地衰退につながっている例もあります。向こう三軒両隣という最小のコミュニティを分断してしまった結果です。
―― 江戸時代は、地方からどんどん人が入ってきたわけですね。
それを向こう三軒両隣という連帯責任の鎖の中に詰め込んでしまうわけです。その共通の意識でもって、外れたものは排除するわけです。ですから、江戸は天下の掃きだめとも言われました。
地方から来て喰えない人間は、まず裏長屋に住みます。そして、何とかして、かみさんをもらって、所帯をもつ。一生懸命二人で共稼ぎして、町の表側に店を出している人間に認めてもらう努力をするわけです。町にかかわる事柄は全部満場一致の話し合いで決めます。何かあると町の人間が集まり、お茶を飲みながら決める。満場一致でないとだめです。
例えば、一人が、「こんど、こういうかみさんをもらう」と、中に立った仲人が紹介し、それも全員一致でないと認められないのです。これが裏長屋ではなく、表長屋なら、問屋(といや)や株仲間もありますでしょう。さらに大店(おおだな)、今でいう一部上場の商店の経営者の組合もある。その中で、一人違法行為をしたら、組全体がだめになってしまいます。だから、商店の縁組みというものは公の事柄です。そこで披露目(ひろめ)をするのです。今残っているのは、結婚式の披露宴だけですが、当時は、みんな身分が変わるたびに披露目をしていました。地域社会全体の承認を得ないと、いくら金を積んでもだめ。地主にもなれないし、地借りにもなれない。金ではなく、連帯責任を負える人柄がどうかが問題なのです。
都市の場合は家持ち(地主)の五人組と、長屋住まいを差配する大家(おおや)の五人組と、階層によってグループが違います。一方、農村は、庄屋、自作農、小作農など身分差にかかわらず、隣り合っている者同士が五人組です。これが戦時中の隣組制度に復活されましたが、自治的組織ではなく上意下達の機関になって人々を苦しめました。
都市の町では長屋の大家さんの五人組が店子(たなこ)を束ねるわけですが、土地を持たない町人にはいまの言葉で言う市民権はありません。市民権をもつのは地主だけです。歴史的に言うと、町人というのは地主だけです。その下に、「地借り」、つまり借地人。その下に、「店借(たながり)」がいる。さらに、その下に、「出替り(でがわり)」と呼ばれる奉公人がいる。厳密に言うと4つの階層があるわけです。寄り合いで満場一致で認められないと、この間を移動できません。信用が第一で、出替りから店借になるまで10年はかかります。
その他に「年季」があります。年季というのは身分でして、だいたい10から20歳まで。年季奉公の「年季」は、身分なのです。その中に、丁稚や小僧がおり、手代がいる。年季があけると、番頭になる。職人と番頭は身分的には対等です。
町人は公道に面した表に、そして土地をもたない町人は裏長屋に住んでいますので、このような身分秩序を念頭に置かないと、現在残っている古い歴史的な街並みのもつ意味が本当にはよくわかりません。
ちなみに「住宅」という言葉があります。現在は身分に関わりなく人間が住む場所を住宅と思っていますが、江戸時代では違います。例えば、三井の本店の大旦那は地主ですので、本来は土地がある日本橋に住まなくてはならない。でも、「江戸などに住めるか」と言って、伊勢の松坂にいる。すると、江戸時代の公文書では「三井○○衛門は、伊勢の松坂に住宅する」というように表現しました。それが住宅の意味です。地主は本来そこの土地に住んで、無限責任を負うのです。
お祭りも同じ感覚で行いますから、祭りでの役割もぜんぶ違いますし、やたらに山車の上に人をのせるわけにもいきません。大地主は金を出し、祭りをさせる側ですね。そして、もし祭りで死人が出れば、葬式だけでなく、残った家族の面倒まで見るという無限責任が地主達の間で発生します。それが町で面倒見るということです。こういう意識は、つい最近までありました。高度成長期前までは。
「都市とは何か?」と問われ、すぐに答えられる人は多くないと思います。私は、一言で言うならば、「市場」(いちば)だと思っています。抽象的な「市場」(しじょう)ではない。
市場(いちば)というのは、築地の中央卸売市場を見ればわかりますが、いまの市場(いちば)の仕組みは、いわば、ものの値段をつり上げる場所です。市場の荷受け人や仲買人は、そこで商売をして利ざやを稼ぐわけです。農家も生産者も慈善事業をしているわけではありませんから、横浜の市場よりも築地の市場が10円でも高く買うといえば、ものは東京に集まってくる。その取引関係の感覚が大事でして、現在の都市史からは抜け落ちているような気がします。
例えば、神田に、野菜市場「やっちゃば」があったわけですが、それは公の道を利用しました。せりは行いません。集まった人間それぞれが個別に交渉し値段を決める「相対(あいたい)取引」でした。いわゆる「にぎり」と呼ばれるもので、このような取引が行われていました。これが本当の市場(いちば)です。オークションのような「せり」ではありませんでした。現在は、東京だけではなく、全国の公設市場でにぎりが増えてきているそうです。「おまえなら100円でやるよ。おまえは99円だ」と、差別化しなくては商売になりませんから。せりでは、そのようなことが行えません。ただし良い品を競争相手よりも多く「買う」には、「せり」の値段を高くしなければ入手できません。「薄利多売」という言葉の意味をよく再検討する必要があります。
さて、このような意味での都市の中で、水の流れをどのように取り戻すか。
流れには、川もあれば、ドブもあれば、屋根の樋もあります。水が循環していることをわからせるのが大事だと思いますね。そのためには、まず流れる水を徹底的に見せなくてはいけませんし、もしも蛇口から出る水が止まったらどうなるのかと、想像させるのもいい。
私が都市というのは、実感としては、1万分の一の地図1枚に収まる範囲で、生活の上で必要なことはその範囲で全部おさまるということです。都市というのはそういうものなのです。
都市はまさに市場ですから。川も、人々はそこからどのような利益を得るかという視点は必要でしょうね。そういう意味で言うと、大河は難しい。せいぜい里川は武蔵野台地と多摩川の間を流れる野川の規模くらいまでで、せいぜい長さ30キロぐらいまで。多摩川もうまく区分けすれば里川として考えることはできるでしょうが、多摩川全体を一つとして見ると、これは大きすぎると思います。
里川をつくるということは、祭りの氏子をつくるようなもので、人間関係をつくることです。小さなコミュニティをまずつくらなくてはいけません。これはたいへん小さくてもよいわけで、向こう三軒両隣でもよい。マンションの同じエレベーターでまとまるとか。マンションの管理組合業務を、会社にまかせてしまうと、そうはいきませんが。
里川は、「里川がもつ景観」ではなく、「里川がどのような機能を果たすか」で考えればいいのです。現在は何らかの意味でその人にとって利益が生じないと、人は動きませんし、そのような話から哲学は生まれるのです。逆ではありません。そして、利益が生じる市場は異質なものがないと成立しない。だから比較できる「場」がないとだめで、市場(いちば)は比較の場です。それが、相対取引の本質ですし、そこから信用も相場も生まれるわけです。
里川に流れる水も、商品の流れも同じで、誰かの景観や所有権ということではなく、あえていうならば「文化」という商品として機能する情報を含めた「水」が流れていないと、人々の里川にはならないということです。川の値段は多様な人々が相対でつければよい。あとは、それぞれの人にとってその川の値段の元になるような「川の価値」をつけないといけない。そのきっかけは、「場立ち」、つまり取引を仲介して情報が集まる場所にいる人々が行えばよいのです。
―― でも、今のところ、河川管理者をはじめ、川の価値をつくる場立ちがいないですね。
だから、水の文化センターは、場立ちの一人になればいい。「川と側にはこんな価値があるよ」と言って仲立ちをする。それがあなたがたの役割ではないですか。
―― たいへんな結論になってしまいましたが、非常に興味深いお話でした(笑)。本日は、どうもありがとうございました。
(2003年12月19日)